歩き神の神話
いつのころからなのか、遠い昔より、見慣れぬ意匠の服装をした男が世界中を歩き回っていた。
男は常に何処かへ向かって歩き続けており、休んでるところを見た者もほとんどいなかった。
彼は不思議な力を持っており、彼に関わった人々はその力により多くが幸福になり、それ以上の人々を不幸と破滅へと追いやった。
人の手で制御できず、人の力も価値観も物ともせずに己の在り方を体現する、その底知れなさを人々は畏れ、神に例えた。
そうして誰ともなしに男は歩き神と呼ばれるようになった。
異装の男、道を行く。短く刈った黒髪を風が撫でつける。
細身で長身。年の頃は不明。二十そこそこにも三十半ばくらいにも見える。
日差しを受けて眩しいほどに白く輝く襟付きの薄手の上衣を着て、ボタンを開いた首元から白い肌着をのぞかせる。
下衣は対照的に無明の闇の如き黒一色であり、おそらくは革製であろう帯によって絞められていた。
靴は布製か。幾重にも編み込まれた紐を結んだ黒い靴が大地を踏みしめている。
彼の者はおよそ荷物らしきものも持たず、飲み食いせず、汗もかかず、どこかへ歩み続けていた。
その顔に表情は無く、それは陶器の人形であるかのように変化することはなかった。
ある夏の終わり。異装の男がいつものようにどこかへと歩き進んでいるとき、通りがかったとある森の近くで一人の若い男に話しかけられた。
若い男はよれよれになった薄汚れた服を着て、腰に縄を括り付けていた。
「もしかしてあなたは話に聞く歩き神様ではありませんか?」
歩き神は男を見たが何も答えなかった。
歩き神に関しての噂話の類は方々で語られている故に、知っている者も少なくないため、このように話しかけられることもままあった。
「きっとそうだ。父に聞いていたとおりの出で立ちをしていらっしゃる」
男は嬉しそうにうなずいた。だが、その表情には憂いの色が読み取れた。
「このようなときにあなたに会えるとは思わなった。その、もし、ご迷惑でなかったなら、歩き神様にお願いしたいことがあるのです」
幾分か言いよどみながら男は続ける。
「私も歩き神様についていきたいのです。私の故郷は戦で焼かれてしまいました。父も、母も、もういません。頼りにできる親類も死に絶え、一人この森で首をくくろうと思っておりました」
男は故郷であろう方角に目をやった。在りし日の日常の情景を想っているのだろう。
深く目をつむり、少しうつむいてから顔を上げて歩き神に向き直った。
「私にはもう何もありません。せいぜいが崩れた納屋から拾ってきたこの縄くらいのものです。そんな折にあなたに出会えたことには奇妙な巡り合わせを感じます。私はもうどうなっても構いません。駄目だとおっしゃるならそれで結構です。どうかあなたについていかせてください」
男はそう言って歩き神をまっすぐ見つめた。
歩き神は何も答えず表情も表さず、そのまま元の方角へ歩き出してしまった。
男はそれを肯定と思うことにした。たとえ違っても、迷惑だと殺されても、男には関係なかった。
若い男にとって歩き神は、たまたま目についた石ころのようなものだ。
家への帰り道に蹴とばして転がす、特に意味もない遊び。
もっとも帰れる家はもう無いのだ。あるとすれば、ここではない彼方の世界だろう。
つまりはそこへ向かうまでの、ただの暇つぶしだった。
男は歩き神の数歩後ろを同じ速さで歩き続けた。
森を抜け、街道に出て、開けた道をひたすら歩いた。
木陰の恩恵も届かなくなり、晩夏の日輪は道行く者をじりじりと焼いた。
途中荒れて石ででこぼこになった砂利道や、先日の雨による泥濘が広がっていた。
表面こそ乾いていても踏み出せばずるりと滑る有様である。
しかし歩き神は砂利も泥も関係なくスイスイと歩いていき、その足には泥のはねた様な汚れがついていなかった。まるで浮いているようであった。
困ったのはそういう道の時、男は足を取られて思うように進めないか、大きく迂回するしかなく、歩き神との距離を離されるばかりであった。
歩き神の歩みは決して速くはなく、むしろゆったりとしたものであったが、一切休むことなく同じ速度を維持し続けているため、離れた距離を駆け足で詰めるたびに男の体力が削られていった。
夜になっても歩き神は同じ速さで歩き続けていた。
