7.魂と誇りをかけて
ストリック・アルジャンの遺品整理が終わり、カルディアとディネロの珍妙な同居生活は落ち着きを取り戻した。
ディネロは彼の娘、唯一の相続人としてストリックのすべてを相続した。とは言っても彼の財産の大部分はすでにディネロの手中にあったので、実質的に相続したものは実家である屋敷と父親の仕事道具(剣や銃といった武器)、それとストリックの《空間の鍵》だけだ。
《空間の鍵》が通じている部屋は魔祓いのための知識で埋め尽くされていた。さまざまな書物や報告書、武具や防具などだ。
しかし、その部屋の中で最も目立つ場所に飾られていたのは家族の写真だった。ストリックとその妻の二人から始まり、娘を抱えた家族三人の姿を写したものになり、父と娘二人だけになったものが数多く飾られていた。
それを発見したディネロは優しい笑みを浮かべて、大事そうにその写真を自分の部屋に持って帰った。
カルディアは遺品整理にはあまりタッチせず、黙々と家事全般をこなしながら家賃を払い続け、整理の終わったディネロは自由を謳歌する。つまり、二人はいつもと同じように過ごしていたのだった。
実はディネロについては水面下で色々と動いていたのだが、どちらかというと鈍いカルディアはそれに気がつくことはなかった。
「おーい、今晩何か食いたい物ってあるか?」
呑気な声をかけながらディネロの自室をノックするカルディア。いつもなら難しい注文がすぐさま飛んでくるのだが、今日は返事がなかった。
「あれ? まだ寝てんのか? もう昼前だぞ?」
カルディアはドアノブに手をかけると気安く押し開ける。鍵はかかっていなかった。
気安く入ってくるな、とディネロにいつも注意されているのだが、カルディアはその辺がいい加減だった。
カルディアの名誉のために言っておくが、彼に人の部屋を覗く趣味はない。彼女の部屋に入るのは、そうしないといけないからだ。出しておいてくれと言った洗濯物が出ていないとか、彼女の部屋を数日間掃除しないと怪しいキノコが生えるような環境になってしまう、という切実な問題があるのだった。「掃除はちゃんとしている」彼女は胸を張っていうのだが、掃除力が達人の域に達しているカルディアの目から見ると、散らかしているようにしか見えないのだ。
さて、無断で部屋に入ったカルディアに文句を言う主はいなかった。眠りこんでいるわけでもなく姿がなかった。
「おかしいな。どっか行ったか?」
カルディアが部屋を見まわす。なぜかいつもより部屋がきれいな気がした。
床を掃いたような跡があるし、ベッドもぎこちなく整えられている。
「……変だ」
首をひねった彼はいつもの習慣として、ごみを集めようとごみ箱に近づいた。
「少ない」
いつもならどこから出てくるのかと思うほど、ごみが多いのだが、今日に限ってはごみ箱はきれいな者だった。不思議に思いながらごみ箱を除くと、グシャグシャに丸められた紙を発見した。ゴミ箱の中に入っていた唯一のゴミだ。
しわを伸ばして広げてみると、どうやら書き損じた手紙のようだった。盗み見るのも悪いかと思ったカルディアだったが、宛名が自分の名前だと気づき、興味をひかれて手紙に目を落とす。
『カルディアへ
出かけます。ペルとサヴァーも一緒に。
夕飯までには帰るので、さっぱりしてて疲れが吹き飛ぶような海鮮の夕飯を用意しておいて。あとスープとサラダ系の一品と甘いデザートも。
勝手に出かけますが、心配はいりません。
とにかく、おいしいご飯を用意しておけばいいから』
そこからぐちゃぐちゃと適当な線が引かれていて唐突に手紙は終わりだった。
いまいち何が言いたいのかよくわからない。出かける旨を知らせるものなのか、夕飯に関する指示なのか。どちらにせよ、書いたものをゴミ箱に捨てている時点で、この内容を知らせる意思がディネロにないことを示している。
「何しに、どこへ行ったんだ? 俺を雑用として連れて行かないとなると、相当プライベートなことかな」
自分は雑用として使われているという意識があったらしいカルディアは手紙をゴミ箱に捨てながら呟いた。
「まぁ、個人的なものに首を突っ込むのは悪いしな。夕飯でも作っておこう」
すでに部屋というかなり個人的な部分に踏みこんでいる男のセリフとしては、首を傾げざるをえないが、カルディアは鼻歌交じりで部屋を出た。
彼は長い間一人暮らしだったし、クオーレやソキウスと親交があった、またはあるとは言え、手紙のやり取りなどはしたことがなかった。
ディネロがめずらしく部屋を片付けたり、おかしな手紙を置いていこうとしたことはカルディアにとってそこまで警戒することではなく、あいつも片付けをしようとするようになったんだなぁ、と感心する思いを抱えるだけだ。
