大陸の風
大陸の風
--短歌で綴る戦中戦後体験記--
はじめに
二〇一九年一月一六日、私は満八三歳になった。これは男性の平均寿命である八一・〇九歳を二歳近く上回っていることになる。前年の九月には母が一〇三歳でその天寿を全うした。しかし、父は四一才で亡くなっているので決して長寿の家系とは言えない。さらに私は育ち盛りの栄養失調の影響や心臓疾患等を抱えており既に人生の下り坂の終点近くではないかと感じている。そんな思いもあって人生の一部を記録してみたいと思うようになった。
さて、生前から聞かされていたが母は自分史に取り組んでおり、遺品の中にその原稿を発見した。その部分の原稿用紙には「自分史講座NHK学園」とあり、四〇〇字詰め原稿用紙で一〇〇枚余りあるが、完成版はなく、「下書き」と朱書きされている。母の生き様を垣間見る興味もあり、拾い読みしてみると、主として引揚げ体験が書かれている。生前聞いていたことの裏付けになる出来事が多いが、自分の知らない事実も含まれていた。
私は、これに刺激を受け、ある意味でこれを引き継ぎ、私なりの自分史もどきのものを纏めてみたい欲求が湧いてきた。さらに、母方の祖父が、和歌を詠んでいたらしく「杉葉の雫」という歌集があり、母由来で手元に保管してある。ここからも母方の血族の家族史の一端を知ることができる。また、私は一〇歳で満州から内地に引き揚げた三カ月後に自分の引揚げ体験を記録した。それを保有しているので、これらを第一次資料とし、自分の昔の記憶と合わせてフラッシュ・バックする様々なシーンを短歌に詠み、文章とともに、この自分史もどきを取りまとめてみることとした。さらに、私の体験した戦争被害から加害の側面とともに戦争抑止のあり方についても、拙い論考を書き連ねることとした。
1.父母の出会い
母・千寿子は、その父・杉野清造の四女として朝鮮全羅北道群山市(現韓国)の群山神社に住んでいた。清造は、当時の三重縣河芸郡神戸町鍛冶町(現鈴鹿市)の出身であり、椿大神社における神主の修行を経て、推薦されて朝鮮の群山神社を任されていた。母は昭和九年五月、清造の知人の世話で、満州国新京市(現中国長春市)で官吏をしていた私の父・松本昌造と見合い結婚をした。父三一歳、母二一歳の一〇歳違いであった。
父は、鳥取県西伯郡渡村(現境港市渡町)の出身で三人兄弟の末っ子であり、叔父が朝鮮全羅北道全州市で商売をしていたのを頼って朝鮮に渡り、満州の官吏になったものと想定される。
2.私の誕生と小学校(国民学校)入学
父母の結婚の翌年昭和一一年一月に私は誕生した。母は、実家である祖父の家族の住む群山神社に近い民家で出産したため、私は朝鮮が出生地となっている。父は、その後、新京市から奉天市(現瀋陽市)に転勤になり、母と私は父とともに奉天で生活することとなった。当初は、浪速通りの菱東閣という七階建てのマンションの二階に住み、洗濯物は屋上に干していた。隣には映画館があり、昼前頃から拡声器で国威発揚の「愛国行進曲」を流しており、うるさいくらいの大音量であった。
♫見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌溂と 希望は躍る大八洲 おお清朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺ぎなき わが日本の誇りなれ
私は、このメロディを二歳の頃に繰り返し聞いたためなのか幼児の頃からこのメロディが耳の中で鳴り響いていた。Wikipediaで調べると昭和一二年、政府が国民精神総動員の方針のもと、「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として歌詞を公募したもので、偶然だが父の出身地の鳥取県境港の森川氏のものが選ばれている。私はかくて、ナショナリズム高揚の楽曲によって最初のメロディを記憶させられのである。私には、このほかにもう一つ幼時に頭の中で鳴っているスローテンポのメロディがあった。何の曲なのか分からなかったが、思いついて「満州国国歌」で検索してみると、動画が出てきて、再生してみると記憶のメロディそのものであった。作詞は、中国人名で作曲は日本人名が書かれている。
天地内有了新満州 新満州便是新天地
頂天立地無苦無憂 造成我国家
(天地の中に新満州あり 天を戴き地に立ちて
苦しみも憂いもない ここに我が国家を建つ)
権力は、権威・武力・財力の要素からなるという見方がある。満州国は清朝最後の皇帝・溥儀を満州皇帝に祭り上げてその権威を利用し、関東軍の武力、満州国の資源やアヘン等から得た利得という財力で成立していたという見方もできそうだ。溥儀は辛亥革命によって北京の紫禁城から追われたが再び清朝を再興したいという強い願望を持っていた。彼には武力も財力もなくなっていたので、関東軍が彼を傀儡国家の権威として利用する話に乗せられた。満州国を偽装するためには国旗、国家が必要だった。国歌は、上記のように満州国の理想を掲げ、国旗は、日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴させた、黄・紅・青・白・黒の五色で彩られいた。我々、在留日本人は、そうした背景の中で、植民された駒だったことになる。いずれにしても、これらの歌が私の最初の記憶に残るメロディであったと思う。
母は洗濯中に二歳の私が、マンション内で行方不明になるのを恐れて、からの水槽に入れて遊ばせていた。ある日、私がその中で急に立ち上がったため、水道の蛇口で頭を強く打つ事件があり、外国人の多いこのマンションが不気味なこともあって、市内の弥生町のレンガ造りの一軒家に引っ越すことになった。奉天市は奉天駅から千代田通(現中華路)を中心として、左45度方向に浪速通り(現中山路)、右45度方向に平安通り(現民主路)があり、弥生町の家は、平安通りにある平安広場の近くであった。
古都らしき平安広場の佇まい日光写真屋客待ち屯す
私は、父の郷里から遊びに来ていた叔父さんに連れられて、数回この広場に来た想い出があり、満人(満州は、最後の清朝を起こした満州族の土地であり、日本人は彼らを満人と呼んでいた)の日光写真屋が数人屯していた。彼らは卒業写真等を撮る時のような写真機で黒い幕を被ってシャッターを押し、その場で現像・焼き付けして即座に手渡してくれたものである。
弥生町の住まいの思い出される点描は次のようなものである。
厳冬の厠の真下みおろせば尖りて糞は氷山築く
二重窓開けて物買うレンガ家に
石炭ストーブ赤々と燃ゆ
満州は、真冬になると氷点下の厳寒になる。弥生
町の家のボットン便所の穴は深さは数メートルあ
り、排泄物は春まで貯めておくため高い糞の山がで
きて凍結して「逆つらら」状になるのである。また、
冬仕様のレンガ住宅は、二重窓の小窓から行商人を
呼び止めて食品等を買うことができた。
さて、私の幼稚園時代に大東亜戦争(戦後は太平洋戦争と呼んでいる)と称する米英オランダ等を敵とする無謀な戦争が始まった。それは真珠湾に集結していた主力米艦隊を標的としてそれを壊滅させようという狙いであった。(陸軍はマレー半島に上陸)
緒戦から自爆攻撃人柱戦のシンボル軍神となる
日本軍またまた勝てりとラジオ吠え
地図に日の丸ピン留めしたり
