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1・婚約者を妹に奪われました

「フィオナ、君との婚約を破棄する」


 そう告げられた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 レングランツ伯爵家の長女として生まれ、12の時に、親によってグゾルブ侯爵家の息子である彼……ヴォレンスとの婚約を決められた。それから8年間、侯爵夫人として相応しい女性になれるよう努力してきた。


 少しでも彼の力になれるよう、語学や算術を学び続けた。令嬢の教養として、舞踏や楽器の腕も磨いた。親に決められた婚約だったとはいえ――私は、彼を愛していたから。


「……なんだよ、その目。不満でもあるのか?」


 明るい橙色の髪に、鳶色の瞳。昔はくしゃりと温かい笑顔を浮かべてくれることが多かったその顔に、今は何の温度も感じられない。


 出会った頃は、彼も優しかった。家のために決められた婚約だったけど、私達はうまくいっていると思っていた。彼は少し頼りないところもあるけれど、愛嬌があるというか、人の心を和らげる魅力があったと思う。初めて会った日、無邪気に言ってくれたのだ。「僕のお嫁さんになってくれる人って、君? え、嬉しい!」と、明るい笑顔で。


 昔からずっと、両親は美しく要領のいい妹ばかりを可愛がって、私は期待されてこなかった。だから、そんなふうに柔らかな笑顔を向けてもらえたことなんてなくて……恋に落ちたのだ。私の婚約者がヴォレンスでよかった、と、生まれて初めて運命に感謝した。


 ヴォレンスは勉強が得意ではなく、「将来、領主としてやっていけるかな~」と私によく不安を打ち明けてくれたので、そんな彼の力になりたいからこそ、一生懸命勉強を頑張った。努力は報われると思っていたし、私の想いは彼に通じていると思っていた。 


 だって私達は、婚約者なのだから。やがて時期が訪れたら結婚するのだと、信じて疑っていなかった。彼と挙げる結婚式や、二人で笑い合って暮らす日々、やがて誕生するであろう子どものことにさえ、思いを馳せたこともあった。今思えば、馬鹿げていたのだろうか。


 だけど――私達は、結婚、するはずだったのだ。彼と結ばれる日を、指折り数えてきたというのに。


(あなたと、幸せになれるのだと……思って、いたのに)


「どう……して……?」


 掠れる声で、なんとかそう尋ねるのが精一杯だった。いっそ悪い夢であってほしい。これが現実ではなく、目が覚めたらなんでもない日常に戻れるのならば、どんなにいいか。


 けれど現実は残酷で、打ちひしがれる私に更なる絶望を突きつけるように――カツンと靴音がし、二人だけだった私の部屋の中に、もう一人入ってくる。


「ごめんね、お姉ちゃん……。でも私、ヴォレンス様のこと、好きになっちゃったの」


(――嘘)


 涙で目を潤ませ、眉を下げて私を見つめるのは、紛れもなく血の繋がった妹、マリーユだ。

 姉妹だというのに、マリーユは美人の母に似て、花が咲くように可憐な容姿をしている。ゆるく波打つ金髪も、長い睫毛に縁どられた、宝石のような瞳も。何もかもが人目を引き、そこにいるだけで場を明るくする存在。それが、マリーユだ。


 母にとっては自分によく似た、父にとっては愛する妻によく似た娘。だから、両親ともマリーユを溺愛していた。……父に似て地味な容貌の私には、目もくれずに。


(どうして、マリーユ。よりにもよって、あなたが……)


 昔から、私の欲しいものを全て奪ってきたマリーユ。

 両親からの愛情はもちろんのこと……幼い頃、貴族達が集まる食事会で、本当は私が着るはずだったドレスを「お姉ちゃんのドレスの方がいい!」と言って、自分のものにしてしまった。両親はマリーユを咎めることもなく、「お姉ちゃんなんだから譲って当然でしょ」「可愛い妹に快く譲ってあげないなんて、あなたは心が狭い」と私に言い聞かせた。


 そして……実際にマリーユは、私のものだったはずのドレスを、私よりも美しく着こなしてみせた。その会に集まった誰もが彼女に目を奪われ、「そのドレス、よく似合ってる」とマリーユを賞賛した。私は遠くから彼女を見ていることしかできなかった。他にも、彼女が私の欲しいもの、大切なものを奪ったことは数えきれない。


「ヴォレンス、あなたも……マリーユのことを、好きになったの?」


(確かに、今まで誰もが私よりマリーユを選んできた。それでも……あなただけは、違うと信じていたのに)


 ヴォレンスは面倒くさそうに頭をかきながら、はあと息を吐き出した。


「そりゃあ……そうだろう。誰が見たってマリーユの方が、君より可愛らしい。マリーユの美貌があれば、王族との結婚だって夢じゃない。そう思っていたから、僕はマリーユに求婚することは諦めていたんだ。だけど……マリーユは他の誰でもない、この僕を愛してると言ってくれたんだ」


 私は幼い頃に親によって婚約を決められたけど、マリーユは今まで婚約をしたことがない。理由は、マリーユの美貌ならいくらでも結婚を申し込んでくれる相手がいるから、と両親が焦らなかったためだ。実際にこれまで何度も縁談は来ていたそうだが、マリーユならもっといい相手がいるだろう、と先延ばしにしてきたのである。


「お姉ちゃん、ごめんなさい。お姉ちゃんからヴォレンス様を奪う気なんてなかったの。だけど私の気持ちだけでも、ヴォレンス様に伝えたいと思って……。そうしたら、彼も私を愛してるって言ってくださったから」


 うっうっと、マリーユは涙を流しながら語る。


(……嘘泣きだ)


 姉だから、わかる。マリーユは私のものを奪ったからといって泣くような子ではない。今彼女が流している涙は単なる演出だ。ヴォレンスに、自分を姉思いな善良な妹だと見せるための。――自分が、悪人にならないための涙。


「マリーユ、泣かないでくれ。僕は、君が僕を愛していると言ってくれて本当に嬉しいんだ。僕らは愛し合っているだけだ、何も悪いことなんてしていないだろう?」


 ヴォレンスはマリーユの涙が嘘だとも気付かず、絶望している私よりも、彼女の方を力強く励ましていた。


「そんな……そんな心変わりで、昔からの婚約を破棄にするなど、不誠実ではありませんか」

「僕はマリーユと結婚する。家同士の繋がりという意味では、問題ないだろう」


(ヴォレンスにとって大事なのは家のことだけであって、私の気持ちはどうでもいいの……?)


 貴族にとって結婚とはそういうものだと理解していても、ヴォレンスは、私のことを思いやってくれる優しい人だと思っていたのに。


(彼は……本当に、こんな人だった……?)


 始めて出会ったとき向けてくれた朗らかな笑顔の面影など、どこにもない。年月が経ったせいもあるけれど、幼い日の彼とはまるで別人のように見える。


「ヴォレンス。私は……あなたの婚約者になるため、努力を重ねてきたつもりです。マリーユよりも……私の方が、あなたを愛しています……っ」


 今更こんなこと言っても、きっと何の意味もない。わかっているのに、言わずにはいられなかった。


 ヴォレンス、あなたはマリーユの外面に騙されている。お願い、目を覚まして。あなたならきっと、ちゃんと話せばわかってくれるはず――


 淡い希望の灯を消し去るように、彼は眉を顰め、吐き捨てるように言った。


「君が僕を愛していたところで、僕が君を愛していないのだから、意味なんてないだろう」

夕方以降、2話からも投稿する予定です。

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