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作者: ナオユキ

 雨を降らせすぎたのだ。今や、花は枯れ、腐肉をついばむ虫の町、病いのしとねに黒い汁が漏れる。水をやりすぎた、ジョウロを持つあの鬼らめ。どうして慌てふためくのだ? その手のハサミで、葉を落としたのは誰か。その手のシャベルで、根を絶ち、土を壊したのは、誰か。どうして一度でも、太陽と会わせなかったのだ。雲と陰が、あの鬼らの陰が、花を腐らせたのだ。それなので、私は手紙を書いたのだ、あいつ、夏へと。あいつは来て、私を苦しめたものどもを焼き払ってくれる。私を溺れさせた水を、私をくらませた陰を、私をひあがらせた雲を。すると、太陽はやっと私と顔を合わせられる喜びに熱くなって、胸の中に隠していた炎をいぶらせるだろう。



* * *



 いつもの机ではない。家族が毎日、食事をする黒いテーブルで、勉強をしている。算数の教科書を広げ、ノートに問題と解答を書き写す。前に習ったところの復習と、この先に習うであろう課題の予習。本日の宿題はすでに終わらせて、それでも勉強の時間は続く。本当は、友達の家に行って、流行りのテレビゲームをしたかった。帰り道で誘われた時は心が浮き立ったのの半面、不吉な予感のせいで気が気ではなかった。ところで、不吉な予感の的中率は公式化できるほどに高い。


 期末テストほど大掛かりではないが、単元が一区切りつくたびに、小規模なテストが施行される。棘子とげこは、成績優秀な生徒だ。どんな学科でも、九十点を下回ったことはまずない。それは、母の熱心な教育の賜物でもある。厳しい方針で、娘の尻を叩くのがことのほかうまい。棘子は文句もいわずに頑張って、母の期待にこたえて来た。ところが、今回、算数のテストだけ失敗した。七十八点という過去に例を見ない点数を叩きだしてしまったのだ。


 母は怒った。それも、水が沸騰する類いのものではなく、折れ線グラフが中途で折れ曲がり、どんどん下降し、ゼロよりもさらに下り、奈落の底にまで達する恐れさえあるほどに、周囲を凍えさせる冷気が全身から立ち上った。棘子は、母の頭に角を見て取り、これはただではすまないと悟った。早速、母は、棘子に予習復習を命じた。自室で独りで勉強することは許されなかった。


「もう、いい歳だと思って、部屋をあげたのが間違いだったね。まだまだ、私が見ててやらないとダメなんだ。」


 小学四年生の娘に言うことだろうか、友達は、みんな自分の部屋を持っているのに、と心でつぶやいたが、口には出さなかった。棘子は、独りの時間を過ごす時にも、勉強を怠けなかったことは確実だ。異常と思えるくらい生真面目に、宿題も、復習も、行なっていたのだ。母に、自分の努力を疑われた、それが、彼女を一番傷つけていた。


「算数だけでなく、これからは、国語も理科も、全部私がみてあげるから。油断していたら、他の教科も落としかねない。」


 ここまで熱心に、娘の勉強に親身なってくれる親は、他人の側からすればうらやましいだろうか。そう、たしかに、今どき、親自らが子どもの教鞭をとる家庭は、少ないかもしれないので、あるいは賞賛されて然るべきだろう。ただ、この母、かなり口が悪かった。


「ちょっと、ここだけ間違えてる! たった一問、ここさえなければこの問題群は全問正解だったのに! 馬鹿! しかも、こんな基本でミスするなんて、どういうことなのさ。私だったらね、一度答えまで書いたら、また最初から計算の過程をたどりなおすよ。そういう丁寧さがあんたには欠けているんだよ。そこが馬鹿なんだ!」


 何かすれば、「馬鹿!」を投げつけるのが、母の口癖だった。本人からすれば、条件反射で飛び出す他意のない言葉であるかもしれはなかったが、言われた方はたまったものではない。それも、まだ児童の娘に向かって、頭ごなしに「馬鹿」「馬鹿」を浴びせているのだから、本人の意識はどうであれ、良い教育とは言えまい。棘子は、どうにかして母の「馬鹿」を回避できないものかと考え、日々、行動していた。母から罵られることは辛い。何を忍んでも、こればかりは忍び切れない。彼女の学習における原動力は、実に、この恐怖からだった。母からの罵倒のつぶてを未然に防ぐ、そればかりを警戒する毎日だった。


 しかし、ついに避けきれない台風の上陸だった。今回の母の舌は、いつにもまして峻烈だ。彼女は、娘が勉強するのを傍らに座って、ずっと見ていた。棘子は、腹が痛くて仕方がない。全身、冷や汗まみれだった。ペンを握る手が、やたら震える。なにせ、母の形相は恐ろしく、鬼の面そのものだったのだ。彼女は、母に指示された問題を解き終わり、解答の答え合わせをしてもらうために、ノートを渡した。母は、厳しい顔で受け取ると、赤のボールペンを出した(問題は二十問あった)。まず、一問目に目をとめると、丸をした。棘子は、まずホッとした。最初の問題は、心配するほど難しくはなかったが、最初から計算違いをするという悪夢だけは実現せずにすんだのだ。二問目、丸。三問目、丸……。九問目までは順調に丸が書かれていった。全問正解になるかも、と彼女が希望を持ち出したところに………十問目、バツ。棘子は、全身脱力した。しかも、それだけではなかった。十三問目、バツ。十七問目、バツ。二十個ある計算問題のうち、三問が間違い。棘子の目には涙がにじんだ。


「あんた、ここの計算、本当に今日、授業で習った?」


 棘子は、無言のまま、うんうん、と首をふった。


「じゃ、これはどういうわけさ? 三つも間違えるなんて! 何がわからなかったの? ええ?」


「わかってたよ……わかってたんだよ……」


「それだったら間違えるはずがないでしょう! まったく、自分がどこが解らないのか、解っていないなんて、とんだ馬鹿だよ、あんたは! 授業で習ったって、テストではずすんじゃ話しにならないでしょうが。本当にしっかりと先生の話を聞いていたの? まさか、居眠りはしてないでしょうね?」


