第壱幕
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※登場人物の「死」がテーマです。ご覧になる際は十分にご注意ください。
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昔々、とある王都に世界で最も大きな聖塔を持つ、世界で最も権威ある大聖堂がありました。
立派な徳をたくさん積んだ、権威ある司祭たちが集うというその大聖堂に、ある一人の男が見習いとして熱心に勤めておりました。
男の年は数えで十七。神官見習いとしてこの大聖堂で十年ばかし。幼い頃から司祭さま方のお手伝いをして過ごし、物心ついた時分にはすでに聖典の半分を空んずることができておりました。
そんな彼でしたから、やがて、講堂で悩める教徒たちに説教や説諭をしてやる説教師の役目を頂けることになったのはごく自然な事の成り行きで、早すぎるなどとは誰も訴え出ません。
そうして説教師見習いとしてではありますが、真面目に朝夕と講堂(と言っても、実は昔使われていたという古い小さな聖堂なのですが……)で迷える子羊に説教を聴かせ続けて早、三年。
いよいよ四年目が始まろうかという、そんなある年の暮れのことでした。
(今朝もまた来てくれてる)
いつものように、教徒たち(と言っても、毎日同じ顔ぶれの十人程度なのですが……)に今朝のお話や聖典の一節などを諭して聴かせながら、視線だけは彼女――美しい娘さんの方へと投げておりました。
この敬虔なる青年の名誉のために申しますが、決してじろじろと、無粋に凝視していたのではなくて、ただそれとなく、ちょろちょろっと三、四遍ばかし見やった、といった程度でしたから、おそらく周りの誰一人、青年の行動に気づく者はなかったでありましょう。
「では、今朝のお説教はここまで。今日は中央大聖堂で大司教さまがお説法をなさるので、夜の集いはなしです」
若い説教師の号令で人々が立ち上がり、銘々に頭を垂れたり、お辞儀をしたり、胸に手を当てたりして感謝の意を表しています。
「ありがとう。さよなら」
こちらも一通り感謝の気持ちを示し、頃合いを見て奥の部屋に引き上げます。
青年が聖務室に引き上げると、すかさず声がかかりました。
「よぉ、次期司祭補さま」
「クロノ……」
聖務室には見知った神官が、むしろ部屋の主よりも堂々とした態度で説教師席に座してふんぞり返っておりました。
この神官の名を、クロノといい、その由来は、驚くほどに綺麗な漆黒の頭髪にあります。クロノは、幼い頃からの青年の唯一の親友でした。
「やめてくれよ、まだそうと決まった訳じゃ……」
「何だよ。オレさまと同じ官位になれるってのに。一緒に仕事、したくねえのかよー」
「僕は、官位なんて別に」
「ふん。お前が気にしてンのは、説教の仕事が無くなったら、あの子に会えなくなるかもってことだろ?」
(――ッ!)
「な、な、な! なんで、あ、あの子が、関係す、るんだよ!」
青年は努めて慌てず冷静に答えようとしましたが、そう思えば思うほどますます焦ってしまうものです。
「ばーか! お前、分かりやすすぎー。可愛いじゃん、お嬢さんって感じでさ」
「……う、うん。今日も、お布施してくれたんだ。僕なんかの説教に」
「そうだな。お前の手柄だ」
云うなり、クロノは青年の方に腕を伸ばすと、優しい手つきで彼の頭を撫ぜました。
そして優しい声で、言葉を続けます。
「あの娘は、他でもない。お前の説教を聴きにきたんだ。身なりの良い娘さんだが、毎日毎日、金貨を布施に来るのは大変なはずだ」
「うん。分かってるさ」
二つ年上のクロノは時に親友であり、時に兄であり、ごく時たまにこうやって父のような寛大さと安心感を与えてくれることがありました。
「なぁ、説教師さま? 大事にしてやっておくれ、あの娘のことを」
「…………う、うん」
遠くで、聖職者の集合を告げる鐘の音が鳴り響いておりました。
§ § §
クロノの後押しもあって、青年はお嬢さんに声をかけ、親しくなった頃合いを見て、思いの丈をすっかりと告げてしまいました。
「お、お嬢さんっ」
「…………」
お嬢さんは顔を赤らめ、次にごく自然な動作で頷こうとしたらしいのですが、けっきょくはそうせずに、すっかり俯いてしまいました。
「お嬢さんっ」
「…………いけません、説教師さま」
お嬢さんは次第に顔色を悪くさせていきます。
青年は心配になってきました。彼女は大丈夫でしょうか?
