5.父娘
それから数週間が過ぎた。
ディネロの引っ越し道具が届いたことを除けば、彼女たちの生活に大きな変化ない。(引越し屋はビビって屋敷に近づかなかった。屋敷の手前に荷物を放り出して、逃げるように帰って行った。置きっぱなしになった引っ越し道具を屋敷に運んだのは、もちろん、カルディアとペルだ。ディネロは屋敷の窓から二人の事を応援していた)
ディネロが朝起きれば、絶品の朝ごはんが用意されており、彼女はそれをモリモリ食べる。朝食が終わると、カルディアから今日の分の家賃の支払いを受けて(宝石の日もあれば、金の延べ棒、派手に装飾された短剣や王冠の時もあった)屋敷の中や周辺をぶらつき、洗濯物を干すカルディアにちょっかいをかける(当初、頑なにカルディアが彼女の洗濯物を干すことに反対の意を示したディネロだったが、気がつけば上着も下着も全部ひっくるめてカルディアに洗濯を任せるようになった)
昼はおいしい昼食を平らげて、お昼寝したり、本を読んだり、ほうきやモップを手に延々と掃除を繰り返すカルディアを眺めたりしながら、悠々自適に過ごす。
三時には舌がとろけるようなおやつを食べて、それから体型を維持するために運動して、サウナで汗をかき、ため息が出るような夕飯をごちそうになり、長風呂でゆったりまったりリラックスする。
それから、ペルやカルディア――時々ソキウスを交えて――談笑したり、トランプで遊んだりして、小腹がすいたら夜食を摘まんで、気が向けば星空を眺めたりした。
夜はぐっすりと眠って――ときどき寝言で怒鳴ったり、いびきがうるさすぎて、ペルの安眠を妨害したが――ディネロはすっきりとした気分で目覚め、さわやかな朝、新しい一日を迎える。
完全に家政夫となり果てたカルディアだったが、現状を嘆くことなく、むしろ楽しそうに、毎日毎日、みんなの分の食事を作り、洗濯して、屋敷中を掃除し、家賃を欠かさず払った。
ディネロについては、彼女が密かに恐れていたように、父親が探しに来るということもなく(実を言えば、彼女は少しそれを期待していたのだが、絶対にそれは認めないだろう)、いたって平穏無事、衣食住に限って言えばとんでもなく恵まれた状態で、一日一日を楽しく過ごしていた。
ある日のこと、ディネロが中庭でうっつらうっつらしているとペルが慌てた様子で走り寄って来た。
「ボス! 大変だ! ボス!」
「んなによー……」
「寝ボケてる場合じゃない!」
彼女は目をこすりながら、デッキチェアから身を起して慌てふためく相棒を見下ろした。
「何があったの? カルディアが何かしたの? ほっときなさいよ、あいつが人畜無害なのはもうはっきりしてるじゃない」
「そんな呑気な事を言ってる場合ではないのですよ! お嬢さま!」
また寝ようとする彼女の前に、羽音もなく大型のフクロウが舞い降りた。色褪せたジーンズにクリーム色のパーカーを着こんでいる。
「サヴァー⁉ あ、あんた、なんでこんなところに⁉」
彼女が驚くのも無理はない。なぜなら、サヴァーは彼女の父親、すなわち《魔祓い》ストリック・アルジャンの相棒だったからだ。彼女は家出する際、誰にも気付かれないように――特に父親の関係者には――間違っても行き先がばれない様に細心の注意を払って行動したのだ。ばれていないという自信がある。なのになぜ、父の腹心たるフクロウがここにいる?
