『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ワールド ヒーローズ ミッション』への極めて捻くれた考察
先日、私は友人と共に『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ワールド ヒーローズ ミッション』を見に映画館へと赴いた。
映画は非常に面白く、確かな高揚と満足感を覚えて劇場を出たのを覚えている。最初から最後まで無駄な展開の無い構成力、めっちゃくちゃに動くド派手な戦闘シーン、息もつかせぬイベント展開等々、魅力を挙げればキリがないくらいだ。
しかしある日、私はふとこの映画について考えていたら、この作品の描写についてある疑問が生まれてしまった。そして何よりも、これは作品の見え方、ともすれば根幹を大きく揺るがしかねない疑問であった。
そういうわけで、オタクが集まり性癖を押し付け合うように、この作品の考察を世に出すことで皆さまと意見の交換をしたく筆を執ることにした。
まず最初にだが、私は決してアンチではない。また映画は先も書いたが面白いと思っており、この点については疑問が浮かんだ今となっても変化はない。しかし今から書く内容は、ある種この作品への批判とも受け取れる物であり、そのため人によっては不快にさせるであろうことが予見できる。
純粋な目で見つめれば、これは正義が悪を倒すヒーローストーリーだ。しかし私は捻くれ者であるため、『正義の名の下に悲しい被害者を見放す物語』と認識してしまった。以下はそれを思ってしまった理由である。
◇ ◇ ◇ ◇
・ストーリーの内容について
過剰なネタバレは避けるためあまり詳細には触れないが、簡単に言えば「ヤバいテロリスト集団のせいで世界がヤバいのでヒーローたちがテロリストたちをぶっ倒す物語」である。私が見ていたのはもしかしたらキングスマンだったのかもしれない。
このヤバいテロリスト集団と言うのが作中に登場する思想集団、「ヒューマライズ」だ。彼らはヒロアカの世界独特の「個性」という超能力を恐れ憎んでおり、個性はやがて世界を滅ぼすと考えている。
そのためある種の優生思想で、この個性持ちの人間を駆逐してやろうとするのだが。個性持ちが八割を超えるこの世界で、それはつまり大量虐殺を意味する。それは流石にまずいとヒーローたちがこのヒューマライズ打倒へと乗り出すのだ。
この思想集団をまとめあげているトップが「フレクト・ターン」という名のいかにもな教祖だ。今回の考察では特にこのフレクト・ターンとヒューマライズが非常に重要な役割を持つので、この二者には触れておきたい。
ちなみに個性撲滅を掲げるヒューマライズだが、フレクト・ターンは実のところ個性持ちである。どうやらこの集団には個性持ちが少なからずいるようだ。まあ、そりゃあ全人口の八割なのだから当然だろう。
まあそれはさておき。フレクト・ターンの個性は「反射」であり、これは本人自身コントロールができていない。ありとあらゆる衝撃を完全に反射する個性であるため、彼は親から抱き締められたこともなく、また誰からも好かれなかったと言う。更に厄介なことに自分への衝撃も全て反射するので死のうに死ねなかったらしい。毒でも飲めばよかったのではないだろうか。
とまあ、これが考察の重要なパーツである。それでは今から疑問点についてつらつらと記していく。
①デクのフレクト・ターンへの発言について
フレクト・ターン(面倒臭いので以下ターンと呼称)は作中のラスボスであり、当然オオトリを飾るのはヒロアカの主人公である緑谷出久ことデクである。
デクはターンの反射の能力に苦戦しながらも、何度も何度も何度も何度も必殺技を放ち、そしてやがてはターンの反射の能力の限界を超えて彼を打ち倒す。その際にデクは、ターンに対してこうと言い放っている。
「お前は諦めたんだ」
これはターンの過去を聞き、彼が誰からも抱き締められなかったのは、彼自身が個性のコントロールを諦めたからだという意味を込めての発言であった。
ヒーローは何があっても諦めない。僕たちは壁を超える。プルスウルトラ。決め台詞的に放たれたこの言葉は、作中屈指の名言であろう。
他方で、ここで一つ立ち止まって考えて欲しいのだが。
フレクト・ターンが誰かに抱きしめてもらうためには、反射の能力の限界値を超えなければならなかったということである。
そして何よりも、この限界値は、デクの必殺技、「デトロイトスマッシュ」を、とんでもない数受けることでようやく迎えられる値でもあるのだ。
ハッキリ言えば無理だ。不可能である。
それこそターンと戦った時のデクは、最大出力レベルの必殺技を打っていた。それは腕が折れていた描写からもわかる通りだが。
そして最大出力レベルとなれば、一撃で超巨大ロボットをぶち壊せる(これは作中最序盤の描写であるため、成長した今ではもっと強くなっていると考えられる)程である。異世界転生トラックの衝突に比べ遥かに強大な威力と言えるだろう。
それを何十発、下手をすれば百はこえる回数受けてようやく迎える限界値というのは、もはや無限と言っても差支えが無い。
無限を超えてきたデクは確かにすさまじいが、しかしこのレベルの限界値を諦めずに超えろというのは、特にヒーローになる気があったわけでもないターンに対してはあまりに酷であろう。そんなの諦めたって仕方がない。
なによりもこれほどの衝撃を自分に与え続けるのは、状況的に難が過ぎる。それこそカノン砲の一撃でも全く足りないのだ、それをどうやって受ければいいのだろうか。少なくとも私は、カノン砲を持ち込むことさえできる気がしないので何一つとして浮かばない。
なおここでは本人へのダメージは一切考えていないものとする。なんたって、反射だから無ダメージだからね。
