8・八年ぶりに目を覚ましたら、助けた子が魔王になっていました
「ん……」
意識が、闇の底からゆっくりと浮上するように、少しずつ覚醒してゆく。
「あれ? あなたは……?」
瞼を上げてまず目に入ったのは、とても綺麗な男性。
漆黒の髪に、紅玉のような赤い瞳。すっと通った鼻梁も形のいい唇も、全てが完璧な造形だった。こんな美しい人、今までの人生でお目にかかったことがない。年齢は18歳くらいだろうか、芸術品のような繊細さの中にも、青年らしい凛々しさが滲み出ている。
彼は目を見開き、驚きの表情で私を見つめる。
「目が覚めたか……!」
「え……? えっとその、どちら様ですか……? というか私、どうしたんでしたっけ……」
目の前の彼が誰なのかも、今この場所がどこなのかも、何故この状況になっているのかも――さっぱりわからなくて軽く混乱する。
とりあえず、現在地はどこか豪華な部屋のベッドの上のようだったので、上半身だけ起こして彼と向かい合った。すると目の前の男性はゆっくりと、形のいい唇を開く。
「我が名はジークハルト。魔族を統べる王であり――8年前、お前が助けた少年だ」
――はい?
何を言われたのか、あまりにもわけがわからなさすぎて、ぱちくりと瞬きをしてしまう。
「え……えと、あ、いや! 確かに私、王子をお救いしましたが……! あまりにも、お姿が変わりすぎていませんか!?」
私が助けたのは10歳の、まだあどけなさを残す少年の王子。
けれど今目の前にいるのは、どう見ても私と同い年くらいの青年である。
「お前が深い眠りについてから、8年の歳月が流れたからな。姿が変わるのも当然だろう」
「え!? あ、そういえばさっき、8年前って……。え、あれから8年経ったんですか!? ていうか私、生きてたんですか!?」
次から次へと疑問が湧いてくる。けれど魔王陛下は嫌な顔などせず、一つ一つ答えてくれた。
「そうだ。お前が俺を逃がしてくれて斬られた後、俺の父……当時の魔王が助けに来てくれた。俺は無事保護され、お前は俺の命の恩人としてすぐ魔王城に運ばれて治癒を受けたんだ。しかし魔族の王子である俺を殺すために用意されていたあのナイフには、ひどく強力な毒が塗られていてな。お前は本当は、助からないはずだった」
彼は、当時のことを思い出すように眉根を寄せ、苦しげな顔をする。
「だが、俺の恩人をみすみす死なせるなど言語道断。魔法によってお前の生命を保ったまま、魔法治癒による研究を進め……。やっと今、お前が目覚めたというわけだ」
「そう、だったんですね……」
彼が嘘を言っているなんて決して思わないが、あれから8年間経っているとか、あまりにも信じられないような事実を突然聞かされ、ぼうっと赤い瞳を見つめ返すことしかできない。
すると、彼は私の長い髪を一房すくい、そっと撫でた。
「お前が目を覚ましてくれる日を、待ち侘びていた。やっと、その美しい瞳を見つめることができる。やっと、お前と言葉を交わすことができる……」
「え!? あ、あの……魔王陛下!?」
彼の瞳が、言葉の一つ一つが、砂糖菓子のような甘さを含んでいるように思えて、頬が熱を帯びる。
「感謝する。我が命の恩人、フィオナ」
「い、いえ。私は、魔王陛下に感謝されるようなことなんて、何も……」
「いいや、どれだけ礼を言っても足りない。それくらい、俺はお前に感謝している。望むものがあるなら何でも言うがいい。お前のためなら、なんだって捧げよう」
彼は魔王という貴き身分の御方でありながら、私を、自分の命を助けた恩人として、心から敬意を捧げてくれている。身に余る光栄だが、あまりにもまっすぐに見つめられ、微かに胸が痛んだ。
「魔王陛下。お言葉はありがたいのですが、私は……あなたに感謝されるような人間ではありません」
彼の瞳を見ていられなくて、顔を俯ける。
「私は、善意のみであなたを助けたわけではありません。あの夜私は、それまで大切に思っていた人達に捨てられ、半ば自棄になっていました。そして――あなたを救いながら、とても、とても醜い願いを、あなたに託したんです」
自分の罪を告白するような気持ちで、そう口にした。
あの時――8年前は、気が動転していたのだ。だが冷静に考えれば、自分を捨てた人達への復讐のために「立派な魔王になって」など、勝手な言い分である。
「そんなことは、わかっている」
「え?」
「お前がどこの何者なのか、何故俺を助けてくれたのか、何もわからなかったからな。不躾なことは承知だが、魔法でお前の記憶を見させてもらった」
「え……ええ!?」
「フィオナ。お前がどういう経緯であの場にいて、何故俺を助けてくれたのか。その理由は、全てわかっているんだ」
「っ……お、お恥ずかしい、です……」