サヴァーと呼ばれたフクロウは早口でまくしたてる。
「お嬢さま、家にお戻りください!」
「い・や・よ!」
「駄々をこねないでください! 緊急事態なのです!」
「大体、なんであんたがこの場所知ってんの?」
「ペルフェクトゥスに聞いていたから……ってそんなことはどうでもよろしい!」
「ペル⁉ あんた、サヴァーとつながってたのね! この裏切り者!」
ディネロはブルドックの胸倉を掴んで持ち上げる。振り回されるペルは咳き込みながら言った。
「すまなかった、ボス、でも今はサヴァーの話を聞いてくれ! あとで罰は受ける!」
「はいはい、わかったわよ。ペル、あとで憶えときなさいよ。で、サヴァー、話ってなに?」
うながされたサヴァーは落ち着きなく辺りを見まわしてから言った。
「いいですか、お嬢さま、落ち着いて聞いてください。お館さまが……お父上が、死にかけておいでです」
「はい?」
ディネロの動きがぴたりと止まった。
「い、今……なんて?」
「ですから、お館さまが死にかけておられるのですっ!」
「どうしてそんな事になってるのよ⁉」
ディネロはペルを放り出して、フクロウに掴みかかる。
「し、仕事で、怪我をなされて……魂を喰われてしまったのです」
「し、死んだの?」
「まだ……もっておられます。今すぐにお帰りください。今なら、まだ間に合う可能性が……」
そこまで聞くとディネロは猛然と走りだした。玄関に飛びこんで全速力で階段を駆け上がり、自室にある車の鍵をひったくるようにして掴むと、階段を二段飛ばしで駆け降りる。
「おい、どうしたんだ?」
「どいて!」
洗濯物を抱えたカルディアを突き飛ばしながらディネロは疾走する。彼女のただならぬ様子にカルディアは洗濯物を放り出して、彼女に並走する。
「血相変えてどうしたんだよ? 鍵持って、どっか行くのか?」
「黙ってて!」
「ボス!」
こちらに向かって駆けてくるペルすら無視して彼女は車を目指す。
「ペル! あんたのボスはどうしちまったんだ?」
「ボスの親父さんが死にかけてるんだ!」
「おいおい、それって……」
「だから、慌ててるんだ」
それを聞いたカルディアはぐっとスピードを上げて、ディネロに追いつくとその肩に手をかけた。
「待て!」
「放して! 急いでるの!」
肩をつかむカルディアをきつい形相でにらみつける。
「話を聞けって! 急いでるんなら俺の鍵を使え!」
カルディアは腰から鍵束を取り上げてディネロの眼前に突きつける。一瞬だけポカンとした顔を見せた彼女だったが、すぐさま鍵束の中から《移動の鍵》を掴み取ると玄関の鍵穴に差しこみ、引きちぎるように玄関扉を開け放つと、白い光を放つ空間に飛びこんだ。
「ボス!」
「ペルフェクトゥス! お嬢さまは?」
「行った。俺も行く。サヴァー、お前も」
「言われるまでもありません」
「ペル、俺も行ってもいいか?」
カルディアがペルを掴んだ。
「心配だ。あんなに取り乱したあいつを見たことないから」
「……来てくれ、ボスは《移動の鍵》をこっちに忘れて行ってる。カルディアが必要だ」
「おう」
ブルドックとフクロウは光の中に続けざまに飛びこんだ。カルディアも鍵を引き抜いて二人の後に続いた。
「パパ!」
《移動の鍵》は無意識的にディネロが望んだとおり、実家の屋敷、父親の寝室につながった。
「パパ! どこ?」
寝室の中を見回したが父親の姿はなかった。
「ボス!」
「お嬢さま!」
「サヴァー! パパはどこ⁉」
「こちらです!」
フクロウはふわっと浮き上がると、部屋の外へと飛び出して廊下を先導する。
「お館さまは部屋に戻られる力がありませんでした。応接室のソファに居られます。私にお館さまを運ぶ力はなく……申し訳ありません」
「そんなこといいわよ!」
バタバタと廊下を走るディネロとペル。その後ろにカルディアが影のようにひっそりと付き従う。
ディネロは蹴り破るように応接室の重厚な扉を開け放った。
「パパ!」
大きなソファの上に灰色の髪をした体格のいい壮年の男が寝転んでいた。男は騒々しい音をたてて部屋の中に飛びこんできたディネロにも身じろぎ一つしない。
