関ヶ原合戦の「島津の退き口」の際、島津義弘率いる島津兵は約300名程しかいなかったのか
最初に申し上げておきますが、私は決して関ヶ原合戦における島津兵の勇猛さを認めていない訳ではなく、それこそ実際に関ヶ原合戦の現場にいた兵の中では、島津兵は一、二を争う勇猛さを持っていたのではないか、と推測しています。
そして、その勇猛さがあったからこそ、敵中突破の末に多大な犠牲を払いましたが、島津義弘は無事に帰国を果たせたと考えています。
ですが、その一方で、一部のネット情報等では関ヶ原合戦の「島津の退き口」の際、島津義弘率いる島津兵は約300名程しかいなかった、というのにはどうにも疑問を覚えてならないのです。
一昔前に出版された新書で、現在では更に研究が進んでいるかもしれませんが、改めて桐野作人氏の「関ケ原 島津退き口」とネット情報を当たり直して、私の考えを述べたいと思います。
まず、関ヶ原合戦の際に島津義弘は当初、どれ位の兵力を率いていたのでしょうか。
一次資料と言えるその際に、島津義弘が残している国元に対して軍勢を集めることを求める複数の書状を見る限り、島津家の表高62万石(実際には島津義久等の軍役を課せられない蔵入地が21万石あるので、実高は41万石)に相応しい100石に1人である6200人(どころか4100人)も、島津義弘が率いる兵がいなかったのは、間違いない話としか思われません。
更に関ヶ原合戦の際に、島津義弘と共にいた家臣の覚書によれば、
「約5000を自らが率いていれば、西軍を勝たせていたものを」
と島津義弘は悔恨の言葉を述べたとのことです。
ということは、4000もいなかったのは事実とみてよい、と私は考えますが。
その一方で、他の複数の資料を孫引きした上での推論になりますが、国元から相次いで義弘を慕う兵が駆けつけた結果、私が見る限り、関ヶ原合戦の際には島津義弘は少なくとも約1000、恐らくは約1500の軍勢を率いていた、と考えています。
とはいえ、これは関ケ原の合戦に突入した際に、島津義弘が率いていた兵力です。
関ヶ原合戦の際に討ち減らされてしまい、「島津の退き口」を行う際には、約8割の兵が失われていて、島津義弘の下には約300しかいなかったのだ、と反論されそうです。
ですが、これにも疑問を私は覚えます。
有名な関ヶ原合戦の際のエピソードとして、石田三成が島津義弘に対して、
「最前線に速やかに赴いて、島津勢は戦われたい」
と自ら指示を出したのに対して、島津義弘は
「自分の好きにやらせてもらう」
と返答し、石田三成も、
「それなら、そうされるが良い」
と言った、というエピソードがあるからです。
これは二次資料に出てくる話ですが、少なくとも島津勢が、関ヶ原合戦の際に基本的に最前線で戦っていなかったのは、間違いない話ではないでしょうか。
実際、島津家に遺されている「島津の退き口」を切り抜けた将兵の証言、更に東軍の将兵の証言といった資料(これまた、後世で編集された資料なので、二次資料に過ぎませんが)でも、島津勢は最前線ではなく、後陣にいたとなっています。
桐野氏の推測や、私自身もネット情報を様々に検討する限り、西軍は戦意等の高い石田勢、宇喜多勢を最前線に配置して東軍を消耗させ、そこに後陣の島津勢等を投入する「後手からの一撃」で、関ヶ原合戦で勝利を収めようとしていたのではないか、と推測されます。
実際、この戦法は長篠の戦等でも用いられた戦法であり、決して悪い戦法ではありません。
しかし、実際には小早川勢等の寝返りによって大谷勢等が崩壊し、更に毛利勢等が日和見をしたことから、関ヶ原合戦で西軍は結果的に崩壊し、西軍が敗北することが明らかになります。
このような時に、島津義弘は数万の敵軍、東軍を中央突破しての「島津の退き口」を断行しようと決断することになるのですが。
さて、問題です。
最前線で戦っておらず、後陣に控えていた島津勢が、このような状態で約300まで減っているような事態が起きるでしょうか。
私としては、最前線で戦っていない島津勢は、「島津の退き口」を実行に移した際には、まだほとんどの将兵が健在だった。
つまり、少なくとも約1000,恐らくは約1500の兵が島津義弘の下にいた、と考えます。
何を言っている、戦場の混乱というのを、お前は知らないのか、戦場の混乱等で島津勢の過半数、恐らくは約8割の将兵が既に失われていたに違いない、と叩かれそうです。
でも、それは島津勢に対する大変な侮辱に他ならない気がします。
ほぼ戦わずして、約8割の将兵が失われたとか、それこそどこの国の軍隊ですか?の話です。
そんな国の軍隊は、普通は弱兵にも程がある、と叩かれるのが当たり前では?
島津勢は、そんな弱兵揃いだった、というのでしょうか。
実際、桐野氏の著作からの孫引きですが、どう見てもこの時に1000名以上の兵が島津義弘の下にいたとしか、私には考えられないのです。
例えば、長寿院盛淳の最期です。
長寿院盛淳は、島津義弘の身代わりとして本陣に残った末に、討ち死にしました。
その際にそれなりの数の兵(薩摩旧伝集によれば283名)が、長寿院盛淳と共に残って戦っており、華々しく戦った末にその多くが討ち死にしています。
又、関ヶ原で島津義弘と共に戦った新納旅庵の家譜「新納氏一流第四」によれば、「島津の退き口」を果たした後、島津義弘とはぐれた自分達、約300人は北近江路等を辿って薩摩へと帰国しようとしたとされています。
こうしたことから考えると、「島津の退き口」を決断した際に、島津義弘の下にいる兵は約300名程に減っていた、というのには、どうにも疑問を覚えます。
やはり、少なくとも1000名以上、恐らく約1500の兵が「島津の退き口」に参加していたのではないでしょうか。
勿論、その兵全てが島津義弘と同行して、参加した訳ではなく、長寿院盛淳やその兵のように、敢えてその場に止まっていた兵も含めての話にはなりますが。
後、桐野氏によると「島津の退き口」において、最初から島津義弘が前方の東軍の中央突破を果たして、伊勢路を目指そうとしたというのには、疑問があるそうです。
何故かというと、島津義弘は最初は東を目指したという記録があるからです
最初は大垣城を目指すつもりだったが、大垣城が炎上しているのを見たことや、長宗我部盛親や長束正家の軍勢と一時的に合流した末に、伊勢路を目指すことにしたのではないか、とのことです。
又、島津義弘もかなり死を覚悟しており、もし死ぬのならば華々しく討ち死にするまで、と決断した末に、東軍への突撃を行ったようです。
そして、「島津の退き口」というか関ヶ原合戦において、どれ程の戦死者が島津家に出たのか。
桐野氏によれば、島津家には「殉国名藪」という戦死者の名前を記録した交名が残されており。小者や中間、夫丸といった軽輩の者の名前まで載っているとのことで、それによれば476人の戦死者が確認できるとのことです。
尚、その中で関ヶ原合戦当日の戦死者は246人、次に多いのが9月28日、島津義弘らが帰国の途上で、黒田水軍と合戦に及んだ日で196人の名が残されているそうです。
(後、9月18日が1人、9月23日が33人とのこと)
勿論、全ての戦死者の名前が網羅されているわけではないでしょうが。
本当におびただしい犠牲を払った上で、島津義弘は「島津の退き口」を完遂したのだ。
と深い感慨にふけらざるを得ない交名です。
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