(でも確かに、名乗ってもいないのに、私の名前を知っているものね……。魔法の力ってすごいなあ……)
「勝手に記憶を読んだ非礼は詫びる。だが、お前のことが知りたかったんだ。そして……お前のことを知ったからこそ。ずっと、言いたかったことがある」
紅玉のような瞳と、再び視線が重なる。
魔族を統べる御方。もとは伯爵家とはいえ家を追放された私とは、比べ物にならないほどの御方なのに……彼が私に向けてくれる視線は、とても尊いものを見つめるようで、胸の奥がぎゅっと熱くなる。
「お前は何も悪くない。フィオナ、お前は心の美しい人間だ。自分を責める必要など、どこにもない」
どこまでも優しい言葉とともに、彼は私の頭を撫でてくれた。
こんなふうにしてもらうことなど、いつ以来だろう? 幼い頃の記憶を必死に手繰り寄せても、あの両親に撫でてもらったことなど一切思い出せない。じんと、胸に温かな水を一滴垂らされたようだ。心に甘い波紋がひろがり、それは鼓動となって私を熱くさせる。
「どんな事情だろうと、お前は俺を救ってくれた。それが全てだろう? だから、ありがとう。フィオナは俺にとって、何より大切な存在だ」
魔王陛下は目を細め、柔らかく微笑む。その表情は私の中の絶望を払い、心を攫ってゆくようだった。
「あ……陛、下……」
「ジークハルト、と呼んでくれ。フィオナ」
「ですが、魔王陛下をお名前でお呼びするなど……」
「俺が、お前の声で、名を呼んでほしいと言っている。咎める者など誰もいない」
甘く乞うような声色で言われ、私は戸惑いながらも、おずおずとその名を口にする。
「ジーク、ハルト……?」
「……ああ。やっと俺の名を呼んでくれたな、フィオナ。この日を、8年間夢見ていた」
また、彼が微笑む。ジークハルトが笑うと、それだけで世界が輝くようだった。星、花、宝石、どんなものに喩えても足りない。それほどまでに、彼は美しい。
「そうそう、フィオナ。お前には他にも、話したいことがたくさんある。俺はお前の記憶を読み、ここが前世のお前のプレイしていたゲーム世界で、本来なら魔王は倒され、魔族が衰退するという未来も知ったのだが――」
え、とまた目をぱちくりさせてしまう。そんなにすんなりと、自分がゲーム世界のキャラクターであることを受け入れたのだろうか。いや、8年も経っているのだし、最初は衝撃を受けたけど今では口にできるようになったとかだろうか?
「そんな運命にはさせなかった。お前の望み通り、魔王軍は人間に勝利したんだ。この大陸は魔族が支配することになった」
「ん――え!?」
さらりと、ものすごいことを言われた気がする。反応が追いつかず口をぱくぱくしている私に、ジークハルトは安心させてくれるように告げる。
「ああ、大丈夫だ。魔族が大陸を支配といっても、罪のない人間には危害をくわえていない。お前が許せないのは、自分を捨てた人間達だけだろう? それ以外の人間を傷つければ、優しいお前はきっと心を痛めるだろうと思ったからな。人間と魔族の争いは避けられなかったが、被害は最小限になるよう、俺も力を尽くした」
「あ……ありがとうございます、ジークハルト……!」
ほっと胸を撫で下ろしていると、彼は唇に弧を描き、にやりと笑った。
「さて。問題はその、お前を苦しめた人間達についてだ。お前が目を覚ましたら、更なる断罪をすると決めていた。もっとも……この8年間も、奴らにとって生易しいものではなかっただろうがな」
これまで私の目を見つめる際はずっと優しかった紅い瞳が、全てを焼き尽くすような苛烈さを宿す。穏やかそうに見えても、彼は魔族を統べる王なのだと、その迫力から伝わってきた。
「……まあ、焦ることはない。お前は8年の眠りから目を覚ましたばかりなのだ。まずはお前の身体のことが最優先だな。フィオナ、身体に異常はないか? 少しでも痛みや苦しみなどがあるなら言ってくれ」
「ありがとうございます。でも、問題なさそうです」
試しに手足を軽く動かしてみるけれど異常はなく、至って健康体だ。
私は8年間眠っていたそうだけど、歩けないということもなさそうだった。普通の眠りではなく、魔法による眠りだからだろう。筋力が衰えているわけではないようだ。
「よかった。……俺はな、この8年間、お前にしてやりたいことがたくさんあったんだ。俺を救ってくれたお前を、俺の全てをかけて、幸せにしたいと」
彼の瞳から先程の苛烈さは消え失せ、とろけるような甘さが満ちてゆく。
「俺はお前に救われた。ならば今度は、俺がお前を救う番だ。――フィオナ。今日からお前に、溺れるほど幸せな日々を約束しよう」
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