記憶の迷宮――かつての神と、滅びの選択
剣が揺れた瞬間、世界は静寂に沈む。
妖精王の問いかけが、封じられた“記憶の迷宮”を開いた――。
かつて神の名のもとに振るわれた剣。
神々の秩序に仕えるはずだった彼が、いま何を想い、何を守ろうとしているのか。
神と禁忌、そして“約束”。
すべてが交錯する、運命の一幕が始まります。
――その剣を、私は知っている。
空気が張り詰める。
静寂の中、ヴァルゼクトの手に握られた黒銀の剣が、確かにルシェイドの喉元へと突きつけられていた。
まるで、あの日と同じだった。
全身を貫いたのは、冷たい刃ではない。
――記憶だった。
「……っ!」
シュエルの瞳に、白い霧が閃光のように走った。
かつて、すべてが崩れた日。
黒き龍エルドリクスを守ろうと立ち上がったあの日。
天から降り注ぐ“神々の意志”の中に、ただ一人、異質な存在がいた。
他の神々が誇り高く秩序を叫ぶなか、ひときわ静かに、それでいて決して揺るがぬ剣を振るっていた男――
その剣の軌道を、私は決して忘れない。
その目の色を。
その立ち姿を。
その背に宿る、あまりにも深く“冷たい沈黙”を――
そして今、その全てが目の前に“重なる”。
世界が凍る瞬間だった。
「……あなたの剣が守るものは……今も“神”なの……?」
王としての声で問いかけた。
そのとき、世界がほんのわずかに“反転”する。
視界が歪む。
風の流れが逆転する。
そして、彼女の精神は、するりと“彼”の深層へと滑り込んだ。
そこは、闇だった。
しかし、ただの闇ではない。
階段がある。
長く、底知れぬほどに深い“記憶の回廊”。
その奥にある――重く閉ざされた、古の扉。
彼女は知っていた。
それは、ヴァルゼクトが一瞬見せた“あの記憶の扉”。
「開けてはならない」と誰かが囁いていた扉。
あのときの私は――
妖精王としての記憶をすべて失った、あどけない“妖精の姿”だった。
何も知らぬまま。
無邪気だった。
けれど私は、その無邪気さのまま、無意識に“記憶の核心”へと辿り着いていたのだ。
あの時――私はこう言った。
『ねぇ、ヴァルちゃん。この扉の向こうに……ほんとうの“あんた”がいるんじゃない?……私は、そう思うよ』
知るはずのない真実。
けれど、確かに私は“感じ取って”いた。
ヴァルゼクトの奥底に眠る、誰にも見せていない本当の“彼”の存在を。
それは予感か、直感か、あるいは記憶の欠片だったのか――
……今、ようやくわかる。
あの言葉は、“未来”へと続く記録だった。
そして私は、その扉の前で、確かに“彼の真実”に触れていたのだ。
シュエルの意識が現実へと引き戻された瞬間、彼女は確信する。
この男は、ただの仲間などではない。
黒き龍エルドリクスを葬る“あの神々”と共にいた、存在してはならぬ“禁忌”。
それでも――
「……あなたは……何者なの……?」
問いは震えず、むしろ静かだった。
だがその静けさこそが、すべてを震わせる“問い”だった。
ヴァルゼクトの剣が、わずかに揺れた。
――その瞬間、音が、消えた。
世界から“響き”が消失する。
光が、水の底へと沈むように――
ゆっくり、静かに、歪んでいく。
けれどその“底”に、彼の記憶の世界は確かに、存在していた。
――掴もうとした光さえ、静かに消えていく。
記憶の断層。
名も無き過去。
そして、存在すら禁じられた“禁忌の真実”。
ヴァルゼクトの意識は、今――その中心に沈んでいた。
白い大地。
その先に、整然と並ぶ“少年兵”たち。
まだ幼い顔をした彼らは、感情を失った目で、前だけを見つめていた。
同じ服、同じ髪型、同じ“剣”。
選別され、管理され、“神の軍”として育てられた彼ら。
その中に――いた。
ひときわ静かな目をした少年が。
ヴァルゼクト。
名前すら与えられず、“番号”で呼ばれていたその少年は、
誰よりも早く剣を振るい、誰よりも多くの命を奪い、そして――
誰よりも、感情というものに、飢えていた。
「……ゼロ番、任務完遂率100%。対象、黒龍を含む複数。問題なし」
「だが、“感応反応”がまた……」
他の少年兵たちは、“剣”をただ“秩序”の象徴として振るっていた。