例年のごとく美しい月が望める日も近づきつつあったが、今は新月をわずかに過ぎたばかりである上に、雨の残滓のような雲がうすぼんやりとかかってきてひどく暗かった。
男の体力は限界であった。
昼前に出会ってからずっと、休むことも水を飲むこともなく、見失わないように必死についてきたのだ。
今見失えば暗闇に一人置き去りになってしまう。足元もまるで見えず、どこが道かもわからない。
目の前が崖だとしてもそのまま進んでしまうだろう。
そんなことを気にはしたりはしない。元々死ぬつもりだったのだ。
だが暗闇はひどく心細かった。
故郷を失い家族を喪い、死を選ぼうとしたのは孤独に耐えられなかったからだ。
もう何もない。帰る場所も待ってる人も、そして今は歩き続ける体力すら無くなってしまった。
ふらりと足の力が抜けて転び、それきり動けなくなった。
歩き神は振り返りもせず、同じ速さで歩いて行ってしまった。
闇はその背を目で追うことも許さなかった。
気がつくと朝になっていた。
不思議なことに体に疲れがなく、飢えも渇きも感じなかった。
男は歩き神を追ってしばらく歩いてみたが、分かれ道にでるともう追いきれなかった。
仕方なく適当な道を選んで進むと街が見えてきたため、気まぐれに入ってみることにした。
門を抜けると穏やかな街並みが広がっていた。
整備された石畳の道と立ち並ぶ石造りの家々。地面の隙間から小さな白い花が咲いている。
行き交う人々は様々だ。台車を引いて荷を運ぶ労働者、世間話に花を咲かせる主婦、遊び駆け回る子供たち、椅子に腰かけ目を細める老人。
このような日常の光景は、男の故郷でも常日頃ありふれたものであった。
今はもうどこにも無い、なのに自分がここにいることに違和感を感じてしまう。
無くしたものを見せつけられるたびに、全てが壊れてしまったあの日にどうして自分も砕けてしまえなかったのかと、そう思わずにはいられなかった。
あてどもなく男はフラフラと街をさまよっていた。
時刻はまもなく昼にさしかかるころ。路地の端に男と同じくらいの年頃の女がいた。
「あっ」
女が声をもらす。見ると女が持っていた薪の束がほどけて散らばっていた。
男は思わず拾うのを手伝おうと近づくと、薪を縛っていた縄が切れているのが見て取れた。
「あの、もしよかったらこれを」
男は自分の持っていた縄を差し出した。自決用に持っていた縄である。
「あ、ありがとう。助かります」
二人で薪を拾い集め、縄で結んで女に渡した。
「それでは、これで」
男が行こうとする。
「待って、なにかお礼をしなきゃ」
「この程度のこと、気にするようなことじゃ……」
そのとき急に腹がぐうと大きな音をたてて鳴った。
ついさっきまでまるで感じなかった空腹感が襲い掛かってきた。
女がふふと笑う。
「それくらいのお礼ならお安い御用ですよ。どうぞいらして。ご飯は誰かと一緒が一番おいしいですから」
男は恥ずかしさを顔に出さないよう必死だった。
自分は死のうと思っていたのに、体と、心は求めるものに素直であった。
ばつの悪い思いをしながらも、男はご馳走になることにした。
誰かとの食事。もう無いものと思っていた日々。
今はその微かな残り香であろうとも、それを感じていたくなった。
何年もの月日がたち、街道近くを通りがかった異装の男は、ある中年ほどの歳の男に話しかけられた。
異装の男は白い襟付きの服の上にボタンを留めた黒い中着、その上に黒い上着を着こんでいる。
中年の男は大きめのリュックを背負っていた。
「歩き神様、お久しぶりです。覚えておいででしょうか。いつぞやあなたについていきたいと願い出た者です」
かつて若者だった男は幾分かやつれており、その気力はわずかに笑みの表情を作るので精一杯の様子であった。
「もし会えたならいいとは思っていましたが、本当にお会いできるとは。よろしければ、またあなたについていってもよろしいでしょうか」
歩き神は何も答えない。前と同じように歩き出してしまった。
男も多少おぼつかない足取りでそれを追った。
しばらく歩いたのち、男は話を切り出した。
「つまらない話でしょうが、歩き神様に聞いていただきたいことがあります」
少し後ろを歩く男に振り向かず、歩き神はただ黙って進む。
「私はあなたに感謝しています。以前あなたについて歩いた先で、私は妻に出会うことができました。家族を喪った私の苦しみを、孤独を、妻が癒してくれました。ありがたいことに子宝も授かって、なんとか一人息子を育て上げることができました」