死人のような顔色で、目は固く閉じられている。微かに上下に動く胸だけが彼の命をあらわしていた。
「パ、パパ……」
ディネロはよろよろとソファに近づいていく。父親のかたわらにひざまずいて、力なく垂れ下がる父親を手を取った。灰色になった彼の手はカサカサに乾ききっていて、とても生きている人間の肌色ではない。
「お、お館さま……」
「パパ? パパ! パパってば! 起きて! お願い! 目を開けて!」
ディネロの懇願が響くが彼女の父親は一切反応しなかった。
「パパ……」
彼女の緑色の瞳に涙が盛り上がり、とめどなくこぼれ落ちる。
ディネロが揺すったりさすったり、抱きついて泣き叫んだが、彼の目が開くこともなかったし、口を開くこともなかった。
「お館さまは、とある依頼を受けて《魂喰》を祓いに行かれました。首尾よく相手を見つけ、追いつめたのですが……ご病気が……」
「病気⁉ 病気ってなんのこと⁉」
「お嬢さまには内緒にしておけと……お館さまに厳命されていたのですが……実はお館さまは半年ほど前から病に……」
「な、なによ、それ! パパ、病気だったの?」
「はい……色々と手は尽くしたのですが、完治する見込みはなく……それがわかってからは、絶対にお嬢さまにだけは言うなと……余計な心配をかけたくないと」
「そんな……そんなのって」
ディネロは茫然と呟く。
「私はご無理はいけませんと言ったのですが、お館さまはご依頼がある限りは、仕事をすると! それで、それで! ……痛みに苛まれたお館さまは追いつめた魂喰の逆襲に遭われ……魂のほとんどを奴に喰われてしまわれました。私の力ではお館さまを連れて逃げだすのが精いっぱいでして……《魂喰》にやられたら、もう手の施しようがありません。欠けた魂は戻りませんから……それにお館さまは魂の大部分を持って行かれたので……お嬢さま、申し訳ありません! 私がもっとしっかりとお館さまはを止めてさえいれば! こんなことには……!」
サヴァーも涙を流しながら、頭を床にこすりつける。
「私はお館さまをお助けするはずが、何もできずに! みすみすお館さまをこんな目に合わせてしまい……私は相棒として失格です! 申し訳ありません、申し訳――」
彼の言葉はそこから聞き取れなくなった。堪えきれずに漏れる鳴き声だけが微かに聞こえる。
「サヴァーは悪くないわ……悪いのは全部、あたし。パパの体の事にも気づかないなんて……その上、無断で逃げ出して! ……ごめんなさい、ごめんなさい! パパ、起きて目を開けて! お願い!」
彼女の願いもむなしく、父親の呼吸はどんどん弱くなっていき、ディネロたちが見守る中で静かに止まった。
「パパ……? じょ、冗談でしょ? ねぇ! ねぇったら!」
彼女は取り乱して父親にすがりついた。
「お館さま……」
サヴァーの肩ががっくりと落ちた。
ついに半狂乱になったディネロが父親を殴り始めると、慌てたペルが彼女を止めた。
「ボス! やめろ! ボス! 落ち着け! しっかりしろ!」
「いやよ! どうしてこんなことに……」
ディネロは泣き崩れ、立ち上がれなくなった。
「一旦ボスをここから離す。サヴァー、手伝ってくれ」
「ううっ……わかりました、ペルフェクトゥス……お嬢さまを自室へ」
泣き続けるディネロを両側から支えるようにして、三人は部屋から出て行った。
死んだ男が残った部屋に、今まで影のように潜んでいたカルディアが姿を現した。ソファのそばまで音を立てずに近寄ると、たった今死んでしまった男の顔をじっと見下ろす。
「……あんたがディネロの父親か。はじめまして。カルディア・クオーレという者だ。今はあんたの娘さんに家を借りて、一緒に住んでる。人と一緒に暮らすのは初めてだけど、楽しいぜ。彼女もペルもいい奴だしな」
カルディアは、ディネロの父親に語り続ける。
「俺にはあんた自身を助ける術はない。でも、僅かに残った『こころ』を助けることならできるぞ。あんたの『こころ』はまだ生きてる。俺にはわかるんだ」
彼はしゃがみこんで、何も言わない男の顔に己の顔を近づけた。
