2・婚約者を奪った妹が殺しにきたようです
あれからどうやってヴォレンスと別れたのか、もはや思い出せない。思い出したくもない。彼に告げられた言葉は、いとも容易く私を打ち砕き、粉々にしてしまった。
張り裂けた心が血を流している。暗澹とした気持ちで寝台に倒れ込んだまま、顔を上げることさえできない。まるで世界が幕を下ろしたようだった。私の世界は、ここで終わったのではないのだろうか。このまま眠れば明日が訪れるということが信じられない。明日が訪れたところで、一体この先の人生、どう生きろというの。
(……ヴォレンス)
何より自分が嫌になるのは、こんな状況でもまだ、未練がましく彼を想ってしまうことだ。今だって彼がこの部屋に入ってきて、あんなものは全部嘘だったのだと、笑顔で言ってくれるのではと期待してしまう。有り得ないと、わかっていながら。
(婚約破棄なんてするなら、最初から私に冷たく接してくれればよかったのに)
どうせ捨てるのなら、なぜ私に笑顔を向けたの。なぜ私に優しい言葉をかけたの。なぜ、二人で幸せになれるなんて幻想を抱かせたの――
これまでヴォレンスと笑い合って過ごしてきた幸せの分、哀しみが重くのしかかる。彼を信じてきた自分の想いまで踏みにじられたようで、いっそう胸が軋んだ。
すると、その時――キィ、と部屋の扉が開く音がした。
(っ、まさか本当に――)
ヴォレンスの姿を期待して、ばっと顔を上げる。
だけど部屋に入ってきた人物を見て、ひゅっと呼吸が詰まった。
寝台に横たわる私を見下ろしているのは、マリーユだ。
「ごめんねぇ、お姉ちゃん。でも、お姉ちゃんは優しいから、許してくれるでしょう? 今までも、ずっとそうだったものね」
マリーユは謝罪の言葉を口にしながらも、ニヤニヤと、今にも吹き出しそうな表情を浮かべていた。
「……どうして、笑っているの」
「え? 何言ってるの、お姉ちゃん」
「私の前では、泣くことすらしないのね」
ヴォレンスの前では、健気な妹を演じて涙を浮かべていたのに。私なら、絶対に強く怒ったり、言い返したりすることはないと思っているんだ。だからマリーユは、私にこういう態度をとる。――なめられている。
「酷い。お姉ちゃんは、私にもっと泣いてほしいの? 私だって、本当に悩んだのよ。ヴォレンス様が私を拒絶したら、諦めようって思ってたの。でも、彼が私を選んでくれたんだもの。私のせいじゃないでしょう?」
「だからって……」
「大体、男性に好かれないのは、お姉ちゃんに原因があるからじゃない。お姉ちゃんがヴォレンス様の婚約者としてちゃんと絆を深めて、愛を積み重ねていたら、こんなことにならなかったわ」
非難されることなんて何もしていないはずなのに、いつの間にか責められる側に立たされている。おかしいと思うのに、ただでさえショックで頭が真っ白なところへ堂々とした態度でスラスラと言われ、上手く言葉を返せない。
「お姉ちゃんは被害者面をしているけど、本当にかわいそうなのは、たいして好きでもない婚約者にずっと縛られていたヴォレンス様の方だわ」
「わ……私にも、悪い点があったのかもしれない。だけど……どうしてそれを、今あなたが言うの。妹に婚約者をとられて、平気なわけないのに……っ」
「結局私のせいにするの? 私はただ、本当のことを言ってあげているだけなのに――ふ」
言葉の途中で、彼女は耐えきれなくなったように肩を震わせる。
「マリーユ……?」
「ふ……あははははっ。もう駄目、限界」
突然、どうしたというのだろう。マリーユはお腹を抱えてケタケタと笑い声をあげている。まるで、愉快な喜劇でも観ているかのように。
「私ね、お姉ちゃんのその顔が大好きなの。その、傷ついて絶望に歪んだ、間抜けな顔が」
「……何を言っているの、あなた……」
いや、驚愕するようなことではないかもしれない。美しい顔をしていても、マリーユはこういう性格なのだと、前々からわかっていた。とうとう本性を現したか、というところだ。
(だけど……こんなにもはっきり口にするとは思わなかった)
いくら私の前でも、最低限の猫は被り通すのかと思っていたのに。今日のマリーユは、どこか様子が違う。
「マリーユ、あなたはどうしてそうなの……? あなたは昔から、私のものばかり欲しがった。私のものを奪うことを楽しむみたいに。あなたはそんなに美しくて、お父様とお母様からも愛されているのに、どうして更に私から奪うの」
「だって、退屈なんだもの」
「退、屈……?」
マリーユは、一体何を言っているのだろう。同じ言語を喋っているはずなのに、何も通じていないかのように理解ができない。