「ちがう! 絶対にちがう! ちゃんと聞いてたよ!」


 たった三問の答えをはずしたくらいで、そこまで言われるのはひどすぎる、と思った。


「馬鹿だね! 『ちゃんと聞いてた』? だったら聞くだけじゃなく、ちゃんと理解もしなさい。耳にいれてたって、頭に入ってなくちゃ意味ないんだからね! 馬鹿!」


 これで、一体何度、「馬鹿」と言われたことだろう。棘子の心は、母の口によってズタボロに切り裂かれていた。


 母は、再三目を通したテスト用紙を、また取り上げた。


「それにしても……まーあ」


 母は、算数以外の用紙を指し示した。


「今回は算数が特別に悪いけど、他のも良いんだか悪いんだか。どれも九十五点以下じゃないか。ええ? 私が勉強を見ていて上げていたころには百点だって珍しくなかったのに、あんたに任せてからは落ちるばっかりだね。やっぱり、まだまだ馬鹿な子だよ。いつになったら利口になってくれるのだろう。それにしても、あんたもあんただけど、先生も先生だね。見てごらん、この国語のテスト。漢字問題のところの「報」の字。「幸」と書くところが「辛」になっているじゃないか。それなのに丸がついてる。私でも気づいたのに学校の先生ともあろう者がねえ。見逃したのか、わざとおまけしてくれたのか。やめてほしいねえ、間違えたらバツをくれてやらないと。子供ってのはすぐに油断してしまう。もしかしたら、これまで高得点で嬉しがっていたけど、おまけ採点があったのかもね。先生も馬鹿のことしてくれるよ。ああ、恥だわ。こら、馬鹿! とっとと次の問題を解くんだよ!」


 棘子は、もう限界を感じていた。腹の底から猛烈な衝動が突き上げていた。悲しいと同時に、これまでに抱いたことのない大きな怒り。彼女の口はおのずから開いた。


「……あんただって……」


「え? なんか言った?」


「あんただって……馬鹿の馬鹿だ!」


 自然と、それは叫びとなった。喉を引き千切るほどの強引な力に押されての、心からの声だった。棘子は、生まれてはじめて母に正面からぶつかっていった。


 しかし、言ってしまってから正気に返った。棘子は、肝臓の辺りが無限に萎縮していく痛みを覚えた。恐る恐る、母の顔をうかがった。きっと、さっきとは比較にならないくらい怒っているだろう。家が震動するくらいの雷が今に落ちるだろう。彼女は、ほとんどこれらを確信していた。


 ところが、実際は、予想とは正反対の状況を見せていた。母は怒るどころか、むしろ目を点にして戸惑っている様子だった。


「棘子ちゃん……いま、何て言ったの? ごめん、私、聞き違えたのかな? 私について、なんて……」


 棘子は、意地を通すことにした。ままよ、とばかりに言い放った。


「お母さんは、大馬鹿だって、言ったんだ。」


 母は、ポカンと口を開けてしまった。その姿は、本当の阿呆のようで、棘子はおかしくなった。


「お母さんが、大馬鹿? なんで? 棘子ちゃん、どうしてそんなこと言うの? ちがうよね? 本気じゃないんでしょう?」 


 棘子はそれに答えず、黙っていた。そうしていると、母は棘子の肩を揺らして、「ちがうでしょう? そうじゃないでしょう?」をしつこく繰り返してきた。それでも、棘子は頑なになり、一向に返事をしなかった。とうとう、母は哀れな泣き声まで出した。


「ごめんね、棘子ちゃん。謝るから。きっと、私の言い方がきつすぎたんだね。だから、お願い、さっき言ったことを撤回してちょうだい。」


 母の変りようは驚愕に値した。鬼の形相から、なよなよした乙女の面相にまで転換していたからだ。こんな母を見せられて、棘子はかわいそうに思った。そう、彼女は初めて、母をかわいそうと思った。そこで、「うん。さっきのは嘘だよ。」と言ってあげた。すると、母の顔は幾分、晴れやかになったが、さっきまでの勢いはすっかり削がれ、静かに娘の勉強に付き合った。


 次に日から、母は、娘が自分の部屋で一人で勉強するのを許した。以降、母は、娘との関わり合いに遠慮を持ち出すようになり、罵倒することもしなくなった。



* * *



 棘子には、仲のよい友達が四人いた。クラスの全員と仲がよかったが、友達付き合いでは、特に親密なのがこのグループに限られた。寄って集まれば話が尽きることはなく、いつまでいっしょにいても楽しいと思えた。最近の主な話題はゲームか、好きな男性芸能人は? などということだった。ある一人の女の子など、学校には雑誌や写真集の持込み禁止だということで、家で雑誌の写真を切り抜き、ひそかに持って来ては友達に見せてなどしていた。彼女達は、その写真を手にとっては好き勝手に批評所感を下すのだ。その口ぶりは大人も顔負けである。


 棘子のもとへも、その手の写真が回ってきた。しかし、彼女は一瞥するとあとは興味なさ気に視線をはずした。


「棘子ちゃん、どの人がタイプ?」


 好奇心を丸出しにした幼い視線。棘子はいかにも人を馬鹿にした態度で相手を嘲り笑った。


「どれも間抜けな顔だね。あれ? たしかこの人が好きなんだっけ? この体調不良の馬みたいなやつが。」


 棘子に写真を渡した女の子はとても傷つき、おずおずと体を引っ込めた。周りで見ていた仲間は面白そうに棘子を取り巻いた。


「へえ、あんたはこういうの興味ないんだ?」


「ない。どいつもこいつも馬鹿ばかりなんだから。」


「ええ? そんなことないよ。私、○○○くん、好きだな。」


「へえ、知らないけどね。」


「私は、×××派かな。」


「そっちも知らない。」


「嘘! 絶対知ってるよ。」


 彼女らは、さきほど棘子に笑われたアイドル好きの女の子に写真を出してもらうように頼み込み、棘子の机の上に置いて見せた。


「へえ、そう。みんな、こんなのが好きなんだね。」


「だってかっこいいでしょ?」


「たしかに、かっこいいね。このラクダに似てる人なんか、好きだね、よだれをだらしなく垂らしたらもっと似合うでしょうね。あと、この人もいいね、ワニみたいでさ、皮を剥がれてバッグにでもされたらさぞ高値で売られるでしょうね。」