「俺は心を喰らう者だ。有名な魔祓いだったあんたなら、それだけ言えばわかるだろう? 俺の正体が。俺なら、あんたの心を取り出せる。それを使って彼女と話ができる。最後の会話だ。もちろんそう長くは持たないが、最後の最後に伝えたい思いぐらいなら、届けられる」
カルディアはでも、と独白を続ける。
「このままでもあんたは死ぬ。心を取りだしたら、あんたは抜け殻だ。魂すら死ぬ。心と一緒に残り少ない魂が抜け出てしまうからだ。ただし、会話はできる。それから、取り出して残った『ハート』は俺の生きる糧として、俺にくれ。それが条件だ。……どうする? 俺はあんたの選択を尊重する。ただし、選択は急げよ。あんたの肉体はもう死んでる。それは間違いない。……彼女に伝えたい思いはあるか? あんたはそれを望むのか? それを望むのなら、返事をしてくれ。魂の欠片さえあれば、俺の声は聞こえているはずだ」
カルディアは男――最強の魔祓い、最強の風神と言われたストリック・アルジャンの額にそっと手を置いた。
(たのむ)
彼の頭に直接声が響いた。低音のしっかりとした声だった。
「わかった」
カルディアは静かに立ち上がる。そして、左腕をストリックの方に向けた。
左の前腕に付けている大きな金色の鍵のような物。ディネロが初対面の時に密かに悪趣味なアクセサリーだと思っていた物。
「『アニマ』起動」
カルディアの呟きに反応して、金色の鍵がくるりと一回転し、先端部分が指先の方を向いた。
鍵の先端をストリックの胸に向けてカルディアは言った。
「あんたの『こころ』を『ハート』にする。娘に伝えたいことを考えておいてくれ」
鍵の根元、円盤型になった部分の中心から青白い光がこぼれた。
先端部からも同様の光が吹き出し、ストリックの体を包む。
まばゆい輝きにもかかわらず、カルディアは目を細めることもなく、その光をじっと見つめていた。
扉が開く音が聞こえたので、ディネロは反射的に枕にうずめていた顔を上げた。もしかしたら父親が起き上がって来たのかと思ったからだ。
もちろん、そんな奇跡は起こることなく、部屋に入ってきたのはカルディアだった。
「……出てって」
ディネロは冷たい声で言った。
「今は一人にして。ペルもサヴァーもあんたも! みんな出て行って!」
「親父さんに会いたいか?」
彼女をさえぎるようにカルディアは言う。ディネロは一瞬だけ絶句して、怒りで顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ふざけないでっ! パパは……パパはもう死んだのよ! 会えるはずがな――」
「会える!」
部屋が震えるような大声で、カルディアは今度こそディネロの言葉をさえぎった。
「俺が父親に合わせてやる。黙って見てろ」
カルディアはきっちりと留めていたボタンを外して、服の前をはだけた。
「っ……! あ、あんた……それ……」
「あとで説明してやる」
服をはだけたカルディアの胸は人のそれではなかった。
胸部のほとんどを覆っているのは薄い光を放つ、ピンク色のハート型の何か。
カルディアはそのハートに手を伸ばして、その物体をつかむと一息に胸から外した。
ガポッという音がして輝くハートがカルディアの掌に転がった。体にあったときより一回り小さくなっている。
驚きに目を見張るディネロをよそに、彼は握っていた反対の手を開いた。
そこにあったのは同じように輝くもう一つの『ハート』。
カルディアは新しいハートを暗く空いた胸の穴にはめこんだ。
しばらく何も起きなかった。痺れを切らしたディネロが声を荒げようとした瞬間、室内は爆発的な光に包まれた。
まぶしい光に目を閉ざしていたディネロがゆっくりと目を開けると、真っ白な空間に立っていた。
「ここは……」
辺りをきょろきょろと見まわすが、誰も見当たらないし、誰もいない。と思ったら後ろから聞きなれた声がした。
「ボス」
「お嬢さま」
「二人とも……ここは?」
「わかりません」
「カルディアが妙な事をしてるな、と思ったらここにいた……」
どうなってるの?
