刻まれた真実——黒き誓約の夜明け
世界が静止した――それは、"時"そのものが訪れた合図だった。
裁きを下すために現れた“時の番人”クロノヴァリウス。その足音は、過去も未来も貫き、魂の深奥を揺さぶっていく。
命を落とす者。祈りを捧げる者。
そして、ただ記憶を持たぬままに“魂のまま”世界を救おうとした少女。
その一瞬の光が、断罪の剣をも鈍らせた時――
番人は見た。この世界に、まだ“生まれ変わる価値”があることを。
刻まれた真実が動き出す。
すべての運命が交錯する、この“黒き誓約の夜明け”に――。
——その瞬間、世界が、呼吸を止めた。
空は黒く裂け、大地はかすかな呻き声を上げる。
見上げた空に、禍々しい光の歪みが走った。
まるで、時そのものが悲鳴を上げたかのように。
空気が、凍った。
森を渡る風が止み、葉擦れも、鳥のさえずりも、消えた。
音という音が消え失せ、ただ圧し潰すような重圧だけが、静かに世界を満たしていく。
「……来たか」
ノクシアが魔眼を細め、低く呟く。
彼女の身体が、目に見えぬ力に打たれるようにわずかに震えた。
それは、恐れではない。
ただ純粋に、存在そのものが持つ"格"に圧されていた。
——時を断罪する者。
黒き気配。
歪む空間。
ひび割れ始めた世界の法則。
それは、すべて、たった一人の到来を告げる前触れだった。
静かに、しかし確かに、"彼"の足音が近づいてくる。
大地を踏むたび、時間そのものが振動し、世界がきしむ。
足音ひとつで、歴史が書き換わるような錯覚さえ覚える。
「ヴァルちゃん……」
隣で、シュエルが震える声で名を呼んだ。
その声音には、無垢な恐れと、言葉にならない懐かしさが入り混じっている。
心臓が、不規則な鼓動を打った。
胸の奥深く、思い出してはいけない何かが、静かにうごめく。
「……違う」
俺は、かすかに唇を噛み締めた。
「思い出さなければならない」
この震える世界の中心で、俺たちは立ち尽くしていた。
——"彼"が、世界を裁くために現れることなど、誰も望んでいなかった。
にもかかわらず、彼は確かに、ここに来たのだ。
——そして、静かに告げる。
「記録を歪めた罪を、いま裁こう」
黒の番人、クロノヴァリウス。
すべての禁忌を、すべての愛を、すべての終焉を見届ける存在。
このとき、俺たちはまだ知らなかった。
彼が裁こうとしているものが、たった一つの過去ではなく——未来すらも飲み込もうとしていることを。
——そして、この世界そのものが、すでに彼の“記録の外側”へと踏み出していたことを。
大地をきしませる足音と共に——
影が、ゆっくりと姿を現した。
黒のマントをまとい、顔は深くフードに隠され、
手には、異様なまでに長大な大鎌を携えていた。
その大鎌は、刃が存在しない。
あるのはただ、時を断つ冷たい線だけ。
顔は見えない。表情も見えない。
ただそこに、“絶対なる存在”として——クロノヴァリウスは立っていた。
「っ……!」
ノクシアが、静かに片膝をついた。
それは屈服ではない。
力に従うのでもない。
ただ、純粋な敬意と畏怖——
時を超え、理すら超越した存在への、魂からの礼だった。
「……ようこそ、時の番人」
ノクシアの低く押し殺した声が、静寂を切り裂く。
クロノヴァリウスは何も答えない。
ただ空間に、さらに重く冷たい圧力だけを増していく。
その時——
「……この人……知ってる気がする……」
シュエルが、か細い声でつぶやいた。
その瞳に浮かぶのは、無垢な驚きと、拭えぬ懐かしさ。
(シュエル……)
ヴァルゼクトは思わず彼女を見た。
——前に、彼女が言っていた。
「黒いマントの人を、夢で見たことがある」と。
それは偶然ではなかった。
シュエルの記憶の奥底に、すでにクロノヴァリウスの存在は刻まれていたのだ。
「……そろそろか」
ノクシアが、かすかに眉をひそめる。
クロノヴァリウスが、ゆっくりと片手を上げた。
指差すその先——森の奥。
静寂を割くように、クロノヴァリウスの声が響く。
「そこに、未来がある」
その言葉が、氷のように冷たく世界を満たした。
瞬間——
精霊の木の下で、セラヴィアの鋭い悲鳴が上がった。
「——!!」
みんな即座に駆け出した。
妖精たちが悲鳴を聞き集まっていた。その先に、見たものは——
地に崩れ落ちた、ダークエルフの少女。
ダークエルフの妹——リュシアが、力なく倒れていた。
「リュシア!!」
ダークエルフの姉であるセラヴィアの声が、張り裂けるように響く。
だが——
少女の胸は、もう静かだった。
すべてが、遅すぎた。
「っ……くそっ……!」
セラヴィアが膝をつき、必死に妹の体を抱き上げる。
だが、その手からこぼれる命の温もりは、あまりにも淡かった。
——間に合わなかった。
妖精たちが集まり始めた。
誰もが、痛みを噛み殺すしかなかったその瞬間。