 周りの子らは、棘子の発言の真意を計りかねた。本気なのか、それとも冗談のつもりなのか。


「ねえ、棘子ちゃん。真面目に答えてよ。」


「真面目に? 下らない。じゃあ、言ってやる。みんな馬鹿みたいな面だってさ。男の人なんて誰も彼も馬鹿ばっかりだよ。それに、そんなのを好きになるあんたたちもやっぱり同じくらい馬鹿だよ。」


 話を聞いていた棘子の友達たちはすっかり動転してしまった。これが、自分たちの知っている棘子だろうか。この前まで、彼女はこんな過激な言葉遣いをしていたろうか。


「ちょっと、棘子、どうしたのさ。この前のテストで点数落としたって落ち込んでたのは知ってたけど、そのせいで頭おかしくなったんじゃないの?」


「頭がおかしく? ああ、そうかもね。あの日から、私もお母さんも、頭が変になってしまったよ。でも、それがあんたに関係ある? 下らない。馬鹿だね。いいよ、あんた達の好きなブロマイドなんかをもっと見せてよ。ほら、早く!」


 そして、机の上に次々と出されてくる写真に対して、「ふん、馬鹿な面」「下手な化粧」「中途半端」「くずれた粘土」などと、写真の中の本人が聞いたら青ざめるだろう厳しい評価を即断即決に下していった。写真を持って来ている女の子もムキになって、どうしても棘子から好意的な言葉を勝ち取ろうと、手持ちのコレクションを全部披露した。それでも、最後の一枚は、棘子の「最悪だね」の一言で片付けられた。アイドル好きの女の子は完敗した。面白がっていた友達らも、さすがに棘子の仕打ちが目にあまり、「行こう」と離れていった。この日から、棘子の口の悪さが有名になった。


 かつての仲良し四人は離れていったが、それでも不即不離の距離で棘子とつながっていた。それというのが、棘子の力強い態度が、少女らの目をひきつけたからだった。棘子の口の悪さは男子にでも女子にでも変わりはなく、それが彼女らの目には勇ましく映ったのだ。それで、かつてのように近しい仲ではなくなったが、一種の敬意が釘となって、棘子との関係性は途絶えなかった。


 クラスの中で、棘子は浮いた存在となった。何か話しかかれば必ず「馬鹿」と言われてしまうので、滅多に話しかける者はいなくなった。それでも、完全に嫌われたかといえば、そうでもない。クラスのとった方針は、いうなれば、触らぬ神に祟りなし、の寸法である。異端者を分離するのではなく、共生するやり方を自然と実践していた。どうして、棘子をいじめる者が出なかったのだろう。それは、不思議とそなわった、彼女の言葉の力強さによるものかもしれない。彼女の声は、たとえそれが罵倒の言葉であろうと、いや、それゆえに、聞く者に特別な働きかけをするのだった。政治家が対立政党を面罵する雄弁や、革命家の既存政府に対する勇猛な弾劾と、種類は近い物であったかもしれない。つまり、誰もが心の奥底におしこめている事柄を、彼女が時折発する過激な言葉が、代替品として世の中に出て行くことが、口には出さずとも誰もが快感に(おかしな話だが)思っていたのだ。


 たとえば、それは次のことからも証明される。


 ある日、午後の授業の最中のことだった。その時は、新任のまだ二十代の男性教師が授業の担当をしていた。彼は明るく、気さくな性格から、生徒たちから人気を集めていた。


 突然、棘子は口を開き、大きな声で言った。


「先生、服装のセンスないですね。その服、全然似合ってません。自分でそれも気づかないなんて、馬鹿ですね。」


 一瞬、授業は停止し、クラスは静まり返った。唖然として棘子を見やっていた若い男性教師は、唇をピクピクとひきつらせ、笑顔を作ろうと努力し、やっと返事をした。


「あ、あはは! まいったな。言われちゃったな。ゆ、許してくれよ。俺、服選びが苦手でさ……」


 男性教師が怒ってないようだと分ると、一転、フライパンをくつがえすようにクラスは一気に笑いの渦に飲まれた。


「ほんと、先生、ダサい服!」


「おれも朝から思ってましたよ!」


「自分で買ったの? はやく彼女を作って、良い服を選んでもらいなよ。」


「こらっ、うるさいぞ。生意気言うんじゃない。」


 彼は、恥をかかされた状況が笑いで流せたことを感謝した。そして、以後、その日に着ていた服は二度と着ることはなかった。


 また、こんなこともあった。


 それは体育の時間のことだった。クラスの生徒たちは全員、校庭に出て徒競走をしていた。棘子は、みんなの輪から逃れて、校庭の脇で監督している体育の教師のもとへ向かった。彼は体に少し脂肪のついた年配の教師だった。自分のもとへ来た生徒に、彼は具合が悪いのかと尋ねた。


「具合が悪いのは先生の方ですよね?」


「は? なんのことだ?」


「○○○先生のことで……」


 それは、ちょうど目の前の教師と同年輩の、女教師のことだった。


「な、なんだと?」


 彼の声は上ずり、焦りがあまりにも正直に表れた。顔はゆでダコみたいに赤くなった。


「先生、奥さんいるでしょ? ○○○先生も結婚してるでしょ? 先生、馬鹿なことしないでよ。」


「だ、誰がそんことを言っていたのだ?」


「馬鹿な先生。どうして隠せてると思ったの? 男の人は、歳をとっても馬鹿なんですね。」


「お、大人に向かって……」


 憤然となりかけたが、運の悪いことに、下世話な生徒たちに今の話を聞かれていた。そもそも、棘子には、繊細な話題にも関わらず、外聞をはばかるという態度がまったくなかった。


「先生、先生、なんの話ですか? ○○○先生?」


「こら、なんでもない!」


 すでに人伝てから人伝てに、一番厄介な部分が伝播していた。飴玉に群がる蟻のごとく、生徒たちが寄ってきた。


「うるさい! うるさい! 何もかも嘘だ! 根も葉もない与太話だ! お前たちは早く授業に戻れ!」


 この先生は、それからしばらくの間、同じ話題でからかわれ続けるのだった。ところで、この体育の先生、噂の相手の○○○先生と本当に不倫を犯し、それが公けに暴露され、教職界から追放されるという事件を起こすのだが、それは棘子が卒業してから数年後のことだった。彼女は、不吉な予言、あるいは呪詛を残して、去っていったことになるのだ。


