第一章 持ち出された凶器
新潟市中央区内のアパートで殺人事件が起きた。
被害者は池町弘枝。二十九歳。市内の企業に勤める会社員。
死体の第一発見者となったのは宅配便の配達員。呼び鈴を押した時刻は午後八時十五分頃だったという。七時から九時までの時間指定を受けた荷物にもかかわらず、室内からの応答はなく、さらに数回、呼び鈴を押下したあと、肉声による呼びかけも行ったが、状況は変わらなかった。
――時間指定したにも拘わらず留守とは。いや、就寝には早い時間だが、うとうとして眠ってしまっただけなのかもしれない。
荷物を持ち帰りたくなかった配達員が、集荷表に記載されていた依頼主――被害者――の電話番号へ架電すると、ドア越しに着信音が聞こえてきた。
――在宅しているのは間違いないな。
再配達せずに済む、と胸をなで下ろした配達員だったが、ドアの向こうからは着信音が鳴り続けており、一向に依頼主が出てくる気配もなく、そうしているうちに呼び出し音は留守番電話案内へと切り替わってしまった。
名前から察するに依頼主は女性のため、当然ドアには施錠がされているだろうと思ってはいたが、念のためにと握ったドアノブは予想に反して回転した。躊躇したものの――しつこいようだが――再配達を避けたかった配達員は、「失礼します」と言いながらドアを薄く開け、室内に向かって宅配便の配達である旨を呼びかけて――そこで目にしてしまった。玄関すぐの炊事場と奥の居間とを隔てるドアは開け放たれていたため、居間の中までが玄関から見通せる状態になっていた。居間の中央にあるローテーブルには、たったさっきまで鳴動していたであろうスマートフォンが置かれており、その横には、頭から流した血でラグマットを真っ赤に染めた、池町弘枝の遺体がうつ伏せに倒れていたのだった。配達員は即座に110番通報をした。通信指令センターの記録によれば、通報時刻は午後八時十八分。
「……というのが、昨夜の話」
丸柴刑事は、事件発覚から一夜明けた昼過ぎ、新潟県警の応接室で、理真と私に死体発見時の概要を聞かせ終えた。
ひと息入れると、丸柴刑事の話は続き、「被害者である池町弘枝さんの死亡推定時刻は、午後六時半から八時までの一時間半と見られてるわ」
「待って、丸姉」と、そこで理真が口を挟み、「死亡推定時刻の下限が通報の十八分前? じゃあ、死体が発見されたのは、被害者が亡くなって間もない時間だったってこと? それにしては、上限が六時半っていうのは、幅を設けすぎな気もするけど」
「それはね、室内に暖房が効いていて、さらに、ホットカーペットの上に乗っていたことで死体が温められていたからなの。死亡推定時刻に一時間半も幅を取ることになってしまったのは、そのせい。加えて、昨日、被害者は定時に勤め先を出て、午後六時には帰宅していたらしいから、目撃情報の線から死亡推定時刻の上限を引き下げるのも無理ね。胃の中もほぼ空っぽだったから、内容物の消化具合から死亡時刻を割り出すという手も使えなかったの。被害者は夕食を摂る前に殺されてしまったんでしょうね」
「なるほど」
「納得してもらえたところで、凶器の話に移るわ。まずは……」と丸柴刑事は、テーブルに置かれたファイルをめくると、一枚の写真を指さして、「見て」
「……なにこれ?」
写真を覗き込んだ理真が首を傾げた。一緒に写真を見た私も同じく疑問を持った――いや、これが何を模しているのかは分かる。猫だ。全身真っ白の白猫だ。ただし、“模している”と表現したことから察せられるように、生きている本物の猫ではない。猫を模した置物――単純な置物ではないだろう。というのも、直径、高さ、ともに二十センチ程度の――大きさが分かるよう物差しを横に置いて撮影されている――その巨大な饅頭のごとき猫(の置物)からは、先端がUSBプラグとなったコードが伸びているためだ。
「加湿器だって」
饅頭型の猫の正体を丸柴刑事が口にした。なるほど、猫の首の部分に分割線が見える。恐らく、ここを境に猫の首が外れるようになっていて、貯水タンクとなっている胴体の内部に水を注いで使用するのだろう。
「これで、被害者の頭部を……」
「そう」理真の言葉に頷いた丸柴刑事は、「陶器製だから、意外と重量があるわ。人間の頭蓋骨を砕くことも十分可能でしょうね。というか、実際やれてるしね」
その痕跡はある。右前脚部分に血痕が付着しているのだ。この加湿器のモティーフは白猫のため、赤黒い血痕が余計に目立つ。