加えて、彼は世間に疎い。クオーレに常識を教えてもらったと語っていたが、それを教えてくれた人物が病弱で引きこもがち……というか、完全に引きこもりだった少年であったことを考えると、常識についていささか心許ない。
そもそも、冒頭で権利書を顔に突きつけられて「これが目に入らぬか!」と言われ「そんなもん目にはいるわけないだろ」と言ったり、車に乗ってくれと言われて屋根に飛び乗るような人物に常識があろうはずがない。カルディアは持っている常識と持ちえない常識の振れ幅が大きいタイプである。
カルディアは見逃した。部屋に転がる違和感を。
ディネロが殊勝な態度で部屋を片付けたり、似合わない手紙を残そうとしたりすることは、普通ではない、異常と判断してもいいような状況である、と。
彼女やペルたちが何に巻き込まれているのか、それともあっさりと帰ってくるのか。
果たして、それは今のカルディアには意識もできないことだった。。
結論から言えば、彼女たちは帰って来なかった。
書き損じた手紙に書いてあった通りの夕食を用意して、いつものように厨房のテーブルに料理を並べて彼女を待っていたのだが、いくら待っても一向にディネロは現れなかった。
「遅っせぇなぁ」
カルディアは頬づえをつきながらぼやく。
ディネロの部屋にまで確かめに行ったのだが、未だに彼女が帰宅した様子はない。いつもの場所に車もなかった。
「もしかすると、家出でもしたか?」
……俺に嫌気が差したかな。そりゃそうだ。不気味な人形と一緒に暮らしていけるって方がどうかしてる。
自らを卑下するように笑って、カルディアは用意した食事を片付けようと腰を浮かした。
「何をしてるんです?」
厨房にソキウスが羽ばたきながら入って来た。
「よう、ソキウス。いや、ディネロとペルが、あ、あとサヴァーもいなくなっちまったからな……片付けようかと」
「おや、あの三人はまだ帰ってきてないのですか?」
「帰ってくる予定だったのか?」
「当然では?」
「なんだ、そうか」
自然と顔が緩むカルディア。
「しかし、コソコソと何かを企んでいたようでしたがね……おそらく《魂喰》に関することだと思いますが」
「ティーター?」
「お嬢さんの父親の敵、だったのでは? それを倒しに行ったのでしょう?」
「ああ。そうだったっけ。倒しにねぇ……にしちゃ遅くないか? いつ出かけたのか知らないけど」
「今朝早くですよ。聞きかじったところでは今日中に片をつけるとかなんとか、言ってたような気がしますが」
カルディアはふむ、と頷きながら腕を組む。
「ふむふむ」
「行きますか?」
「いや、あいつが俺を連れて行かなかったからな。勝手なことをする必要はないだろ」
そういうカルディアだが、何度も腕を組みなおし、足はソワソワと落ち着きがない。
「大丈夫だろ。あいつは困ったら助けてくれって言うさ」
「本当にそう思ってますか?」
「……ま、まあ? あいつは確かに強情だし、一人で突っ走ることがないとはいけないけど。ペルとサヴァーがついてるし……」
「助けに行けばいかがです? 心配なんでしょう?」
あきれたように口を開くソキウス。
「ふーむ。お前がそう言うなら、行こうかな。まあ、様子を見に行くぐらいならあいつも怒らないだろう。それに料理が冷めても困るしな」
「ぐだぐだ言ってないで行きましょう。協力しますから」
「よし、行くぞ。一緒に来てくれ、ソキウス」
「どこまでも」
カルディアは厨房の扉に《移動の鍵》を差しこんだ。
ディネロはカルディアやソキウスにばれないように、作戦を進めていた。
父の敵である《魂喰》を見つけ出して、完全に滅するという作戦だ。
これはあいつらの力を借りるわけにはいかない。パパの敵はあたしが必ずこの手で倒す。
偵察にはサヴァーに協力してもらった。
数日かけて敵の居場所を探ったのだが、目的である《魂喰》は意外と近場で派手に暴れていて、見つけ出すことは比較的簡単だった。
「どうやら――腹立たしいことに――お館さまの魂を喰らったことで力を上げているようです。お館さまの魂の力は途方もないものでしょうから……手当たり次第暴れているとか」
「……あいつらは魂を喰らえば喰らうほど強くなる怪物だからな。……厄介だぞ、ボス」
「かまわない。敵がどれだけ強かろうが、あたしが必ず滅してやるわ。そして喰われた魂たちを解放する。パパの魂も、他も被害者の魂もみんな助け出す。安らかに眠れるように!」
ディネロは強い決意を浮かべた瞳で、ブルドックとフクロウを見つめる。
「……俺はボスについて行く。……ボスが行くならどこへでも」