だが、ゼロ番――ヴァルゼクトだけは違った。
彼の剣は、振るうたびに“痛み”を覚えていた。
命を刈り取るたび、胸が軋む。
それでも任務は完遂する。
――だからこそ、その剣だけが、時折、わずかに震えていた。
「記録は取っている。異常ではない。むしろ“収束”してきている」
記録者たちの無機質な声が、幾重にも響く。
そして、視界が変わる。
冷たい石造りの部屋。
白く光る机の前に立つ、一人のフードの人物。
その背には、淡い青い“歯車”が浮かんでいた。
観測者――。
彼は、世界の因果を記録する者。すべての始まりと終わりを“視ている”存在。
「記録は断絶された。世界は歪みを隠し、その裂け目に“真実”を封じた」
「正しき神の秩序」と称して、滅ぼされた民がいた。
「調和を乱す」とされて、声を奪われた者がいた。
かつて、神の祭壇に祈らなかった村が、“正義の光”の名のもとに夜明け前、無抵抗のまま焼かれた。
だが彼らは、ただ“違う”だけだった。
神々は異質を排し、異端を焼き、その行いを“祝福”と呼んだ。
それが、我々の記した記録だ。
低く、決して揺るがない声が、空間に響く。
「……だが、その断片が今、再び目を覚まし始めている」
神々の秩序――それは滅びゆく者たちを否定する力だった。
歯車が静かに回るたび、空間が軋んだ。
ヴァルゼクトの記憶の中に、幾つもの断層が生まれる。
ある記録は黒く塗りつぶされ、ある記録は映像のように流れ出す。歯車が静かに回るたび、空間が歪んだ。
ヴァルゼクトの記憶の中に、幾つもの断層が生まれる。
ある記録は黒く塗りつぶされ、ある記録は映像のように流れ出す。
血と炎。
滅びゆく村。
神に跪く者、そして抗う者。
そのすべての中に“彼”はいた。
「……君は、“それ”を知っている。だから、眠ったのだ」
観測者の言葉に、少年の姿のヴァルゼクトが、ただ一度だけ顔を上げた。
その目は、苦悩と虚無を抱えたまま、ゆっくりと閉じられる。
そして現在――
目を閉じたままのヴァルゼクトの胸奥で、
記憶が、“扉”を叩いていた。
遠い昔に封じた“自分自身”が、いま、
妖精王の光に導かれ、ふたたびその扉を押し開けようとしていた。
まだ、それは完全ではない。
けれど確かに“始まり”は告げられた。
彼の心に浮かぶ問い――
『――俺は……誰を、守っていた?』
記憶の迷宮はなお深く。
だが、灯された小さな“祈り”の光が、確かにその奥へと進みつつあった――。
――闇の中、階段があった。
一段ずつ、一歩ずつ。
それはまるで“記憶”を遡るかのように、静かに彼を導いていく。
瓦礫のように崩れた記録の破片を踏みしめながら、
ヴァルゼクトは、やがて一つの扉の前に立ち尽くしていた。
――この扉を、俺は知っている。
幼き少女の声が、扉の向こうから呼びかける。
『ねぇ、ヴァルちゃん。……その扉の向こうに、ほんとうの“あなた”がいるんじゃない?……私は、そう思うよ』
かつて、記憶の中に踏み込んできた小さな妖精が、確かにそう言った。
――扉の隙間から、金色の光がこぼれ出す。
闇に包まれていた回廊を染めるその光は、かつて“神の兵”だった少年の瞳に、一度も映らなかった“希望”の色だった。
あのとき、扉は開かなかった。
それは彼自身が、自らの真実を拒んでいたからだ。
だが今。
光が扉の隙間からこぼれている。
微かな祈りと、懐かしい感情の温もりを乗せて。
「……俺は……何を、守ってきた?」
心の底から漏れ出た声に、応えるように記憶が開かれる。
そこには――
泣いていた美しい妖精がいた。
傷だらけの体で、それでもなお――黒き龍をその身で抱きしめるように、封印の力を解き放っていた。
その目には、恐れも痛みも超えた、「守りたい」というただひとつの意志が宿っていた。
封じたのは“敵”ではない。
それは、彼女がたったひとりで守ろうとした、かけがえのない存在だった。
彼は、その妖精に剣を向けた。
“神”としての命令に従い、滅ぼすべき存在として剣を振るった。
けれど、胸のどこかがずっと痛んでいた。
振り下ろすたびに、何かが壊れていった。
