第二章 目撃情報
私たちは、県警の鑑識課にやってきた。ここに来るのも何だか久しぶりな気がする。
「須賀くん」
丸柴刑事が呼びかけると、「はいはい」という軽い口調が返ってきて、部屋の奥から鑑識の制服を着た青年が姿を現した。
「――あ! 理真ちゃんに、由宇ちゃんじゃないですか!」
その青年、須賀洋輔は、理真と私――特に理真――の顔を見ると、相好を崩して歩を速めてきた。警察の中には、理真のような民間探偵が捜査に介入してくることを快く思わない人たちもいる。が、今の反応から分かるように、須賀は民間探偵を歓迎してくれるタイプの警察官のひとりだ。民間探偵というか、理真のことをといったほうが適切なのかもしれないが。
「須賀さん、こんにちは」
笑みを浮かべて理真が挨拶し、私もそれに倣った。
「いやぁ、久しぶりだねぇ」と須賀は、私たち――特に理真――に向かって、「二人とも最近、全然鑑識に来てくれていなかったからさ、もう俺、仕事に対してのやりがいがなくなるっていうか、仕事をする意味を見いだせなくなっちゃっててさ、俺、何のために働いてるのかなって悩むレベルで、それはもう……」
須賀は、よよよ、と制服の袖を目に当てた。なにも泣かんでもええやねん。
「須賀くん、証拠品を見せてあげて」
あくまで冷静な丸柴刑事の声を受けると、須賀は、「はいっ」と一転、背筋を伸ばして、
「どうぞ、こちらへ」
私たちを奥へと導いた。
「もう、とことん調べ尽くしたから、いくら触っても大丈夫だよ」
須賀はそう言ってくれたが、理真と私は念のためにと手袋をはめてから、凶器となった加湿器型猫――じゃなかった、猫型加湿器に臨んだ。写真で見たときにも同じことを感じたが、白猫をモチーフにしているため、右前脚部分に残る赤黒い血痕がことさらに目立つ。
理真が、猫の耳――加湿器の蓋を開け閉めする取っ手になっている――を掴み、かぱりと蓋を開けると、饅頭のような体型をした猫の首部分が取り外され、胴体部分の内部に設置された水を注いでおくタンクが見えた。当然、中身は空だ。もとのように蓋を閉じると理真は、加湿器を両手で抱え上げ、血痕の付着部である猫の右前脚部分を眺めて、
「……目立った傷はないですね」
鑑定士のように手の中で加湿器を回して確認していた。
「そうだね」と今度は須賀が、「陶器とはいえ肉厚だし、被害者の髪や頭皮がクッションみたいな役割を果たしたから、加湿器自体に大きな傷は入らなかったんじゃないかと見ているよ」
「なるほど。須賀さん、鑑識から見て、この凶器に何かおかしな点などはありませんでしたか?」
「そうだねぇ……。強いて言うなら、血痕の付着具合かな」
「どういうことでしょう?」
「拭ったような跡があるんだよ」
「拭う? 一度付着した血痕を?」
「そう」と自身も理真の隣に行った須賀は、「見て」と血痕付着部を指さして、「ここ、少し削れたような跡があるでしょ」
「……確かに」
私と丸柴刑事も寄って見てみると、なるほど、血痕が付着した猫の前脚部分の中に削れたような跡がある。そのため、まるで血痕の海の中に浮かぶ孤島がごとく、陶器の表層部が露出している。
「血痕を拭き取ろうとして、こうなったのでしょうか?」
理真が訊くと、須賀は、うーん、と首を傾げて、
「それにしては、陶器の表面まで削れているというのは変だよ。タオルやハンカチで擦っただけじゃ、どんなに力を入れたって、ここまで表層を削る結果にはならないと思う」
「布ではない、もっと硬いもので擦ったということですか?」
「そうかもしれないね。最初は布で血を拭おうとしたんだけれど、全然取れないから、ヤスリがけをするみたいに血痕を削り取ろうとしたとか……?」
「それにしては、諦めるのが早いですよね。ほんの数ミリ程度しか削れていません」
