3.金持ち少女は燃えている
屋敷の玄関前。
ディネロの黒い車が停めれている場所である。
「さ、乗って。出発するわよ」
運転席のドアを開けながらディネロは言った。
カルディアは戸惑い顔で迷ったあげく、ぴょんと飛び上がると車の屋根に着地して、そこで胡坐を組んだ。
「なにやってんの!」
ディネロはカルディアの赤い髪を掴んで、地面に引きずり下ろした。
「ぐわっ!」
派手に転がったカルディアが悲鳴を上げる。起き上がって文句を言った。
「何だよ? あんたが乗れって言ったんだろ」
「誰が、屋根に乗れなんて言ったのよ! あんたバカか!」
「だって、車に乗れって言ったじゃないか。この黒いやつが車で、俺はそれに乗った。何も間違ってない、だろ?」
「大間違いよ!」
怒りに震える彼女の足を、ペルがトントンと叩いた。
「こいつは世間慣れしていない、と《古きもの》が言ってただろ……忘れたか?」
ディネロはどこまでもハードボイルド調なブルドックに噛みついた。
「世間慣れしてないってレベルじゃないでしょ! こんなの、もうただの原始人じゃない!」
「仕方あるまい……」
ペルに注意されて、頬を引きつらせながらも、彼女は怒りを飲みこんだ。
ケロッとしているカルディアを見れば、どれだけ言っても懲りていないことがよくわかる。
やっぱ、こいつ、追い出そうかしら? でも、料理はおいしいし……。
彼女の中で怒りより食い意地が勝った。
「いいこと? 車に乗るって!」
ディネロはカルディアに睨みを効かせ、叫びながら後部座席のドアを開け放つ。
「言った時は!」
開け放ったドアの前にカルディアを立たせる。
「こうやって中にに乗るのよ!」
魂の叫びと共に、カルディアのケツを蹴りつけて車に叩きこんだ。
彼は蹴られた部分をさすりながら大人しく頷いた。
「……はい」
車は爆走しながら、街の門をくぐった。乱暴な運転に怒鳴り声をあげた人々も、後ろから追ってきた砂ぼこりに巻き込まれ、ただただ咳こむばかり。
道行く馬車やバイクを巧みに避けながら、黒い車は猛スピードで突き進む。
街道の駐車スペースに強引に割りこんで車を停め、ディネロとペル、カルディアのトリオは街に降り立った。
この街はコラソといって、中程度の規模を持つ交易街である。
周辺地域のさまざまな物資が集まり、ここから各所へと散っていく。よい品物を安い値段で買うことのできる、お得な街でもあった。
その辺の事情も含め、ディネロが街にほど近いあの屋敷を購入した理由だった。
彼女は――もうおわかりだろうが――金にうるさい。要はケチだ。しかし、彼女は自分のための散財は好きだった。人のためにお金を使うことはまっぴらだが、自分の欲しい物は高価な物でも手に入れる。
それがディネロ・アルジャンという少女なのだ。
「さーて、何かいい物はあるかしら? ふふ。楽しみね」
「なぁ、何を買うつもりなんだ? 屋敷には大抵のものがあるんだけど」
「うっさい! 女はね、当てもなく買い物に出かける生き物なのよ!」
「よくわからん」
「そこは黙って頷く方がよいですよ。カル」
突然現れたソキウスが言った。
「うわっ! あ、あんたいつの間に!」
「面白そうだったので、車を追いかけて来ました。それより、カル、君は今夜の夕食の材料でも買いなさい。お嬢さんとペルの引っ越し祝いです。豪勢にいきましょう」
「ああ、そりゃいい。じゃ、また後でな、ディネロ」
「ちょっと待て!」
どこかへ行きかけたカルディアの髪を掴むディネロ。
「男が女の子と買い物に来たら、やることがあるでしょ!」
「ん?」
「荷物を持つことよ!」
ディネロは腰に手を当ててふんぞり返る。
「そうなのか?」
カルディアは首をかしげてソキウスに訊いた。
「まぁ、そうとも言えるかもしれませんね。……そういう関係になる男女もいます」
偉大なる《古きもの》は曖昧に頷いた。