それが“感情”だと気づいたのは、もっと後のことだった。
――そして、彼女は言っていたのだ。
「……わたしは、信じてる。あなたがいつか、思い出してくれるって……」
そして、今。
シュエルの姿がそこに重なる。あの無邪気な妖精ではない。
妖精王としての威厳と光をまといながら、彼の前に立っている。
だが、その眼差しは変わっていなかった。
あの日と同じ――誰かを守ろうとする者の、真っ直ぐな眼差し。
「……あなたの剣が守るものは、今もなお“神”なの……?」
その言葉が、剣を通して彼の奥深くまで突き刺さった。
ヴァルゼクトの手から、剣が滑り落ちる。
静かな音を立てて地に落ちたそれは、
まるで“神の兵”としての自分を手放した証のようだった。
彼の膝が崩れ、静かに地に落ちる。
そして彼は、誰に命じられるでもなく、ただひとりで問い続ける。
「……俺は……誰を、守りたかった……?」
その問いの答えはまだ、霧の中にある。
けれど、たった今――
扉は、開かれたのだ。
あの日、少女が見ようとした“本当のヴァルゼクト”が。
今、ようやく光の中に立ち現れようとしている。
シュエルは、彼に一歩近づく。
目を閉じ、静かにその姿を見つめながら、こう呟いた。
「ようやく……届いたのね、あの時の声が」
風が、ふたりの間をそっと吹き抜ける。
妖精王と、“かつて神の兵だった男”。
その邂逅は、ようやく“共鳴”の始まりを告げた。
森の奥、誰も辿りつけぬ静寂の深層――
そこに、二つの影が立っていた。
ひとりは、漆黒の衣をまとい、顔を隠した“観測者”。
もうひとりは、時そのものと歩を共にする“番人”。
淡い青白い光で浮かぶ巨大な歯車が、空間に沈黙の脈動を刻む。
回転は遅く、だが確実に“新たな時”を刻み始めていた。
「……第二の刻が、始まったようだな」
時の番人が静かに呟く。声は老いても尚、空間を震わせる威厳を帯びていた。
観測者は黙して立つ。だが、その手に携えた記録の書は微かに震えている。
まるで、それ自体が――まだ言葉にされぬ“真実”を訴えているかのように。
「いかなる者も、過去を歪めてはならぬ。
記されぬ記憶が、世界を最も脆くする。……それは“禁忌”だ」
番人の言葉に、観測者はゆっくりとうなずいた。
だが、その金の瞳には、言葉にできぬ葛藤が宿っていた。
「……悲しき記憶。
ないものを“あるもの”として記させた神々……
我は、ただ“記す”者に過ぎぬというのに……それすらも、叶わなかった」
その声音には、わずかな怒りと――諦めに近い悲哀が混じっていた。
時の番人クロノヴァリウスはその嘆きを遮ることはなかった。
ただ、森の奥に広がる“変わり始めた時の波”を感じ取りながら、静かに言う。
「……いずれ、記録は正される。
その時こそ、“真実の書”が世界の核を照らすだろう」
観測者は小さくうなずく。
その目は、まっすぐにシュエルとヴァルゼクトのいる方角を見つめていた。
過去と未来が交差し、神と禁忌が交錯する――その“中心”を。
「記録せよ、すべてを。
……いまこの時が、世界の“歪み”に名を与える瞬間なのだから」
そう言い残し、時の番人はその身を霧へと溶かすように、姿を消した。
観測者は記録の書を開き、ペンを走らせる。
『第二の刻、開かれし真実の扉――
妖精王、かつての神を赦しの名で迎え入れん』
書き終えたその手が止まる。
そして、誰にも聞こえぬ声で、ぽつりと漏らした。
「……それでも私は、あの少女の光が、嘘ではないと……信じていた」
歯車がまた、静かに回転を始める。
物語は、次なる真実へと歩みを進めていた――。
すべてが沈黙するなか、妖精王は彼をしっかりと見つめた。
「それでも、私は……あなたを信じたい。あの時の“約束”を、私は――忘れていない」
忘れられたはずの記憶が、静かに――息を吹き返した。
かつて神だった彼が、何を守り、何を失ったのか――
その答えが、ようやく動き出しました。
この物語が、あなたの心の片隅にそっと残りますように。
ネトコン13参加作品です。
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