 さて、このように、口の悪い棘子は、みんなに嫌われながらも、一目置かれる存在となっていた。自分が彼女に罵倒されるのは嫌だが、誰かが罵倒されているのを見物するのは嫌いじゃない、という者は多かった。


* * *



 棘子は、中学に上がると、自分専用のパソコンを買ってもらった。そこで、彼女は、インターネットに夢中になった。特に、チャットや掲示板という交流サイトを好んだ。こういう場でも、彼女は口の悪さを発揮した。どうどうと、臆面もなく、人が傷つくような発言を連発した。そうすると当然、彼女はネットの住人の反感を買った。それは現実と変りのないことなので彼女は驚かなかった。彼女は、別の意味で驚いた。ネット上では、彼女への反感は現実に発生するもの以上であった。彼女のトゲに満ちた一言に対する反撃は、短時間で百を超えることもあった。その中には、「殺す」だの「ウイルスを」だの、物騒な文言が飛び交ったが、現実での言葉の応酬を繰り広げている棘子が、こんな顔も知らない人間の書き言葉になんぞ臆するはずもなかった。かといって、真面目に反撃もしなかった。彼女は、自分の一言に対する反響を楽しんでいたのであって、誰かと不毛なケンカをするのが目的ではなかったのだ。


 しばらく経つと、棘子は自分で掲示板を開いてみた。内容は、ニュースから適当に取り上げた話題の種を中心に、好き勝手なことを言い合うというものだった。これが評判となった。彼女の遠慮のない物言いに、多くの人が賛同したり、あるいは否定したりするために、掲示板を訪れた。掲示板は盛況となったが、彼女は、他のことにも手を出していたため、開かれるのも時間を置いてからという形になった。


 棘子は同じ頃、ラジオにもはまっていた。ラジオにハガキを送るのだ。彼女のハガキはよく番組に採用された。棘子特有の歯に衣着せぬ発言が、ラジオのリスナーに受けるのだ。送り主の名前には偽名を用いず、そのまま本名で投稿していたため、ラジオを聞いた学校の生徒は、その辛辣のコメントと名前から、彼女をすぐに特定した。


「私、ファンなんです。握手してください。」


「はあ? 馬鹿なの、あなた。私は思ったことを書いて、送っているだけ。あんたとは何の関わりもない。あっちに行ってちょうだい。馬鹿がうつる。」


 こんなことを言う女なのに、ラジオを聞いた人たちで、彼女のファンは増える一方だった。棘子の周囲には、奇妙な輪が広がり始めていた。誰もが彼女を嫌い、あるいは恐がっているのに、彼女を見ているのが楽しいのだった。見せ物小屋の見物客か、動物園の来園者に、心理は近いのかもしれない。あるいは、お化け屋敷に来る客か。珍しい物見たさ、怖い物見たさで棘子はかっこうの目標にされていた。それでも、彼女はそんことは気にしなかった。


 高校に進むと、棘子は美術部に入部した。絵はうまい方ではあったが、本気で始めてみようと思ったのだ。彼女は、油彩画とか水彩画とか、そういうくくりには興味はなかった。静物画は退屈だし、モデルのデッサンにも興味が湧かない。そこで彼女は、自分の絵のテーマとして、人物を描くことにした。それも、モデルを筆者するのではなく、日常生活、自分の周囲にいる何気ない一般の人々の行動や仕草を、絵に描き取るという手法だった。彼女はカンバスを持ち、校内を歩き回った。あらゆるものが、彼女の絵の題材になりえた。廊下で立ち話をしている男子や女子、コートで球を打っているテニス部員と立って並ばされている一年生、夜遅くまで特訓している野球部、また、教室で繰り広げられる悲喜劇、様々な教師たちの挙動や癖、先生に怒られている生徒、友達同士でケンカしている者たち、あるいは、初々しくも手をつないで帰っていく若き恋人たち……彼女は貪欲な目でこれらを観察し、カンバスに描いていった。


 ろくな練習もせず、行き当たりばったりに描き上げた棘子の作品。美術部の担当教師は、好き勝手ばかりし、注意すれば猛然と反撃してくる彼女を嫌っていた。そこで、コンクールにも、彼女の作品は出さないつもりだった。また、棘子が、そんなものには興味はないだろうと勝手に推測していたのだ。ところが、いざ、高校絵画コンクールへの出展希望をつのる期日になった時、棘子は手を上げたのだ。部員たちはびっくりしたが、担当教師もびっくりした。かなりレベルの高いコンクールで、この部では三年生の部長だけが出展するだけなのに、一年生の彼女が出展しようとは無謀のきわみであった。


「あなた、本当にわかっているの? きっと、入賞どころか、佳作当選も望めないわよ。」


「先生、馬鹿ですね。わかっっているか、って、私が何をわかってないといけないのですか。私が何を理解しているかが、このコンクールに出展できない理由にでもなるんですか。」


 教師に対して平然と「馬鹿」というこの生徒が、うとましく、また気味悪くもあったが、その剛毅には彼女といえど感心する部分があった。そこで、部から二作品、部長のと棘子のコンクールに出展した。


 結果から言えば、二人とも、入賞はしなかった。担当教師の予想通り、佳作にさえかすりもしなかった。しかし、後日のこと、棘子の作品に関して、コンクールの選考委員から学校に、直々に電話があった。


「作者が高校一年生で、美術部に入部してまだ半年と聞いて驚きました。てっきり、長年、絵にたしなんできた者の作品かと思っていましたから。彼女の絵は、あまりに個性的であり、今回の選考からははずさざるを得なかったのですが、私ども、かなり悩みました、あるいは、個性的な作品に与える独創賞にいれようかとも迷いましたが、委員会でも意見が割れましてね。結局、どの賞にもいれてあげることができませんでした。彼女の絵の何がすごいって、その風刺性ですな。失礼ながら、彼女は世の中をこう、うがった目で見ている、自分以外の人間を見下している、と感じられました。対象者への嘲笑がそのまま絵を戯画化しているのですね。そう、まるで現代のビゴーと呼んでも差し支えない。だが、それだけにとどまりません。彼女は、世界を見下している割に、それに反して、限りなく世界に興味を抱いている。対象の人物の特徴を的確に描写し、かつ、誇張する部分を遠慮なく誇張して、見るものに対象人物の内面また心象まで伝達する。彼女の絵にはそういう要素もある。これは、対象となる世界へのあふれんばかりの欲求がそうさせるのです。そして、そこには彼女自身の思想が現れている。はははっ、高校生の少女に対して『思想』とはいささかほめすぎでしょうか。とにかく、彼女の絵には、現実に対する彼女自身の断固とした態度がまざまざと刻まれている。そして、絵自体が私どもに叫ぶのです。『私を見よ』と……」