「ってなわけで、四の五の言わずについて来なさい!」
わけがわからない内に引っ張り回されるカルディア。どんどん進む二人を見ながら、彼女たちの相棒が言った。
「悪いな……ウチのボスが……」
「いえいえ。しかし、カルに女性のエスコートはまだ早いか……よい経験になればいいのだが」
忠実な相棒達は先行く二人の後を追った。
「あーっ! これもカワイイわねぇ」
小さな雑貨屋の中で、こまごました小物を手に取って眺め回すディネロ。同じ店でかれこれ、二十分程悩み続けている。
「どっちがいいかしら? ねぇ、どう思う、ペル」
カルディアの目から見ると、大した違いのないように見える小瓶をディネロは悩ましげな顔で見つめている。
一つ言っておくと、カルディアはすでに大量の荷物を抱えており、小瓶を見るにも荷物の隙間から覗くようにして見ている。
「そうだな……左の方がボスに似合ってるな」
ペルは僅かに、間を持たせてからさらりと言い切った。
「あ、そう? 実はあたしもそう思ってたのよ。じゃ、お会計してくるから、ちょっと待ってて」
彼女はパタパタと足音をたてながら、レジへと走って行く。その背を見ながら(荷物の隙間から)カルディアはこっそりとペルに訊ねた。
「ペル、あんたはあの瓶の違いがわかったのか?」
「わかるわけないだろ」
スーツを着こなしたブルドックはフッと笑った。
「でもな、ああいうときは、間違っても『どっちも一緒だ』なんて言っちゃいけないのさ……。それがレディに対する紳士の態度ってもんだ」
グラサンを光らせながら、ペルはクールに言う。
「難しいな」
「ほら、何やってんの。行くわよ!」
いつの間にか戻ってきていたディネロが一人と二匹を急かした。
彼女たちは雑貨屋の外に出て(小瓶の入った紙袋は当然のようにカルディアが持っている。というか、彼が抱えている荷物の上に乗せられている)石畳の道を歩きながら、並び立つ店を冷やかした。
……人二人が並んで歩いているというよりは、人と荷物の塊が並んで歩いていると言った方が、描写としては正確かもしれないけれど。
「そういや、あんた、裁縫はできるの?」
布を売っている店の前で唐突にディネロが訊ねた。
「裁縫か? できるよ」
荷物の塊――カルディアは何のためらいもなく言った。
「やっぱできるんだ。……それってどのぐらいのレベルなの?」
「今、俺が着てる服は手作りだ」
しつこいようだが、大量の荷物でカルディアの姿はほとんど隠れてしまっているので、服も腰から下しか見えていない。それでも、服の完成度の高さは見てとれた。
「…………」
ディネロは自分で聞いておきながら、あまりにも意外な事実に言葉を失う。それから気を取り直したように言う。
「じゃ、服は作れるってことでいいのね?」
「そうだな」
「そう。わかったわ」
彼女は頬に笑みを浮かべながらそう言った。
その笑みは何かを企んでいる感がありありだった。カルディアは気がつかなかっただろうが、このままいくと、彼は夜な夜な針と糸を手に女物の服を作ることになるだろう。
「すいませーん!」
ディネロは店に向きなおると、大きな声をあげた。店の奥からほっそりした女性が顔を出して頭を下げる。
「いらっしゃいませ。何が入用ですか?」
「あのエメラルドグリーンの布を見せてもらえるかしら?」
「ああ、わかりました。こちらは新作ですよ。織り方が特殊でして、旧作の二倍ほど丈夫になっています」
「へぇー、そうなんだ。どこ製なの?」
「ニキタニアです」
「ニキタニア! あたしすごい好き!」
そこから女性二人による専門的なファッションの話になっていき、カルディア以下、ペルとソキウスも話について行けなくなった。
手持ちにぶさたになった三人が頭をかいたり、意味なく足踏みしたりしていると、突然ソキウスとペルが顔をあげた。
その一瞬あとに大きな悲鳴と怒号が響きわたる。
「なに⁉ どうしたのよ!」