男の口調は少し弱々しいものであったが、嬉しい気持ちが伝わってくるものであった。
「きっと歩き神様が導いてくれたのだと、私はそう思っています。たとえ違っていたとしても、お礼を言わせてください。ありがとうございました」
男はそう言って頭を下げた。
前を行く歩き神には見えてはいないが、想いを込めた所作であることこそが肝要なのだ。
「ただ……」
男の言葉が打って変わって暗く重く沈んでいく。
「息子が、兵隊に取られてしまいました。隣の国との戦に駆り出されて。とっくに戦も終わったのに、それから一年以上経っても帰ってきません。他に行った人たちは帰ってきたのに。おそらく、息子は……」
力無くうなだれ、話す言葉も霧散するかのように不確かに消えていった。
「妻も心労がたたったのか、病に倒れて、先日他界しました。最後まで息子の安否と、残される私のことを気づかっておりました」
男は寂しさとやるせなさを隠し切れない様子であった。
「私はまた一人になってしまいました。それならば息子を探しに行ってみようかと思いまして、そんな折に歩き神様に会えたのは思いがけない幸運なことでありました。それで同行を申し出たのです」
それは嘘であった。男は死に場所を探しているのだ。
もうすでに息子の命は諦めている。そうせざるを得なかった。
かつて妻に出会えたような幸運が続くことなど無いのだ。
息子の無事を信じ続けることは、家族の喪失を経験した男には難しすぎた。
今ある大切なものが、本当はいつ無くなってもおかしくはない儚いものだということを、男は知っていた。
季節は秋の中頃。木々は装いを朱に染めて彩り豊かに映えていたが、それらが男の悲痛を慰めることも無く、その心中には蒼穹を駆ける秋風のもたらす寂寥感のみが吹き荒んでいた。
街道から外れ、茜色の林道を行く。
歩き神との道行は季節柄陽射しも優しげであったため、だいぶ楽だった。
それに息子を探すという体裁のもと、今回は旅のために携行食と、水を入れた皮袋を用意している。
腰に下げるカンテラを始め、旅道具もリュックに入れてある。
歩き神を追いかけるために用意したわけではなかったのだが、前よりは長くついていけるだろう。
歩き神自身も心なしか歩みがよりゆっくりしている。
時折辺りを見回しては木々を渡るリスや道端に咲く竜胆に目を止めているようだ。
もしかすると秋の風景に感じ入っているのかもしれない。
このひたすら歩き続ける奇妙な存在も行楽を嗜む趣向を持ち合わせているのだろうか。
どれはど歩いたのだろう。まだ日が落ちてはいない。
以前追いかけた時よりは短い時間のはずだが、もう何日も歩き続けたような感覚になる。
その証拠にいつの間にやら潮の香りが漂ってきた。
海までは何日もかかるほどにずいぶんと距離があったはずなのだが、一体どのようにして到達したのだろうか。
夕焼けの海岸線が見えてきたと思いきや、そこから先には道が無く、海へ続く崖になっていた。
切り立った高い崖の上に立ち、眼前に広がるは無辺の海原。夕日が男の瞳を焼いた。
男は初めて見る光景に息を呑んだ。それは恐怖によるものだった。
海の神秘性に畏怖したわけでも、単純に高所が恐ろしいからというわけでもない。
歩き神が、目の前の崖の先へと足を踏み出したからだ。
まるで見えない道があるかのように、歩き神は海のはるか上、空中を歩き出した。
以前荒れ地や泥濘を行く際にも体が浮いているかのように進んでいたが、なんてことはない、本当に浮かんでいたのだ。
少しの逡巡の後、悠然と進む歩き神を男は追うことにした。
かつて男は闇の中に断絶の崖を想像した。
それは歩き神との、つまりは自棄の心に垂れた一本の縄とのつながりを断つものだ。
だが前に比べれば今度は大分ましだ。
夕日が赤みを増して海の彼方に歩き去ろうとしている。が、その輝きはいまだ潰えてはいない。
闇はまだ追いついていない。ならば追える、あの背中を。
光の中で覚悟ができるだけ、ずっとましなのだと、男は足を踏み出した。
そして深淵へと転落した。
海に落ち、泡沫に包まれながらも男は安堵していた。
もしかしたら、もしかしたならば、自分も歩き神の後に続いて進んで行けはしまいかと、淡い期待をしてしまっていた。
人の形をしていながら人のそれとはまるで違う、どこか現実味のない異質な存在。
