第九幕
とある昔、天の御使いに憧れた悪魔がおりました。
と同時に、悪魔は自らの身が大変穢れていることを良く知っておりました。
(どうして俺は、こんなにも穢れているんだろ……)
(こんな穢れた身では、天使さまに近寄ることも叶わない)
(俺が悪魔でいる度、自然界の者どもは日々、欲望と邪念に苦しんでいると言うのに……)
地獄の使いは毎夜、輝く地獄の月を見上げては涙を浮かべておりました。
悪魔の中に、天使に憧れる者が在る――。
そんな噂、瞬く間に他の悪魔たちの知るところとなりましょう。
悪魔は神の子供たちをたぶらかし、悪なる行いをしなくてはなりません。
そうしてその身が悪なる穢れを纏うことこそが、悪魔たちの悪魔たる証であり、己の存在の理由ともなりましょう。
憧れるだなんてとんでもない。
ですから悪魔たちにとって、この悪魔の考えは容認できるものではありませんでした。
師が去りました。
友が去りました。
そして兄弟たちも去りました。
とうとうこの悪魔は、独りぼっちになってしまいました。
けれど悪魔は、誰に何と言われようとも、愛した天使を慕い申し上げることを止めようとはしませんでした。
地獄の世界に友のなくなった悪魔が求めたのは、自然界の者どもでした。
自然界こそは、天の祝福に最も近しいと考えたためです。
最初こそ疎まれ、忌み嫌われていた悪魔でしたが、この悪しき使いの人柄によるためでしょう。
しだいに人望を得るようになっていきました。
とりわけ人の子らとは、かなり親しくなりました。
十年ほど経ったある日、悪魔は息の止まる出来事がありました。
悪魔の暮らす人間の街で何と、恋慕う天使その方に出会ったのです。
悪魔は一目見て、その天使に恋してしまいました。
これまで拝んだどんな天使よりも、可憐で美しいお姿だったのです。
その天使は時折、街の大聖堂に舞い降りては、悩める子羊に救済の手を差し伸べておりました。
悪魔はその日のうちにこの天使のもとに参じて、召し使って下さいと申し出ました。
その方の身のお世話ができれば、どんなに幸せなことだろうと思いました。
§ § §
恋しい思いは、より恋しく。
愛しい思いは、より募ってゆくものです。
天使への情はいよいよ抑えがたく、また穢れた己を呪う気持ちはますます強まっていきました。
「天使さま。どうかお願いが御座います」
ある時、勢い悪魔は天使の身許に参じ申し上げました。
「どうかこの穢れた我が身を、御身のお力で清らかな身となさって下さい。
「どうかこの俺を、天使にして下さい――」
涙を溢し、地に額を擦りつけて悪魔は懇願しました。
このままの穢れた姿では、決してその聖なる御身体に触れることは叶わないと思ったのです。
穢れた身のままでは、この気持ちを打ち明けることすら許されぬと思ったのです。
「そんなこと、できるものか」
はじめ天使はこの悪魔を相手にしませんでした。
けれど悪魔は諦めません。
来る日も来る日も天使に請い願い続けました。
その願いが通じたのでしょうか、
「一つだけ……」
悪魔が願い出て十三夜めのその夜に、天使は静かに言葉を紡ぎました。
「一つだけ、ある。しかし――」
「仰ってください、天使さま。俺はそれだけの覚悟をもって、貴方に請い願うているのですから」
「……伝承の、悪なる武具を天に奉れ。さすればお前の望みは叶うだろう」
喜んだのどうのという話ではありません。
嬉々とした悪魔は大急ぎで地獄に舞い戻ると、見張りの悪魔たちを次々と手にかけながら、ついに宝物殿に辿り着きました。
新たな衛兵の悪魔が迫ってきましたが、悪魔はすべてを皆殺して、そうして宝物殿に納められてあった武具を奪い去ってしまったのです。
この悪魔の願いはただ一つ。
すべては愛しいあの方にこの気持ちを打ち明けること、ただそれだけ。
そのためには清らなる天使に生まれ変わる必要があり、
そのためにはどんな犠牲をも払う覚悟があったのです。
「天使さま、天使さま! どうか、これを受け取ってください」
悪魔が約束の武具を天使の御前に差し出します。
「……良いでしょう。お前を天界へと誘います。そうしてお前との約束をきっと果たしましょう」
悪魔が歓喜したのは言うまでもありません。
§ § §
悪魔は天使に誘われて、
初めて天界の門を潜ることを許されました。
そして初めて天空の城へと降り立ったとき、
悪魔はそのあまりの美しさと神々しさのために、
自然と涙を溢しておりました。
「涙を流すのはまだ早いよ」
「来なさい。今からお前を立派な天使にしてあげる」
悪魔は、愛しい天使の先導のもと、
純白の城内を恥ずかしそうに進みました。
憧れていた天使たちの好奇の目にさらされて、
この悪魔はすっかりと畏縮しているのです。
しばらく行くと、一際天井の高い場所に出ました。
おそらくは大広間なのでしょう、その空間の最奥には、
大きな白い翼を持つ天使たちが並んで立っておりました。
「ご挨拶なさい、大天使さまたちだ」
「は、はいっ!」