店から飛び出してきたディネロが叫んだ。
「わからない。ただ、あっちから悲鳴が聞こえてきただけで」
カルディアが叫び声の聞こえた方向を足差す(両手は荷物で塞がっている)。
「《喰屍鬼》だぁー!」
恐怖に満ちた叫びが響き、その声を聞いた人々が雪崩のようにこちらに殺到してきた。
ディネロたちは人波に流されないようにその場に踏ん張った。
人波が逃げ去って道の先が見通せるようになった。
黒い影がこちらにゆっくりと近づいてくる。
《喰屍鬼》はその名の通り、人を喰う化け物である。死体を好むが、生きている人間も容赦なく殺してその死体を喰らう。
青白い、腐りかけたボロボロの体に強烈な腐敗臭をまとわせながら、人に対して根源的な恐怖を湧き起こさせる化け物である。
「臭いな」
辺りに漂う腐敗臭に顔をしかめながらカルディアは呟いた。しかし、その顔に恐怖の色はない。
喰屍鬼は突然歩みを止めると、首を横に回した。
その視線の先に幼い二人の兄弟が震えていた。
喰屍鬼が現れた際の人混みに巻き込まれて、逃げ遅れてしまったのだろう。
「やばいな……ソキウス!」
カルディアはそう叫んで(荷物はそっと地面に降ろしていた)右腕を伸ばす。飛び上がったソキウスが姿を変えながら彼の手に収まった。
「よっと」
カルディアが構えたのは大型の銃。撃鉄部分がコウモリの翼の形になっている。
変身はソキウスの《古きもの》としての能力の一つだった。
「さて、と……って、ディネロ! 危ねぇぞ!」
ディネロは布を右腕に抱えたまま、カルディアの制止を聞かずに、ズカズカと喰屍鬼に向かって突き進む。
「まったく……無粋な……女のショッピングの邪魔をするなんて。どっから湧いて出たの? ……ああ、はいはい。いっちょまえに変装してきたのね。服見ればわかるわ。それにしても態度でかいわね。《闇》の化物のくせに、もっとこそこそしなさいよ。昼間から出歩くなんて……」
「おい! ディネロ!」
ブツブツ呟きながら歩いていく彼女にカルディアが手を伸ばそうとしたが、ペルがそれを止めた。
「まぁ、待て」
ペルはにやりと笑った。
「ウチのボスは……強い」
「強いって、あいつがか?」
カルディアは華奢なディネロの背中を見つめて、不安げな呟きを漏らした。
(信用しなさい、カル)
銃になったソキウスがカルディアをたしなめる。
ディネロはそのまま進んで行き、震える兄弟を庇うように彼らと《喰屍鬼》の間に割りこんだ。《喰屍鬼》と彼女の体格差は圧倒的で、今にも踏みつぶされてしまいそうに見える。
それでも、ディネロは落ち着き払って、左手にはめている緑色の手袋の指先を噛んで――食事の際ですら外さなかった手袋を――外した。
あらわになった彼女の左手に刻まれているのは、複雑な模様を描く赤い刺青だった。。
「あたしの楽しみを邪魔した罪は、重いわよ」
刺青が赤い光を放ち、まばゆく輝き始める。
ディネロはその光る腕を横に払う。
彼女に喰いつこうと、腐った顔を近づけてしていた喰屍鬼はいきなり、まばゆい炎に包まれた。
「ギィヤァアアアアアアアアアアアア‼」
耳障りな絶叫が辺りをつらぬき、その場にいた者の鼓膜を震わせる。
「あれは……」
カルディアは頬に熱を感じながら目を見張った。
喰屍鬼は叫び声を上げながら、めちゃくちゃに腕を振り回す。ディネロはその腕をひょいと避けつつ、左の拳を握って喰屍鬼の腹を殴りつけた。拳から炎が噴き出す。
信じられない事に巨体の喰屍鬼が吹き飛んだ。街灯にぶつかった怪物は金属製の支柱を折って地面に転がった。もちろん、火だるまになったままである。
のたうち回る喰屍鬼を冷徹な瞳で見下ろしながら、ディネロは言った。
「この世に一片の怨念すら残さず消えなさい」
またも刺青が輝き、喰屍鬼を中心に巨大な火柱が立ち上った。
「すっげ……」
炎に赤く照らされながらカルディアは上を見あげる。火柱は空を貫かんばかりに立ち昇っていた。