真珠湾攻撃は、山本五十六率いる連合艦隊が主戦力であり、先制攻撃したため圧倒的勝利を収めることができた。その中には帰路を絶った特殊潜航艇で九人の若者が敵艦船に体当たりする作戦も含まれていた。彼らが華々しく散ったことを大本営や主要メディアが大々的に報じ、これらの若者は軍神として奉られることとなった。当時、私は少年倶楽部という雑誌を購読していたが、青少年を戦争に駆り立てるため九軍神を崇め奉る書き方であった。著名な作家も坂口安吾は小説を書き、佐藤春夫、斎藤茂吉、高浜虚子は和歌の献句を行っている。しかし、戦後、判明したことは九軍神のうち一名は米軍の捕虜となり、生存していたとのことであった。
日本軍は、真珠湾の次はグアム、ラバウル、ポートダーウィン、ジャワ等に次々に進撃して戦果が報道されるので、私は親が買ってくれた世界地図に日の丸の小旗を日本軍の占領都市などに貼り付けて悦に入っていた。さて、私は昭和一七年に奉天弥生小学校の一年生に入学した。
弥生小一年生はクレヨンの色の多きが嬉しかりけり
小学校入学については、鮮やかなクレヨンの色が印象的だったことくらいしか記憶がない。なお、小学校という名称は一九四一年(昭和一六年)の国民学校令により「国民学校」に改称されている。この名称は教育勅語の教えを奉戴して皇国の道に則って初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すことを目的とし、国家主義的色彩が濃厚に加味されたものである。しかし、当時の記憶では当分「小学校」と呼んでいたように思う。父との思い出は次のようなものがある。
肩押さえ首まで浸かれという父と
五右衛門風呂に上気せるまでを
初めてのスケート靴に父と来て
恐恐立てり校庭リンク
内地より叔父の来たりて共に見し
露天掘りなる撫順炭鉱
父とは、別居生活が長かったが、久しぶりに一緒の風呂に入ると無理やり首まで入れられるので苦しかった思いでがある。また、冬になると、学校のグランドはスケートリンクとして使用された。冬には極寒となる満州では、グランドに溝を堀りホースで水を入れておくと、翌日以降にはスケートリンクとして使うことができた。。私は、父の休みの日には、父と一緒にグランドリンクでスケートの練習をしたものである。
満州は植民地経営のため多くの日本人の人手が必要だったので、父は郷里の家族や親戚に満州での職を斡旋していた。父の兄である私の叔父は、暫く我が家に同居して職場に通っており、ある休みの日に一緒に 露天掘りで名の知られる撫順炭鉱を見学したことがある。地上から擂鉢状に掘り進められた炭田の向こう側は霞むほど遠く、豆粒ほどに見える炭鉱夫が働いていた光景を覚えている。
この炭鉱は、日露戦争後、日本が経営していた南満州鉄道の管理下で運営されていた。満州国承認日(一九三二年三月一日)には、抗日ゲリラによる撫順炭鉱襲撃事件により炭鉱側職員の惨殺と施設の焼き討ちがあり、翌日、日本軍による中国人虐殺事件(平頂山事件)が起きた曰く付きの地域であった。関東軍や南満州鉄道が満州を植民地として経営するには、反抗する現地の人達に手荒い圧迫を加えることで維持していたものと考えられる。伝えられるところによると、日本人「開拓民」による満人既耕地の奪取、商店での押し売り、押し買い、気に食わない商店・食堂の破壊、輪タクなどの無賃乗車などをはじめ日本人の他民族への横暴、暴力、理不尽な行為は枚挙にいとまがなかったとされている。これらは恨みとなって、敗戦直後から暴力を受ける日本人も多かった。このことは、加害と被害はコインの裏表のような関係にあるのではないだろうか。
3群山の生活
私が小学校二年生の時、父が奉天から北満の平安に転勤になったが生活条件の過酷な地域なので、母と私及び弟妹の四人は母の実家のある朝鮮の群山で生活することとなった。奉天時代、弟が昭和一四年八月に、妹が昭和一六年一一月に誕生していた。父は単身で赴任することとなった。
群山への移転当初は、母の実家である群山神社に住んでいたが、やがて神社から徒歩で約二〇分程度で行ける朝日町の借家に引っ越した。そして小学二年生から小学四年生の一学期までこの借家で過ごすこととなった。
3❘1 祖父
ここでは、神主である祖父と周辺の思い出を書き記してみたい。祖父は、神社業務に携わる傍ら、軍役にも就いていた。祖父の上梓した歌集の年表によると、台湾守備歩兵酒保掛、予備役兵教育掛、病死者葬祭掛将校留守宅慰問掛などを経て、明治三八年(一九〇五年)二月には日露戦争の激戦地、黒溝台戦闘や奉天会戦に衛生兵として参加したとの記述がある。翌明治三九年には、「日露戦役従軍ノ功ニ依リ勲七等並ニ賜金百五拾圓ヲ授ケラル」とある。直近の階級は歩兵一等軍曹給二等級とあり、二〇才で徴兵され、三〇歳で復員している。
私の祖父の思い出は、神社のお勤めの終わる夕刻から長い時間をかけて晩酌することや、孫たちに自慢話をしたり、じゃれあうことであった。
夕間暮れ祖父の晩酌始まりて幼き吾にも肴与えき
祖父は、自分の酒の肴を少し箸でつまんで、孫に与えたり、時には盃の酒を舐めさせたりして戦争の武勇伝を語ったりして楽しんでいた。
両足で孫の腹支えて手をつなぎ
「テンタラツンツン」祖父はしゃぎいつ
祖父は孫が近くに来ると、自分は仰臥して孫の両手を掴み、両足で孫の腹を身体ごと持ち上げ「テンタラツンツン」と言いながら上下に揺すって興に入っていた。私は、腹が擽ったく、時には少し痛かったが、祖父の調子に合わせるようにしていた。
お祓いを祖父より受けし学徒たち
戦塵に散りぬ命幾人
神主であった祖父が、神社参拝の若者や軍人たちに祝詞をあげ、お祓いの神事をしている場面を私はよく見る機会があった。当時は、徴兵の報せが届くと、武運長久を願って千人針を女性に依頼し、神主にお祓いしてもらうことが習わしのようだった。
日本人にさせられた朝鮮人も、日本名への改名を強いられ、神社参拝も強制されていたようである。祖父に武運長久を祈ってもらった若者たちの何人が戦場で無事だったのか、戦争が敗色濃くなっても戦争を継続し、三一〇万人とも言われる犠牲を出した先の戦争の無残さは軍部の横暴とはいえ、惨いものを感じることを禁じ得ない。
祖父詠みし日露戦役ワンカット
一兵卒の歴史の短歌ぞ
祖父の歌集には、春夏秋冬の和歌のほかに、軍隊での状況を詠んだものもある。歌集には約三〇〇余首あるが、そのうちから軍隊体験や国防、軍人勅諭、旅順戦跡関連のものに次のようなものがある。
もの見するわがもののふのゆくてをば
凍りて照らす冬の夜の月 (軍営月)
なりひびく喇叭のおとに目さむれば
有明の月うすれゆく見ゆ (軍営月)
鳥も蟲もあだふせぐべき備へあり
国もるわざをおろそかにすな (国防)
軍人がこころ一つにかしこみて
あふぎぞまつる五つのみさとし (軍人勅諭)
そのかみのいくさのあとを尋ぬれば
涙ぞつきぬむねはせまれど (旅順戦蹟)
祖父の生きた時代背景や兵隊であった立場や神道に身を委ねる立場としての詠みと見ることができる。四句目の下句にある「五つのみさとし」とは、軍人勅諭の次の5カ条と思われる。
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし
一 軍人は禮儀を正くすへし
一 軍人は武勇を尚ふへし
一 軍人は信義を重んすへし
一 軍人は質素を旨とすへし
この軍人勅諭は明治天皇が下賜されたものであり、軍部の暴走を抑える内容となっている。しかし、後に東条英機が陸軍大臣の時、「戦陣訓」を示達した。これは軍人としてとるべき行動規範を示した文書で、このなかの「生きて虜囚の辱を受けず」という一節が有名であり、玉砕や自決など軍人・民間人の大勢の犠牲の一因となったのではないかと議論されている。