ペルは相変わらずハードボイルド調で言う。
「私もお嬢さまの仰せのままに。個人的にもあの《魂喰》を生かしてはおけません」
サヴァーは大きな眼に強い意志をたたえながら頷く。
出かけることをカルディアに伝えようか迷ったが、手紙を書いている途中で気が変わった。カルディアに真面目に手紙を書くのはこっ恥ずかしいし、面倒くさい。
「行くわよ。二人とも」
ディネロは手紙をグシャグシャに丸めるとゴミ箱に投げ捨てた。
カルディアに見つからないようにこっそりと車で屋敷を出た。数時間ほど車をぶっ飛ばし、日が暮れるころ《魂喰》が根城にしている古びた城に到着した。
城はあちこち崩れていてとても人が住める状態ではなかった。それだからこそ、怪物が根城にしているのだろうが。
「感知できる?」
俯きがちで集中していた足元の二人に問いかけるディネロ。ペルとサヴァーは魔祓いの相棒として近くにいる《闇》を感じ取ることができる。
「……中にいる。人の気配はない。人質なんかはいないようだ……ただ」
「ただ?」
「数が多いようです、お嬢さま。この反応はおそらく《喰屍鬼》かと」
「ハッ! いっちょ前に手下を従えてるってわけね。関係ないわ。どれだけ数がいようがあたしの敵じゃない」
ディネロは腰に銃をさげ、背中には細見の剣を背負っている。どちらも父の武器だ。
「とにかく人はいないのね?」
「……間違いなく」
「いません」
「そう。じゃ、何の遠慮もいらないわね」
彼女は崩れかかった門までスタスタ歩いて行く。その後ろから銃をかまえたペルが続き、サヴァーは二人の上でホバリングをしながら、足の爪に装備した金属製の鋭い鉤爪を光らせている。
「さて。ブチかますわよ」
ディネロはボロボロの門を見上げ、左手の手袋を投げ捨てた。
彼女は緑色の瞳を閉じて、深く深呼吸する。左手の刺青が発光して炎が立ち昇り、ゆらめく炎に暖められた空気が上昇気流を生み、彼女の髪を巻き上げた。
左足を一歩引いて力を溜める。
「うぉらぁああああああああ!!」
雄叫びと共に、パンチの要領で左手を前に突き出した。
激しい炎の奔流がディネロの左拳から噴き出して、業火の竜巻がボロボロだった門を砕き散らし、そのまま猛スピードで突き進む。
城の奥から炎に飲みこまれた怪物たちの絶叫が響いてきた。
彼女の一撃ですでに城は半壊している。古い城だとはいえ、石で組まれた頑丈な城である。それを一撃。
ディネロ・アルジャン。
《聖火の女》。
全力で放たれた《聖火》の威力は絶大だった。
崩れかけた城から次々に《喰屍鬼》が現れたが、彼女の前に十秒と立っていられるモノは皆無だった。ディネロの視界に入った《喰屍鬼》は一瞬で灰も残さず消されてしまう。彼女が僅かに取りこぼした《喰屍鬼》はペルの正確な銃撃で頭を撃ち抜かれ、上空から勢いよく降下してくるサヴァーの鉤爪に切り裂かれた。
三人は容赦なく敵を滅していった。燃やし、撃ち、切り裂く。彼女たちから逃れられる喰屍鬼はいなかった。
ものの数分で城に巣くっていた《喰屍鬼》は全滅した。どれだけ待っても新しく《喰屍鬼》が出現することがない。
「ふん」
「……気を抜くなよ、ボス。……ここからが本番だぞ」
「わかってるわよ」
「近くにいます!」
サヴァーの叫びに呼応するかのように、暗い声が聞こえてきた。
「無粋な客がいるようだな」
城の暗がりから現れたのはボロボロのマントをまといフードで顔を隠した大柄な怪物だった。擦り切れたマントからのぞく手足は異様に長く、汚らしい灰色がかった緑色。伸びきった爪がパキパキとうごめく。
「ああ、やっと出てきたの。待ちくたびれちゃったから、あんたの部下と遊んでたわよ? みんなどっかに行っちゃったけど」
「我が城に何の用だ。《魔祓い》」
地獄の底から響いてくるような声にも、ディネロは臆さない。
「こんなボロい城に興味無ないわよ。あたしの興味はあんたを滅することだけ、よっ!」
先手必勝、彼女は何も前置きもなく全力の《聖火》を《魂喰》に向けて放った。
何の反応も見せなかった《魂喰》だったが、直撃コースだった炎の竜巻は《魂喰》にぶつかる寸前で急激に逸れた。
「なに⁉」
予想外の事態に慌てたディネロが次々と火炎を放つが、ことごとく逸れてしまう。
「どうなって……」
「はははははは! 我が力にひれ伏せ!」
《魂喰》の腕がこちらに向けられた瞬間、体に風圧を感じてディネロは後ろにぶっ飛んでた。二度ほどバウンドして彼女の体は止まった。
「うぐ……これは……パパの……『風』」
ふらふらと立ち上がりながらディネロは驚愕する。
今更だが、ストリック・アルジャンは風使いだった。
彼の称号は当代最強の《魔祓い》、風神。
