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第六幕


※読後、ご気分を害されたとしても、当方は一切の責任を負いかねます。

※登場人物の「死」がテーマです。ご覧になる際は十分にご注意ください。

※誤字脱字等、御座いましたらご報告願います。

※ご意見・ご感想等、お待ちしております。


 今では遠く過ぎ去った昔、あるところに、巨大な蛮狼が治める聖なる森がありました。



 蛮狼の仕事は、森に住む者たちを庇護し、その緑豊かな王国を次の世代へと伝えていくことなのでした。

 また、その森は実りも豊かでしたので、森の者たちが一番に嫌う人間たちも度々侵入してきては好き勝手に暴れまわります。


 そんな無礼な輩たちを追い払うのも、森の大王たる蛮狼の大事な勤めなのでした。



 さて、ある日のこと、いつものように蛮狼が手下の狼どもを従えて領内を散策しておりますと、一匹の若い人の子が罠にかかって倒れておりました。


(何と情けない人の子かな)


 蛮狼は暫しの間、じっとその男を見下ろしておりました。

 見たところ、格好からして猟師なのでしょうが、それにしたって、自分たちで勝手に仕掛けた罠に、自分たちで掛かるだなんて間抜けな話です。



『陛下、いかがいたしましょう』

 そばに控えた衛兵の狼が、静かに主君に問いました。



『良い、放っておけ。……いやッ、待て』


 王は、無視しようかとも思いましたが、すぐに考えを改めました。

 その者が、意識の朦朧とする中、かすかにですが目を開いたのです。そうして、その目を見た途端、蛮狼は彼のその瞳に心を奪われてしまいました。




 王のご命令で、猟師の身柄は聖なる森のほぼ中央にある王宮へと移されました。


 その昔、もう千年も前の昔のことですが、この森には人の形をした精霊族が大勢暮らしておりました。


 今は皆、さらに森の奥深くへと旅立ったため行方は誰も知りませんが、王宮は、その時の精霊たちの族長から当時の王が譲り受けたもので、以来代々、百獣たちの大切な住み処になっておりました。



「お前たち、城内では擬態しなさいといつも言っているだろう」

『はーい、王さま!』

「気を付けまーす!」

「…………まったく」蛮狼は溜め息を吐きます。



 森を棲みかとするすべての者たちは、代々の王の言い付け通り、王宮の中では擬態して過ごす習わしになっております。

 かつて精霊族から受けた恩恵への感謝の意として、また、獣の姿では荘厳な王宮の内壁を傷つけてしまうやも知れぬという危惧から、ほとんどの者たちは、かつての精霊族のかたちを模した姿に擬態します。


 その姿は、事情を知らぬ第三者から見れば、ほとんど人間の身体(からだ)と見分けがつかないものでした。

 ですから、物分かりの良くない子供たちの中には、「人の子の姿を成すのはイヤだ!」と駄々を()ねる子らもあったのです。



 しかし、蛮狼は、言い付けを守らない子供らを必要以上に叱りつけることなどはなさいません。ことあるごとに彼らを呼び寄せては、かつての伝承や森にまつわる歴史を話して聞かせて、一々丁寧に諭してやっておりました。