3--2 群山神社
暮れになると男たちが何臼分も餅搗きし、女たちは餅をちぎって鏡餅、雑煮餅、餡餅や黄粉餅を麹蓋に並べ、まだ熱いうちに子供たちは頬張り正月のお年玉を貰う楽しみにウキウキしてい た。
社務所横杵で餅搗きほやほやを
頬張る子らに正月近し
手伝いの幼きねえやはおっちょこちょい
負うた子もろとも石場で転ぶ
神社のお手伝いとして朝鮮人の若い姐やを雇って雑用に使っていた。ある時、赤子の妹を背負って神社の石段の登り口に工事用に積んであった石材置き場付近で遊んでいて、躓いて転び背負っていた妹は大怪我をした。妹は額から大量の出血をして病院に担ぎ込まれた。母は姐やをかなりきつく叱っていた。
群山の丘の上なる社から
見晴らす町の生活ゆたけし
神社より群山港を見下ろせば
海路の日和波煌めけり
群山は、錦江下流に位置する港湾都市として発展してきた。小高い丘に上に建つ群山神社からは町全体を展望することができ、裏手に回れば、群山港を眼下に望むことができる。美しい港で、港を出入りする船の群れや陽に輝く美しい波の煌きを遠望することができる。
3-3 群山小学校(国民学校)
物量の豊かな米軍が太平洋の日本近海の島々を占領すると、航続距離の範囲内となりB-29爆撃機が偵察のため群山にも来るようになった。かなり高空を飛ぶので地上からは飛行機雲しか見えなかった。軍備が乏しい日本軍は迎撃することもできず傍観していた。
児童らの銃後の守りは教練とふ
竹槍訓練日に日に激し
空襲の護りの防空訓練は顔を覆いて潜りき机
朝礼の生徒の列を巡回しサーベル
鳴らす配属将校
小学校では普通の授業が減り、竹槍訓練や空襲から身を護るため机下に潜る訓練に明け暮れていた。そのことに疑問を示しそうな生徒を取り締まるためか年配の将校が配属され、朝礼の生徒の列の間を歩き回り腰から下げたサーベルをカチャカチャ鳴らして威圧していた。生徒は緊張して「気を付け」の姿勢を保つことに精一杯だったが、時に誰かの態度が気に入らなかったのか殴り倒されたりしていた。
日本軍の戦争は、精神論だけで戦おうとする非論理的なものであり、少しでも反抗の態度を示せば徹底的に制裁された。徴兵で入隊する初年兵は古参兵や前年入隊した兵からもリンチされる日常があり、その権力関係が装備の劣る日本軍の体裁を維持する唯一の手段だったのではないかと想定している。
日本軍は最初のうちこそ不意打ちで勝利していたが、日本の10倍以上という国富による物量で態勢を立て直したアメリカ軍は日本を圧迫するようになっていく。銃後(戦争協力をさせられる内地)は、国民総動員法によって統制されていた。各家庭の長押には天皇皇后両陛下の御真影があり、旗日には日の丸の掲揚が行われた。学校には講堂の横に奉安殿(天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物)があり、祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と白手袋の校長による教育勅語の奉読が行われた。また、登下校時や単にこの前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。奉安殿の横には薪を背負って本を読む二宮金次郎の銅像が配置されていた。「教育勅語」は森友問題で脚光を浴びたが、内容は上下関係を厳しく規定し、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。」(万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)というものであった。戦後、この勅語は国民主権の憲法に違反しているという理由で衆参両院では全会一致で排除失効決議がなされている。
軍部は物資不足を補うため、小学生にも山に松根掘り(松の木の根を掘り松脂を抽出して航空機の燃料にする)に行かせたり、ひまし油(飛行機の潤滑油にする)の苗を庭で栽培させたりした。また、資源のない日本は鉄等の金属類が不足していたので、武器や戦車等の生産のため家庭の鍋釜や寺の釣り鐘、貴金属類の徴発を行っていた。
4 満州間島省間島市 -- そして敗戦
父が勤務先の北安から間島省間島市(現延吉)に転勤になり、母と私を含む三人の子供たちは、朝鮮の群山市から引っ越しすることとなった。間島市は、満州の東南に位置しており、ソ連と朝鮮(現北朝鮮)の双方の国境に近い町であり、朝鮮人の多い町であった。昭和二〇年六月頃に群山市から列車で移動した。間島市は、現在は、延吉と呼ばれるが、当時は中国共産党グループと朝鮮人共産主義グループ等による反満抗日勢力の拠点であった。満州国はこれらの勢力を「匪賊」と呼んで武力討伐を継続していた。
私は、四年生の一学期中途に間島市の小学校に転校したがすぐに夏休みに入った。八月九日に突然、ソ連の参戦で満州への侵攻が始まった。
土手に沿い歩きし吾が横縫うごとく
機銃掃射の土埃立つ
ソ連参戦の当日か翌日あたりに、近くの土手を歩いていた私は、突然の豆を煎るようなパラパラという音に見上げると、ソ連機が降りてきて機銃掃射を始め、私の横を一直線に無数の銃弾が撃ち込まれた。
あとで分かったことであるが、満州を守備する関東軍は、多くの部隊を南方方面に裂いており、かなり手薄になっていた。そのためソ連軍とはまともに戦うことなく、開拓民を含む居留民を置き去りにして逃亡したとされている。
作家・作詞家で当時七歳のなかにし礼さんは、家が酒造りをしており関東軍と親密だったことで親が関東軍と話をつけ軍用列車で牡丹江の隣の小駅から脱出したという。牡丹江駅は、脱出したい在留民が大挙して集結していたので彼らを出し抜いて隣の小駅から夜陰に乗じて出発したことになる。「僕たち家族も一般居留民を出し抜いて軍用列車に乗った後ろめたさは感じていましたが、われ先に逃げたのはふんぞり返っていた少佐らしき軍人でした」と語っている。
さらに、軍幹部は、軍の飛行機で逃亡を図った者もあるとされる。特に国境付近の在留民はソ連軍に蹂躙され、ある開拓部落では全員が相互に殺し合い、全滅したという。
その数日後の八月一五日には天皇が降伏の詔書をラジオ放送を通じて国民に発表したことは帰国して知ることになる。だが、日本が負けたことは大人たちに伝わっており、満人や朝鮮人の態度の急変がそれを物語っていた。
満州の防人任じし関東軍居留の民を放り逃げ出す
ソ連軍国境の町に攻め入りて
父はペチカで書類燃やしぬ
ソ連軍橋を渡りて轟轟と延吉市内を踏みにじりゆく
間島市の郊外に駐留していた日本の第一一部隊は、間島の在留民を救助すべきと思ったのか、八月一八日の夕刻に我々、官舎に居た日本人家族を軍のトラックに乗せて、郊外の山の中に運んでくれたが、山中で野宿した挙句、翌朝には我々を元の住居に連れ戻し、そのままとなってしまった。おそらく、それらの部隊も程なくソ連軍に降伏し、ソ連に抑留されたのではあるまいか。その後の経緯等は混乱した状況で噂が飛び交い、真相は不明のままである。
父は、官舎に設置されたロシア式暖房であるペチカに役所の書類らしきものを次々に燃やし始めた。満州といえども夏なので、部屋は暑くなったが、様々な証拠の隠滅は必須だったのではないだろうか。
次の日あたりに、図們江支流の橋を渡って何十台のソ連軍の戦車が轟轟たる音を響かせて市内に侵攻してきた。この光景は忘れられない。
