第弐幕
今は昔、大和の某とかいう国に、東洋随一と謳われる優れた都があった。
唐土より遥か東へ幾万里。「東方倭蛮伝」に依れば、海に囲まれたその国は、極めて高い文化の水準を有し、進んだ学問と技術とを持って、遠く離れた異国からも勉学の徒が参じるほどであったと伝わる。
何れの帝の御代であったことだろうか。それはもう分からなくなったが、その都に、藤原の某とかいう、国でも屈指の仏師がいた。
仕事は上々で、二年ほど前から内弟子を二、三人取り、いろいろなことが申し分ない。
男には美しい妻と可愛げな子があって、先祖代々の屋敷も、古風だがたいそう立派なものである。
まさにすべてが、順風満帆この上ないことよ。
さて、この仏師の専らの関心事は、いかにして完璧な阿修羅仏を建造せしめようか――、ということであった。
これまで造り出した仏像は数知れず。その中でも阿修羅像は三十を優に超え、そのうちの一つは大内裏に献上もされたが、それでも男は気に食わない。
(どうすればもっと優れた、もっと素晴らしい仏さまをお造り申し上げられるのだろうか――)
男の胸中はただそのことでいっぱいなのだった。
そんなある日の出来事である。
男のところに、宮中の使者がやって来てこう告げた。
「帝と中宮さまが、清涼殿の仏間には、そなたの造った仏像をお飾りなさるおつもりだ」
「どうせならと、阿修羅姫さまのようなおしとやかで、可憐な仏像をご所望である」
無論、男は二つ返事でこれを快諾した。
仏師は独り立ちしてからこのかた、ただの一度も依頼を断ったことがなかったのであるし、それが彼の第一信条でもあった。
(そうか、なるほど……)
御使いが帰った後で、仏師は一人思案していた。
仏師はこれまで自分が、ほとんど女人の像を作って来なかったということに初めて気がついたのだった。
いや、作っていたのかも知れないが、記憶には全然ない。少なくとも師匠のところを出てからは一度もないはずだ、と。
(そうか、阿修羅姫か)
男の中で、興味が湧いた――。
§ § §
一度熱中し出すとなかなか冷めないというのが、職人気質な人間の良さであり、欠点でもある。
それからというもの、男は三日三晩、無心に仏像を造り続けた。硬い樫の木を丁寧に削り、漆で艶を出して、さらにその上から金箔を押していく。
それほど巨大でもないのに、なぜだか一々、骨が折れた。一つ一つの工程に手間隙がかかって仕方がない。それでも、男は別に苦とは感じなかった。
なぜならこれまで造ったどんな仏像よりも、今の仏像造りの方が楽しいと、はっきりと言い切ることができたから。
「あなた。そんなに根を詰めてはお体に障りますわよ」
「ああ。分かっているよ」
「もう! ちっともお分かりでないわ。ふふふ」
「はははっ。もう直き完成なんだ」
「…………」
それからさらに三日三晩が経ち、七日目の夕刻が訪れた。じきに日が沈んで、都を夜の闇が覆っていく。
阿修羅姫の仏像は、その日の宵に完成した。
(よし。これで良い……)
仏師は出来上がったばかりの自身の像を見つめていた。
不意に、気配らしきものを感じたが、気づかぬふりを通すと決めていた。
木を削り、姿を掘り込んでくうちにいつしか、仏像に何か気配のようなものが宿っていくのを感じていたが、彼はすべてを無視し通した。
男は、仏像を造ることを生業にする仏師である。
不思議な感じがしても、意地でも仕事を仕上げるのが、真の職人であろうと彼は考えていた。
そうしてやっと出来上がった阿修羅姫が、今こうして彼の眼前にいる。仏師は清々しい心持ちで、しばし己の作品を見つめていたが、何を思ったか、
「なあ。もうじきお別れだ。お前は明日、宮中の使者に引き渡される。お前はこれから、帝や貴族の方々とともに暮らすんだよ」
勿論、阿修羅姫が口を効くことはない。けれど男には、何だか彼女が今にも泣き出してしまいそうな、そんな風に思えた。
「お前は俺が今までで造り上げてきたどんな作品よりも美しい。何より可憐だ。そして、お前にはどこか哀しさが感じられる」
「…………」
勿論、阿修羅姫が口を効くことはなかった。
§ § §
その日の夜分遅く(ちょうど月のない新月の夜だった)、藤原の某とかいう仏師の邸宅から火の手が上がった。
火は瞬く間に敷地全体を包み込み、家人や内弟子など十人以上を帰らぬ人にするほどの大惨事であった。
奇跡的にも、仏師の妻子だけは無事であった。
奥方が言うことには、はじめは仏師もいて、一緒に避難したらしい。
しかし燃え盛る火の手を見た途端、「あの人が泣いている」そう呟いて、次の瞬間にはもう工房の方へと走り去っていたと言う。
仏師の行方は、誰も知らない。
§ § §
翌日、火の手が収まってから検非遺使の庁の役人らが出火元の捜索に乗り出したのだが、結局分からずじまいで、事件性はないであろうということに落ち着いた。
しかし、家人らの過失ということにもならなかった。
「東方倭蛮伝」には次のように記されてある。
「その火の手、如何なる所より出づるかと探れども、検非遺使どもついに知れず。
しかるに、一人の検非遺使怪しみて仏師が工房なむ探りたる。
中に傷一つぞ無き阿修羅姫のある。
此は如何なるか、とて歩み寄りて、素手にて触れ候はむとしければ、阿修羅姫の御体震えに震え、ついに紅蓮の焔さえ上がる。
この人、ひざまづきて頭、地につけてただひたすらに念ず。
この御仏ついに鎮まる。
検非遺使、拝みつつまた歩み寄りて見るに、阿修羅姫、双眸より血涙をば流し給ふが、その後、ついに砕け散りて、その塵、天へと昇り給ふ。
塵の虚空に昇るを導くが如く、純白の神鳥現るが、やがて霧散す。人々、帝さえ、天をご覧じ給ふ。
これ哀れなる大和の物語と、畏み畏み伝え聞きし。」と――。
〈第弐幕・終〉