 この美術批評家からの激賞ともいえる賛辞にあたり、美術部担当教師は久しく感じていなかった興奮に身を震わせた。もしかしたら、私の部に未来、大画家になりうる可能性のある天才が来たのではないか、と。その日から、担当教師の、棘子に対する態度は一変した。まるで猫をあやす飼い主のように異様なほど甘くなった。他の部員から反感を買う行為だったが、教師はかまいもせず、棘子をおだてて、作品を書かせようとした。また、それだけでなく、自分の持つ絵の技術を彼女に注ぎ、ありがたくも粗野な彼女の技術を向上させてやろうというお節介まで焼こうとした。


 しかし、そんなものを意に介す棘子ではなかった。教師の要望になど全然応じず、依然として自然体のまま、自分の描きたいもの描き続けた。その態度に、教師はとうとう堪忍袋の緒が切れた。棘子をつかまえると、一対一で話し合うことにした。話題は、コンクール選考委員の評価についてだった。


「あなたには、自分でも気づいていない芸術の才能があるの。でも、それも、今みたいに技術を蔑ろにする方法を続けていたら、いずれ越えられない壁に突き当たるわ。だから、今は大人しく腕を磨いてちょうだい。それから、自分の好きなものを存分に描くといいわ。」


 最後まで黙って聞いていた棘子は、聞き終わると、一言。


「その、私の絵をほめた選考委員の人は、馬鹿ですね。そして、先生、あなたも、他では見つけられないほどの、馬鹿ですね。」


 呆気に取られた教師を後に残し、彼女は一人だけ先に帰った。


 それから、高校を卒業するまで、彼女は美術部で絵を描き続けた。コンクールには毎年、応募していたが、入賞することは最後までなかった。彼女が、絵を真面目に学ばず、時間を台無しにしていくのを、担当教師も黙って見ているしかなかった。それでも、棘子が高校を卒業する時、美術部の教師は、彼女に新しい絵筆とパレット、色彩豊かな絵の具をプレゼントした。


「どこにいっても、絵を描き続けてね。」


 それは、教師が彼女に示した、初めての他意のない優しさであった。しかし、棘子が、そのもらった絵画セットを使用することはなかった。卒業と同時に、絵とも決別してしまったからだった。


* * *


 進学先は家から離れて、私立大学に通った。大学生になっても、棘子の性格は健在だった。また、この頃には、彼女は何人かの男から言い寄られる機会が増えた。そのどの男でも、彼女の気に入る者はいなかった。たとえ相手が彫像のアポロンにも似た美男子であったとしても、彼女の心がなびいたかどうか、疑問である。それだけ、彼女は強く、また激しく、世を笑いものにしていたからだ。


 棘子にしつこく付きまとう一人の男がいた。彼は、暗い性格の男だった。内気で、人間関係がうまくいっていなくて、教室でも孤立していた。講堂に来て、教授の授業を聞き、あとの時間はすべて独りで過ごしていた。そんな彼が、どうして棘子を好きなってしまったのか。一つは、彼女が、男とは別の意味で周囲から孤立していたからだ。また一つは、棘子の方から、男に「ごいっしょにいかが?」と喫茶店に誘ったのだ。これは、彼女の気まぐれであった。彼女は、男を思いっきり馬鹿にしてやろうと考えていたのだ。そして、その計画は首尾よく遂行できた。喫茶店の席に着くや否や、彼女は男に、「なんて間抜けな髪型だ」「あんたの手つきは変だ」「おどおどして馬鹿みたい」「お茶の飲み方一つ知らない。野蛮人」と散々、こきおろしたのだった。男は、彼女からの嘲笑や侮蔑の驚き、最後まで耐えたもののどうしてここまで言われたのか意味がわからないでいた。そして、棘子としては、男はこの日限りの付き合いのつもりだった。


 ところが、時が経つにつれ、当の男の方で、心理的な変化があった。あれほどの嘲笑と罵倒の意味を考えるにつき、あれは、彼女が自分の欠点をよく見て指摘してくれたわけで、つまるところ、自分のために説教をしてくれた、こうなってほしいという乙女の要求ではなかったか。では、それはどうしてかというに、彼女は、自分が好きだったのだ、という結論に至ったのだ。こう考えた時、男の心臓は体から飛び出るくらいに高鳴った。記憶の中の彼女の姿が、花を添え、色彩を添え、女神のように輝いて彼の脳髄をつかんだ。彼は、棘子に恋をしていしまったのだ。


 ところが、男の恋愛は地獄も同じだった。なにせ、棘子はいっこうに彼の気持ちを察しないばかりか、自分を好きだという男に対して、軽蔑以外のどんな感情も抱いていなかったからだ。彼の恋は、やがて執着となり、彼の求愛は、他人の目からはストーカーも同然だった。哀れな小心の男の、みじめなドラマは大団円などまるで見込めない悲しい運命にあった。


 そして、とある事件が起きた。棘子は、しつこく付きまとう男を突き放すために、ある行動に出た。彼女のほうから、男に連絡をとり、会うことにした。男は従順にやってきた。呼寄せた場所は、大学の廊下。時刻は午前十時。すなわち、たくさんの学生たちが廊下を行き来する時間。ふたりは向かい合った。背景には専門書や実験道具を抱えた学生たち、スーツを着込んだ講師たちである。彼女は、何事かを期待している男を傲然と見下した。


「まず、あんたは、私に迷惑をかけた。土下座してわびなさい。ここでね。」


 男は、彼女の言葉に素直に従った。まるで躊躇しなかった。彼女と自分、ふたり以外のことはまったく眼中にない様子だった。男は土下座をした。廊下の真ん中で、無数の目がうごめく中で。


