切望歌
あの日、今まで記憶の「き」の字にも触れることのなかった記憶がよみがえった。
「本城愛花さーん」
見れば、受付で呼ばれているのは先日救急搬送されてきた男の子に付き添っていた女の子だった。
無表情な子だったことは覚えている。だけど、怪我人を運ぶ看護師たち、大丈夫か?と大声で尋ねる50男の後ろから必死になって付いて来ていた女の子だ。
「愛花ちゃんのせいじゃないからね」
50男は社長と呼ばれていて、男の方は「トオル」と呼ばれていた。トオルの頬を抑えるタオルは真っ赤になっていた。女の子はただ、頷く。そして、頭を振る。だけど、表情に乏しかった。
「花江雪さん」
通る声が私を診察室へと呼び込む。
「はい」
返事なんてしなくてもいいのだが、どうしてかいつも返事をしてしまう。引き戸の向こうには、私の体の状態を「どうですか」と尋ねてくれるお医者さんがいる。しかし、どうかと訊かれても、まだ、時々死ぬほどの貧血に襲われるくらいで、それ以外、どうとも言えない。
私は癌だ。お医者さんが放射線と抗がん剤を勧め、手術は出来ないと言った。きっと、いつか通院ではなく入院になり、自主摂取が困難になって、管に繋がれるのだ。その苦しみが何か月後なのか、それは、まだ教えてもらえない。ただ、この世界は私が生きていくには難しすぎる。だから、私は天の召されることになるのだ。だけど、一生分の苦しみをまだ味わっていないから、私はもっと苦しまなければならないのだ。
「本城愛花」彼女の名前を私が知ったのは、岡田さんが私に教えてくれたからだ。岡田さんは、男の看護師さんで時々話しかけてくれる人だった。彼自身父親を癌で亡くしているらしく、私の苦境を理解しようとしてくれるのだ。その話の中で「本城愛花」が出てきた。
戸籍上も血縁上も全くの赤の他人だけど、僕には妹がいるんだ。どこにいるのかも分からないのだけど、その癌で死んだ養父が自分に会う前に捨ててきた子、なんだそうだ。
「ありがとうございました」
そう言って、診察室を出ると、まだそこに本城愛花がいた。薬の袋は持っているので、もう用事はなかろうに。
人の心配なんてしている体ではない。私はきっと彼女よりもずっと苦しんでいるのだ。だから、私は気にしないようにして、彼女を置いて帰った。
まだ癌のことは誰にも言っていなかった。家族は田舎にいるし、もっと病状が進んでから知らせようと思っていた。私の予定では、余命が出てからくらいでいいはずだ。
会社にもまだ。まだ、通院も週単位ではない。月単位、もしくは半月。体も動いている。こちらは週単位になった頃でいいだろうと思っている。
それから、彼には…。
病院の前には小さな児童公園がある。昔ながらの鉄製の滑り台、鎖で釣り下げられている板型のブランコ。その鎖は赤錆色だ。小さい頃、ブランコを漕ぎ続けていれば空へと飛び出せるのではないかと一生懸命漕ぎ続けた。
空を飛ぶことが出来たら…。
私はそのブランコに腰を掛けながら様々な思いを巡らせる。小さい時は怖いことなんてなかった。だから、空を飛ぶくらいまで漕ぎ出すことが出来たのだろう。今は、その前で漕ぐのを止める。振り落とされてしまうかもしれない。地面に叩きつけられた場合の痛みを想像する。
誰かに話しかけられる前に、立ち上がろう。
空は灰色で、希望が見えない。大きく溜息を付く。
私の変わらない日々が続いた。変化はない。いつ見ても空は灰色にしか見えなかった。しかし、会社に黙っていることが限界になってきていた。朝の立ちくらみが酷く、吐き気もする。遅刻が多くなり、早退も増えてきていた。そのことで私へ対する悪い噂が立っていることも気付いていた。
そして、退職願を書いた。理由は一身上の都合で。
退職願を届けた上司にだけ本当の理由を言わなければならなかったが、どうか誰にも伝えないでくださいと懇願した。
灰色の空の下、私は彼に仕事を辞めたことを伝えた。
理由は…もう苦しみたくないから。まだ打ち明けるだけの気持ちが整わなかった。会えない理由は、就職活動でいいだろう。これで別れになるのなら、それでも構わない。