②ヒューマライズという組織について
ヒューマライズは個性を撲滅せんとしている結構アレな思想団体である。
世の中で「世界をより良くしたい」とわざわざ凱旋する団体は大概アレなように、この思想団体もかなりヤバい性質を備えている。それは先述した内容からわかる通りであろうが。
ところで、この組織の構成員だが、おそらく他の○○の会と言った団体よりも、「無個性」の人間が大層に多くいると考えられる。
というか、彼らが用いた手法上そうでなければ計画がそもそも成り立たない。そしてここで更に出てくるのが、この世界における無個性者の扱いである。
まずだが、この世界における無個性者の扱いは結構酷いところがある。そもそもで個性持ちが八割程度いる世界なのだから、彼らは少数派ということになる。そして得てして少数派とは邪険に扱われる物で、事実デクは(間違いなく本人の気弱な気質も関係しているだろうが)無個性であることで爆轟から酷くいじめられていた。
そしてだが、彼のように無個性だからといじめられる人間は多くいることだろう。どれほどしょぼかろうと、「個性を持っている」というのはその時点で大きな違いとなる。個性の強さがヒエラルキーにも関わるような描写はされているため、無個性はその中で最下層に位置することになり、この分析は間違いではないだろう。
なによりも、作中の描写的に多くの人間が個性を活かした「ヒーロー科」を目指しているのは明らかである。となるとデク以外にも無個性ながらにヒーロー科を志す者はいると考えられる。
しかしかつてのデクがそうであったように、無個性であるならヒーローは諦めなければならない。正確に言えばやりようがあるのだろうが(旧プロットではデクは個性を獲得せず、発目などが作る装備でアイアンマンみたくうまく立ち回るという予定だった)、しかし多くの者にとってそうであるのは事実であろう。少なくともオールマイトは無個性の彼に「諦めろ」と一度言っている。
この世界において無個性とはそれだけで一つの障害なのだ。ところでだが、ヒューマライズは無個性者が比較的多くいる組織である。
無個性者はその時点でコンプレックスを抱えざるを得なくなる。そしてこれは一生付きまとう問題となる(筆者は障害者であるためこの辺りは正直非常によくわかる)。
コンプレックスとは度々歪な感情をもたらす。なぜこの組織、思想が先鋭化し狂気に染まったのか、言うまでも無く想像に易いであろう。
ヒューマライズは、おそらくだが、ある一つの、デクが迎えたかもしれない結末の一つなのだ。オールマイトと出会わず、夢をあきらめきれず(彼は実に諦めが悪いので)、その結果現実と言う壁に呑まれ人格が歪んだひとつの結末。少なくともそうと受け止められる存在であると個人的に考えている。
③ターンとヒューマライズは、この世界の被害者である
フレクト・ターンは自身の個性に。ヒューマライズの、特に無個性者と言える者たちは、この世界の個性社会に苦しめられてきた被害者でもあるのだ。
彼らが行った残虐的なテロ行為はもちろん許されざる事ではあるのだが、しかし先述したことを踏まえると、このテロ行為にはもう一つの側面が見えてくる。
それは、彼らのヘルプシグナルである。あのテロ行為は、自らの人生、社会、個性、それらを総括した果てにあった、「助けて」という叫びに他ならない。
素直に助けてって言えばいいのにという観点はあるが、おそらくそれが叶わなかったのだろう。彼らは残虐な加害者であるが、それ以上に、この個性社会の被害者でもあるのだ。
そう考えるとだが、デクがターンに発した「諦めたんだ」という言葉は、デクというヒーローが、ターンという被害者の「助けて」という声を、見放したという意味でも捉えることができる。
無論だが彼は許されるべきではない。何人もの人を死においやっているわけなのだから、死刑制度がある日本国では極刑に処す他ないと私は思う。しかし、それはあくまで法的な、社会的なことであり、彼の心理とは無関係のことである。
デクは特に「諦めること」の苦味をよく知っているはずだ。どこぞのラノベの主人公が、「諦めるのが簡単なわけねぇだろ!」と叫び散らしていたが、デクだからこそこの言葉によく共感できるであろうと考えられる。
ターンはデクよりも遥かに年上である。加えて能力は余りに強大で、デクと違い家族からも見捨てられている。
努力では超えられないであろう巨大な壁を前にし、それだけでなく孤独であった彼は、果たしてどんな心情であっただろうか。
それをさも彼が悪いと言うような表現をしたデクは、彼からどう映ったであろうか。
果たしてデクは、あの瞬間、本当に困っている人を救うヒーローをやれていたのだろうか。むしろヒューマライズの無個性者からすれば、ターンこそが自分たちを救うヒーローにも見えていたのではなかろうか。そうなるとターンやヒューマライズからしたら、デクはあの瞬間、何も知らない癖に偉そうに説教と能書きを垂れる無責任な人間にも見えていたのではなかろうか。
正義とは得てして立場により裏返る物であるが、どうなのだろうか。少なくともこの場合、デクが真に彼らを救おうとするのなら、対話により彼らの心を解きほぐし、計画を諦めさせるという方向性が最も適していたと思える。
とは言え、これはデクが間違っているという話ではない。実際問題だが、ヒューマライズのしたことは許されないし、何よりも、デクからすればターンはそう言う風に見えていたというだけなのだから。
※ちなみにこれは現実の正義論にも言えることだが、多くの正義者はデクのように相手の事情などに対して無自覚にパンチを放っている。そしてこれは、ターンも同様である。今回のデクとターンは、総じて実は同じような存在であったのかもしれない。