自分のどうにもならないつらい現実とはかけ離れた存在。もっと追ってみたかった。
だが自分は歩き神とは違う。現実を飛び越えられなどしなかった。
それでよかったのだ。本当は逃げ出したかったけど、駄目ならばそれでいい。
両親を喪ったこと、妻と子を喪ったこと、それが男の現実。
幻想の存在に追いつけないことがそれを確かなものにしてくれた。
喪失の苦痛は、大切なものが確かに存在していた証明なのだと。
曖昧な幻想の中に投げ捨てられたりなどしない縁を見いだし、男は安らぎを覚えたのだ。
深く深く沈んでゆく。
準備した荷物も、過去の思い出も、今となっては水底に向かうための重りにすぎない。
肺いっぱいの海水は空気よりもなお重く、身体の内側を焦がしていった。
男は抵抗しなかった。
苦しくてたまらなかったが、終焉の安寧に比べれば一時の辛苦など如何程のことがあろうか。
やがて全ての意識が刈り取られ、暗黒の荒野たる砂の褥へとその身を横たえた。
何かが聞こえてくる。
始めは雑音としか思えなかったそれが、だんだんと声のようになってきた。
体が揺れる。海底に何がいるというのだろうか。
深く閉じられた目蓋を押し上げてみると、おぼろげながら男を揺り動かす影が見て取れた。
そしてその輪郭がはっきりとしてくると、それは……。
「父さん! 起きてよ父さん!」
これはまぼろしか、それともここは死後の世界なのか。
死んだはずの息子が男を呼び覚ましていた。
「そんな、どうして……」
男は目の前の事象に対してどう反応していいか判断がつかなかった。
「どうしてじゃないよ。父さんこそどうしてこんなところにいるんだよ」
息子らしき人物は男の意識がはっきりしてきたことに安堵している様子だった。
男は首を動かして周囲を確認してみようとする。
そこは暗い海の底などではなく、眩しい陽の当たる海岸の砂浜であった。高さからして朝日であろう。
上体を起こす。空気が吸える。呼吸できているなら死後の世界ではないのかもしれない。
自分はここまで流されてきたのだろうか。荷物で体が沈みきって浮かぶ余地などなかったはず。
そう思い至ってから背中にあったリュックが無いことに気づいた。
何かの拍子にはずれて、そのせいで自分は波に運ばれて打ち上げられたのかもしれない。
なぜ呼吸できているのか。肺を満たした海水はどこへいったか。
いや、今はそんなことは重要ではない。
「どうしてお前が生きているんだ?」
死んだと諦めていた息子が目の前にいるのだ。
「なんだよ、ひどいなあ。生きていちゃ悪いかい」
「あ、い、いやそういう意味じゃなくて……。お前戦に行って、終わってから一年も音沙汰なしで、私も母さんも心配して……。つまり、何がどうしたんだ? 何があった?」
考えるほどに混乱は深まるばかりだった。
息子が語るにはこうだ。
自分のいた隊の隊長が戦死して自分達は散り散りに逃げた。
しかし仲間とはぐれてしまい、慣れない土地で道に迷ってしまった。
森の中をさまよっていたら少し開けた平原に出てしまい、敵に見つかり囲まれ捕まって捕虜になった。
そのまま終戦まで収容所にいて、ようやく帰れると思った矢先に伝染病に罹ってしまった。
病院に隔離されて治療を受けたがその間に捕虜の返還が締め切られ、両国をつなぐ橋が落とされてしまった。
帰ろうにも帰れず手紙を送ろうにも届ける手段が無く立ち往生していたが、今はある人の厚意でその人の故郷の村に身を寄せている。
今日はたまたまその村近くの海岸を散歩していたら父に再会したとのことだ。
男は呆気にとられた。こんなことがあるものなのかと。
ただの偶然か、作為あってのものか。
死にに出て、死んだと思った目にあって、死んだと思った息子に生きて会えた。
一体どのような因果が紡がれればこのように収束するのであろうか。
だが何であれ、これが悪いことのはずはない。
「そうか、そうか……。良かった。生きててよかった……」
男はこれが現実であると実感してくると、喉の奥がじんわりと熱くなってくるのを感じた。
堪えようもない涙が頬を伝い、潮の香りのする手で顔を覆った。
息子は父の肩に手を置いた。
「そうだ父さん、とにかく俺が厄介になっている家に行こう。父さんの話はそっちでしよう。このままだと風邪ひいちゃうよ」
そういえば海水で濡れていることに気づいた。