 すると、彼女は、男の脇腹を思いっきり蹴り上げた。


 男の口から「ごぶっ」と変な音がもれた。


 一回蹴っただけでは飽き足らず、彼女はまたしても彼の体を蹴り飛ばした。男は床に横倒しになったが、何ら抵抗する素振りすら見せなかった。彼女の靴先の到来を、防ぎもせずに受け入れていた。人の流れは止まり、彼女と男を中心に渦を巻いた。彼女は、何度も何度も、男を足の下に踏みにじった。傷ができ、血が流れた。ふたりの講師がかけつけてきて、彼女の体を抑えるまで、止まることがなかった。


 男は全治二週間のケガを負った。歯が折れたり、打撲傷ができたりして、包帯を巻いていた。それでも、彼は、棘子に対して怒ってはいなかった。むしろ、ふっきれたと晴れやかな気分でさえあった。男がもう、彼女を追うことはなかった。


 対して、棘子の方では少し複雑になった。彼女は、傷害事件を起こした。被害者が彼女を許して欲しいと言っていて、しかも、彼女が長い間、被害者からストーカー行為を受けていたという事情を鑑みて、警察が彼女を逮捕することはなかった。ただ、大学での生活は前よりもしづらくなった。もとより他者から好感を抱かれない棘子であるが、学生はまだしも教授連にすら彼女は忌避されるようになってしまった。

 大学時代、彼女に起きた事件といえばこれくらいである。この事件の後、彼女は比較的大人しくしていた。とはいえ、その性格が変わったかといえば、そんなことは全然なかった。


 大学卒業後、就職先は、大手のファッション関係の企業だった。就職して一ヶ月が経過した頃、新人歓迎会が催された。さすがに大手企業だけあって、有名なホテルのパーティ会場で執り行われた。

 その席で、会社の社長は新人たちを激励するために回っていた。当然、棘子にも声をかけることになった。


「君は、この会社で、どう自己実現させていきたい?」


 この質問は、たいがいの新人を困らせる。どう答えれば正解か考えすぎて、ぎこちなく大学で覚えた面接用の答えを言うのだった。社長としても、この質問に対する答えで新人の資質を計るつもりはない。本当の目的は、この後の励ましの言葉だった。この質問は、それを持って来るための合図にしか過ぎない。


 棘子は、慌てることもなく、断固として言い切った。


「私は、この会社でしたいことはありません。」


 あまりに愚劣で、予想外の答えに、社長は驚いてしまった。眉をひそめ、質問を重ねた。


「では、君は、どうしてこの会社に就職したんだい?」


「この会社に『馬鹿』と言いに来たんだです。」


 これまた意味をつかみかなる答えだった。


「何? それはどういうことだ?」


「どういうことも、こういうこともありません。私は、この会社で製造している商品が、とても馬鹿な物に見えます。馬鹿な服、馬鹿なデザイン、馬鹿な宣伝。すべてが馬鹿らしいものばかりです。だから、私は素直にそう言いに来たというわけです。」


「一体、何が馬鹿なんだ? わが社の商品は今、大いに売れている。成績は右肩上がりだ。日本ばかりか、海外にだって進出する勢いなんだぞ。それなのに、どこが馬鹿だというのだ?」


 彼女は、やれやれとでも言いたげに首をふり、ふうっと息をした。


「それが馬鹿だというのです。見る目がある人にわかるのです。社長、あなたは馬鹿ですね。そして、ここにいる人みんなが、やっぱり馬鹿なのです。」


 社員たちは、歓談にふけってふたりの会話を聞いていなかった。もし聞いていたら、棘子をただでは置かなかったであろう。それはさておき、社長は、謎の新人の謎の発言に強く心を動かされた。目の前の大学出たての小娘にジッと目をすえた。そして、その場で決心してしまった。


「君、私の秘書になりなさい。」


 こうして、棘子は、大手ファッション会社の社長秘書という地位に納まった。彼女は最初からそこそこの事務処理能力があったので、秘書の仕事を覚えるのに時間はかからなかった。だが、社長が彼女の能力の中で最も重宝したのは、その審美眼だった。毎日、無数に上がってくる衣服のデザイン画の合否を、彼女にすべて任せていた。棘子は、簡単には合格を出さなかった。デザイン案の九割は即刻落としていった。その中から「まあまあ」と言える程度のものを二三枚抽出して、社長に通した。社長は、彼女の眼に全幅の信頼を寄せていたので、彼女の選んだデザイン画はすぐに製作決定の判を押して下に返す手はずとなっていた。そうして、彼女の選んだデザインの衣服は、必ずといっていいほどヒットした。


 その会社で五年が過ぎた。社長が突然の脳溢血で急死した。二代目には棘子がついた。彼女が就職した年より会社はさらに成長していて、そのニュースはテレビで報道されるまでになっていた。新聞に見出しにも、ファッション界のヒロイン誕生、若き女社長、などの大文字が踊った。棘子の名は日本中で有名になり、テレビ番組への出演依頼などもきた。


 彼女は三十三歳までその会社に勤め、さらなる大躍進を図った。政界に進出したのだ。それまでに築き上げた知名度が幸いして、選挙では楽勝。押しも押されもせぬ女性衆議院議員となった。国会討論ではその雄弁によって聴衆を引きつけたし、テレビ番組ではその辛口コメントで視聴者の支持を受けた。棘子の声には、どこやら不思議な響きがあった。罵詈雑言を吐いても、どこか人を魅了せずにはおかなかった。彼女の口の悪さが社会に受容されたとすれば、その理由は彼女のその性質にあったにちがいない。


 棘子、三十八歳。大手ファッション会社の元社長。現役の女性衆議院議員。テレビ番組のタレントとして活躍。ニュースのコメンテーターとして引っ張りだこ。これが、彼女の手にした地位であった。


* * *


 それは、棘子が、講演を開くために山深い地方に出張したときのことだった。公会堂での二時間にも及ぶ長丁場の講演を終え、宿泊先のホテルで一休みすることにした。まだ日も高かったが、温泉に入って体中に蓄積した疲労を和らげた。浴衣をまとって部屋に戻ってきたのは、ちょうど窓から夕日が赤くさしこむ時刻であった。夕食まで時間もあるので、暇つぶしに外へ散歩に行くことにした。


 普段は見ることのできない山並みだった。空気中には濃い植物のにおいが漂っていた。夕方の涼風が、温泉で火照った体を気持ちよく冷やしてくれた。草履を履いた彼女の足は、土をこするカサカサという音をさせる。