彼女は首を傾げた。
何が起こってどうなったのか、さっぱり見当がつかない。
あいつは何をしようとしてるの? そもそも、あいつは何者……。
ディネロがそこまで考えたとき、後ろからある声が聞こえた。
「ディネロ」
彼女はバッと振り返った。
目に入った光景に、驚きのあまり言葉もなくただ立ちすくんだ。
そこには。
死んだはずの父がいた。
背筋をピンと伸ばしており、ただでさえ高い身長がもっと高く見える。灰色の髪をまとめて後ろに流し、きっちりと撫でつけている。さっきまで灰色だった肌は歳相応のくたびれは見えるものの、健康そのものだ。
いかめしい顔に笑みを浮かべようとして、歪んだようなほほ笑みになっているところなど、完璧に彼女の父親――ストリック・アルジャンのものだった。
「パ、パパ……」
これは幻覚? カルディアが見せた……幻覚なの?
いや、それは今どうでもいい。
ディネロは何も考えずに父親に駆け寄った。
「パパ……」
「ディネロ」
「ごめんなさい、ごめんなさい! ……あたしが、あたしが勝手に出て行ったから……パパの体の事にも気がつかないで……勝手なことばっかりして」
彼女は涙を流しながら頭を下げ続けた。
「いや、いいんだ」
ストリックは娘の肩に手を置いて、できるうる限りやさしい声で言った。
「お前は何も悪くない。悪くないんだ。悪いのは私の方だ。お前につらく当たってしまった。さみしい思いをさせた。お前の母親が死んでしまってから、必死で働いてきた。全てお前のためを思ってだった。厳しく接したのも、辛い訓練を与えたのも、《聖火》を制御できるようにと、お前のためを思ってやってきた。それでも、さみしかったんだな。……すまない。お前にどうやって接すればいいのか、わからなかった。私は厳しく接する方法しか知らなかったんだ」
「大丈夫、文句ばっかり言ってきたけど、あたしはちゃんとわかってるわ。今まで気がつかなかっただけで、ちゃんとわかったの。……ずっとわかってた。認めたくなかっただけで……ちゃんと知ってた」
「お前は強いな。いや、強くなったと言うべきか。……こんな情けない父が育てたとは思えないな」
ストリックは苦笑いを浮かべた。
「パパは情けなくないわよ。なにしろ、最強の魔祓いなのよ? どこが情けないの? 立派じゃない」
「父として情けないと言ってるんだ」
「……父としても十分立派よ。実の娘が言うんだから間違いないわ。娘が父親の善し悪しを判断してるのよ。これ以上確かな話はないの」
必死で語る娘を見て、父親は突然笑い出した。
「ハハハハ!」
「ど、どうしたの?」
「すまない。……お互い謝ってばかりだったのに、気がついたら普通にしゃべっていた。それに気がついたら何だかおかしくなってな」
彼女もクスッと笑って言った。
「全然おかしくないよ。あたしたち親子なんだから。普通にしゃべるのは当然でしょ?」
「ああ……そうだ。……普通に喋ればよかったんだ。……こんな簡単なことが、どうしてできなかったんだろう」
「…………」
「難しく考える必要なんてなかった。こうして語り合うだけで、よかったのになぁ……そうすれば……」
感情のこもった声で彼は呟いた。
それからストリックは大きな両手で手で彼女の肩をつかんで、膝をつき、娘に視線を合わせた。
「ディネロ、私にはもう時間がない」
「そんなこと言わないで……」
「聴くんだ。私の魂はもう死んでいる。これは心の残りカスのようなものなんだ。そのうち消えてしまうだろう。それでも、お前に伝えたいことがある。手遅れかもしれないが、どうしても言いたい。聴いてくれるか?」
「聴く。聴くわ。その代わり、パパもあたしの言いたいこと全部聴いて」
「ああ。聴くよ。それまでは何があっても消えない」
彼の瞳には強い力が宿っていた。
「私からだ。お前には辛い思いや悲しい思いばかりさせてきた。それでも、それでも私はお前を愛してる。これまでずっと。これからもずっとだ。それだけは知っておいてくれ」