なぜ、米英オランダ等と戦っていた日本の領有する満州にソ連軍が参戦してきたのだろうか。日本はソ連との間に一九四一年(昭和一六年)「日ソ中立条約」を締結していた。有効期限は五年間で、その満了一年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の五年間、自動的に延長されることとなっていた。ところが、日本の敗色が濃厚になっていた大戦末期の一九四五年(昭和二〇年)四月五日、翌年期限満了となる同条約をソ連政府は延長しない(ソ連側は「破棄」と表現)ことを日本政府に通達した。この背景には、ヤルタ会談において「秘密裏に対日宣戦が約束されていたこと」がある。このような背景があったにもかかわらず通達後においても日本側は条約が有効と判断して、ソ連の仲介による和平工作をソ連側に依頼していた。ソ連はこれを無視し密約どおり対日参戦を行ったのである。このような重要な情報を察知することができなかったことは、日本政府の情報戦の敗北、外交音痴を示すものではないかと考えられる。
父は官舎住まいの官吏たち全世帯とともに無収入となり、食うものに困り始めた。
敗戦を満州で迎えし邦人は飯食う手立て
着物を売りき
王さんが小窓叩いて食物を
差し入れ呉れて人の情知る
食べ物を得る手段として皆がやったことは、現地の満人や朝鮮人たちと箪笥にある着物等を食べ物と交換することくらいである。皆がやるので、買い叩かれたが、他の手段はすぐには思いつかなかった。ある日、父の部下だった満人が小さい二重窓を叩き、僅かだが食物を持ってきてくれた。敗戦の日までは、満州では、宗主国の日本人が一級市民として威張っており、満州人は二級市民、朝鮮人は三級市民等と巷間で言われていた。日本の敗戦によって、この立場は一瞬にして逆転した。日本人は敗残の国民であり、急に威張り出す朝鮮人も現れていた。
富国強兵とふスローガン鉄道爆破し満州建国
在留邦人一旗揚げむと入植し
敗れてその咎甘受すべしや
日本人の満州における立場が敗戦によって突然逆転した経緯について考えてみたい。遡れば、鎖国を続けていた江戸幕府に代わり、薩長等が戊辰戦争を勝ち明治政府が廃藩置県を断行して中央集権により強大な権力を握った。
明治政府は殖産興業・富国強兵を旗印として朝鮮の権益をめぐって日清戦争に勝利した。次に強大なロシアの南下を防ぐとして日露戦争を仕掛けて辛勝し中国東北部の一部利権を獲得した。
その利権を確かなものにするため瀋陽郊外の柳条湖付近での鉄道爆破を契機に紛争を拡大し、ついには満州国を建国した。そして国策として日本人の植民が奨励されるようになった。
当時は、内地(居留民は、日本本土を内地と言っていた)は、世界恐慌の後の不景気続きであり、東北地方では娘を売って糊口をしのぐ等と言われるくらいの貧困が蔓延していた。満州の植民地化は、これらの人達に自分たちの飛躍できる新天地と映った。政府の奨励もあり、多くの日本人が大陸を目指していた。長子相続制度のため財産を持たない次男三男らも、大陸を目指し一旗揚げようと夢見る者たちも多かった。
これらの者たちは、日本の敗戦によって夢は一瞬に吹き飛び、命の危険が迫るようになっていた。そのため居留民は一刻も早い内地への帰還を望んでいた。
ところが、当時の日本政府は外地の居留民に対して「出来得る限り現地に於て共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力すべし」という決定を行っていた。このことは、戦後何十年も後になって知ったことである。(参考1)
内地の政府は敗戦で混乱した本土に掛かり切りで、植民地の在留民まで手が回らなかったことが理由であろうと推測できる。国策の誤りがかくも多くの犠牲者を出した理由である。
5 敗戦後の生活
ソ連の占領政策は、占領部隊の前衛に監獄上がりの荒くれ者を配置し、被占領地に第一陣として入らせるという噂があった。我が家にもマンドリンと俗称されるシュパーギン短機関銃を両手で抱えて、二人のソ連兵が、ダワイ、ダワイ(何かをよこせ)と押し入って来たことがある。
居留民帰国させぬと定めたる本国政府の棄民政策
マンドリン突きつけ押し入るソ連兵
「ダワイダワイ」と強奪をせり
記憶では二回侵入されたと思う。また、深夜に酔ったソ連兵が銃を放ち、我が家の天井付近に数発の弾痕が残ったこともあった。家屋に侵入したときは、父がタバコを差し出したところ、裸電球にタバコを近づけスパッと吸う動作をしたが当然火はつかない。そこで父はライターで火をつけてやった。父はその他にも彼らの喜びそうなものを与えてご退散願って事なきを得た。
自家製の紙巻きタバコを奪われて
生活失い途方に暮れぬ
着た切りの不潔の下着に蚤虱
日向でプチンと退治する日々
食物を得るため着物との交換も、品切れが近くなり他の収入が必要となった。近所の日本人世帯も同様であり、誰かの思い付きでタバコを自家製造して市場で販売して現金収入を得ることとなった。まず、市場からタバコ葉やタバコ製造に必要な材料等を取り揃える。家庭でタバコ葉に霧吹きで砂糖水を振りかけて、庖丁でタバコ葉を切り刻む。次にタバコの巻紙にタバコ葉を適宜並べて箱状の補助紙と筆筒で巻き込んで糊付けする方法であった。この方法に習熟することも必要であった。
タバコに加えて大福餅も準備して首から紐で吊るした板のうえに商品を並べて市場で立ち売りするのであった。私も当時小学校四年生であったが親と一緒に売り子をしたこともあった。
延吉の市場は、様々な人種が寄り合い、バラックの小屋に商品を並べて商売していた。そこでは様々な国の言葉が飛び交い、活況を呈していた。通路は、お客が口から吐くカボチャやヒマワリの種の皮で地面の土が見えないくらいであった。満人、朝鮮人、ロシア人たちはカボチャやヒマワリの種を干したものを口の中で歯で器用に皮を剥いて食べる。そして辺り構わず吐き散らすのである。時にロシア人は馬上からも吐き散らしていた。
ある日、数人の二〇歳前後の朝鮮人に取り囲まれ、何か怒鳴られ、タバコは没収されてしまったことがある。母は、大福餅を盗まれたこともある。
敗戦後は、食物も不足し、燃料もないため風呂に入れない日が長期間続いていた。家族全員に蚤・虱が繁殖するようになった。蚤ははね飛ぶが、虱は、下着の縫い目にびっしりと並ぶ習性があり、全身が痒くなり常に掻いていたので、全身に出来物が吹き出していた。私の腹には、未だにその痕跡が残っているくらいである。虱の繁殖には追い付けぬが、晴れた日は、日光の下で下着を脱いで、縫い目の虱退治をしたものである。
ニンニクを数珠繋ぎして首に懸け
ソ連に向かう捕虜たちを見き
ソ連軍は、日本の満州における財産を殆ど、母国に運んだという噂を聞いたことがある。加えて、日本軍兵士たちをソ連に連行して強制労働に使役した。これを後に日本側では「シベリヤ抑留」と呼んだ。私の居た間島市は、ソ連国境に近く、連日のように捕虜にされた日本軍兵士がソ連方面に向けて行進していた。時には、日が暮れると、我々の官舎に分宿して一夜を過ごしたこともある。彼らは冬季の服装を持たず、冬は厳寒となる地に向けて、冬の近づく季節に向けて行進していたのである。彼らの唯一の防寒対策は、ニンニクを齧ることくらいであった。彼らは、機会を見つけてはニンニクを大量に求め、紐で連結状に結わえて首からハワイのレイのようにぶら下げて行進していた。