娘であるディネロの《聖火》のように《原始の力》というわけではなく、ただの魔術だったのだが、風を操ることに関して彼は天賦の才を持ち、強力な風を起こすことができた。
「パパの魂を取りこんで力を使ってるのね……何が我が力よ! ふざけるな!」
怒りの叫びと共に炎をぶつける彼女だったが、風の壁に阻まれ《魂喰》に傷をつけることができない。
「貴様、あの魔祓いの関係者か? その背負っている得物に見覚えがあるぞ。それに『パパ』と言ったな? あれの子供か。ふむ、あの魔祓いの魂は極上だった……我が力も倍増したわ。つくづくすべてを喰えなかったことが惜しい。奴は死んだのだろう?」
「黙りなさい!」
ディネロは背負った剣を抜き放って、猛然と《魂喰》に突進する。大上段に振りかぶって渾身の力で斬りつけるが、その一撃はあっさりと受け止められた。
「このっ!」
刀身を掴まれながらも怯むことなく、ディネロは《魂喰》の眼前に左手を突き出して至近距離からフルパワーの《聖火》を放った。
凄まじい熱風が吹きつけ《魂喰》が炎の渦にのまれる。炎は勢いを落とすことなく突き進んで、崩れかけた城をさらに砕いた。
「無駄だ」
平然とした耳障りな声が炎の合い間から聞こえる。
ヒュンヒュンという風の膜に包まれた《魂喰》が、火炎の中から現れた。少しだけマントが焦げているが本体は無傷のようだった。
《魂喰》は彼女の方へ一歩足を進め、暗いフードの奥からディネロを見下ろす。
「フッ!」
反射的に剣を横なぎに振るったが、すぐさまがっちりと剣を掴まれた。押しても引いてもピクリとも動かない。
《魂喰》は無造作に片手を彼女の頭上にかざした。
ふっと風を感じたかと思うと、次の瞬間には激しい風圧に押され地面に押し付けられていた。
「ぐっ……!」
「ボス!」
ペルが銃を撃ちながらディネロに駆け寄る。
《魂喰》はすばやく動いて、近づいてくるペルを容赦なく蹴り飛ばした。腕で庇うペルだったが体格差が大きすぎて堪えきれなかった。吹っ飛ばされた彼に風による追撃が重なり、ペルの小さな体が宙を舞った。
「ペル!」
立ち上がろうとしたディネロも蹴り飛ばされ、城の壁の残骸にぶつかった。
「他愛ない」
地面に転がるディネロとペルを見下して《魂喰》は呟く。
その上から鉤爪をぎらつかせたサヴァーが急降下で襲いかかった。
下を向いたままだった《魂喰》の腕が蛇のようにしなり、サヴァーの首を掴んだ。
「気がついていないとでも思ったか?」
サヴァーの首を絞め上げながら《魂喰》は嘲笑う。
「お前、あの魔祓いの隣にいたフクロウだな。主人の敵討ちでもしに来たのか?」
「お館さまから奪った力で強くなったつもりか、この腐った化け物め」
サヴァーは苦しげに顔をゆがめながらも、憎々しげに吐き捨てる。
「…………」
《魂喰》は黙ったまま腕を振るって、フクロウを地面に叩きつけた。凄まじい音がして、土埃が舞い上がり地面が陥没する。
「犬と鳥に何ができる」
ペルとサヴァーを踏みつけ、《魂喰》は口を開く。
十分に二人を痛めつけると、《魂喰》は倒れて動かないディネロの方へと足を向けた。ぐったりとした彼女の首を掴んで自分の顔の高さにまで持ち上げる。
「次はお前の魂をいただこう」
「……ふざけるな」
「風の力と炎の力を手に入れれば、もっと強くなれる。人の魂など喰い放題だ。それで更に力は増す。私を止められる者はいなくなる」
「あたしの魂は、あんたにとって清すぎるわ。《聖火》をまとった魂よ。お腹を下すといい」
苦し紛れに彼女は言った。それを聞いても《魂喰》はせせら笑うだけだった。
「くく……聖なる炎がどうした? 傷一つ負わせられないくせに、聞いてあきれる。私の力はすでにお前の力を超えている」
《魂喰》はフードを外した。
手足と同じく灰色がかった緑の顔が現れる。糸のように細い眼と、切れ込みでしかない鼻。裂けたように横に広がる口の間からびっしりと生えた牙がのぞく。
《魂喰》の口が大きく開いた。大人の頭を丸ごと飲み込んでもまだ、有り余るほど大きな口。体色とは正反対の鮮やかな赤い口内がディネロに迫った。
壁にぶつけられた衝撃で朦朧とする頭で思った。
悔しい。
胸が悪くなるような悪臭の中で思った。
悔しい。
唇をきつく噛んでも、目をぎゅっと閉じても、涙が頬を伝った。
冷静に対処するつもりだった。しかし、《魂喰》が父の力を使い始めたのを見て、冷静さを失った。魂だけではなく、その力まで奪われているとは予想だにしていなかった。
どれだけ、パパを愚弄すれば気が済む。どれだけの人をパパの力で傷つけた? パパが人々を護るために使ってきた力で、一体何人の命を奪った?