ディネロは涙をこらえながら何度も頷く。
「次はあたし。まずは謝らせて」
「そんなことは……」
「だめ。聴くって約束。ごめんなさい。病気に気がつかなかったことも、勝手に出て行ったことも、お金を全部取っちゃったことも……」
「そんなことか」
「え?」
「謝る必要はない。病気についてお前に責任は一切ないし、出て行ったことも謝る必要はない。……お前がこそこそやっているのに気づいていたからな」
「き、気づいてたの⁉」
「ふむ。するとあれか? お前は父親の目をごまかせると思っていたのか?」
「気がついてたんなら、なんで止めなかったの⁉」
「お前の自立が嬉しかったからだ。一人で生きていける、という宣言に見えたんだ。血は争えないとも思ったしな」
「争えない?」
怪訝な顔を見せる娘に父親は暖かい目を向けた。
「私も家出した。本家の親戚と仲が悪いのにはそういう理由もあるんだ、実は。……まぁ、私は全財産をかっぱらう事はしなかったが。大したもんだと思うよ。お前を誇りに思う」
「……親の財産盗んで誇りに思われる娘ってどうなのかしら?」
「いいんじゃないか? 父親がそう言ってるんだから」
彼女はそうね、と笑った。図らずも、さっき自分が言ったことをうまく返された形になってしまった。
「じゃ、もう謝らない」
彼女は真っ直ぐに父を見つめる。
「あたしもパパを愛してるわ。厳しいことばっかり言われてたし、訓練もきつかった。一緒にいられなくてさみしかった。いい子のふりしてただけで、口を開けばパパの文句ばっかり言ってたし、散々迷惑ばっかりかけてきたけど!」
ディネロは一歩進んで、ストリックに抱きついた。
「好き。パパのこと愛してる。たった一人の家族だもん、嫌いになんてなれないよ……ずっと一緒にいたい。もう会えなくなるのはやだ……さみしい、さみしいよ」
彼女の緑色の瞳からこぼれ落ちた雫が父を濡らした。
「大丈夫だ。会えなくなっても関係ない。私の思いはお前に届いたし、お前の思いは私に届いた。それだけで、やっていける」
彼は涙声でそう言って力一杯娘を抱き締めた。
しばらくそのまま時間が経った。
ストリックは涙の残る顔を上げて、ずっと後ろに控えていたブルドックとフクロウに目をやった。
「ペルフェクトゥス、ディネロを頼む。お前がいれば安心できる」
「仰せのままに。こちらこそ、お世話になった……」
ペルは帽子を取って深く頭を下げた。
「サヴァー、今までありがとう。何十年も私の相棒であり続けてくれて感謝している。お前がいなければ、ここまでやってこれなかった」
「お館さま、もったいないお言葉です……私の方こそ……お館さまの相棒でいられて幸せでした。さみしいです。ひどくさみしい」
「私もだ。……これからはできることなら、ディネロを支えてやってくれ。今日までご苦労だった」
「はい。微力ながら。……お館さま、お疲れさまでした。本当にありがとうございました」
サヴァーは深々と頭を下げ、涙を流しながらも毅然と顔を上げた。
それでいい、というようにストリックは頷く。
「……どうやら、時間切れだ。これで、本当にお別れだ。さらばだ、ペルフェクトゥス。さらばだ、我が相棒サヴァー。……さらば、我が最愛の娘、ディネロ」
ストリックの声がだんだんと霞んでいく。
「パパ!」
抱き締める体の感覚は変わらないが、父の存在が消え始めていることはわかった。
「愛してるよ、ディネロ」
最後に一言だけ声が届いて、それっきり何も聞こえなくなった。
ディネロは瞳を閉じたまま、そっと呟く。
「さよなら、パパ。ありがとう。……愛している」
一瞬だけ優しい掌が頬を撫でたような気がした。
ストリックは真っ暗な世界に一人佇んでいた。
自分の体は何の支障もなく見えるのに、それ以外は全く何も見えない。ただ濃密な闇が広がっているだけだ。
これが……死か?