炎の柱の根元でそれを見つめるディネロの顔は赤く染まり、荘厳な気配すら漂わせていた。
これが、当代最強を謳われる《魔祓い》ストリック・アルジャンの一人娘にして、唯一の弟子である、ディネロ・アルジャン。
《聖火の女》の異名を持つ強力な《魔祓い》。
それが彼女の正体である。
しばらくして、炎は消えた。喰屍鬼が跡形もなく消え去っていたことは言うまでもないだろう。
あれだけ激しく燃えたにもかかわらず、道や周辺の建物には何の影響もなかった。焼け焦げた跡はおろか、熱による影響すら見当たらない。遠巻きに見ていた人々もあまりの光景に近づいては来なかった。
圧倒的な炎に恐れを抱いたのか、単に《喰屍鬼》への恐怖が残っていたのか、たった今あっさりと怪物を殺した彼女への恐怖があったのか、それはわからない。
まあ、よくあることよ。そんなことを思いながら、ディネロはポカンとした表情をさらしている幼い兄弟に声をかけた。
「大丈夫? もう安心していいわよ」
「……オバちゃん、すご――」
「オバちゃん?」
笑顔が引きつったディネロの左手に炎がちらついた。
「おねーちゃん、すごいね! ありがとう!」
兄らしい男の子が弟の口をふさぎながら言った。
「そうよ、綺麗で可愛いお姉さんはすごいのよ」
兄弟のトラウマになりそうな恐ろしげな笑顔を浮かべて、綺麗で可愛いお姉さんは言った。
「……ボス、大人げないぞ」
近寄って来たペルがディネロの足を叩いた。
「ふん。はいはい、わかったわよ。ビビらせて悪かったわね、あんたたち。もう安全だから親んとこでも行きなさい。心配しているでしょ。ちゃんと元気な姿をみせるのよ?」
「うん、……ありがとう!」
「ありがとう、お姉さん!」
兄弟は立ち上がって元気よく駆け出して行った。道の向こうから彼らの両親らしき人物が走って来て、兄弟を抱きとめる。それだけ確認したディネロはさっさと歩きはじめた。その後をカルディアが軽い足音をたてながら、追いかけて来る。
「怪我人がなくてよかったな。それにしても、あんた、すげぇんだな。驚いたぜ」
戦闘が終わり、またしても荷物の塊と化したカルディアが言う。
「……まぁね」
ディネロはポツンと呟きながら、手に持っていたエメラルドグリーンの布を荷物の隙間に差しこんだ。
「あれ、何だったんだ?」
「どうでもいいでしょ」
プイッと横を向くディネロ。
「久しぶりに見ましたよ」
コウモリに戻ったソキウスが荷物の間から顔を覗かせた。
「あれは《聖火》ですね」
「……流石は《古きもの》。一発で見破るのね」
「アグニス?」
「《原始の力》と呼ばれる、誰も憶えていないほど、古い力の一種ですよ。我々より古く、この世の始まりの力なのではないか、と言われています。《原始の力》は《闇》に対して絶大な力を発揮します。先ほどの喰屍鬼を跡形もなく消失させたようにね」
首を傾げるカルディアにソキウスが解説する。
「時折、いるのですよ。人として生まれながら《原始の力》の加護を受けている者が……おそらく、お嬢さんはそういった稀有な人間なのでしょう」
「正解。あたしは生まれたときから、この印が体に刻まれてた」
ディネロは左手に手袋をしながら続けた。
「昔は色々と大変だったんだから……コントロールできなくてさ、色んな物を燃やしちゃったものよ」
「そうか」
「……あとで、ちゃんと説明してあげるわ」
ディネロは何を思ったのか、カルディアから目を反らして言った。それは今までの彼女の言動からすれば、奇妙に映るしおらしい態度ではあったが、カルディアは何も言わなかった。
彼女は一息つくと改めてカルディアに向き直る。そして緑の瞳を燃やしながら力強く言い切った。
「それより、今はショッピング!」
日が傾き始め、辺りがオレンジ色に染まり出す頃、ディネロとペル、ソキウスとカルディア……というよりは、荷物の化身と言った方がいいような大量の荷物を抱えた男は黒い車の前に佇んでいた。