それに思い至ると冷静ではいられなかった。怒りに我を忘れて、動揺のあまり無茶で単発的な攻撃ばかりを仕掛けてしまった。結果、見事に返り討ちにあってこの様だ。
悔しかった。
父の魂を解き放つために戦おうとした。
奪われたすべての――父を含めてその他の被害者たちすべての魂を取り返したかった。
安らかに眠ってもらうにはそれしか方法がない。喰われた魂がどうなるかなんて知らないが、いい状態になるはずがない。
なにより、彼女自身が悔しかった。
父を殺した《魂喰》が許せない。
もしかすると、パパはあたしがこんな無茶をすることを望んでいないかもしれない。
敵討ちなんてする必要はないのかもしれない。
それでも、見過ごすことはできなかった。このまま泣き寝入りするのはプライドが許さなかった。
くだらない意地。
それならそれでいい。譲れない意地を、曲げられない信念を、果たしたい思いを。
押し殺したまま生きて行くなんて、そんな人生まっぴらだ。
譲れないのならば。
曲げられず、果たしたい思いがあるのならば。
そして、悔しいのならば。
戦え。
最後の一瞬まであきらめずに戦う、この思いを遂げるにはそれしか方法がない。
ディネロは緑色の瞳を燃やしながら敵を見据えて拳を握った。
「あたしはあきらめない! どうなろうが! 最後の最後まで見苦しく、あがく!」
眼前の《魂喰》めがけて、アグニスを放出する。すぐさま風の防壁を張られたが、かまわずに炎をぶつけた。
「ぐっ! 貴様……!」
呻いた《魂喰》の腕が目にも止まらない速さで二度動く。
「ゴホッ!」
《魂喰》の岩のような拳がディネロの腹と頬を打ち抜いた。息が詰まり、意識が飛びそうになる。彼女を支えていた意識の力が弱まり、《聖火》が力を失ってしまう。
「手間取らせてくれるわ」
くそ! 畜生! 動け体!
かろうじて残る意識の尻尾をつかみながら、彼女は思った。
こんなところで!
《魂喰》は再度、大口を開けてディネロの頭を飲みこもうとした。朦朧とした状態でも、微かに左手から炎が揺らめくが、攻撃には足りなさ過ぎた。
くやしい。
彼女は目をつぶる。
ふっと空気が動き、悪臭が消えた。
首から息苦しさがなくなり、ディネロは誰かに優しく抱きとめられるのを感じた。目を開けると、紺色の服と燃えるような赤毛が映った。
「カルディア……?」
「よう、夕飯に遅れそうだったから迎えに来たぜ」
ディネロがカルディアの顔を見あげると、彼はにっこりと笑った。
「《魂喰》は?」
「? あんたの首をつかんでた奴のことか? それなら蹴り飛ばしてやった。お、起き上がって来たぞ」
カルディアは緊張感のない声でのんびりと言う。
「あんたはちょっと休んでろ。俺が代わりにブチのめしてやるから」
「ダメよ、あたしがやる……降ろして」
「休むって約束するなら降ろしてやるよ。ちょっと休憩するだけだ。あんたが回復するまで俺に任せろって言ってんの。一応、あんたの親父さんからも言われてるからさ、娘をよろしく的なこと。俺のこと信用してくれ」
カルディアはそんな事を云いながら、そっと彼女を地面に降ろした。
「俺はあんたのこと、友達だって思ってるから。あんたの背負ったモンを、一瞬でいい、俺に預けろ」
そのまま、《魂喰》の方へ歩き出す。
「ソキウス」
小さくそう言ってカルディアは右手を伸ばす。ソキウスは銃に変身すると彼の手に収まった。彼は《魂喰》と話せる距離まで近づいて行く。
「新手か」
「お前が《魂喰》?」
カルディアは目の前の怪物に問いかける。
「……貴様、人ではないな。魂が普通ではない。……《虚ろな人形》か? 前時代の遺物がどうやって魂などを手に入れた? 人形にはもったいない。私が喰らってや」
カルディアの体が霞み、《魂喰》はセリフの途中でまたも吹き飛んだ。
蹴りあげた足を降ろして、カルディアは言った。
「どうでもいい事をぐだぐだぬかすな。てめぇ、俺の家主さまに何をした?」
その顔に浮かんでいるのは、紛れもない怒り。
「俺の友達を傷つけたんだ……生きて帰れると思うなよ」
残像が尾を引くようなスピードでカルディアは《魂喰》に向かって疾走する。
起き上がろうと手をついた《魂喰》の頭に踵を振り下ろし、地面にめりこませた。うつ伏せに倒れた《魂喰》の腹に足を入れて体を浮かせ、浮いた体に左のストレートを叩きこむ。
《魂喰》はなすすべなく、きりもみ回転しながら残った城壁をブチ抜いた。
ドン!