 彼女の目の前の地面に黒い折りたたみの財布が落ちていた。それを拾い上げ、前を見ると、夕焼けの光の中に溶け込みそうな人の影がゆれていた。彼女は持ち前の大声を張り上げた。


「財布! あなたの?」


 人影はふり向いた。彼女は早足でその人のもとへ向かう。その人は、二十代くらいの若い男だった。

 彼は、差し出された財布に目をとめると、嬉しそうに微笑んだ。


「ああ、たしかに僕の財布です。落としたんですね。ありがとうございます。後ろが、あなたのような正直な女性でよかった。」


 彼女はフンッ、と鼻を鳴らした。


「財布もまともに管理できないなんて呆れた男だね。これがなくちゃ右も左もわからない赤ん坊のくせに。わかるんだよ、財布と携帯電話は現代人の生命線なんだから。財布を持つか持たないかが、文明人と野蛮人を分ける境界なんだわ。それを落として、しかも気づかないような不注意な人間は、その理屈をわきまえない馬鹿だね。」


 ここ、田舎の町でも、棘子の癖はいかんなく発揮された。初対面だろうが、目上の人だろうが、通りすがりの人間だろうが、罵倒するか小馬鹿にしなくては気がすまないのだ。


 男は、ぼんやりと彼女の話を聞いていた(全体的にぼんやりした男であった)。彼はまた、やわらかく微笑んだ。


「あなたの言うとおりですね。でも、心配はご無用です。この財布にはカードも身分証明書もはいっておりません。純粋にお金を持ち運ぶために使っているのです。」


 彼女は、いよいよ相手を見下す態度に出た。


「心配だって? 私があなたの身を案じて説教したとでも思っているの? とんだ筋違いだわね。男って、どうしてそうなのかな。女の言葉一つをとって、自分の都合の良い風に解釈してしまうのだから。だから馬鹿と呼ばれるんだ。ところで、あなたはさっきから私の話をしっかりと聞いているの? ぼんやりして、本当の馬鹿なのじゃないの?」


 ここまで言えば、そろそろ怒り出すぞ。彼女は心構えをして待った。実に、このころになると、彼女は人をわざと怒らせることが楽しみの一つとなっていた。


 だが、男は怒るどころか、感情を害した様子もなく、調子を変えずに淡々としていた。


「ぼんやり、ですか。よく言われます。そのせいで、他人に迷惑をかけることもあり、我ながら困りものです。あなたは、よく人のことを見ていらっしゃる。きっと、人のことが好きなのでしょう。」


 思いもかけもせぬ自分への評価に、彼女は吹き出してしまった。


「あはははっ! 人が好き、だって? お生憎様。私に対しておかしな幻想を抱いたみたいだけれど、残念ながら、事実はその正反対。私がこの世で一番嫌いなのは人間なんだ。」


 大口を開けて笑う彼女を、男は静かな、透き通った眼で見ていた。やがて、花が風にかしぐように微笑む。


「そうですか。それもまた、よろしいと思います。財布、ありがとうございました。では、これで。」


 そして、彼は背を向けて、立ち去ろうとした。しかし、彼女は、「待ちなさい!」とひきとめた。


「あなた、私に『馬鹿』と言われて悔しくないの? 私に罵られて、笑われて、言い返そうとは思わないわけ?」


「言い返す? どうしてそうしなくてはならないのです?」


「当然でしょう。馬鹿といわれたら、馬鹿と言い返さなくちゃ、腹の虫がおさまらないじゃないか。見下されたら、見下してやるし、笑われたら、笑い返してやる。誰よりも強く、人をあざ笑った者が最後には勝つんだ。勝利者でいるためには、言われたことは言い返さなくちゃ。」


「僕はあなたに対して馬鹿とはいいたくありませんし、思ってもいません。」


「嘘はやめて。人に馬鹿にされて、腹が立たない者がいるものですか。烏だって、人に馬鹿にされたら攻撃して来るんだから。ところで、人間というのは常に誰かを馬鹿にしている生き物であるから、私は勝利者として常に人を嘲り続けてきた。あなたは嘘つきね。それだけでも、十分に軽蔑できる。でも、チャンスをあげる。ここで私に馬鹿と正直に言うことができたら、その汚名を取り消すことにする。さあ、言いなさい!」


 男性は、棘子に言われた言葉を吟味するように少し考えてから、おもむろに口を開いた。


「正直に言えば……」と言い掛け、言葉を切った。彼女は黙って相手の言葉の続きを待った。


「うん、やっぱり正直に、僕があなたをどう思っているか、言いますね。僕は、今晩、すばらしい女性に出会えたことを感激しています。」


 彼女は、ポカンと口を開けて、相手を見据えた。


「僕はあなたに対して、何一つ、悪感情を持つことができません。あなたの言葉や主張はどうあれ、これが僕の正直な感想です。あなたは魅力的で、思慮深く、聡明な女性だ。」


 彼女は、唇が震えるのを感じた。こんなことは初めてだった。


「私のことを、何も知らないのに、ずいぶんな物言いをしますね。どうしてそんな風に断言できるのです。私は、もしかしたらもっと残酷な人間であるかもしれないのに。」


「そうやって自分をおとしめるものではありませんよ。それに、自分を馬鹿にするのも、ひかえたほうがいいでしょうね。」


 彼女は心臓が飛び出るかと思った。


「何? なんだって? 私が、自分を馬鹿にしている?」


「ええ。それとも、あなたは僕に言っていたんですか。あなたの『馬鹿』という言葉は、すべて自分に対して言っていたではありませんか。」


 彼女は愕然とした。そんなことは今まで考えてみたこともなかった。自分なのことなのに、それが事実か、それとも男の錯覚か、明確に判断する自信がなかった。


「それじゃ、聞かせてください。あなたは、私をどんな女だと思っているのですか?」


「凛と張った、良い声の持ち主です。自信と生命力にあふれていて、固い信念を持っている。知識があり、豊富な経験を持ち、またそれだけでなく、とても繊細な感性も宿っている。そして……」