「シベリヤ抑留」は、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリヤなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約五七万五千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約五万五千人が死亡したと言われている。
ソ連兵は暫くすると、撤退し、昭和二〇年の暮れ頃に毛沢東側の八路軍が入ってきた。彼らは、自分たちに対して酷いことをした日本人を探し出して厳しく処罰していると噂されていた。特に日本人の元警察官や憲兵は密告等によって逮捕され、三角帽子を被されて市中行進のあと、公園等で人民裁判にかけられていた。私は近くでは怖くて危険なので、遠くから盗み見をしたことがある。
威張り居し警官憲兵三角の
帽子被せられ引き回さるる
私たち家族が敗戦後の厳寒の満州の冬をどのように乗り切ったのかあまり記憶がない。食べ物が不足し風呂にも入れず蚤・虱の繁殖した下着に多くの出来物に悩まされていたが、ともかくも生き抜いていた。おそらく、レンガ造りの冬仕様の家屋は屋外の冷気をかなり防いでくれていたのではないだろうか。
6 父の死
やっと、昭和二一年の春になったが、故国への引揚げ情報は噂やデマばかりだった。四月のある日、突然、父が間島市から北へ約一〇〇キロの吉林省安図縣の田舎に、農作業に従事する使役として駆り出されてしまった。
【(注)戸籍謄本の記述には「中華民国安圓縣安圓城内文昌廂ニ於イテ死亡」とある】
私は、その経緯はよく知らなかったが、母から聞いた話によると、ある日、突然四〇歳以下の成人男子は指定の場所に集合するようにと言われた。父は明治三七年六月生まれの四一歳だったので対象外だったが一歳違いなので参加すべきとの考えで連行されて行ったのではないかと推測される。
先に述べたように関東軍は、かなり多くの部隊を南方に派遣し満州の兵力は不足していたので、高齢者まで徴兵していた。これは「根こそぎ動員」と呼ばれていた。そのため我々の住む官舎には成人男性は少なかった筈である。父は、そのような背景から自分も行かねばという考えもあったかも知れない。
その後の父の消息は不明であったが、六月末頃に一人の日本人青年が訪ねて来て私の父から預かったと一枚のハガキを持参した。母によると、その文面は家族を気遣う文言に加えて「在留日本人の内地への引揚げは近々実施されるらしいが、その時には、お前達家族は先に引き揚げたほうがよいかも知れぬ」と書かれていたそうである。母は、この文面に不吉な予感を抱いたという。「かも知れぬ」の意味に拘ったという。満州に居残って使役として働かされるのか、体調を崩して帰国する体力に問題があるのか、こちらからの連絡方法がなく悩みは尽きなかった。母からは、このハガキを持参した青年について詳しく聞いていないので、彼に返信を頼めなかったのか、今となっては不明である。
突然の父の連行理不尽ぞ慣れぬ労苦に命縮めむ
満州にも夏がめぐって来て、これまで何回も聞かされた噂やデマではなく、待ちに待った内地への引揚げ命令が出た。父の消息を待っていた八月下旬のある日、一人の来訪者があり「お宅のご主人があちらで病死された」と伝えてくれた。小さな紙の包に入った父の遺髪と遺爪を母に手渡した。私はこの場に居合わせなかったが、母によると六月に受け取ったハガキの文面で感じていた不吉な予感が的中したと感じたという。
来訪者は、父と共に連行されたが、内地への引揚げ時期に合わせて間島市に帰ってきた方である。彼が父の最期は親切な日本人夫婦の家で看護され手厚く葬られたと慰めの言葉を添えてくれたそうである。それが若干の慰めである。しかし、父の連行された先に、そのような「親切な日本人」が居たことは不可解であり、それは謎のままである。父は八月一八日午前三時他界、病名は腸結核と診断書に書かれている。母の自分史下書きには次のように無念の気持ちが綴られている。
「内地引揚げを目前に控えていながら、病に倒れ帰国できない身体となってしまった。無念の情を抱きつつ異国の土に還ってしまった主人の心中を想う時、息を引き取る時、傍に居て欲しい家族達は遠くに住み、敗戦のために不条理な境遇に置かれてしまった。”もう、どうにでもなれ”という捨て鉢な思いとともに、三人の子供たちに母親の取り乱した姿は見せれられない」
引揚げの報せと時を同じうし
父の果てたる報せの届く
髪と爪仲間の届けし遺品なり
父の死に際伝え聞かさる
7内地への引揚げ
7❘1 引揚げ準備と出発
父の死を知らされて間もない八月二八日、内地への引揚げ出発日を迎えた。前年の敗戦から一年余りが経過し、噂やデマで待ち遠しかった内地への引揚げ開始であるが、父を失ったが葬儀もかなわず、悲しみも癒えない日程での慌ただしい出発である。
一0歳の私と七歳の弟、四歳の妹は、年齢相応の小さなリュックを背負い主に食料を入れ水筒を肩から下げていた。母はかなり大きなリュックを背負っていた。持てるだけの物が全財産である。母の自分史下書きには次のように書かれている。
「野宿も覚悟のうえなので、一枚だけでも毛布も持たねばならず、煮炊き用の鍋として持ち合わせのアルミの蒸鍋に針金で取っ手をつけ、バケツ替わりにも利用するつもりである。また、当座の生米や調味料などあれもこれもと考えた。着るものは子供たちには夏物の半ズボンとともに野宿用の長ズボンも必要だった。八月末といってもまだ日差しは強く着るものもあまり厚着はできない。いろいろ考えた末、大島の着物を解いてモンペの上下を縫い中には薄いものを重ね着することとした。」
一方、私の帰国直後に記録したノートによると、次のように書いている。
「僕は馬車にゆられていた。さらば間島よ。今まで朝鮮人に馬鹿にされていた日本人の僕だが、この土地から別れるのは何だか名残おしいような気がする。昨年の八月一五日に敗戦となり、一年余りこの間島に居たのだ。父は連行されて行った先の安圓というところで満人の百姓家で亡くなった。父をこの満州に置き捨てて帰るのは誠に恥であるが、日本が負けたのだから文句は言えない。大きくなったらきっと仇打ちをしなければならない」
現在、これを読んで、軍国少年教育をされた私たち少年は、こういう反応をしたのだと改めて感慨を覚える。母の記録にはないが、私たち家族は間島の官舎から延吉駅までマーチョという馬車に乗るという贅沢をしていた。小さな子供たちにも荷物を持たせていたことや今後の現金の使い道が読めないこと等がその理由なのかも知れない。記録によると、官舎を朝の六時頃出発したとあり、延吉駅前の広場には七時前後には到着した筈だが、それから夕方五時頃まで、朝鮮人による荷物検査を受けることとなった。因みに間島は国境の町であり、日本人、満人、朝鮮人がそれぞれ三割程度ずつ住んでいたそうだが、この検査を何故朝鮮人が担当したのか不明であり、めぼしい物の没収が目的だったような気がする。
全員が班単位に整列し、それぞれが持つ大きなリュックの中身をすべて出した。彼らは念入りに検査し、貴金属やめぼしい物はすべて没収した。そして、その没収物の山ができていた。我々引揚げ者は、行動の統制のため軍隊式に組織された。私の家族は官舎の近所の住民とともに、延吉第五大隊第一中隊第四小隊に属していた。
引揚げの貨車で寝ながら見る月は
故郷の月と同じなるらむ
丸一日を駅前広場で過ごすことを余儀なくされたが、夕方になってやっと列車に乗ることとなった。それは貨物車であり、側板は記録によると当時の私の背丈程度だった。