空気が震え、その衝撃が地面を伝ってディネロの体を揺らす。
「す、すごい……」
人間より身体機能が優れているとは聞いていた。
でも、まさかここまでとは。完全に《魂喰》を圧倒してる。
ガラガラと音をたてながら《魂喰》が起き上がった。見たところ大きなダメージはない。
「へぇー、頑丈だな」
「《虚ろな人形》なら当然のレベルだな。大したものだ。それでも今の私の足元にも及ばんが」
「お? 同類と戦ったことあるのか? そんな口ぶりだぞ」
「ああ、壊してやった。《虚ろな人形》の壊し方ならよく知っている。お前のスペックがいくら高かろうが、魂を持っていようが、致命的な弱点はどうしようもない」
「へぇーえ。やってみろよ」
カルディアは不敵に笑った。
大地がへこむほど強い力で、地面を蹴って彼は前に飛び出した。それに対応する《魂喰》のスピードも負けていない。
両者は激しくぶつかり合った。手足がひらめき、拳と爪が交錯する。一瞬の間に数えきれない程の攻防が行われた。《魂喰》が振るった爪を、後ろに跳んで避けたカルディアがソキウス銃をかまえて引き鉄を引く。
青白いエネルギー波のような弾が数発、《魂喰》を襲った。
《魂喰》は軽く頭を振って、危なげなく避ける。返す手で放たれた風の刃を今度はカルディアが避けた。
避けきれなかったカルディアの髪が数本、ハラハラと舞散った。数メートルの距離を置いて二人はにらみ合う。
「……そこそこできるらしいな」
「これが私の本気だとでも?」
「ハッタリもたいがいにしとけよ。後で後悔するぞ」
(気をつけなさい、カル。相手は余力を隠していますよ)
銃になっているソキウスが注意を促した。
「おう――」
カルディアが返事をした瞬間、《魂喰》の姿が消えた。
「! 消え――」
相手は消えてなどいなかった。ただ、今までとは比べ物にならないスピードにカルディアの眼が追いつかなかっただけだ。『風』を身にまとったブーストによる圧倒的な移動だ。
《魂喰》の拳がカルディアの顔にめりこんだ。身にまとう風が威力を大幅に強化する。
「ッ!」
今度はカルディアが吹き飛ぶ番だった。ロケットのようなスピードで城にぶち当たり、破片を散らしながらやっとのことで止まった。
「しまった。私の城が……」
戦闘の余波を受けて、元々ボロボロだった城は見るも無残な姿になっている。かろうじて残っていた尖塔がカルディアがぶつかった衝撃で折れ、がれきの下から這い出そうとしていたカルディアの上に落下した。
腹に響く轟音をたてながら塔は崩れ去った。
「カルディア!」
ディネロの叫びがあたりを切り裂く。彼女の声に応えるようにがれきの間から一本の腕が伸びる。
しかし、腕はそこから動かず、手首が力なくおれた。
「くくく……」
《魂喰》は余裕の笑みを浮かべながら、がれきの山を登り突き出た腕に近づく。手首をむんずと掴み、勢いよく引っぱり上げる。
ズタボロになったカルディアの姿が現れた。粉塵のせいで髪は白くなり、紺色の服はビリビリに破れ、うっすらと輝くハートがむき出しになっている。
なによりひどいのが、彼の体に細かく走る無数のヒビだ。特に深い亀裂が走っているのはパンチを食らった左目周辺とハートの周り。
その亀裂は、いくらカルディアが人に近いとは言っても、彼が人外の者である決定的な証拠のようだった。
カルディアの首が力なく垂れ下がり、体には力が入っていないように見える。持ち上げられてもされるがままだ。
「まずはこちらの魂からいただこう。美しい魂が見える……人形にはもったいない」
「お前にはやれないな」
突然、カルディアがクイッと顔を上げて銃を連射した。青白い閃光と銃声が響き、ほぼ全弾が《魂喰》の体に命中した。
「グウッ!」
こもった悲鳴を上げながらも、《魂喰》はカルディアを地面に叩きつける。
「ウウッ!」
叩きつけられたカルディアの体から微細な破片が飛び散った。間を置くことなく竜巻が彼の体に突き刺さる。
《魂喰》は歯ぎしりしながら再びカルディアの体を持ち上げ、彼の胸を突いた。
衝撃で派手に吹き飛ぶカルディア。くるくると木の葉のように回転して、ドサッという音と共にディネロの隣に落下する。
「カルディア!」
名前を呼びながら駆けよる。カルディアはぴくりとも動かなかった。
「しっかりしなさい! カル――」
ディネロは途中で言葉を失う。
カルディアの瞳はガラス玉のように虚ろで、顔には何の表情も浮かんでいなかった。それもそのはず、『ハート』が輝いているはずの彼の胸には、暗い穴がぽっかり空いているのだから。『ハート』の形に空いた暗い穴が。