「そうなんだよ。時間的な問題でやめてしまったのか、あるいは、運搬する途中でどこかにぶつけただけで、意図してそうなったわけじゃないのかもしれない」
「なるほど。あと、血痕の付着量が少ないかなって、私は見て思いましたけれど」
「それについてはね、凶器が被害者の頭部に命中したのは一瞬だけのことで、その傷も一気に血が噴き出るようなものじゃなかったから、凶器に付く血の量はそれくらいでもおかしくはないだろうね。被害者の致命傷は、外的な傷というよりも、衝撃が頭蓋骨を伝って、中の脳を損傷させたという要因によるものだから」
「そういうことですか」
納得したのか、理真が凶器を置いたところに、
「――丸柴さん!」
部屋にひとりの刑事が飛び込んできた。
「中野くん、どうしたの?」
振り向いた丸柴刑事が、入室してきた男性の名を呼んだ。捜査一課の中野勇蔵刑事。彼も素人探偵である理真のよき理解者で、何度も一緒に捜査をしたことがある。何だか中野刑事と会うのも久しぶりな気がする。
「あ、安堂さんと江嶋さんもご一緒でしたか。ちょうどよかった」中野刑事は、理真と私に向かって頭を下げてから、再び丸柴刑事を向いて、「目撃情報です」
「誰?」
「岡森康明です」
その名前は、被害者と以前交際していたという同級生か。
「いつ、どこで?」
「凶器の発見現場近くです。時間は、昨日の午後八時半頃」
「死亡推定時刻の直後じゃない」
「ええ。しかもですよ、何か抱えながら、凶器発見現場である空き地に入っていったそうです」
「何かって、もしかして……」
「なにぶん暗くてよく見えなかったそうなんですが、両手で抱えた、直径二十センチくらいのものだったとか」
皆の視線が一斉に猫型加湿器に向いた。中野刑事は続けて、
「目撃者は、日課にしている夜のウォーキング中で、すぐに歩き去ってしまったから、その後、岡森――らしき人物――が、その抱えていたものを捨てたのかどうかまでは分からないそうなんですが」
「間違いないの? その人物が岡森さんだということに」
「写真を見てもらったところ、よく似ているということでした。それと、そばに車も駐まっていたそうで、その目撃者はウォーキングコースとして、ほぼ毎日その空き地の横を通るそうなのですが、そこに車が駐まっていたことは、今まで一度もなかったそうです。ナンバーまでは確認しなかったのですが、車種と色は憶えていてくれて、それが岡森の車と一致しているんですよ」
「それは、岡森さんに聴取しないわけにはいかないわね」
「ええ。もう連絡を取って、会社帰りに本部に来てもらうことになっています。連絡を入れた警官によれば、その話をしたとき、電話口の岡森の声は明らかに動揺していたそうですよ」
「理真、由宇ちゃん」丸柴刑事は、理真と私を向いて、「その聴取に同席してもらえる?」
当然、二人とも頷いた。
「いやぁ、安堂さん、江嶋さん」と中野刑事は、報告が一段落したことに落ち着いたのか、「何だかお久しぶりですね」と私たち――特に理真――に笑顔を向けてきた。
「馴れ馴れしく話しかけるな。理真ちゃんが迷惑してるだろ」
それを見た須賀が、すかさず横やりを入れてくる。
「なにおう」
「理真ちゃんは、証拠品を見るためにここに来たんだよ。用が済んだならお前はもう帰れ」
さらに須賀は、犬でも追い払うように、しっしっ、とぶっきらぼうに手を振った。負けじと中野刑事も、
「そういうことなら、用が済んだらここにいる必要はないってことだろ。安堂さん、用事は終わりましたか。ささ、行きましょう。聴取の準備をしないと」
「なに勝手に話を進めてんだコラ」
「なにがコラじゃコラ」
「なにコラ」
「タココラ」
刑事と鑑識員がぶつける激しい視線の火花の中をするりと抜けて、理真と私は丸柴刑事とともに部屋を出た。理真を間にした二人のやり合いも久しぶりに見た気がする。