服の少し乾いた部分も肌触りがなにやら気持ち悪い。
今日は中秋にしては特に暖かい日のようだが、風が当たるとやたらに冷たい。
男は立ち上がり自分の腕を抱いてさすると少し笑い、「そうだな行こう」と言った。
二人は村へ向かって歩き出した。
「お前を預かってくれた人に挨拶しないとな。どんな人なんだ?」
「ああ、その……。入院中に俺を看護してくれた人でね。若い女の人なんだ」
「女性だったのか?親御さんはよく若い男なんかを受け入れてくれたなあ」
「いやその、彼女一人暮らしでさ……。今二人で暮らしてる」
「ええっ!?」
「それでその、俺たち、結婚、するかも」
「ええええっ!?」
月日は巡る。季節は変わる。変わらず在り続けるものは異装の男だけだ。
秋の服装の上に丈が長く厚みのある紺色の外套を着こんで黒い手袋をしている。
首元には白く長い羊毛製らしき布を巻いている。
冬の始まり。厚い雲が空を灰色に塗り替える。乾いた風が落葉の名残を吹き飛ばす。
広い枯れた草原の平野を轍に沿って、誰ともすれ違わず一人歩み進む。
異装の男は寒空の中、道の傍らの石に腰かけ胸を押さえる老人に話しかけられた。
荷物も何もなく、そのろくな防寒も望めない薄着の出で立ちは煤で汚れていた。
「歩き神様、お久しぶりです。またご一緒してもよろしいですか?」
老人は微笑み、しわがれた声で苦しげに言った。
彼はかつて若者であり、かつて中年であり、今は老人となったあの男だった。
歩き神は男を少し見つめると、そのまま歩き出した。老人は立ち上がりその背を追って歩き出した。
二人の歩みは非常に緩慢なものであった。
やがて相手に届くかどうかもわからないような小さな声を絞り出すようにして老人は語りだした。
「歩き神様、あなたと別れてから私は、死んだと諦めていた息子に、再会できました」
幾分か途切れ途切れに老人は話す。
「嬉しかった。息子は結婚して、孫もできて、幸せ、でした」
顔を無理に歪めて笑顔を作る。前を行く歩き神には見えてはいない。
老人は咳き込んだ。多くを語るのは辛そうだ。それでも老人は話を続けた。
歩き神には関係のない話であるとは解かっていても、どうしても聞いてほしかったのだ。
「でも、でもね、歩き神様。私は、また全部を無くしてしまいました。戦で焼けて。私が街の医者に行って、帰った時にはもう、みんな……」
隣国との戦争が再開されたのだ。
海の近くにあった彼の村は、隣国が攻め込むために無くなった橋の代わりに海路から軍を上陸させる際、橋頭保とするべく制圧され、それら隣国軍と間もなく駆けつけた国の軍隊との衝突によって灰燼に帰した。
老人は軍隊に行く手を阻まれ、戦闘が終わるまで村に帰らせてはもらえなかった。
「家の瓦礫をかき分けて、息子と孫たちのかけらを集められるだけ集めて、供養しました。私の両親の時と同じように」
老人の瞳にはもう何の輝きもない。涙も希望も枯れ果てた。
胸を押さえる手に力を込める。
「私の人生は、何だったんでしょうね。大切なものを失い、得て、また失う。どれだけ頑張っても、最後には全部が台無しになる。自分にはどうしようもできない何かに踏みにじられて、終わる」
老人は肩を落として自嘲気味に乾いた小さな笑い声をあげた。
そしてより強く咳き込んだ。呼吸するたびに喉からひゅうひゅうと音が鳴った。
「まるで苦しむために、つらい思いを繰り返すために生きてきたみたいだ。どうしてこんなことになってしまったのか……どうして、こんな……」
顔をしかめて歯を食いしばる。無念であった。
必死に生きて培ってきたもの、積み上げてきたもの、人生の喜びも共に分かち合える誰かも、その全てが無情にも消えていく。
ほんの一時得ることができた幸福も、それを奪われる苦しみの始まりでしかない。
巡り合わせだとか運だとかいう、わけのわからないものに振り回され、押し潰される。
人生に希望など無い。
明日は明るい日だと人は言う。物事はいずれ良くなるのだと。
だがそんな言葉を信じられるのはろくな苦悩もない恵まれた者か、想像力の足りない考え無しだけだろう。
生き続ける限り、失い続けてゆくものだ。
失うものが大切なもの、価値あるもの、信念、想い、あるいは身近な人たち。
そうではないと誰が言えるのか。人生には何の保証もないのだ。
失い続けた者、苦しみのみを積み重ねてきた者は、何に希望を持てばいい?