ふわり。
光が、リュシアの亡骸を包み始めた。
「……シュエル?」
俺が振り返ると、そこに立っていたのは——
小さな手のひらに、淡く輝く命の種がそっと宿っていた。
「……ありがとう、リュシア」
そう囁いた瞬間、少女の全身がほのかな光に包まれる。
まるで空気そのものが澄みわたり、時の流れすら一瞬、穏やかに止まったようだった。
その掌に宿された“命の種”は、ただの祈りではなかった。
それは――魂に新たな巡りを与える、妖精王にのみ許された“祝福”の奇跡。
微笑みを湛えたその横顔には、いつもの無邪気さが残る。
けれど同時に、その仕草のひとつひとつは、王としての威厳と慈愛に満ちていた。
風が凪ぎ、木々が静まり返る。
その場にいた誰もが、ただ見惚れていた。
あまりに自然に、あまりに荘厳に。
まるで古の神話の一場面を、その目の前で目撃したかのようだった。
妖精たちは、目を潤ませながら、口々にささやいた。
「妖精王だわ……」
まるで、忘れられていた真実が、静かに姿を取り戻したかのように。
その光景は、世界すらも見入っているようだった。
そして――ノクシアが震える声で、聞いた。
「お前……まさか、記憶が戻ったのか?」
だが、シュエルは静かに振り返り、きょとんとした表情で首をかしげた。
「……なんのこと?」
その声音は、あくまでも無垢で、曇りなく。
けれどその背に漂う気配は、確かに“王”そのものだった。
その無邪気な声に、ノクシアは言葉を失った。
(だが確かに——)
この命の種を授ける力は、ただの妖精では使えない。
使えるのは、かつて妖精王と呼ばれた存在だけ。
「……やはり」
ノクシアが、かすかに唇を噛み締めた。
その視線の先、シュエルの姿に宿る“魂の記憶”を、ただ静かに見つめながら。
そのとき、クロノヴァリウスが口を開いた。
「——記録は、歪んでいる。
ゆえに、それは正されねばならぬ。
たとえその先に、どれほどの苦難が待ち受けようとも」
森の空気が張り詰める。
だがその声音には、僅かな温度があった。
「それでも——この世界は、
なお“歩み続ける魂”を持ち合わせている。
記憶に導かれるのではなく、魂の深奥から未来を選ぶ者たちがいる。
ならば、記録の修正は滅びではない。
それは、お前たち自身の力で乗り越えるべき試練となる」
厳然たる声の中に、ほんのわずか、静かな祈りのようなものが滲んでいた。
「……それが叶うかどうかを、“見届ける”のが、我の役目だ」
その声は、あまりにも静かで、あまりにも確かだった。
まるで、裁きを下す者ではなく、希望を見届けようとする者のように。
俺たちは、その言葉を胸に刻むしかなかった。
——世界の終わりか。
それとも、再生か。
それを選ぶのは、誰でもない。
今、この瞬間を生きる俺たち自身なのだ。
そして、クロノヴァリウスは静かに、再び夜空を見上げた。
その瞳に映る未来が、果たして、どんな色をしているのか。
今はまだ、誰にも知る術はなかった。
——そして、再び世界は動き始めたのかもしれない。
だがその頃、誰にも気づかれぬ森の更に奥。
静寂を裂くように、地を這うような唸り声とともに、
無数のゴブリンの影が、闇に溶けながら蠢いていた。
その先頭に立つのは、神が造りし“魔の器”。
その名も知らぬ存在が、シュエルの名を、囁くように呟いていた。
——まるで、“使徒”のように。
その声に応じるように、空の彼方で、封じられし黒き龍がわずかに身を震わせる。
目覚めの時は、もう遠くない。
【シュエルのつぶやき】
ねぇ、今日の私……なんか、ちょっと不思議だったよね。
命の種を持ってたことも、自然に手を伸ばせたことも……なんだか“私じゃない私”が動いてたみたいで。
でも――それが、すごくあったかかったの。
リュシアの胸に触れたとき、不思議と涙が出なかった。
だって、悲しみよりも……「ありがとう」って想いの方が大きくて。
私、ただの妖精じゃないのかもね。
でも、「王」とか「覚醒」とか、まだちょっと難しくてよくわかんないや。
……クロノヴァリウスって人も、最初はこわかったけど、
あの人の目……少しだけ、優しさがあった気がするんだ。
でも、なんか、森の奥から変な気配がするの。
地面の下から、どくん、どくんって何かが近づいてる気がする……。
ううん、気のせいじゃない。
“あれ”は――私を呼んでる。
……誰かの声がするの。
忘れてたはずの、大切な“誰か”の声が。
次の瞬間、なにかが変わっちゃいそうな気がして、ちょっとだけ……怖いよ。
けど、大丈夫。みんながそばにいるから。
……ヴァルちゃん、見ててね。
今の私が、ちゃんと未来を選べるように――
ふふっ。じゃあ、また次のお話でねっ♪
ブクマも、読んでくれてる感想も、全部全部ありがとうっ♪
——シュエルでしたっ♪