「私は美しいわ。お姉ちゃんよりずっと、ね。この美貌のおかげで、私は誰からも愛されるし、守られる。これまで何不自由ない暮らしをしてきたし、この先もずっとそうだわ。でも、それだけ」
「それの、何が不満だというの……」
「ずっと、満たされなかったのよ。生まれた時から全てを持っているせいで、努力して何かを得るという達成感がない。優しくしてもらうことも守ってもらうことも当たり前だから、他者に感謝する気も起きない」
長い睫毛に縁どられた、マリーユの瞳。大粒の宝石のようなその目は、美しいはずなのに、今はひどく恐ろしいものに見えた。
「周囲から幸福だと言われる全てのことが、私にとっては当然のものすぎて、幸せだと感じられなかった。ひどく退屈で、空虚だったの。……そんな中で、お姉ちゃんの絶望だけが、私を満たしてくれた」
わけがわからなすぎて息を震わせる私を見つめ、次第にマリーユの頬が、薔薇のように色付いてゆく。
「お姉ちゃんが泣きそうな顔をすると、私の心は熱く震えるの。どんなに大切な物を私に奪われても、お父様とお母様から『妹のために我慢しなさい』と言われれば、涙をためてぐっと我慢するしかない、かわいそうなお姉ちゃん。お姉ちゃんを『ああ、なんてかわいそうなんだろう』って見下すことで、自分は価値のある存在だって思えるの。こんなふうに他人を支配することが、真の幸せなんだ、とも思った。だって私は、心が清らかないい子であることには何の価値もないんだってことを、お姉ちゃんから学んだのよ」
私は何も言葉を返すことができずにいるのに、マリーユはまるで何かに憑かれたかのように一人で語り続ける。
「もともと、私にとってお姉ちゃんって、見ていてイライラする存在だったのよね。いつまでも幼い子どもみたいに純粋に、愛なんてものを信じて。ヴォレンスのため、なんて一生懸命頑張って……。私よりずっと冴えない外見のくせして、目だけはいつも希望でキラキラ輝いてた。……だから、壊してやりたかった」
もはや怒りを通り越して、恐怖を抱いていた。生まれた時からよく知っている妹のはずなのに、得体の知れない幽鬼のように思えた。それでも、どんな言葉を口にしてもなお、花のような美しさは損なわれないのだからいっそう恐ろしい。マリーユの美貌が、不穏な言葉の数々をいっそう恐ろしく磨き上げ、まるで魔女が呪文を唱えているかのようにも見えた。
「他人の幸せを壊してやるのって、快感よね。まあ……思ったより簡単に壊れて、少しつまらないけど」
「どうして……そんなことで、快感を得ようとするの」
このままではいけないと、やっとのことで震える声を絞り出した。
「自分でも言っていたけど、あなたは美しくて、誰からでも愛される。退屈だからって、他人の幸せを壊す必要なんてない。結婚を望むなら、ヴォレンスではない人と愛し合えば――」
「馬鹿じゃないの? 人間の愛や絆なんてゴミみたいなものだって、お姉ちゃんとヴォレンス様が、証明してくれたんじゃない」
ひゅっと、喉から声とも息ともわからぬ音が漏れた。
私を見下ろすマリーユの瞳を、何と形容したらいいのだろう。氷のように冷たい目、だろうか。いいえ違う。何の温度もない目だ。宝石のような瞳は私に向けられているのに、彼女は何も映してはいない。
「12の時に婚約して、6年間仲睦まじく過ごしてきたお姉ちゃん達だって、私が少し割り込んだら簡単に壊れた。……ヴォレンス様が、私に振り向いたりしなければ。お姉ちゃんが、ヴォレンス様の心を射止めておけたなら。私は、愛というものを信じられたかもしれないのにね」
自分の愉悦のために人の婚約を壊しておきながら、マリーユはどこか失望したといったふうにふっと息を吐く。
「ヴォレンス様に婚約破棄されたこと、お姉ちゃんは、私のせいだと思っている? だけどね、私の誘惑なんかのせいで壊れるような仲なら、最初から駄目だったのよ。たとえお姉ちゃんとヴォレンスが結婚したところで、うまくなんていかなかった。いずれ私じゃない、別の美しい誰かにヴォレンス様が心変わりしていただけのこと」
「そんな……そんなこと……っ!」
「こんなことになってもまだ、希望に縋りつこうとしているの? 本当に滑稽ね。お姉ちゃんのそういうところ、心底イライラする。そう……私がこんなふうになったのも、全部、お姉ちゃんのせいよ」
言いながら、マリーユは夜着の長い袖に隠し持っていた何かを取り出した。
部屋が暗いから、一瞬何かわからなかったが……目を凝らしてよく見れば、彼女が持っているのは、小さなナイフだ。
(嘘でしょ、殺される……!?)
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