「…………」
難しい顔で沈黙を保つディネロ。
街中を爆音上げて暴走していた車だから、いたずらしてやれ! と思った住人にタイヤをパンクさせられていた、とかそういう訳でない。
「ど、どうしようかしら?」
彼女の困りごとはもっと重大な事だ。
すなわち、買いこんだ品物が、あまりに多すぎて車に積みこめない、ということである。
……何やってんだ。馬鹿じゃないのか。もっと考えて買い物しろよ。
そんな無粋なツッコミを入れる者は、彼女の一行にはいなかった。そもそも、みんな気がついていなかったのだから、同じようなものだ。
「うーむ……」
ディネロは腕を組んで唸る。
彼女が真っ先に考えた事は、カルディアを置いていけば積めるだろうか、ということだったが、それは甘い見通しでしかなかった。カルディア一人分のスペースぐらいではどうしようもない。
ならば苦渋の決断で、ペルも……と考えたがやっぱり止めた。
相棒をそんな風に扱うのはよくないし、ペルの分のスペースなど隙間にしかならない。
「なぁ、何で突っ立てるんだよ? さっさと帰ろうぜ。俺、夕飯の支度もあるんだからさ」
荷物で前が見えないカルディアが朗らかに言う。
「お黙り! 今、あたしたちはとんでもない問題に直面してるのよ!」
「問題?」
「荷物が積めないんですよ。多すぎて」
ソキウスが小声で耳打ちする。
「え、なに? そんなこと?」
「なによ! いい解決方法でもあるっての⁉」
バッとカルディアの方を振り向いて、そう怒鳴ったディネロだったが、荷物しか見えないので何となく、気勢がそがれた。
「あるよ。あんた、俺の腰についてる鍵束から、《空間の鍵》取って、それで車の扉開けてくれ。そうすりゃ、これを全部しまえる。それから屋敷でゆっくり取りだせばいい」
「成程! 頭いい!」
カルディアの提案をさっそく実行する。
《空間の鍵》を差しこんで開けた車の扉から、黄金色の光が漏れたが、彼女は手を出したい誘惑に打ち勝ってどんどん荷物を放りこんでいく。
あっと言う間に荷物は消えて、久しぶりにカルディアの姿がみんなの目に映った。彼はこっそりと鍵をポケットに入れようとするディネロから鍵を取りかえして、元通り鍵束に通す。
ディネロは舌打ちしながら運転席に乗り込み、まだ車外にいるカルディアに声をかけた。
「何やってんの? 早く乗りなさいよ。あ、屋根に乗ったらブン殴るわよ?」
「もう屋根には乗らないよ。先に帰っててくれ。俺は夕飯の買い物してから帰るよ」
「え? どうやって帰るつもり? 家まで結構な距離あるわよ? 歩くの?」
「いや、そんなわけないだろ。心配いらない。俺には《移動の鍵》があるから」
カルディアは鍵束を持ち上げて振った。
「《移動の鍵》⁉ あんた、そんなもんまで持ってるの⁉」
ディネロは口をあんぐり開けて驚いた。
それでは、説明しよう。
《移動の鍵》とは魔法鍵の一本で《空間の鍵》が異界の部屋につながる効果を持っているように、《移動の鍵》を使って扉を開けると、使用者が具体的にイメージできる離れた扉に移動できるという優れモノだ。扉のない場所へは移動できず、移動には出発点と到着点に扉が必須であるが、それでも破格の移動能力である。もちろん、貴重な物なので彼女が驚いたこともわかっていただけると思う。
身も蓋もない言い方をすれば、扉を介した瞬間移動が出来る鍵である。
「じゃ、すぐに帰れるってわけね」
「ああ」
カルディアは軽く頷いた。
「それじゃ、先に帰ってるわ。おいしい食材を買うようにね」
「まかせとけ」
ディネロはそれだけ聞くと、運転席のウィンドウをあげて、爆音と排気ガスを残して走り去った。
咳き込みながらそれを見送ったカルディアは踵を返して、肩にソキウスを乗せたまま、夕闇迫る街の喧騒の中にその身を紛れさせた。