僅かにとまどいながら首を左右に振るが見える物はない。
それでも、彼は虚空に語りかけた。
「君にも世話になったな。カルディアくん。聞こえているのかどうかさっぱりわからないが、お礼を言わせてくれ。ありがとう。君のおかげで、最後の最後で娘と分かり合えた。感謝してもしきれない。君が何者であろうとも、これからも娘のよき友人でいてやってくれ」
返事はあるはずがないと思っていたが、どこからともなく声が聞こえてきて、気がつくとカルディアが笑いながら横に立っていた。
「ちゃんと話ができたみたいだな。協力したかいがあったぜ」
「君は聞いていなかったのか?」
「俺はあんたの『こころ』に体を貸しただけだ。微かに記憶はあるが、野暮な真似はしないよ」
「面白い人だ、君は」
「ヒト、ね」
カルディアは複雑な笑みを浮かべた。
「それで、ここはどこかなのかな?」
「ここは……そうだな……どこでもない場所、というのが一番ぴったりだろうな。ただの通過点だよ」
「ならば、君は何をしに来てくれたんだ?」
「俺は最後の方向を示しに来ただけさ。ほとんど魂の残っていないあんたが最後で迷っちまわないようにな。……あんたが向かうべきはあっちだ」
カルディアの腕がスッと上がり、伸ばした指がある一点を指した。
ストリックが示された場所を見ると白く輝く点が見えた。
「あの先がどうなっているのかは俺も知らない。それでも、あんたは向かうべきだと思うね。こっちにとどまり続けても、なにもいいことはない……魔祓いのあんたにゃ、要らない説教かもしれねぇけど」
「ああ。そうだな。娘を思うととどまりたい気持ちがないわけじゃないが、無理にとどまった魂は現世で亡霊になる。そんなつもりはさらさらない。……それに私の娘は見守る必要もないほど強いからな」
「違いない」
カルディアは軽い笑い声をあげた。
「しかし、魂がほとんど残っていない状態で向こうに行けるのか? いや、君に聞いても仕方ないな……」
「案ずるよりやってみろ。あの先がどうなってるかさっぱりだけど、今までおかしな事は起こったことないぜ。……魂の量で言えば、あんたよりはるかに少ない奴を見送ったこともある」
「そうか」
ストリックは輝く点を見つめながら頷いた。
「そろそろ行った方がいい。ぐずぐずしてられないだろう」
カルディアは隣に立つ男の背中を押した。
「ああ、出かけるとしよう」
一言そう言ってからストリックは歩きだした。
「ありがとう」
振り返って頭を下げる。
「お礼はさっき聞いた。何回も言うもんじゃないぜ」
「面と向かっては言ってなかったからな。これで最後だ」
こんどこそ前だけを向いて、彼は歩きだす。
その背にカルディアの声がかかった。
「そーだ。お礼のついでに質問いいか?」
「ああ。何かな?」
振り向くことなくストリックは言う。
「あんたから見て……俺は人だろうか?」
「君は間違いなく人だ。気高き魂と心を持った、まぎれもない人だ」
数瞬の間のあと、楽しそうな声が聞こえた。前を向いたままのストリックには表情をうかがうことはできないが、後ろの彼は笑っているのだろうと思う。
「そーかい。ありがとさん。気ぃつけて行けよ。何があるのかは知らないが、そうひどいことにはならないハズだ」
それを最後に背後から気配が消えた。たった今までそこにいたのが信じられない程に唐突な消え方だった。
ストリックは笑みを浮かべると、たった一人で真っ直ぐに輝く白い点を目指した。その背は悲壮感など微塵も感じさせず、むしろ楽しみに満ちあふれているように見えた。