歌を歌い続けるために必要な歌
花江 雪、その名前を僕はきっとずっと忘れない。最初は綺麗な名前だな、と思った。そして、今は、恐ろしい名前だと思っている。
きっと、世間でも記憶に留め続ける人はいるはずだ。なぜなら、彼女はこの連続殺人、第一の被害者であり、最後に発見された死体だからだ。彼女だけが特別扱いだった。その姿は白雪姫のようにも見えたらしい。まぁ、それは、名前が「ゆき」だからそれに託けただけだろうが、他の被害者たちは、全員出刃包丁で刺され、ただ放置された。
それが、二日間で四人。マスコミは猟奇殺人犯だと言っていたが、おそらく、彼はその四人だけを消したかったのだ。無作為ではない。
花江雪はそれを知っていた。だから、この手紙を僕に持たせたのだ。封筒の宛名を見て、間違いないと思った。
「ごめんねって…」
一体どういう意味だったのだろう。もしかしたら、彼女が彼を殺人犯に仕立て上げたとでもいうのだろうか。
封筒の中身は分からないが、輪っかが入っていた。ちょうど指輪のような。でも、「私が死んで」ということは、自分の死は彼に委ねたのかもしれないが、その他の者は違うのかもしれない。いや、これも思い過ごしで、彼女は死期を感じられるような状況かにあったのだから、そう言っただけかもしれない。
自殺幇助と大量殺人じゃ全く違う。人の命を奪う時点で同じかもしれないが、まず聞こえが違う。おそらく量刑だって違う、と思う。
僕は、郵便ポストの前に佇み、ずっとそれを考えていた。そこへ、愛花ちゃんがやって来た。
「何してるの?」
不思議そうに尋ねる愛花ちゃんは猫のように目を丸くしていた。黒いダウンジャケットに灰色のスカート、黒いタイツに茶色のブーツ姿と言う出で立ちだった。その出で立ちは、常にテンションの低い彼女の暗さを引き立ててしまう。ただ、僕も相変わらず、看護服に茶色い中綿のジャンパーを着ているのだから、人のことを言える義理はない。
「うーん」
何をしているのだろう。自分でも分からなくなった。これを投函すればいいだけの話なのだ。
「あのね、ちゃんとした就職先何とかなりそう」
あぁ、じゃあ、結婚の話はなしになるのかもしれない。色々と話をし、聞いているうちに就職は永久就職にすればいいよ、と言ったのだ。もちろん、冗談なんかじゃなかった。この子を支えるのが僕の使命だと思ったのだ。
だけど、彼女は常識派だった、のだろう。会って数か月の実父の継子。ややこしいこと極まりない。
「そう、良かった。どんな」
「一般事務しか出来ないし。三つ向こうの駅にある会社だけど…何してたの?」
再び同じ質問。今度は「うーん」で許してもらえる気がしなかった。
「手紙を投函しようとね」
「それで? どうしてこんなところで突っ立ってるの? まるで、手紙に願掛けでもしてるみたい」
あぁ、そっち。安心したのも束の間だった。彼女の性格上、何かの懸賞?から始まり、何枚出したの? 何が当たるの? そんなものに興味あったんだ? …全部綺麗に答えられる自信がなかった。特に、最後のそんなものに興味があったんだ、の回答は慎重にしなければ、後々に影響しそうだった。
猫が獲物を取る寸前の瞳で、彼女は僕を見て答えを待つ。仕方なくことのあらましを、伝えることにした。もちろん、連続殺人事件関係とは口に出さなかった。
入院患者さんから預かった恋文、と言っておいた。
「死んだら出してって預かったんだけどね」
「その人、亡くなったの?」
その言葉が無感情に響く時は、彼女がどう反応していいのかを迷っている時だ。だから、愛花ちゃんは今、その人の死に関して、悩んでいる。
「うん。だけど、故人のことを考えれば出してあげたいし、でも、もう死んだ人に好きですって言われても困ることだってあるだろうし」