私の記録には次の記述がある。「雨が降ったら困るなぁ、と思った。秋にも近い満州に赤トンボが飛んでいた。まもなく動き出した。僕はリュックに登って外を見た。夜は月と星を眺めながら寝た。ゴットン、ゴットンと揺られリュックを枕にして毛布を被って寝た。ぎゅうぎゅう詰めだった。何に足を向け、何に頭をおいているか分からなかった。誰かがおならをブッとふったが、誰だか分からなかった。」
母は次のような記述をしている。「幼児を抱えた出征軍人の妻たちは、敗戦の混乱の中で心労と栄養失調等で体力・気力ともに衰え、この貨車の中で幼児を死なせてしまった人が幾人か居た。その遺体は、列車が停まった荒野の中で線路脇に小さな穴を掘り、そっと葬るのである。花も線香もなく静かに手をあわせ、再び、妻たちは車上の人となって後ろ髪を引かれる思いで集団引揚げの一員になるのである。そのような不幸を目前にしても、他の引揚げ者は、明日は我が身かも知れず、感傷に浸る様子もない。」
長時間の停車の後、再び動き出すにはその都度、機関士と交渉し幾何かの金銭を掴ませなければならないという話を聞いた。おそらく、この集団の責任者が悩みながら交渉してくれたに違いない。
7❘2 敦化
この列車は、長い時間走り続けたり、荒野の中で停車し何時間も動かなかったりした。比較的大きな停車駅としてまず敦化があった。当時は知る由もなかったが、敗戦の数日後、八月二七日に侵入してきたソ連軍によって連日にわたり集団強姦され続けた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した「敦化事件」が発生した場所である。
敦化から約一時間列車が走り、シンジャンという小さな駅に停車した。ここで全員が貨車から降りることとなった。そこから一キロ程度歩いて学校のような場所に移動した。校舎は内戦で破壊されていたが、雨露は凌ぐことができる。ここの日本人は既に引き揚げたようで、姿は見かけなかった。明日はここから四里余り(約一六キロ)歩かなければならないと聞かされた。これは、国共内戦のため鉄道が寸断されていたからである、と後日聞かされた。
私は、付近でレンガや石ころや薪になりそうなものを拾い集めてカマドを作り、持ち歩いている蒸鍋に持参した少しばかりの米を入れた。班単位で水くみに行き、それを加えてご飯を炊いた。ご飯のあとには、お湯を沸かし、水筒を満たした。
母は、当時は夫に死に別れて間がなく悲しみの処理や引揚げ行動に順応することが難しかったようだ。私が成人してから母は当時小学四年の私を同志と思っていたと語ったことがある。
戦乱の大地横切り逃避行母は語りき吾を同志と
私はまだ子供であり、間島小学校で仲良くなった三浦君と運動場で走ったりして遊んだ。遊んだ後、引揚げ者の大集団なので、家族のいる場所がすぐ探し当てることができず、一〇数分程度探し回った記憶がある。講堂らしい場所の床板は燃料にするためか剥がされ、コンクリートに支給されたマータイ(麻袋-穀物等の運搬用の袋)を敷いて休んだ。
夜間は、一五歳以上の男性が交代で見張りをして、唯一の財産であるリュック等の荷物の保護にあたった。疲れて熟睡していると「あと三〇分」と大声で知らせる声に大急ぎで飛び起きた。マータイ等をリュックに詰め込み、引揚げ者集団の列に並んだ。そして、昨日到着した駅まで行進した。
7❘3 徒歩行進
そこには多くの馬車が集結していた。小隊単位だったと思うが持参の荷物および年寄、病人、幼児は、その馬車に乗せることができた。私の家族では弟と妹は馬車に乗せてもらったが、私と母は徒歩である。私は、水筒だけ肩にかけて、残暑の大陸の道をひたすら落伍しないよう歩き続けた。高粱畑の間を通り、いくつかの坂のアップダウンを歩いた。前日に降雨があったため、道はぬかるんでいた。馬車の轍がぬかるみに嵌まり脱出するのに苦労し、数個の荷物が落下するのを横目で見て、弟妹たちが心細さに泣いたり、荷物が落下していないか心配しながら歩いた。
大人たちが日頃話していることは、「満州は広くていいなぁ。日本は島国だから、私たちが戻ると食糧に困るのではないか」等というような意見であった、と私の記録に書かれている。日本軍が満州を攻略して植民地とし、満人の農家や畑を接収し、日本の開拓団に与えたことの加害者側の論理は当時は話題にもならなかった。
昼頃までに約八キロ歩き、弟妹と荷物を載せた馬車を見つけ、その無事を確認できてホッとした。荷物に入れておいたオニギリを食べることができた。ここからは、家族全員がリュックを背負って残り約七キロを歩かねばならないことになった。
四歳の妹も何とか歩き通し、夕方近くになって山の中腹に鉄道駅の見える場所に到着した。駅名は記録になく不明である。我々の引揚げ者集団はその駅の麓の草原で小休止に入った。
ここで、集団を率いている責任者たちが相談を始めた。我々の集団はかなりの規模であり、全員が次の列車には乗れないため、半分は翌日以降に運ぶという。各大隊長は籤を引くことになり、我々の属する大隊は即日乗車できる側という幸運を射止めてくれた。そして、山の中腹の駅に向けて出発した。
残留する半分の人達は、今夜はこの草原で夜を過ごすのである。駅まで登り、下を見ると、夕食の煙が立ち上っていた。我々は、汽車には乗れるが夕食にはありつけないのである。その日は、昼にリュックのおにぎりを食べただけである。
長く連結した列車がやってきた。これも貨車である。籤を引き当てた我々集団が乗り込んでみると、かなりの過密になり、横にもなれず、リュックに座ったまま寝るしかなかった。列車がカーブに差し掛かると、連結された貨車は長蛇の長さに見え、如何に我々が大集団なのかを改めて知ることとなった。
7❘4 松花江
おそらく翌日だと思うが、川幅が一五0メートルくらいの大河が見える場所で我々は下車した。松花江というアムール川最大の支流である。鉄橋が見えたが、機関車が脱線して川に落ちそうになっていた。
鉄橋の機関車転落松花江国共内戦いよいよ激し
一週間の滞在中には、松花江で水浴びや洗濯をすることができた。まだ残暑の季節なので、清潔を保つため水浴びと洗濯は必要であり、有効であった。私の記録によると、母は洗濯石鹸について神経質なほどの拘りなのか、その紛失について、私を厳しく叱責した。まだ喪失状態から精神不安定だったのかも知れない。
7❘5 吉林
我々は下車した後、トウモロコシ等の枝を拾い集めてご飯を炊いて久しぶりに食べることができた。まもなく我々は松花江の対岸に移動することになった。二艘の長細い船に板を渡して艀にして人馬ともに乗ることが出来るものである。河の流れがあるので、真っすぐに対岸に行くのではなく、まず上流に向かい適当な角度で、次に下流に向けて流されると対岸の桟橋に着くことができた。対岸は吉林という大きな町で、一キロ程度歩いて、大きな広場のような場所に到着した。ここは草原でなく、石炭集積場だったらしく、石炭がらに覆われた場所だった。
この場所に一週間程度とどまって次の列車を待つ計画のようであった。我々は、マータイ(麻袋)を敷いて横になったが、枕元の近くを人が通るので顔が真っ黒になる始末だった。
便所は、長い穴を掘り、板を渡してアンペラ(南方の多年生植物の茎を編んだもの)で囲っただけの簡易なものである。何十人が同時に使用できるもので、間仕切りはなく、他の人達の用便もすべて見渡すことができるものであった。私はとても恥ずかしかった。年頃の娘はもっと恥ずかしいに違いないが、便意には抵抗できなかった。私の家族の横になる場所は、この露天便所に近く、常に臭い匂いに悩まされ続けた。
7❘6 錦州へ