「どういうこと? ハ、ハートは⁉」
「ここだ、魔祓い」
ガラガラ声の方を向けば、爪に突き刺した『ハート』を見せびらかすように振っている《魂喰》が目に入った。流石に銃撃がこたえているらしく膝をついていたが、致命傷には遠い。
「くそっ、鬱陶しい人形め……だが、これが《虚ろな人形》の致命的な弱点だ。強制的に『ハート』を抜かれれば、もう何もできない。本物の人形になる。もろいものだ……それのことはもうあきらめろ。すぐに土に還る。いや、還してやる」
それを返しなさい、ディネロがそう言う前に《魂喰》はハートをにぎり潰した。パキィンと音をたてながら粉々になっていく『ハート』。ディネロにそれを止めるすべはなかった。
「よくも!」
ディネロは疲労で震える足で立ち上がって、《聖火》の火炎をぶつける。何度やっても結果は同じだった。彼女の炎はすべて風に阻まれる。
「無駄だ。貴様の炎は私には通じない」
視界を炎に包まれながらも《魂喰》は余裕を失わない。
「視界をさえぎる作戦か? 万策尽きたらしいな」
炎を風で払おうとするが、払っても払ってもしつこく炎は《魂喰》の眼前に立ちふさがる。
「なにがしたいんだ? まぎれて奇襲するつもりか? 魔祓い! すでに貴様の使える手駒はないんだ! あきらめろ! 大人しく魂をよこせ! 悪いようにせんぞ!」
降伏勧告をする《魂喰》の背後の炎が割れ、剣をかまえたディネロが飛びこんできた。
「あんたにやる魂はない!」
ディネロは全力で炎をまとった突きを放つ。しかし、背後を確認することなく伸びた《魂喰》の腕が剣をはたき落とし、彼女を首をがっちりつかんだ。
「ぐっ!」
「無駄だと言っただろう、魔祓い。貴様の動きなど読むことなど造作もない」
《魂喰》はディネロに顔を近づける。腐ったような悪臭が彼女を鼻を刺激した。
「貴様はよくやった。もういい。私にすべてをゆだねよ」
「――――よ」
「なんだと? 言い残す言葉でもあるのか? 誰にも伝えてやれんが、聞くだけなら聞いてやってもいいぞ」
勝ち誇った声音で言う《魂喰》。
「あたしはあきらめない、と言ったはずよ」
「ほう……」
ディネロは《魂喰》をにらみつけながら言った。
「あたしたちの勝ち」
「は。何を言うかと思えば――」
《魂喰》があざけるように口を開いた瞬間、辺りが青い閃光に包まれ、《魂喰》の体を真っ青なエネルギーが撃ち抜いた。ディネロの首から手を放し、がっくりと膝をつく《魂喰》。
怪物は驚愕に震えながら叫ぶ。
「これは! なぜ、貴様が……なぜ動いている!《虚ろな人形》!」
《魂喰》の背後に立っていたのはカルディア。銃口から煙をたなびかせ、《魂喰》を見下ろしていた。胸にはうっすらと輝く『ハート』がしっかりとはめられていた。
「あんたの思いを受け取った。もう大丈夫だ」
カルディアがディネロを見つめる。
「大丈夫じゃないと困るわ。なにしろ、あたしの『心』をあげたんだから」
ディネロは炎で《魂喰》の視界をふさぎながら、カルディアの左腕の『アニマ』に手を伸ばした。こいつを助けるのはこれしかない。それにカルディアが復活すれば切り札になる。
あたしにできるかはわからないけど……迷ってる暇はない。
「アニマ、起動」
ディネロは起動した『アニマ』を手に取り、自分の胸に向けて引き金を引いた。青白い光に包まれ彼女の視界はホワイトアウトした。
ハッと気付くとディネロの手には『ハート』が握られていた。どれくらい時間が経ったかと思ったが、実際は一瞬の出来事であったらしい。
「大人しく魂をよこせ! 悪いようにはせんぞ!」
《魂喰》の叫びが聞こえる。時間がない。ディネロは手に持った『ハート』をカルディアの胸の穴に押しこんだ。
「あたしがあいつの気をそらす! 頼んだわよ!」
目を開けてもいないカルディアにそう言って、ディネロは《魂喰》の背後に回り込んだ。
「き、貴様! 何をした……」
《魂喰》は地面に手足をついて呻く。細い目は見開かれ、額には脂汗がにじみ、息は上がっている。
「『思い』を撃ちこんだ。彼女の『ハート』から抽出した悲しみだ」
《魂喰》は悲鳴を上げながら地面をのたうち回る。それを見下ろしながらカルディアは言った。
「『心』を持たなければ『感情』を感じることはない。それは……ある意味強さだろう。だが、『心』がなければ『感情の痛み』に耐えることはできない。まともな『心』を持たないお前が、ディネロの悲しみに、辛さに、悔しさに……耐えられるか?」
「ああ! ああアアアアアアアアアアアアアアアア!」
カルディアは絶叫する《魂喰》に顔を近づけて言った。