病院帰り、公園のベンチにあの子が座っていた。
私の場所だったところにあの子がいる。仕方なく、その日は立ち止まらずに家へ帰った。
自宅の扉の前に彼がいた。
「おかえり」
「あら、元気だった?」
「少し風邪を引いたよ。君も元気ない気がするけど」
「そうでもないよ」
この状態はまだいい方なんだけどな…。薬の袋、片付けてあったっけ…。
鍵を開け、彼を中へ入れ、お茶を出す。11月にもなると、もうあったかいお茶がいい。急須の中に茶葉と、とぷとぷとお湯を落とす。美味しいお茶の淹れ方は知らないが、日本茶が落ち着いた。
「ありがとう」
彼も寒いのか、コートを脱ごうとしない。
「寒い?」
そう言って、エアコンの温度を上げた。
「急にはあったまらないと思うけど…」
「大丈夫。あのさぁ。仕事辞めた理由聞かせて」
「前に言った通り…人間関係に疲れたの」
会社で私の悪い噂が立っていて、居た堪れなくて、もう苦しみたくなかったから。そして、体調が芳しくないから。
「どんなこと?」
「言いたくない。もう大丈夫だから」
「うん、そうだね、君なら」
彼は素直だった。それが時々苦しくなる。素直に私の言うことを呑み込む。それは、私が悪いということになるような気がしてしまう。ちょうどその時、急激な吐き気が私を襲った。薬の副作用…だと思う。ただ、便器の中には何も吐き出されなかった。お腹の中には、吐き出すだけのものがないのだ。
「大丈夫?」
便器に向かって頷く。胃が持ち上がる。そして、吐き出せない物を吐こうとする。白い泡のような物が便器の中に浮かんでいた。
「ごめん、帰ってもらえる?」
「うん…無理しないでね」
そう言って、彼は部屋を出て行った。私は布団を敷いて横になった。
そして、とうとう余命が出た。受け入れられるように心の準備はしていたのだが、やはり、その宣告はきついものだった。
その日の帰りもあの子がそこに座っていた。「本城愛花」いつまでそこにいるつもり? 私は、もういつまでもそこにいることなんて出来ないのに。
空はやっぱり灰色だった。季節がらそんな感じなのは分かっていた。12月2週目の寒空。世の中にはたくさんの愛の歌が流れている。毎年毎年、飽きもせず誰かが歌い出す。そして、浮かれ調子の人間がたくさん行き交って行く。町中はお祭り騒ぎだ。キラキラキラと。裸になった街路樹にまでネオンの管が巻かれている。きっとあの木は嬉しくないはずだ。
余命なんて…。いつ来るか分からない寿命を生きるのとそんなに変わらないんじゃないの? だって、明日交通事故に遭うかもしれない。明日、誰かに殺されるかもしれない。明日、私の寿命だったかもしれない。
ふと、思い立った私は、急いで百貨店へと向かった。洒落た店を知らなかったのもある。私は一階にある宝飾品売り場に立っていた。憧れのブランドは0が二つほど多い。だけど、宝飾品売り場には私にも手が届く店もたくさんあった。指輪を二つ。銀色の輪っか。彼のサイズは分からないが、とにかく一般的なサイズにしてもらった。そして、白い封筒にそれを入れ、手紙を書いた。
「こんにちは」
「あぁ、こんにちは、今日は顔色いいですね」
岡田さんが微笑みかけた。そう、ここでは顔色がいいと言ってくれる確率が高い。そして、余命が出たことやらこれからのことを伝えた後に、あの子のことを話した。岡田さんは「トオル」のことはすぐに思い出したが、付添いの女の子までにたどりつくのには少し時間がかかった。
「えっ、あの子が…」
ずっとあの公園で、まるで私みたいに沈んでいる「本城愛花」に岡田さんを向かわせる。そして、頭を下げた。
「もし、私が死んで、世間を騒がせる人が出てきたら、これをその人に、ごめんねって。お願いします」
岡田さんは封筒を受け取ってくれた後、「ありがとう」と私に言った。
いつ来るか分からない死。確実にやってくる死。その確率が私の場合高いだけの話なのだ。じゃあ…。
次は岡田さんのお話です。