「ウミュエル。掟に従い、主の御前にてご覧に入れよ」
「シロノさま……」
「汝の覚悟を示せ、ウミュエル」
「はい、クロノさま」
天使は悪魔の顔を覗き込みました。
その瞳はひどく濡れておりました。
悪魔は尋ねました。
すると天使は答えました。
「天使になるための唯一の方法を教えよう――」
§ § §
それからフタリの、地獄のような日々がハジマリました。
数百の白き御使いたちが見物する中、
悪魔はありとあらゆる拷問にかけられました。
天使は告げました。
その黒き羽がすべて抜け落ちた時、この責め苦は終わるだろう――と。
悪魔は何も歯向かいません。
歯向かう理由がありません。
どうしてそんなことをする必要があるでしょうか。
数百年にも及ぶ拷問は、悪魔の羽だけではなく、
心さえ失わせて行きました。
はじめの百年は苦しげな呻き声や、
聖水を浴びせられた時などは絶叫を上げたりなどしておりましたが、
とうとう声が出なくなったのでしょう。
天使が鞭打っても身を震わせるだけで、
しまいにはそれすらしなくなってしまいました。
一枚、また一枚と悪魔の翼から、黒い羽が抜け落ちていきます。
千年が経った時、
初めて悪魔が血の涙を流しました。
けれど悪魔には、なぜこの瞳からこのようなあつい体液が流れてくるのか、
もう分からなくなっていました。
聖水を浴びせる天使はすでに、
一切の表情をなくしていました。
さらに百年が過ぎた時、
初めて悪魔の髪の中に白いそれがあるのを、
鞭打つ天使は見つけました。
年々、その数は増していきます。
天使は鞭に込める力を強めました。
また百年が過ぎました。
悪魔の血涙が大広間の純白の床を汚します。
天使は拷問の手を決して休めようとはしませんでした。
見物の天使たちはとうに興味を失っていて、
それでもまだ見守っている天使もおりましたが、
何と無慈悲な御使いたちでしょうか。
彼らの感心は専ら、手に入れた伝承の武具を使って、
どれだけたくさんの悪魔を惨たらしく殺せるか、ということなのでした。
さらに百年が経って――
悪魔の髪が完全に白髪のそれとなった時、
天使の心にある暗い感情が芽生えはじめておりました。
本当ならこんな惨い仕打ち、天使だってやりたい訳ではありません。
けれど大天使さま方と約束した以上、自分がしなくてはなりませんし、たとえ鞭で打つにしても、他の誰にもこの悪魔に触れてほしくなかったのです。
また、さらに百年が過ぎて――
ついに悪魔の黒い羽がすべて抜け落ち、髪の毛も真っ白なそれへと完全に生え変わりました。
「さあ、これをあげよう。愛しいお前に……」
天使は迷いなく自身の白い羽を引き毟ると、
かつて悪魔だった彼の背に優しく植え付けて上げました。
幾つも幾つも付けてやりました。
そうして、彼の翼がすっかり純白のそれとなった時には、天使の翼はボロボロで、新しく生えてくる羽には黒いそれが混じり出しました。
「ウミュエルよ。お前は愛する者を鞭打つ間に、天と主を恨んだな?」
「はい、シロノさま」
『なんと愚かしい!』
外野がうるさい。
「ウミュエルよ。掟に従い天界より追放する。天と主に不信を抱く者を、この城に住まわす訳にはゆかぬ」
「はい、クロノさま」
『なんと穢らわしい!』
「…………」
「さあ、新しく加わった仲間を讃えましょう!」
「まずはお名前を決めて差し上げなくてはっ!」
「これから楽しい日々がはじまりますよ!」
「お勤めのことは、ゆっくり覚えて行けば良いですからね!」
大広間を去り際に、後ろからそんな会話が聞こえてきて、
「…………ッ!」
天使は……堕天使は、思わず振り返って彼を見やりました。
目が合いました。
確かに彼と視線が重なったはずでした。
しかし、彼は、
「どうしてこの聖域に、穢らわしい悪魔がおるのですか?」
長年の拷問のせいでありましょう。
悪魔は……この天使は堕天使への愛情も恋心も、真心や優しささえ忘れて、いや、失ってしまったのです。
でなければ、彼が「穢らわしい」などという言葉を誰かに言い放つ訳がありません。
「ボクの前から消え失せなさい、穢らわしい悪魔め!」
「そうかい……」
「いつまで城内におるつもりじゃ!」
「早う去んでしまえ!」
「――ッ!」
刹那、足下の石床が消え失せて、
堕天使は、本当に天界を堕天させられてしまったのです。
堕天使はそのまま、地の底まで真っ逆さまに墜ちて行きます。
墜落の最中、堕天使ははじめて嫉妬と憎しみという感情を覚えました。
(必ず、取り戻す)
そう思いました。
そうして、また、次に会う時こそは、
(アイツのすべてを汚してやる)
その日、地獄の大魔城に、ひとりの悪魔が墜落しました。
その悪魔は起き上がるなり、
目に入るすべての者どもを皆殺して行き、
遂には大魔王さえ打ち負かしてしまいますと、
その日のうちに魔界の大王に君臨してしまったのです。
大王ウミュエルの願いはたった一つ。
それは、この世から〈天使〉という生き物を消し去ることでした――。
〈第九幕 終〉