居たたまれない母親の歌
二話目に来て頂き、ありがとうございます。
年頃になっても全く男の気配すらしない娘だった。そして、二十七歳を迎える娘に対して、私はそれを密かに心配しながらも、冗談まででしか言えない母だった。きっとそれは私が娘に注いできた愛情に問題があったから、だと自分を責めていたからだと思う。だから、娘が唐突に、そして、照れを隠すために、もしくは反対を恐れての防御線を張って「結婚することにしたの」と能面のように言った時、私は本当にとても嬉しかったのだ。
「結婚って、あなた。いったい誰と? 簡単に言うけど、どんな人なの?」
こういう言い方が適切なのかどうかは分からないが、結婚に失敗した経験から、とにかく娘には失敗して欲しくなかった。だから、娘の性格をまた無視し、否定を込めた口調で言ってしまった。
「岡田さんって言う人」
やっぱり、娘は不貞腐れたように言う。いつもここで拗ねてしまって会話が成り立たなくなってしまうのだ。だから私は黙り、言葉を考えていた。しかし、この時は娘の方も少し大人だった。
「今度ちゃんと紹介するから」
その晩、私は嬉しいのと不安とで眠れなくなっていた。そうか、岡田さんって言う人なんだ。岡田愛花。そう頭の中で描くと本当に娘が遠くなってしまったようだった。
岡田さんは早くに両親を亡くしているので、天涯孤独なのだそうだ。そして、母一人子一人の話をすると一緒に暮らしたい、とまで言ってくれているらしい。
母一人・・・。胸が痛む響きだった。愛花を産んだ動機が不純だったせいだろう。愛花がいれば戻ってくると思っていただけ、愛花がいればいつか結婚できると思っていただけだったのだから。
私が娘を産んだのは十九のことで、遊びたいのと、育児の苛々と、逃げた男の面影を思い出してしまうことで、なかなか子どもを素直に抱きしめられなかった。思い起こしてみれば、私の経歴なんて今の時代、取り正して珍しいものでもないし、愛花の育児と言ってもそんなに苛々するものでもなかったはずなのだ。ただ、私の中ではとても手の掛かった子、やりにくい子であることに今も変わりがない。
母乳は飲まない。ミルクは飲まない。寝ない。から始まって、食べない、大きくならない、言うことを聞かない、人見知りが酷く二歳になっても治らない、に続いた。熱もすぐ出してしまうので、勤める会社も長く続かないことが多かった。そして、仕事をなくしている間は他の母親に気まずくて、保育所も行ったり休んだりを続けた。その度、何度も先生が家まで訪ねて来てくれたが、余計に気まずくなって居留守を使う日々も過ごした。
誰にも頼れない、と思うとノイローゼ気味になり、母の所へ行って愛花を置き去りにしたこともあった。しかし、一人で町をウロウロしていると、どうしてか子供服売り場へ行ってしまい、愛花のことを考えていた。ばつが悪く実家へと戻ると案の定、母に人見知りをして目を腫らしている愛花が、助けを求めるように、救いようのない私に両手を差し伸べてくれた。すると母は「しっかりしなさい」と言って、拗ねる私に愛花を手渡した。愛花はその度に「お母さんなんて嫌い」と言いながら抱きついてきた。
そんな愛花が結婚をする。
岡田さんは「岡田直哉」と言う好青年で、礼儀正しく優しそうで、愛花にはもったいないくらいに真面目な人だった。私は相変わらず心配な質問ばかりを繰り返し、その度に愛花の表情は硬く能面のように変わっていった。しかし、岡田さんは始終にこやかに全ての質問に丁寧に答えてくれた。
「えぇ。小さな病院なんです。ご存知ですか。そう、愛花さんのお勤めの会社の近くの親愛病院です。ヘルニアだったら、うちも専門の先生がいらっしゃるから、いつでも来て下さいよ」
「あら、そう。じゃあ、酷くなったらお願いしますね。ヘルパーだって言うのに、腰が弱くなってしまって、最近は事務ばかりに回されてしまって。でもね、いい会社なのよ。こんなに不景気なのにずっと雇ってくれて、私の身体まで心配してくれて。全くありがたいわ」
と私は本当に嬉しくて笑っていた。結婚のことを考えると本当に嬉しくて仕方がなかったのだ。そう、やっとあの貯金が使える。
「それにしても、こんな子のどこを好きになってくれたの?」
「いえいえ、僕にはもったいないくらい素敵な方ですよ」
少し顔を赤くしながら答えたその青年に私はとても安心して愛花の肩に手を置いた。思ったとおり、愛花は鬱陶しそうな顔をする。
「岡田さんっていい人ね」「看護士さんなんですってね。大変な仕事よね」「いったいどこで知り合ったの?」「これから大変だわ」
「ねぇ、愛花?」
岡田さんと別れた後の興奮冷めやらず、機関銃のように話し続ける私を冷ややかに見つめる愛花は、冷たく一言言い放つ。
「お母さん、いい加減にしてよ」
娘は全く不愉快極まりない表情を浮かべている。
「はいはい。でも、色々準備を始めなくちゃ」
「勝手にするから、放っておいて」
いつまでも反抗期が治まらない娘は、それだけを言うと横を向いてもう私の言葉には耳を傾けなくなった。
しかし、時が経っても一向に娘が式の話をし始めないので、仕方なく私の方から尋ねてみた。実際には結婚をしたことがないので何をしてやれば良いのかが分からなくて不安だったからだ。しかし、愛花と話せるのは遅い夕飯の時だけ。私は変則勤務、愛花も残業やら付き合いやらで変則だ。これは二人とも頑張って生きている証拠なのだ、と自分に言い聞かせている。
「ねぇ、愛花」
もちろん、不機嫌な愛花は答えない。
「式はいつ頃になるの?」
答えない娘に答えてもらうために母はずっと質問を続ける。
「いくら二人とも親戚が少ないと言っても、お友達とか社長さんとかも呼ぶんでしょう?」
娘がギロリと私を睨み、一言言った。
「式は挙げない」
「どうして? こういうことはやっぱり、ちゃんと進めていかないといけないと思うわ」
そんなことを言える立場ではないが、よりたくさんの人に二人の結婚を知っていてもらった方がいいと思っていた。結婚がより面倒であればあるほど別れないための制約になりそうな気がしていた。もちろん生涯通して連れ添った相手の死別も悲しいが、それ以外で片方がいなくなるのは悲しくて、満たされないものなのだ。
「きっとおばあちゃんもおじいちゃんも愛花の花嫁姿楽しみにしてるだろうし」
実は、早く曾孫の姿も見たがっていることまでは言わなかった。
「分かった、じゃあ、写真だけは撮っておく」
「そういうことじゃなくて」
しかし、娘は立ち上がり、遅い夕食を終えてしまっていた。
当たり前かもしれないが、愛花は私の母と父によく懐いていた。もしかすると実の母の私なんかよりもずっと身近な存在なのかもしれない。私はそれをどこかで仕方がないと思いながら、少し嫉妬してしまうのだ。
小さい頃からそうなのだ。私の作るお味噌汁は辛いと言って食べないし、私が勧めた進学先には耳を傾けようともせず、こっそり母に相談していた。学校でいじめられた時も、就職の時も、いつも。私は溜め息をついて、残されて冷めてしまった可哀想なお味噌汁をそっと流しに流していた。その背中に向かって、「おばあちゃん達にも、紹介したいからまた日にち合わせてもらえるように言っててね」と独り言のように呟いた。
もちろん、愛花は答えなかった。
次は娘のお話です。