明日の何を信じればいいのか。
「私は……」
老人が口を開く。
「私はあなたに憧れました。不条理なこの世で、一番の不思議な方。あなたについていけば、苦しい現実から逃げ出せるかもしれないと、思いました」
前を行く歩き神の背をまっすぐと見つめなおす。
「結局は、そんなことはできませんでしたが。でもそれでも、あなたのような方がいてくれることが嬉しかった。私にとっての、ただの逃げ道だったとしても。非現実な、幻想のような、あなたがいてくれたことは、私の救いでした。ありがとう、ございました」
歩き神は何も言わない。
老人もそれきり何も言わなかった。
雪が降りだした。音もなく、耳に痛いほど静かに。
老人は手のひらを天に翻し自身の目の前に寄せる。
白く儚い小さな結晶が手に落ちてくるたび、それは極小の花火であるかのように弾けては融けて散った。
手を握り、腕を下ろし、老人は歩き続けた。
身体は芯から冷え切り、踏み出す足に力が入らない。
体力など、とっくに有りはしなかった。
村が隣国軍に制圧されたと聞いてからこっち、ろくに食事も喉を通っていない。
急ぎ歩いて村まで帰ってからは、家屋の残骸に燻る残り火を頼りに夜を徹して瓦礫をどけた。
家族を弔って隣人を弔って、いたたまれなくなり眠る間もなく逃げ出すように村から飛び出た。
着のみ着のまま当て所なく歩き出し、ふらつきながら咳き込みながら長い時間歩き続けた。
胸の苦しみが激しくなり収まるまで石に腰かけようとするまでの間、一度も休んでいなかった。
思えばずいぶんと歩いたものだ。今も、今までも。
目的を探して寄る辺を探して、確かさと不確かさをかき分けて。
逃避と苦悩と後悔を繰り返す日々にはもう、疲れ果ててしまった。
擦り切れきった心は、大切だった家族たちとの日々さえも曖昧にしていく。
もっと大事に想いたいのに。失うことに慣れすぎてしまったからなのだろうか。
記憶と感傷を手放してしまうことへの抵抗が無くなっていく。
自分はこんなにも薄情な人間だったかと老人は泣きたくなったが、もう泣くこともできなかった。
景色が白に染まっていく。
歩いてきた道も進み行く道も、何もかもがわからなくなっていく。
老人の頭に降り落ちた雪は融けて水となり額や頬を伝い、肩や背に落ちたものは冷たく積もっていった。
歩き神には雪はかけらも積もってはいない。どころか雪のほうが歩き神を避けるかのように降っていた。
とことん奇妙な存在であった。それが老人には少し嬉しかった。
もうどれだけ歩いたのだろう。自分は今どこにいるのだろう。だんだん寒さを感じなくなってきた。
時間と空間と熱。その全てが虚ろになってゆく。
確かなものが目の前の奇妙な男だけだなんて、おかしなものだ。
でもそれも、もう追いきれそうもない。時が来た。
老人はぎこちなくなった膝を雪の上に落とすと、その身を冷たい大地へと投げ出した。
首だけを少し進行方向へ傾けると、変わらぬ速さで歩き去ってゆく歩き神の姿が見えた。
どんどん遠ざかってゆくその背が黒い点のようになるまで見つめると、老人は首を下に向けて微笑み、ゆっくりと目蓋を下ろしたのだった。
雪は穏やかに、だが確りと積もり続ける。
熱を失った老人の身体の上にも、その全てを覆い隠すように。
無音に近い降雪と雲のドームのようなそこへと、ざくざく歩み進む音が鳴る。
黒の服と紺の外套と白の長布を身に着けた異装の男。