「どうして? なぜ、いけないのです?」
「わ、私は……」
「はっきりおっしゃって下さい、お願いですから!」
「知りたいんですか?」
「はい!」
「どうしても?」
青年は一人の男として、彼女のどんな秘密も馬鹿にしたり、蔑ろに扱ったりしないと声を荒らげて叫びました。いえ、実際には小さくて、そして震えていたかもしれませんが、少なくともその言葉で、この娘がどれほどか救われたことでございましょう。
「ならば、お話しいたしますわ――」
そう云って、お嬢さんは自嘲する声色でもって語り始めた。
この可憐なる娘に降りかかった、暗く恐ろしい身の上話を――。
§ § §
〈Side K〉
その娘が、いわゆる高級娼婦であると聞かされたのは、雪の吹雪く聖誕祭のイヴのことだった。
「おい、もう一度、訊くぞ? お嬢さんをどうしたって?」
「殺して、大河の橋の上から投げ捨てました」
「……お前にしては、笑えないジョークだな。ましてこんな、聖なる夜に」
「…………」
「なんて馬鹿なことをしたんだッ!」
奴の話はほとんど要領を得なかったが、繰り返し訊くうちに断片的にではあるが理解できたことは、彼女が没落貴族の令嬢で、十二の時に奴隷商に売られたということ。
十三になる月に娼館に買われ、その日の夜に純潔を穢されたということ。
十四で外出を許され、初めて訪ねた説教師がこいつだったということ。
身を穢される度、こいつの説教を聴きに来ていたらしいこと。
(ああ、主よ。なんと酷い定めを与えなさる)
クロノは目を閉じ、天を仰いで一人胸中で助けを請うた。
「あの金貨は、全部全部、彼女の純潔と引き換えに得られた物だったんだ! それを僕は、馬鹿みたいに嬉しがって……。あの子がどんな気持ちで、いつも僕の説教を聴いていたか!」
「…………」
暫し、沈黙が降りる。
破ったのは、クロノではなく、若い説教師の方であった。
「もう良い。もう主になど乞わない。俺は、もう」
「言うな、それ以上、何も言うな。言うなってンだよ。お前も穢れることになるッ」
クロノはすんでのところで彼の口を塞ぎ、決して口にしてはならぬその言葉を封じようとしたが、
「ふふふっ。俺はもう穢れてるさ。大罪を犯したんだ」
「やめろ。信仰さえあれば、どんな人も救われる。お前が説いてきた事柄だろ?」
「信仰など……。その結果が、この報いか」
それが、クロノが彼を見た最後だった。
翌々日の朝刊で、大河の下流、貧民街の河川敷でみすぼらしい若い娼婦の遺体が上がったという内容の記事を見つけた。「万国博覧会でボヤ騒ぎ」という記事の欄外に、これ以上ないくらい小さな字で記されたそれを、クロノは丁寧に切り抜いて手帳の間に挟み込んだ。
以来、おそらくはお嬢さんのそれであろう娼婦の遺体の事件について、いかなる新聞も、二度と何らかの事柄を報知することはなく、たぶんそのことを知っている人物はクロノの他にはこの王都にはいないのだろうと思った。
一度だけ。
風の便りに、青年のその後について聞いたことがある。
どこぞの異国で、怪しげな邪教の神官となって日夜降霊術と邪神召喚の研究をしていたらしいのだが、ついには悪魔に上半身を持って行かれて死に絶えた、と言うことである。
〈第壱幕・終〉