 いつの頃からか、その昔語りの場に、傷を負ったその猟師も顔を覗かせるようになりました。




「おい。今朝の具合はどうだ?」

 蛮狼が尋ねました。病床に横たわった青年は自力で起き上がると、

「うん。昨日よりもまた少し良くなってるみたい」

「はあ……。何度言えば分かる? 私と会話する時は、敬語を使えとあれほど」

「あー、はいはい。王陛下、失礼しました! 本日もご機嫌麗しう!」

「うーむ……」



 蛮狼は猟師の青年のために設えさせた病室を毎朝見舞うのがほとんど日課となっていて、その日も朝食が済み次第、いつものように擬態した姿で訪ねていました。


「もう二月(ふたつき)になるな」

「……えっ?」

「お前がここに来てから」

「……うん。そうだね……」


 すでに彼の足の傷はほとんど治りかけています。

 (さと)い蛮狼のことです。そのことに気づかぬはずはなかったのですが、彼が何も言い出さないので、好きにさせておいでなのです。


「まだ、私には話せぬか?」

「……うん」

「そうか。なら、誰か気安くできそうな女官でも呼んで来よう。お前もその方が良かろう」

「によ、女官?」

「ああ。狐辺りが良いか? 心配するな、お前の思い人の姿にでも擬態するように言いつけておくよ」


 蛮狼はそう言って踵を返しました。

 青年の慌てようと言ったらありません。


「だ、ダメだよ! そんなことしたらっ!」云いながら、青年は王の左手を掴んで懇願しました。


 王は振り向き、寝台に腰かける彼の目を見据えながら言葉を続けました。

「何故だ?」

「そんなことしたら、僕の思い人が貴方にバレちゃうっ!」

「それが何故まずいのだ?」

「…………それは……」

「何故だ、何故まずい?」

「う……うーん……」


 青年は焦ったように、しかし上手く口が効けなくてその口を開けたり閉じたり。パクパクとさせましたが、待てど暮らせど言葉は帰ってきません。



「ふふ。少し意地悪だったか」


 蛮狼は微笑を浮かべています。


 お互いの目の高さから必然、青年は蛮狼に見下ろされる格好になって、それが決まりが悪いらしく途中から顔を下げていたのですが、王の雰囲気があまりに優しいので、ふと顔を上げました。


 青年は生まれて初めて、人の顔(正確には擬態化した狼のですが)を見て恥ずかしいと思いました。



 蛮狼は、眼前のこの男が愛しくて仕方ありません。

 目が合っただけで、こんなにも頬を紅潮させているのです。



 王は握り締められた自身の左手を解き、今度は自らで彼の手を取りました。

 彼はなお、顔を赤くします。


「人間たちは、好意を伝える時、こうするのだろう――?」


 そうして寝台のそばに(ひざまず)いて、手に取った彼の右手にそっと口付けしてやりました。

 もちろん、最上級の微笑みも忘れません。



 いよいよ青年は泣き出してしまいました。




 §     §     §



 それから暫くの間、若い猟師は聖なる森の王宮で過ごしました。

 よくよく考えてみればおかしな話で、その森から一番近い人間の町までは狼の足で丸三日。人間ならば一週間はかかるような距離がありました。


 単に獣を狩るためだけならば、わざわざこんな辺鄙な場所まで来る必要などありません。



 一体どんな理由でこの猟師がやって来たのかは、結局うやむやになってしまいました。

 大王はもちろん、必要以上の詮索をなさいません。当然、王の家臣たちも、そのことを尋ねませんでした。

 それほどこの青年は、もうすっかり王宮の者たちと馴染んでいたのです。




 さて、また暫くの時が過ぎて。

 ある日のことです。

 その日は白銀の月の昇る、美しい満月の夜でした。


 若い猟師は、夜中こっそりと大王の寝所を抜け出して、王宮のさらに奥にある聖なる泉に向かいました。


 聖なる森の最奥にある聖なる泉は、彼の国では「神の泉」と呼ばれていて、その泉の水はいかなる病をもたちどころに癒すと伝えられていました。



 猟師の青年は実は、国で一番の医官の息子だったのです。

 しかし、その医官も去年の流行り病で亡くなりました。

 その国では流行り病が猛威を振るっていて、すでに国民の半数が重い病のために床に()せっていたのです。



 故郷からは秘密の伝書鳩を通じて、青年を急かす内容の文が三日に一度送られて来ます。それも、この一週間では毎日届くようになりました。


 その国にはもう、時間がなかったのです。



(神泉の水さえ手に入れば、せめて……)


 今や蛮狼から、ほとんどの行動を許された青年でも、その泉にだけは決して近づいてはならないと、きつく言い付けられていましたから、どうしてこんなことが誰かに相談できるでしょう。