本当の理由は、そこじゃない気がした。本当は、もし、彼女がこの殺人の共謀者だった場合。彼は、彼女に認めてもらうことにより、罪の意識が薄れてしまうのではないか、ということに二の足を踏んでいるのだ。
「悩む理由がいつもと違うね」
「そうかなぁ」
へたくそに笑った僕の口から白い息がほわんと浮かんだ。
「やっぱり冬だね、寒くなってきた」
「こんなところにいるからだよ。あったかいものでも飲もう?」
彼女は淡々としている。納得していないのは明白だった。それよりも、結婚はどうするのだろう? 僕としてはそっちの方が気になるのだけど。
彼女と入った場所はもう何度も訪れているドーナツ屋さんだった。『ハートフル』と言う幸せそうな看板が立てかけられていて、チェーン店かと思っていたが、専門学校仲良しグループで作ったお店なんだそうだ。
「あっ、こんにちは」
溌剌とした挨拶をくれるのが、三つ編みをしているここの事実上のオーナーだ。オーナーさんは僕たちのことをお得意様と呼んでいる。
「今日は、豆腐ドーナツがおすすめですよ」
おすすめとは、焼き加減が最高という意味らしい。愛花ちゃんはそのお勧めに惹かれることもあれば、全く違うものを頼む場合がある。
「へぇ。あの、はちみつドーナツ一つとレモンティ。それから?」
興味のない時の愛花ちゃんの完全スルーにもここのオーナーさんは知っている。だから、ぼくがお勧めを頼むことも。
「あっ、じゃあ、豆腐ドーナツとホットココア」
「お会計は、別ですね?」
オーナーが弁えたように微笑んだ。愛花ちゃんのバイトが決まってから、いや、それ以前から愛花ちゃんはおごられることが嫌いだった。
愛花ちゃんはドーナツが揃い、互いに飲み物を口に含んだ後、話題をぶり返した。
「で、さっきの話」
「うん」
「出してあげたら? 思い続けるのも自由だし、気持ち悪いって思うのも自由。その人だって生きているうちに出来なかったんだから、多少はそんな気持ちで書いてるんだと思う」
「受け取った側はそうは思わないよ」
「ううん」
愛花ちゃんは少し口を尖らせて、言った。
「それって女の人から、男の人でしょう? 男の人は勝手に思うだけ。だからって、ちゃんと次に好きな人が出来たらそっちに愛情を注ぎ始めるよ。女の人の場合の方がややこしい」
かなり偏りのある意見だと思った。だけど、それは彼女の経験が言わせているのだ。
死刑が確定している訳ではないが、おそらく死刑だろうとされていた。本人が弁護を求めていないらしい。
「愛花ちゃんがそう言うとは思わなかった」
「なんで?」
「だって、好きにすれば、って言いそうだから」
愛花ちゃんはそれを聞いて、ドーナツを頬張り、紅茶で流し込んだ。
「あのね…。やっぱり、」
急に愛花ちゃんの視線が落ちた。これは話題が変わったということだろうか。それとも僕の失言だったのだろうか。僕は深刻に彼女の言葉を受け止める準備をした。
「あのね、お母さんに言おうと思うの。お父さんのこと」
「そうなの?」
愛花ちゃんがずっと嫌がっていたことだった。今さら父親のことをぶり返したくないって。僕もその気持ちを否定したくなかった。僕の養父がしたことは、愛花ちゃんたちにとっては裏切り以外の何ものでもない。
「うん。やっぱり、お父さんだから。恨まなくはないけど、なおくんの中のお父さんは悪い人じゃなかったんでしょう?」
「うん。優しくて、穏やかな人で、僕のことを本当に可愛がってくれていた。僕のために音楽辞めて、月給をもらえるところを探してくれた」
「うん…」
本当は君が受けるべき愛情だった。
「だから、就職決まったけど、結婚の話、進めてもいい?」
「え……っもちろんっ」
愛花ちゃんが笑っていた。本当は僕の口から念押しして欲しかったらしい。僕は、その話を出すことが実は心底怖かったことを伝える。
「変なの」
僕らは二人で笑っていた。
次の日、僕はあの手紙を投函した。住所は僕の筆跡で改められて、拘置所宛になっている。