吉林で一週間の野宿を過ごし、吉林駅から列車に乗った。これまでの貨物車は、天井はなくても側板があり安全面では安心できたが、今回は側板の全くない平らな台板のみの貨車であった。おそらく車両や戦車等を乗せてロープで固定して輸送するものではなかろうか。列車が走り出すと危険なので、我々の荷物を外側に配置してロープ等で固定し、それらに囲まれた中に我々は乗ることになった。そして大人は外側に内側に子供たちが乗ることにした。この列車は、これまでと異なり主要な駅に停車はするが、降りることなく、錦州までぶっ通しで走った。
満州国の建国と瓦解は次のような経緯である。一九三一年九月、関東軍は南満州鉄道の奉天郊外にある柳条湖付近の線路を爆破し、これを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用した。そして清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を日本の傀儡として満州国皇帝とし一九三二年三月「満州国」として建国したものである。そして、一九四五年の日本の敗戦によってそれは瓦解したのである。
満州国は、主として関東軍と南満州鉄道会社によって統治・経営されていたとされる。日本政府は、国策として多くの日本人を内地から満州に渡らせて植民し、開拓団を組織させ満人たちを使役することで発展させてきた。新京(現在は長春)は、その首都として日本側が命名したものである。
新京や奉天等の主要な駅で停車しながら、列車は走ったが、途中では人が落ちたという話や亡くなったという事件もあった。この地方は間島より暖かく、駅で停車しているとリンゴを満載した貨車が隣の線路に停車していることがあった。それらの貨車には側板があり、我々の集団より優遇されている。空き腹にリンゴの香りが漂った。
無蓋車の荷物奪わん満人の鳶口避け得ず流浪の民は
我々の乗った長い連結の列車は走行中に時々、線路脇で鳶口を持って待ち構えていた農夫たちの襲撃を受けた。彼らは、我々の乗る側板のない貨車の周囲に結わいつけてある荷物を鳶口で叩き落し獲物を得ようとするのである。列車の前方で騒ぐ声がすると、やがて自分たちの貨車が強奪している農夫たちに近づき、一部の荷物は犠牲になった。
このような様々な事件に巻き込まれながら、列車は錦州に到着した。ここで全員が列車から降りて、近くの天井が爆破されて青空の見える三階建ての大きな建物に入った。旧日本軍の兵舎のようだった。ガラス窓はすべて破れており、コンクリートの欠片が散乱していた。既に持参の食料はないので、僅かに与えられた食材で軍隊用の大鍋を借りて薄い味噌汁を作り麦飯を食べて過ごした。
後で知ったことだが、全満州の居留民は、すべて葫蘆島からの船便で内地に渡ったので、ここに集結している引揚げ者は相当な人数になっていた筈である。幼い子連れの家族や老人たちは疲れ切って壁にもたれたりして引揚げ船への乗船を待っていた。
便所も準備されていたが、吉林の露天便所と同様であり、臭気が充満していた。ここでは、引揚船乗車待ちのため約二〇日程度滞在させられた。我々の大隊からコレラ患者が出たこともあり、防疫上の理由からも足止めされていたように推測される。
7❘7 葫蘆島 -- LST乗船
ある日、間島からの引揚げ者は集合するようにとの知らせがあった。行ってみると、既に大勢の人だかりがあり、その輪に中に上半身裸で土下座している一人の男の姿があった。この男は八路軍の命令だとして、父を含む官舎の男たちを集合させ、そのまま準備もなく僻地の農家に使役として連行することを企てた張本人のKという男であった。敗戦後の外地で心細い家族たちに何の連絡も予告もなく、突然連れ去られた後の家族の狼狽と心配は如何ばかりであっただろう。ソ連軍がその地域に延びる鉄道線路を根こそぎ持ち去ったので、父たちは一〇〇キロの道を徒歩で連行されて行ったという。敗戦後の日本人たちは職を失い、無収入であったので、農家への使役は何らかの報償が得られるとの期待もあったというが、何らの給付もなく、酷使されたようだという。そのためか、逃亡した人も居たようで、父たちも逃亡を企てていたところ、運悪く農家の主に見つかり連れ戻されたと後になって聞かされていた。
同胞を売った男の哀しみは
喧嘩したがる長らの業ぞ
二、三人の男がKに対して同胞を売ったのだと大声で罵倒し、怒りを募らせていた。このまま黙って我々と同じ船で日本へ帰国させるのは許しがたい等と怒鳴っていた。Kは、終始俯いて言葉もなく、ただペコペコと地面に頭をこすりつけて謝るばかりであった。傍に居た人が、母に「思う存分殴っておやり」と囁いた。「母は夫の受けた仕打ちに対して、やっつけたい気持ちはあったものの、脚が小刻みに震え、手は拳骨を握りしめるだけだった。夫の無念を晴らせない自分の意気地なさを夫に詫びた」と自分史に記している。
私の作文によると、コレラ患者は友達の三浦君の属する中隊の患者だったらしく、彼らは残留させられることになったので三浦君に別れを告げた。
引揚げの母国へ向かう船出待つ
葫蘆島の秋敗戦一年余
アメリカのLSTの威容見て
負けし運命を今更知りぬ
引揚げ船に乗船するため、滞在していた場所から約一時間列車に乗って葫蘆島という港に向かった。久しぶりに雨が降っていたが、内地に帰るので、心は踊っていた。我々の乗船する引揚げ船は、アメリカのLST(landing ship tank)という戦車揚陸艦であり、近づいて見上げるとかなり大きな艦船であった。船室は、ベッドがあり、子供は三人で一つ、大人でも二人で一つのベッドの割り当てであり、狭苦しかった。引揚げ船LSTは、記録によれば九月三〇日に葫蘆島を出航した。八月二一日夕刻に間島市を出発して四〇日を経過していた。
食事は朝夕二食のみで、昼は現在でも災害用に用いられる乾パン数十個のみであり、常に空腹を抱えていた。私は甲板の救助ボートや浮き輪のコーナーで友達と内地へ帰ったら食べたい汁粉やぼた餅、カステラ等を羅列して雑談して過ごした。広い海を見るのは初めてなので、飛び魚が船と並行して飛び上がり水にもぐるのが物珍しく見て楽しんだ。
帰国船空腹抱える食べ盛り
想像の汁粉に生唾の湧く
7❘8 佐世保入港
ある朝、「陸が見えるぞ!」という声に目を覚ました。甲板に上がると、陸の影が見えた。やっと、ソ連兵らを恐れたり、食べ物がなくて、ひもじい思いをせずに済むと思い、安堵の気持ちが湧いてきた。
葫蘆島を出航してから五日程度だったと思う。乗船している引揚げ者全員に一人千円の日本円が支給された。大人も子供も同額である。船は佐世保港に停泊した。しかし、すぐには下船できず、検疫が待っていた。
佐世保港検疫停泊DDT祖国の景色緑に安らぐ
上陸する前は、検疫として全員が様々な検査を受けなければならなかった。前部甲板に我々を整列させ、一人ずつ順に噴霧器で大量のDDT(有機塩素系で、神経毒として強い殺虫効果を示すが、残留性が高く、環境汚染や生物濃縮をもたらすので現在は使用禁止)を頭から体中に大量に散布された。次にパンツを降ろして、お尻を突き出してガラス棒を入れられる検便の試練があった。これらの検査が終わっても数日間は、港に停泊したまま船に留め置かれていた。
すぐ近くに佐世保の民家などが見渡せたが、検疫の結果に疑わしい点が見つかったのかも知れない。佐世保に入港して数日後の一〇月一〇日にやっと下船許可が出て、タラップを降りることができた。