 灯りも持たず、たいした外套も羽織らずに、青年は暗い獣道を月下の光だけを頼りに進んでいきます。


 やがて、目の前が開けてきました。

 淡く光る水面が見えます。それこそはおそらく、聖なる神泉なのでしょう。


 青年は懐から、こっそり持ち込んでいた小瓶を取り出し、それのコルク栓を静かに抜きました。

 泉のそばに、膝をついて屈み込みます。


「…………」


 しかし、青年はそのままの体勢で固まると、身動きがとれなくなってしまいました。

 どんな神罰も受ける覚悟はありました。

 けれど、言い付けを破ったことが王に知れた時、一体どれほどか彼が失望するかと思うと、なかなか次の動作に移れないのです。


「…………」


 かなりの時間、青年は決めかねておりました。

 水を掬うのは一瞬です。しかし、その後のことを思うと……。




『水を、掬わぬのか』

「――ッ!」



 卒然、背後の草むらの中から聞き慣れた声がして、青年は驚きました。が、今更慌てたところで何が変わりましょう。

青年の胸中には先ほどまでは確かに無かった覚悟の二文字が、今ではしっかりと輝きを持って存在していたのです。


「王陛下……」青年は囁くように云いました。

『やはりお前も、人の子なのだな』


 王は、幾分悲しそうな声色でした。


『聖泉の守護者として問う。この泉の水を手にして何とする』


 おもむろに(そう)中から現れたものは、まさしく百獣の王に相応しい威厳と風貌とを兼ね備えた立派な巨狼でした。



 これまで何千という者の命を狩ってきたのを思わせる鋭い爪を有し、太くて逞しい四肢は見事なほどしなやかそうで、豊かな毛皮の上からでも分かる強靭なその美しい体躯は巨木かと目を疑うほどです。


「はい、大王さま。私はこの神なる泉の力で以て、国に流行る病苦を打ち払いとう存じます」


 青年は自然、蛮狼を見上げることになりました。

 蛮狼は軽蔑の色をした眼差しを青年に落とします。

 それでも、青年は目をそらさず、瞬きすらせずにきっとこの狼を見詰めていました。



 先に折れたのは何と、蛮狼の方でした。



『何故だ? 何故話してくれなかったのだ? よもや我が役目を知らない訳ではなかろうに……』


 云いながら蛮狼は忌々しそうに、苦々しそうに低く唸りました。

 森の王は代々、聖なる泉の守護者として、禁忌を犯す者を取り締まる責を背負うて来たのです。

 それが、この実りある豊かな森に生きることの代償として太古の神から与えられた使命だったのです。


 百獣の王たる蛮狼はその責任者として、禁忌を犯す一切の者を取り締まらなくてはなりません。



 次の瞬間、蛮狼は地に臥せっていました。

 青年は驚きましたが、直ぐに愛しい彼の元へと駆け寄りました。


 そうして二人は、月下の神々しい輝きの中、寄り添い合って泣きました。


 それは静かな涙でした。



 遠くの方で(ふくろう)が淋しげな夜の唄を奏でております。

 森の獣でさえ不必要に泉に近寄る者はありません。

 その時間、二人が何を語らい、どんな言葉を囁き合ったかは申し上げかねます。


 青年は臥せって(むせ)び泣く彼の鼻先に口付けをすると、

「蛮狼さま。どうか約束して下さい」軽やかな声で青年は請いました。「慈悲無き荒ぶる蛮狼として、私に一切の情けをかけぬことを」


『――(あい)()かった。必ずや……必ずや……』



 蛮狼は臥せった巨体を起こしました。

 青年は再び泉の淵へと歩み寄り、跪いて瓶の栓を抜きました。


 王が見守る中、青年はそっと瓶の口を泉の中へと沈めます。

 小瓶はすぐに泉の水で満たされました。コルクの栓を閉めたまさにその時、


『泉に侵入者だ! 衛兵ッ! 出会え!』



 王の吠え声に応えて、王宮の兵士たちがものの瞬時に駆けつけてきました。直ちに青年は取り押さえられます。



(どうしてこんな……)

(なんで今になって……)

(陛下、まさか……)



 淡々と職務をこなす兵士の狼たち。本来の姿の者もあれば、擬態する者もおります。一切口を利かない彼らですが、しかし二人には彼らの心中の呟きがつぶさに聞こえてくるようでした。



