蜘蛛の少女
覚えていることといえば、一応の護身用として装備していた短剣を手に取り、咄嗟に魔力の矢が刺さった左腕を切り落とした事である。
護身用の剣で自らを傷つける事になるとは、何とも不思議な成り行きだ。しかし、こうして考える意識があるということは、少なくとも僕は生存したということ。もしかしたら違うかもしれないけれど、そう信じたい。
遠くで豪快な水音が聞こえる。滝の音か。音がくぐもっているということは、ここは何らかの屋内である可能性が高い。
咄嗟の行動だった故に、左腕の爆発圏内から十分な距離を取ることができなかった。爆発の衝撃で、川にでも飛ばされて、そして水流に乗って何処かへ運ばれでもしたか。
身体が重い。いや、頭が重い、しかも、二重の意味で。
意識が混濁としているのは勿論のこと、僕の脳みそは、先程から自分の体が逆さまになっていることを知らせてくれている。逆さになっているから、血液が頭を巡り巡りすぎていて、頭が重い。
こうして思考を巡らせていても解決しないので、現状の把握に努めるために、僕はゆっくりと、確かめるように目を開けた。
――紅。
赤い光を携えた丸い物体が、8つ、僕の前に鎮座していた。
最初は宝石か何かと思ったが、時折こちらを観察するように小刻みに動くことから、これは生物の眼である可能性が高い。
8つの赤い瞳と聞いて、すぐさま僕の脳裏に浮かんだ生物。
蜘蛛鬼人。大きな蜘蛛の下半身と、女人の上半身を持った魔の怪物。
もし目の前にいる生物が蜘蛛鬼人だとしたら、僕の状況はかなり危機的だということになる。一難去ってまた一難。あの暴力的な美しい魔族から逃れたと思った先は、魔蜘蛛の巣であったということだ。
極力、目の前の生物を刺激しないようにして耳を澄ますと、滝の音とは別に、カサカサ、カサカサと何かを擦るような音が断続的に聞こえる。
音の正体は確認できない。なぜなら、僕の視界は目の前の蜘蛛の顔部分で殆どが埋まっているからだ。至近距離で見つめられると恥ずかしさが襲ってくるという常識は、魔族には通用しないのか。
そして、辺りを確認するということも出来なかった。なぜなら、僕の身体の自由は奪われているから。意識が覚醒してきて、段々と身体の感覚を取り戻したおかげで、今置かれている状況がより鮮明に把握できた。
なるべく蜘蛛を刺激しないように、腕や脚に力を入れると、ギシギシと軋む音が聞こえる。身体を縛られている。天井から宙吊り。おそらく、目の前の蜘蛛の魔力糸だろう。短剣はもう無いし、合ったとしても僕の魔力操作技術では、この糸を断ち切ることはできない。
蜘蛛の棲家の、洞窟らしき場所の天井から、魔力の糸で宙吊りにされている現状。
どうみても、これから待っている僕の運命は、”捕食”の二文字に限るとしか思えない。
蜘蛛とは、網に掛かった虫を捕らえ、その体液を美味しくいただく生物であり、目の前の巨大な蜘蛛もまた、それは同じであろう。
僕の死因は出血多量になるのか。出来ることなら、蜘蛛ではなくて美人な吸血鬼にでも血を吸われて死んだ方が、同じ死因でも救われた……と、ここまで考えたところで、僕は見落としていた事に気づく。
目の前の生物が蜘蛛鬼人であるならば、その体躯には女人の身体が存在するはずである。
最早絶体絶命。どうせ死ぬのであれば、最後にその相貌を拝んでからこの世を去りたい。
ならば、目の前の生物を刺激しないようにする、という注意は払わなくて良い。
よって僕は、宙吊りの状態のまま、ここがどのような場所かを確認することにした。
まず、光のある方向へと頭を動かす。魔力糸が軋む音を立てる。奴さんはまだこちらの動向に対して何かをするつもりはないようだ。こちらにその顔面を向けたまま、瞳以外はピクリとも動かない。
自分が宙吊りにされているのは、洞窟の中でも入り口に近い方、とういうより、ここは洞窟ではなく大きめの洞穴といったほうがしっくりくる。
水音が聞こえるものの、入り口から差し込んでいる景色には水辺らしき物は見えない。
そして、入り口の方とは反対側、光の僅かにしかない方に頭を動かす。
そこにあったのは、蠢く漆黒の壁だった。
先程からカサカサと聞こえた正体。
暗闇に目が慣れてくる。
幾千もの黒蜘蛛。それらが群れをなして蠢めいている。光を反射して黒光りする蜘蛛の群れは、生理的嫌悪感を僕に与える。
僕はこれ以上見ていられずに、目を反らした――
――目が合う。
赤い眼。しかし、今度は8つではなく2つだった。