歩き去ったはずのこの男が、その道を引き返してきていた。
異装の男は、静かに老人を見つめていた。
風が強く吹き抜けると、木々には先触れのような花が咲く。
春の季節。雪化粧はすっかりと消え去り、荒れた大地は少しずつ緑の色を取り戻す。
影に入れば肌寒いが、太陽の光を浴びれば冬用の厚着では少し暑い。
そんなころに二頭立ての幌無し荷引き馬車が一台、轍に沿って草原の平野を進んでいた。
二人の男が御者台に座っている。片方は手綱を握りながらあくびをし、もう片方は馬車に上体を預け頭の後ろに手を組んでぼんやりと横に広がる草原を眺めている。
横を見ていた男がふと、道から少し外れた位置にある林の所に大きめの石があることに気づいた。
「おい、ちょっと止めろよ」
「ああ? なんだ?」
「いいから早くしろって」
手綱を引いていた男が渋々馬車を止めると、言い出した男が荷台からつるはしを引っ張り出してきてそれを肩に担ぎ、林のほうへと向かったため、もう一人の男もその後をついていった。
男が見つけた石は近くまで来ると石というよりも何かの石碑のようであった。
とはいっても表面に文字のようなものは無い。
妙に形の整った縦に長い直方体であり、灰色の石の頂点と側面にはできてからの長い年月を感じさせる緑色の苔がびっしりと生えていた。
「この小汚い石がなんだってんだよ」
「つるはし持ってんの見りゃわかんだろ。砕いて持ってくんだよ」
つるはしを持っていない方の手の親指を立てて馬車のほうを指し示す。
男たちが運んでいるのは採石場で採取された石であった。
男たちは行商人だったのだ。
「少し出遅れちまって他のやつがたっぷり持っていっちまいやがった。俺たちの運んでいる量じゃちと目方が足りねえ。こいつを持ってって足しにしようってこった」
男は我ながら冴えた考えだとニヤリと笑った。
「でもよう、こんな形の良い石がポツンとあるなんてよう。もしかして誰かの墓かもしれねえぜ。罰当たりなんじゃねえか?」
反論された男は顔をしかめた。
「なーにオリコウなこと言ってんだよ。いいか? 砦の方じゃもうすぐ始まる戦に備えて石がいくらあっても足りねえんだ。石垣の補修だの投擲用だのな。稼ぎ時なんだよ今は。上手くやらなきゃ俺たちゃ飯の食い上げだ。こっちが墓に入ることになるぜ」
悪い想像を振り払うように目を閉じて手をひらひらと振った。
「それによ、こんな苔まみれじゃ誰も墓参りなんてしちゃいねーだろ。だったらただの邪魔な石ころだ。必要無いもんを有効利用してやろうってんだ。いいことじゃねえか。戦に使われて役に立つし、金に換えれば俺たちの懐も温くなる。誰も損しねえよ」
「まあ……それもそうか」
もう一人の男も納得がいったようだ。
つるはしを振り上げて狙いをつける。
「砕いた端から持ってけよ」
「あいよ。運ぶ用の布持ってこねえとな」
男はつるはしを振り下ろし……
「よっ……!?」
たと思ったとき、二人の男たちの首が地面にボトリと落ちた。
一拍おいて残りの胴体も地面にドサリと落ちた。
男たちは何が起こったのかも解からず絶命した。
いつのまにか、男たちの背後にはあの異装の男が立っていた。
異装の男は少しの間苔まみれの石碑を見つめると、振り返っていずこかへ歩き去ってしまった。
その空間には風が草原を撫でる音と、少し離れた位置から聞こえる馬のいななきだけが響いていた。