『人の子よ、そなたは犯してはならぬ禁忌を犯した』

『「――ッ!」』「…………」


 王は冷淡な声色でした。そこには何らの感情も読み取れなくて、そばに控えた家臣たちは皆、そのあまりの冷たさに身震いしました。


『犯した罪は、償わねばならぬ』

「はい、陛下」

『うむ。良い覚悟かな。では、刑は直ちに処すことにしようぞ』

「御意に従います。それで、私は一体どのような刑に処されるのでしょう」

『聞け人の子よ。お前は死刑に処されるのだ』


『「へ、陛下――ッ!」』



 お付きの大臣や、近衛騎士たちが騒ぎました。

 しかし、それらはすべて後の祭りでした。


 王は高らかに宣言したと同時に勢い良く飛びかかると、一息に青年を飲み込んでしまったのです。



 その夜、家臣の狼たちはもとより、その森に住む百獣たち皆が泣哭(きゅうこく)を上げ、その悲しげな泣き声は遥か彼方の山々にさえ木霊したと伝わります。



 蛮狼は泣けもしませんでした。



 §     §     §



 あるところに、流行り病に冒された国がありました。

 民の大半が病の床に臥せり、死を待つばかりのその国に、ある日、奇跡は訪れました。


 万病に効くと伝わる聖なる神泉を探し求めていた男が、長い旅路からその泉の水を携えて帰還したのです。


 彼が旅に出てから早三年。

 しかし、帰還した男の、その傷だらけの身体や欠けた左腕と左目を見て、なお不平を言う者など誰もおりません。



 男は泉の水の他にも、何やら薬効のありそうな獣の大爪や、肉、大きな骨や巨大な瞳なども持ち帰って来ました。



 男はそれらすべてを直ちにその国の王に献上申し上げて、病床に臥せった王子・王女たちに与えるように進言しました。


 王室の医官たちが彼らに処方したところ、たちどころに熱は引き、翌日には元気に駆け回るほどに回復したので、王は泣いて喜びました。



 男は、持ち帰ったそれらの扱い方をつぶさに医官たちに説いてやりましたから、三日と経たぬ間に、まるで病に悩んでいたのが嘘のように、人々の熱は引いて行き、五日目にはほとんどの病者が元気に出歩けるまでに回復しました。


 事情を知った王は、その男を亡くなった彼の父親と同じ医官長の役目に就けて、また爵位の一つでも与えてやろうかとお考えなさったのですが、どういうわけか男の姿が見当たりません。


 兵士に命じて国中を捜索させたのですが、ついに男の行方を探し出すことはできませんでした――。




 §     §     §



 大王は玉座に腰かけたまま、微動だにせずにどこか一点を見詰めていました。


「約束は、果たしたぞ……」


 王は誰に言うでもなく独りごちました。

 というのは、王がすべての家臣たちに人払いを命じたので、今王宮の中にいるのは王自身をおいて他にいないのです。



 蛮狼は左半身を庇いながら、器用に王冠をその頭上に冠し、眼帯の塩梅を整えつつ、改めて玉座に居直りました。



「次は、私が罪科を受くる番ぞ――」


 そう言って、蛮狼は天を仰ぎました。

 その頭上には精霊族から受け継いだ、巨大な水晶の燭台が釣り下がっていました。


「…………」


 何事かを呟くと、次の瞬間、巨大なそれは音もなく落下して床の上に粉々に飛び散ってしまいました。


 玉座の間に敷かれた絨毯に倒れた蝋燭の火が移ります。

 その有り様を蛮狼は独り、じっと見詰めているだけでした。



 千年続いた森の獣たちの繁栄もこれで(つい)えましょう。

 百獣たちに許された言語の力も、擬態の術も、そのすべてが燃え広がる炎と共に灰に帰すのです。




 玉座の間のほぼ中央には、一匹の狼が臥せったまま泣いております。

 炎はゆっくりと、ですが確実にその勢いを増していき、ついには王宮全体を包み込んで火の海にしてしまいました。



 狼は、床に臥せったまま、小さく丸まるようにして事切れました。

 片腕を失い、瞳まで差し出し、ほとんどすべての霊力をも愛した人の祖国を救うために費やして、もう身も心もくたくたでした。


 森の獣たちはそのことを十二分に理解しておりましたから誰も、義理堅くも慈悲深いこの王を責めるなどしません。

 ある者は進んで王宮の中へと駆け出し、ある者は互いの牙で互いを傷つけながら果て、ある者は地に平伏して敬意を表しました。




 火の手は結局、王宮を燃やしただけで森全体へは広がらず、獣たちはこれも泉の霊力のお陰と感謝しましたが、やがてその泉は聖なる力を失っていきました。


 日に日に弱まっていく泉を前に、しかし残された獣たちにはどうすることもできません。

 とうとう泉はその力を完全に失って、しまいには枯れ果ててしまいました。



 自然、百獣たちの神霊な力も損なわれていき、ついには一介の野獣と大差ない存在へと成り果てましたが、その頃にはかつての大王を嘆く心どころか、その大王がどんなお方だったのかさえも忘れてしまっていたのです。






 遠い北の国々に伝わる哀しくも奇怪な物語を、お聞かせ致しましたーー。



〈第六幕・終〉


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