「何でまた、こんなかわいらしいもので人を殺そうと思ったのかね」
理真は、やるせなさそうに嘆息を漏らした。
「突発的な犯行で、たまたま手元にあったのがそれだった、というだけなのかもしれないわね。ちなみに、被害者の傷口に特徴的な痕跡があって、それが、この猫型加湿器の猫の前脚部分の形状と一致していたわ」
確かに、写真の猫型加湿器に付着した血痕は、右前脚を造形してある箇所にしかない。さしずめ、殺人ネコパンチといったところか……なんて冗談を言っている場合ではないことは、重々承知している。
「加えて、遺体は少量だけれども水を被っていたの。この加湿器の蓋は、軽いロックがかかるだけで、そう密閉性があるものじゃないわ」
「犯人が殴りつけた拍子にこぼれ出た水が、被害者にかかってしまったということなんだね」
「そう。だから、この加湿器が凶器であることは間違いない……んだけど」
急に丸柴刑事の言葉の歯切れが悪くなった。当然、理真は、
「どうかしたの?」
と口を挟む。
「この凶器の発見場所が問題でね」
「発見場所って、現場じゃないの?」
「そう。このアパートから数百メートル離れた空き地で発見されたのよ」
「凶器は現場から持ち出されたうえ、数百メートルも離れた場所に遺棄されたってこと?」
「そうなるわね」
「なんで?」
「それを解明してもらおうと、理真を呼んだんじゃない」
一報で話を聞いた時点では、理真に出馬要請がかかるような事件でもないなと思っていたのだが、そういうことだったのか。
新潟県警捜査一課に所属する丸柴栞刑事から殺人事件の話を聞いていた、この安堂理真なる女性は作家を生業としているが、それとは別の顔も持っている。世に言う“素人探偵”というものだ。彼女は、居住する新潟県を管轄とする県警に捜査協力をして、数々の不可能犯罪を解決に導いてきた実績を持っている。そして、理真の横で一緒に話を聞いている私、江嶋由宇は、理真とは高校時代からの同級生であり、現在は彼女が住むアパートの管理人であり、理真が素人探偵として活動する際には助手を務める関係でもあるのだ。探偵とワトソンの二人に加えて、懇意にしている――『丸姉』という理真の呼び方で、二人は親しい間柄だということが伝わるだろう――丸柴刑事も二十代の女性であるというのは、全国の素人探偵界隈を見回してみてもレアなケースだろうと思っている。
理真に対して県警が出馬要請を出すのは、完全な密室で他殺体が見つかったというような、オーソドックスな“不可能解明”が絡む、言葉どおりの不可能犯罪ばかりではない。今度のような、事件の構造に謎を孕んでいる“不可解解明”や“状況解明”といった性格のものも多く含まれているのだ。
「凶器が犯人自身が持ち込んだものであれば、出所を追われる危険から持ち帰って遺棄することはあるけれど、これは現場にあったものだからね。わざわざ持ち出す理由がないわ。まして、こんな重くてかさばるものを」
「丸姉、その加湿器は、最初から現場の部屋にあった――被害者の所持品だった、というのは確かなの?」
「間違いないと思う。見て」と丸柴刑事は、ファイルのページをめくり、また別の写真を開示した。それは被害者が使用していたデスク周りを撮影したもので、その写真の一部を指して丸柴刑事は、「このマットに円形の跡があるでしょ。これが、加湿器の底面の大きさと完全に一致しているの」
丸柴刑事の指の先、写真の中のデスクの上には、一辺が二十センチ程度のかわいいマットが敷いてあるのだが、確かにそこには、円形に何かを置いた跡が付いている。近くにUSB電源もあることから、ここが猫型加湿器の定位置だったと考えても、丸柴刑事の言うように間違いはないように思う。それを見た理真も、納得したように頷いてから、
「犯人は、何かしらの動機、原因から、机に置いてあった陶器製の加湿器で被害者を撲殺してしまった。使用した凶器から見て、突発的な犯行だった可能性が高いね。で、犯行後に犯人は、その凶器を持ちだしたうえ、遺棄した……」
「ちなみに、凶器から指紋は出なかったわ」
「出なかったって、被害者の指紋も?」
「そう。よほど念入りに拭き取ったんでしょうね。その他、皮膚片だとか、服の繊維だとかいったような、犯人に繋がるような痕跡なんかも、一切なし。あるのは被害者の血痕だけ」
「じゃあ、別に持ち出す必要ないよね。犯人自身の痕跡を消したのだとしたら、現場に放置しても何ら問題はないはず。それでも念には念を入れて持ち去ったのだとしても、最終的には遺棄しちゃってるもんね」