 そこまで来ると、彼はにわかに言いよどんだ。


「そして……なんです?」


 男の顔が赤く染まったのは、夕日のせいばかりではなかった。


「美しい女性です。」


 彼女もまた、顔が熱くなるのを感じた。


「何を……言うかと思えば……この馬鹿ッ。」


 口の達者な彼女が、舌足らずになるのは非常に珍しい現象といえた。


 男とはやがて別れてしまった。彼は、夕焼けの世界へと消えていった。それから、その男と会うことはなかった。


 出張から帰ってきて、棘子の生活はまた元の通りに続いた。しかし、完全に元の通りというわけではなかった。地方から戻ってきてから、彼女の様子が変っていった。


 たとえば、議員の仕事で、大量の書類に目を通していた時のこと。秘書が持って来る書類の整理に手間取った。普段ならば、秘書のわずかな仕事の遅れをも厳しく見咎めて、叩き潰さんばかりに罵倒しつくす。今回もまた涙がにじむくらいに怒られるのだろうと、秘書は覚悟をきめて棘子の部屋に入った。書類を机に置くと、彼女は深く体を折り曲げて、棘子のゆるしを乞うた。


「申し訳ありませんでした……二度とこのようなことがないように、命をかけて仕事にあたります。」


 いささか大げさな言い方のようだが、棘子は普段から、自分のもとで働かせている者たちに、ここまで言えないと自分のもとで働く資格はないと教え込んでいた。


 本来なら、ここで棘子から飛び出すのは、人心をえぐりとる短いが遠慮のない彫刻刀のような一言であるはずだった。ところが、彼女は、ちらりと秘書をみやると、書類に手を伸ばした。


「わかった。もう行きなさい。」


 その予想外ともいえる穏やかな口調に、秘書は仰天してしまった。どんなに調子が悪くても人のあら探しをして罵倒する種を見つけ出さなければ気がすまないこの女が、いや、調子が悪いときこそ一層人をけなすことで快感を得ているこの女が、この絶好の機会に他人を罵倒しないとは。


 腑に落ちない気持ちながらも、秘書はこの寛恕をありがたく頂き、退室することにした。が、出て行こうとする彼女はその寸前で呼び止められた。秘書は、ビクビクして向き直り、姿勢を正した。


「目にクマができてる。化粧のノリも悪い。自分のことを後回しにして、懸命に仕事に打つ込んでいる証拠だね。礼を言うよ。」


 秘書は唖然とした。私は今、この人に褒められているのだらうか? 体中にマムシをつめこんだ女とまで言われたこの人に? 一体、何が起こったのだろう? 新手の責め方なのだろうか? 地が天になってしまったのか? 虎が羊と同じものを食べる時代が来たとでもいうのか? 


 秘書はすっかり恐ろしくなった。そして、「ありがとうございます」と早口で言い切ると、逃げるように部屋から出て行った。


 棘子の罵倒癖は、徐々にではあるが小さくなっていった。それよりもむしろ、人を褒めるということが増えていった。何かすれば褒めるようになった。小さな事を取り上げてその人のどこがいいだとか、ここがよくやっているとか、うまく機微をとらえて表現するのである。他人を罵倒するために使っていた観察力を、今度は他人を褒めるために使うようになっていたのだ。


 そんな彼女の変化を世の人々は歓迎したかと言えば、そうではなかった。彼らは、彼女の罵詈雑言を楽しみにしていた。辛口の批評や不遜な態度を面白がっていた。ライオンが吼えるのに手を叩く子供と同じだ。ところが、近頃の彼女は前ほどの威勢で吼えない。それどころか、とかくすれば優しい言葉まで言う。テレビにコメンテーターとして出演しても、ディレクターや視聴者が期待するあの悪口を言わない。柄にもないお世辞を言い出したりする。これでは、世の期待する棘子ではなかった。


 しだいに、彼女へのテレビ出演の依頼は減った。国会討論で先陣を切ることはなくなり、後のほうで短い意見演説をするだけとなった。彼女はまるで、一昼夜のうちに別人になってしまった感じだった。

 新聞は最初、彼女の衰落について取り沙汰していたが、やがてそのネタにも飽きてしまった。棘子は、世の注目から離されていった。


 そして、ついに彼女は議員の任期を終え、政界から退出した。再び選挙に出馬することも可能だったが、彼女はそれをしなかった。これを機に、世の人が棘子を新聞やテレビで目にすることは二度となかった。


 棘子は、自分を知る人のいない場所に行きたがった。俗世間を遠く離れて、静かに暮らしたいと考えた。年齢、四十歳。


 彼女が移り住んだのは辺鄙な港町だった。そこで彼女は、地味な小食堂の従業員として働かせてもらうことになった。二年たって、その町の男性と結婚した。子供を産むには厳しい年齢であったが、男の子をひとりもうけた。


 その町で、彼女は何一つ、派手なことはしなかった。それでも、彼女はみんなに好かれた。口癖みたいに、義務みたいに、彼女は誰でも彼でも褒めたからだ。それも、その人は、どう言われれば喜ぶのかを的確に察知していた。優しく気さくなおばさん、棘子は、親でさえついぞ目にできなかった自然な笑顔を誰にでも惜しみなくふりまいた。


 やがて時が経ち、棘子は老年となり、病気で寝込んだ。医者によればもう長くはないとのことだった。夫や子供を置いていくことを気にかけていたが、彼女の表情には悲哀も、絶望もなかった。あるいはあったかもしれないが、決して表には出さず、ひたかくしていた。


 衰弱が極みに達し、誰の目にもその時は間近だとわかった。わずかに意識を回復した彼女は、薄らぼんやりと周りを見回した。棘子が体を横たえた敷布団を囲み、家族や親戚、近所の友達が最後のお別れにと見舞いに来てくれていた。誰一人として、彼女をあざ笑ってなどいなかった。限りない愛惜をこめて、ここに集っているのだ。


 棘子は、なけなしの力をこめて腕を上げ、誰に頼むでもなく、ただ空をつかみ、「鏡をかして」とだけ要求した。すぐに手鏡が用意され、彼女に手渡された。


 棘子は、手鏡にうつった自分の老い、やつれた顔を見つめた。


「けっこう、私もべっぴんだね。」


 それが、最後の言葉だった。すとん、と腕が落ちた。


 享年、七十五歳。


 


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― 新着の感想 ―
[一言] 投稿お疲れ様です。 今回の作品は何だか、不思議な感じがしました。 棘のある辛味の効いた前半からまろやかな甘みのある後半への移行は見事! と言わざるおえません。 いい味わいが出ていたと思います…
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