見られている。
いつの間にか、僕の目の前に陣取っていた黒蜘蛛は身を退いていて、代わりに僕の事を観察しているのは、少女だった。
少女は頭を乗りだして、僕の事をジッと見つめている。
そちらが何も言わないので、僕は宙吊りになりながらも器用に身をそらせて――半ば死んだような状態だからか、不思議と精神は安定している――少女を俯瞰することにした。
その下半身に身を宿す蜘蛛と同じように艶めく漆黒の頭髪。血のように赤い瞳。まるで死人であるかのように白い肌。
彼女の上半身は、かなり巨大な蜘蛛の頭部から突き出しているようだった。素肌はほぼ丸出しであり、蜘蛛部分の黒い外骨格と比較して、その色白さが際立っている。
素直に美しい。
森にいた魔族が動的な美しさだとすれば、こちらは静的な、静謐さを湛えた美しさとでも言うべきか。
僕は、自分の置かれている状況を忘れていた。
「私の名前はシゼと申します……もし宜しければ、貴方のお名前を教えて頂けないでしょうか? 魔族のお嬢さん」
赤い光が点滅する。蜘蛛鬼人は、少し身を引くと、その2つの可愛らしい眼窩をパチクリとさせた。捕食対象がまさか喋りだしたとでも驚いているのだろうか。それならば心外だ。生物は、その生命の灯火が尽きるその時まで、生きていた証を世に残し続けるものなのだ。
数刻して、鈴を鳴らしたような、これまた美しい声が洞窟内に響く。
「……私はシュピーネ。シュピーネ・テオラクア」
彼女は名を名乗ると、腕――4対の蜘蛛の脚ではなく、上半身の人型の腕――を組んで、何事かを考え込んでしまった。
『シュピーネ・テオラクア』という魔族は聞いたことが無い。もっとも、討伐者として魔族と相見える機会など皆無だった僕には、余程有名な魔族でないと分からないけれど。
改めて、思考に没頭している彼女を眺める。
禍々しさ溢れる黒蜘蛛の下半身とはアンバランスすぎる程に、上半身の彼女はか細く、少し力を入れたら折れてしまいそうに華奢だった。スラリと真っ直ぐに下ろされている黒髪と、白い塗料をそのまま塗ったような白い柔肌の対照美。
彼女が余りにも美しすぎるためか、洞窟の壁一面を覆い尽くしている小さな蜘蛛の群れは気にならなくなっている……といえば嘘になるが、大分慣れてきているのは確かだった。
おそらくこれから、僕は彼女に捕食されるのだろう。しかしそれも良いかもしれない。
このような絶世の半人半蜘蛛の魔族に生き血を吸われてこの世を往ぬことが出来るのならば、少しは救われてた気になる。勿論、欲を言えば生存に越したことはないので、出来る限りの悪あがきはしよう。
僕が彼女に交渉という名の命乞いをしようとした所、先に口を開いたのは、いつの間にかこちらに視線を戻していた彼女だった。
「……あなた、人間?」
「ええ。僕はれっきとした、純度99パーセントの人間です」
宙吊り状態逆さまでの会話。マヌケである。
彼女との会話で、僕は嘘を付かない。ちなみに100パーセントでないのは、妹が魔女であった為、もしかしたら自分もヒトでは無い何らかである可能性を丁寧に考慮した結果である。
「……私、これまでに何人も人間の生き血を啜ってきたわ」
「ええ、そうでしょうね」
何を今更言っているのか。古今東西、蜘蛛とは捕食を主とする生物であり、その特徴である蜘蛛の糸もそのために獲得した形質である。
「……あなたは人間で、私は魔族なのよ」
「ええ、重々承知しております」
こちらがそう答えると、彼女は再び思考の海に沈み込んでしまった。
彼女の質問の意図が掴めない。蜘蛛の糸だけに。
しばらくすると、彼女は突如として態勢を変えた。
蜘蛛の後ろ足2対で、手綱を引っ張られた馬のように上半身を仰け反らせると、残った2対の内1本の腕を振り上げる。
僕は反射的に目を瞑ってしまった。まさか、首を跳ねられるのだろうか。
黒一閃。重力。落下。
鈍痛が身体に走る。
気づくと、この身を縛っていた糸は綺麗に切断され、宙吊りだった僕は、四肢を大地に付けていた。
彼女は、痛みのある箇所をさすっている僕をジーっと観察している。
「……逃げないの? 入り口は、すぐそこ」
逃げる? こんなにも美しい魔族を前にして?
生存第一とは言ったものの、このコミュニケーションをしっかりと取ることのできる美麗な蜘蛛の少女からエスケープするのは、これまた違和感を覚える。
ふと、忘れていた事に気づいた。
僕の左腕が、切り落とした筈のモノが、存在している。