「彼女の『痛み』を……思い知れ」
後ろに下がったカルディアに代わってディネロが前に出た。彼女は父親の形見の銃をかまえ、うずくまる《魂喰》にピタリと狙いを定めた。
「調子に乗りすぎたわね。喰らった魂を解放してもらうわ。パパの魂も返してもらう」
ディネロの刺青が輝きだすのに呼応して、銃身が赤く輝きだした。《聖火》のエネルギーが銃にこめられていく。
「この世に一片の怨念すら残さず消えなさい」
引き金を引く。
まばゆい炎が真っ直ぐに走り《魂喰》を飲みこんだ。
炎が消えたとき、そこには何も残っていなかった。
「……終わったのか?」
「終わったわ」
ディネロは静かに瞑目した。見えもしないし、感じることもないが、犠牲者たちの魂が安息の地に昇っていくことを祈りながら。
彼女はしばらくしてから目を開けてカルディアの方を向く。
「ありがとう。助けに来てくれて助かったわ。……嬉しかった」
「いや、心配だったからな。迷惑かと思ったんだけど、そう言ってくれるなら来てよかった」
傷だらけでボロボロな二人は見つめ合う。二人の顔が近づ……かなかった。
ディネロとカルディアの間には、何も起きなかった。どうやら二人はロマンチックな間柄にはなれないらしい。
「……お腹すいた」
ロマンの欠片もないセリフを吐くディネロ。それに対するカルディアの返しもロマンチックからはほど遠い。
「夕飯できてるぞ。めしが冷える前に帰るか……いや、冷えてるだろうから温めなおしだな」
二人は並んで車の方へ歩きだした。途中で倒れているペルとサヴァーを回収する。
「二人とも大丈夫?」
「肋骨にヒビ、捻挫、打ち身、切り傷。……大丈夫だ全く問題ないぞ、ボス」
「捻挫、打ち身、擦過傷、それから羽の付け根を痛めました。しばらく飛べそうにありませんが、大丈夫です」
「あたしも似たようなもんよ。みんな揃って満身創痍ってわけね」
服はビリビリに破れ、体中傷だらけだ。
ディネロはみんなの姿を見まわした後、ボロボロになった自分の姿を見下ろして苦しそうに笑った。
「ははは……いたたっ! 意識すると急に痛くなる……」
みんなして体を引きずりながら車のもとへとたどり着く。
「あ、《移動の鍵》使えない! 来る時は車のドア通って来たんだけど、どこにも扉がない! 車のドア使ったら車本体を持って帰れねぇし……どうしよ?」
頭を抱えるカルディアの背を叩いて、ディネロが言う。
「仕方ないわ。あたしが運転して帰るしかないじゃない。帰るのに時間はかかっちゃうけどね」
パタパタという羽音をたてながらソキウスが車の屋根に降り立った。
「オッホン! 吾輩が車ごと、みなさんを持ち上げましょう」
「持ち上げる?」
ディネロは首を傾げる。
「信じられないようですね、お嬢さん。しかし、吾輩、腐っても《古きもの》ですから。ご心配なく」
そう言ったソキウスが屋根の上で丸くなる。一瞬後に車の屋根から巨大なコウモリの翼が生えた。
「いかがです?」
「わぁお! かっこいい! 最高じゃない!」
はしゃいだ声を聞いた翼が満足げに動いた。
ペルとサヴァーを後部座席に寝かせ、ねぎらうように優しく肩を叩いてからディネロは運転席のドアを開ける。くるりと後ろを振り向いてカルディアに笑顔を向けた。
「さ、乗って。出発するわよ」
カルディアもニヤリと笑う。それから、彼はすました態度で助手席のドアを開けて、上品な仕草で車に乗りこんだ。
「ふふん。成長したわね」
ディネロはするりと運転席に乗りこむ。
「学ばない俺じゃないぜ」
「みなさん、出発しますよ」
ソキウスの掛け声がかかった瞬間、車はふわりと浮きあがった。
星がまたたく夜空の中を、黒い車が漆黒の翼でなめらかに飛んでいく。
「気持ちいぃ~!」
窓を全開にして夜風を浴びるディネロ。月明かりに照らされた亜麻色の髪がはためき、妖艶に輝く。彼女はボロボロになった服装と相まって妖しい魅力を放っていた。
「一仕事終えた後ってのは、いいもんだよな」
ディネロの姿には、何の興味も覚えないらしいカルディアがのんびりと言った。
「しかし、疲れたわ」
「おいしい夕飯が待ってるぜ」
彼らはみんな疲労困憊でズタボロだったが、表情は明るかった。車内の空気も明るく、ついに誰からともなく笑い出してしまった。
夜空に笑い声を響かせながら車は飛ぶ。その姿を地上から見た者がいれば、おそらく怪物が高笑いしながら飛んでいる姿に見えただろう。
だが、幸か不幸か目撃者はいなかった。
四人を乗せ、ソキウスが運ぶ車は大きな三日月をバックに、滑るように、軽やかに、そして優雅で楽しげな飛行を続けた。