「そうね。さっきも言ったけれど、あんなかさばるものを、わざわざ」
「遺棄されていたって、具体的にはどんな感じだったの?」
「空き地の隅に転がってた。付近を捜索中の警官が発見したのよ」
「じゃあ、ことさら隠そうとするような意図は見られなかった?」
「かもね。その空き地の近くには狭い雑木林もあったから、凶器を隠したかったのであれば、その中へでも投げ込んでおけば簡単だったでしょうね」
「犯人が持ち込んだわけでもない、犯人に繋がる痕跡があったわけでもない、しかも、あんな持ち運びにくいものを、どうして犯人は現場から持ち出したんだろう? しかも、最終的には、特に隠すような意志もなく、空き地に放っておいた……」
「理真にその謎を解いてもらえたら、犯人特定の鍵になるかなって思ってるんだけど」
「特定、ってことは、容疑者は複数名いるんだね」
「そう」
と丸柴刑事は、懐から取りだした手帳を開いて、
「まず、立原博史さん。三十一歳。被害者である池町さんの勤め先の先輩で、交際相手でもあるわ」
「交際相手が容疑者?」
「聞き込みによるとね、二人は最近、以前ほど親密ではなくなっていて、その原因っていうのが、立原さんの浮気なんじゃないかと。二人が言い争いをしている現場を目撃したっていう証言も得られているわ。言い争いっていうか、池町さんのほうがほぼ一方的に立原さんに対して捲し立てていたって感じだったそうだけど」
「浮気のことを責めていたのかな」
「たぶんね。まあ、そうであれば、殺意は池町さんから立原さんのほうに向かいそうなものだけれど、反撃して返り討ちになっちゃったという可能性もあるからね」
「男性と女性とじゃ、体格差もあるしね」
「で、二人目の容疑者は、その立原さんの浮気相手――と目されている人物。箱根鈴枝さん。二十八歳。勤め先は池町さんと同じ。つまり、社内恋愛であり、社内浮気でもあると。この箱根さんって、被害者の池町さんとは仲が良くて、浮気をしていながらも、池町さんとの友人関係もつつがなく続けていたっていうから、事情が複雑というか、最近の恋愛事情にはついて行けないわ……って、こんな話はどうでもいいか。とにかく、こちらの場合も、むしろ殺意は被害者のほうから向きそうに思えるけれど、同じことね。返り討ちの末の犯行という可能性もある」
「うん。凶器が咄嗟に手にした加湿器なら、計画性もないと思われるもんね」
「最後。岡森康明さん。三十歳。市内の商社に勤める会社員。被害者である池町さんの高校時代の同級生よ」
「その人だけ、被害者と同じ勤め先じゃないんだね」
「そう」
「で、高校の同級生なんて、何十人もいるだろうに、どうして、その岡森さんが容疑者として挙げられたの?」
「昔、付き合っていたから。一昨年に開催された同窓会で久しぶりに再会したことがきっかけだったそうよ」
「容疑者候補に挙がるってことは、あまりいい別れ方をしなかったってこと?」
「みたいね。別れたのは数箇月前くらいらしくて、池町さんのほうから振ったみたいなんだけれど、岡森さんのほうは未練たらたらだったらしいわ。何回か復縁を迫るようなことがあって、池町さんの会社の人や知人に目撃されてる」
「なるほど」
「岡森さんにしても、未練があってまだ好きな池町さんを殺す動機はないと思われるけれど、こちらの場合は、あまりに池町さんにつれない態度を取られ続けたことで逆上して、っていう可能性があるわね」
「ありえるね。でも、そうなると、犯行現場が池町さんの自室っていうのが問題になってくるよね」
「そうね。そんな関係だったなら、池町さんが岡森さんを自宅に招き入れるとは考えがたいもんね、でも、まあ、だからといって容疑者リストから削除するわけにはいかないでしょ」
「ごもっとも。で、アリバイも調べてるの?」
「もちろん。三人ともアリバイはなし。全員ひとり暮らしで、池町さんの死亡推定時刻――昨日の午後六時半から八時まで――は、自宅にひとりで過ごしていたと証言しているわ。アリバイがないことと、被害者との関係性から、容疑者をこの三人に絞ったってわけ」
「ふむ」
話を聞き終えると理真は、ソファの背もたれに背中を預け、ブラックコーヒーの入った紙コップを口に運んだ。
「どう、理真、とりあえず、凶器を見てみない? 押収して鑑識に置いてあるから」
「そうだね」
丸柴刑事の言葉に、理真は残ったコーヒーを一気に飲み干した。