港の岸壁付近には、エプロン姿の婦人や係の男性が並んで、日の丸の小旗を振って、我々を歓声をあげて歓迎してくれた。これまでの苦労が一瞬にして氷解するような熱いものがこみ上げてきて、周囲の山々が霞んで見えた。
7❘9 父の郷里へ
佐世保に帰国の第一歩を記した私たち家族は、父の郷里である鳥取県西伯郡渡村を目指すことになった。列車で関門海峡を通り山陰線の米子で下車、境へ通じる境線に乗ったのは、一〇月一二日の夕刻を過ぎて暗くなっていた。父の実家は、当時の堺駅の一つ手前の余子駅から西へ二キロ程度の海に近い場所にある。
ローカル線なので列車の本数が少なく、長い待ち時間を経て、甘子駅に着いたのは、おそらく夜の八時か九時頃だったと思う。駅に人影はなく、汽車から降りたのも我々家族だけである。暗い田舎の一本道を歩き出した。大きな月が道を照らしていた。母は、父の母に夫の死を告げることに強い戸惑いを感じていた。外地で客死したため夫不在のまま帰国したことに一種の罪悪感を抱いたのかも知れない。父は三人兄弟の末っ子で、満州の職業を紹介してあげた兄とその家族、出戻りの姉が居たが、祖母は既に夫を亡くしていた。
父の実家に着いた。二階建ての田舎家で玄関のガラス戸は閉まっているが、白いカーテンの奥には電灯が灯っている。母がコツコツと戸を叩くと、人の気配がして奥から祖母が出てきて戸をあけてくれた。表で佇んでいる私たち家族を一瞥し父のいないことに気がついた様子である。母は手短かに夫の客死を伝えると、それほど取り乱すこともなく我々を家の中に招じ入れてくれた。
祖母の長男(父の兄)は、父の世話で満州での職についていたが、奉天の近くだったためか我々より一足先に帰国していたので、祖母は満州の過酷な状況を既に聞き知っており、ある程度は覚悟していたのかも知れない。
7❘10 父の郷里・渡村の生活
帰国してすぐに渡小学校に編入することとなった。小学四年生は殆ど勉強していないが、一年半遅れて四年生の二学期から編入できることとなった。
先生は、早速、私に引揚げ体験をノートに書くように言われたので、引き揚げた二一年の暮れから翌年の一月にかけて書き記し、先生に提出した。それをクラスで発表させられた。そのノートは、七〇数年後の現在も手元にあり、この小文の参考に供している。
暫くは、叔父(父の兄)の家で厄介になっていたが、食糧難で長い同居は困難となり、引揚げ者用の紡績工場の一郭のベニヤ板で簡単な囲いだけの部屋に引っ越しした。山陰地方の冬は大雪で貧乏な世帯には辛いものがある。登校には、大人の背丈より高い雪のトンネルのような道を通って登校した。藁で編んだ雪靴を履いた。
学校では、敗戦一年半経っても戦争中の教科書を使う科目もあり、先生の指示により殆どが墨塗りして、少し残った部分を勉強したように思う。皆なが貧乏だったが、将来を明るく感じていた。並木道子の歌う「リンゴの唄」が流行っていた。
教科書は軍国日本に墨塗りし民主日本へ先生忙し
「リンゴの唄」貧しきドン底生活に
希望の光ほのかに差せり
♫赤いリンゴに くちびる寄せて
だまって見ている 青い空
リンゴは何にもいわないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
ある時、私がこの歌を学校の廊下で口ずさんでいると、先生に「子供はそんな歌唄うんじゃない」と注意されたことがある。当時の先生は、流行歌全般を不適切とする価値観であった。
私は、幼時から音楽に興味があり、先生の弾くピアノの演奏を聴くのが楽しかった。音楽の女先生は小さく可愛い方で最初の片思いだったと思う。
ピアノ弾くおなご先生の小指見て
ほのかに甘く胸ときめけり
当時の引揚げ者は、いつも食べ物に困り、空腹を抱えていた。ある裁判官がヤミ米を食うことが職業倫理に反するとして食糧管理法に沿った配給食糧のみに頼ったため栄養失調で餓死したとのニュースがあった。
食糧難ヤミ米食らうこと拒み
餓死せし遵法裁判官は
母は、食糧を得るため父の姉と、堺の港で早朝に鮮魚を仕入れ、境線の一番列車で米子に行き、そこから山奥に入り農家を一軒ずつ回って鮮魚と米・野菜等と交換する仕事を始めた。この仕事は、食糧管理法に触れるらしく、時々は取り締まりがあり、リュックに持っている食糧を没収された。ヤミ取引は国民の生命線だったが、政府は法律を優先していた。亡くなった俳優の菅原文太は沖縄の知事選で次のような名演説を残している。
『政府の役割はふたつあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争しないこと』
私も母に連れられて、リュックを背負って同行したことがあり、深い雪を掻き分けて遠い農家を探して歩く労苦を経験した。これを「奥行き」と呼んでいた。
峠越え鮮魚運びて山奥の農家に乞いて米恵まるる
敗戦の衣食住なく辛き世を
三十路の母は子を守り抜く
「奥行き」は、どのくらいの期間行ったか記録がないが、母は、渡村の隣の村に開設された英軍のキャンプに仕事を見つけて働くようになった。
やがて母の実家の祖母(祖父は引揚げ後亡くなっていた)らの家族が郷里の三重縣に引き揚げていることを知って連絡をとり、近くに移転できることとなった。昭和二三年春に四日市の引き揚げ寮に引っ越して来た。私は六年生から日永小学校に転校した。
さて、このあと長らく貧乏暮らしは続いたものの、日本はこの後急速な変化を遂げていく。東京国際裁判で戦勝国の手によって戦犯を裁き、新憲法を制定し、講和条約を結び国際社会に復帰を成し遂げていく。
さらには、高度成長期を迎え世界的に発展する先進国になっていく。しかし、先の戦争の検証は十分になされたとは言えず、その教訓が政策に十二分に反映することができていないと感じざるを得ない。
政権の憲法解釈変更による集団的自衛権の容認や憲法九条の改正提案等は、先の戦争から教訓を得ていないことの何よりの証左であると実感している。
また、日本の敗戦によって同胞が外地から内地に戻ることを「引揚げ」と呼称しているが、「満洲難民」の著者・元毎日新聞記者の井上卓弥氏は、NPO「難民を助ける会」の吹浦氏が「実態は難民であった」と述べていることを紹介している。これは国連の「難民条約」の規定に合致していることによる。
私も、文中に「棄民」「流浪の民」等と表現したが、近年、中東やアフリカ等から欧州各国等に押し掛ける「難民」と我々は同じ境遇に置かれていたことになる。その解説の一部に「今日、難民とは、政治的な迫害のほか、武力紛争や人権侵害などを逃れるために国境を越えて他国に庇護を求めた人々を指すようになっている」とあるが、我々満州居留民は当時、他国ではなく、母国への帰国を求めたのであり、それを一時的とは言え、阻止されていた事実も戦争の反省の材料とするべきであろう。
さて、私の満州からの引揚げ体験は、様々な出版された引揚げ記録に比べると幸運な部分もあったと言わねばならない。藤原てい「流れる星は生きている」は、母とその三人の子供たちの引揚げ記録であるが、「満州国」の「首都」であった新京から陸路、朝鮮北部を通り、朝鮮半島を南下して日本に引き揚げており、長距離を歩きとおした実に悲惨な記録である。
また、なかにし礼の「赤い月」は、自らの体験を小説にしたものだが、満州での苦労の数々が語られている。他にも多く個人の記録があり、それぞれが大変な苦労をしたことが描かれている。私の場合は、引揚げの時期が夏から秋に亘る期間であり、徒歩区間は限られていたことも幸いであったとしなければなるまい。引揚げ時期がずれて極寒の時期ならば、無蓋車では凍死するリスクが大幅に高まったことであろう。