第四話「Lesson or Leave」
『――――点から、両者の溝はいまだ深く、現在走行しているこの場所から150マイルほどしか離れていない場所では、今も紛争が続いています』
ジュリエットが腰を下ろしている場所の前席の裏。
つまりは、自身の前方に備え付けれたディスプレイには古い時代から続く戦火の記録映像が流れ、そこから伸びるコードの先のイヤホンからは、海外からの観光客向けの解説が吐き出されている。
ジュリエットは僅かに開けた、自身の横の車窓から入り込む、中東という異郷を包む初夏の風を頬と髪に受けながら、愛用の煙草を口に咥えていた。
ジュリエットが乗り込んだ観光バスは、彼女以外には数人ほどしか同席していない。
観光企業と手を組んだものではなく、あくまでも現地の会社が小遣い稼ぎで運航しているものであり、行先が名所ではなく、荒野に、此処の原風景に敷かれた路を走行するという質素なものであることが理由だろう。
だが、それは主要因ではない。
最大の理由は、この解説が述べた通り、そう遠くない場所で今でも『戦争』を行っている連中がいるのだ。
現代国際法にて『戦場』が厳しく線引きされてはいるが、それでも絶対にそれの被害を受けないという保証はない。
半世紀の時間を生きても、いまだ独り身であるジュリエットだから出来る選択であった。
それに、おろらく製造から20年は経過しているだろうこの疲れたバスの中で喫煙を、それこそ煙たがる人間もいないだろう、という算段もある。
今の時代、喫煙者はどこでも爪はじきだ。
乾き草の煙を堪能するなら、自分からそれが出来る場所に行くしかない。
逆に、『クリーンな人生』を楽しみたいのなら、相応の身銭を切るしかない。
一度肺に入れた紫煙を吐き出しながら、ジュリエットは車窓の縁に短くなった煙草を押し当て、その先へと投げ捨てた。
マナーはなっていないが、それを気にする場所でもないだろう。
ジュリエットは座席に深くもたれ掛かる。
その快適性の低さから、年代を感じさせる。
乗り込む前に、目の当たりにした外見も同様だった。
買い替える余裕は無いのだろう。
あるいは、このようなバスに乗り込む客に足して、上等な座席を用意する必要はないと考えるのか。
人生や世間や社会という概念は、金銭と密接に関係している。
生きるためにはカネが必要であり、カネのために人生の半分以上は、カネを稼ぐために生きなくてはいけない。
そして往々にして、企業はカネのために人を雇い、その働きにカネで労い、支払った分よりもさらに多くのカネを稼ぐ。
この先で繰り広げられているという戦争も同じだ。
『現地』の人間は教えや信念を掲げて戦っているが、そこに共同か敵対で介入している異国の勢力の腹中は、『商売』で一色だ。
そのオーナーである各国の政府は、治安回復や平和を謳っているが、実際はカネを稼げると思って手を差し伸べているのだ。
今の時代、軍産複合体と呼ばれる経営協力体制の存在の有無を、誰も否定はしない。
「ん?」
突如、右足の付け根に、音と振動。
ポケットからその発信源、カード型の小型端末を取り出す。
これはプリペイド制の廉価モデルであり、通信会社と本格的な契約を交わして手に入れるものより暗号通信の安全性や機能面で雲泥の差があるが、安価で情報端末を入手できる利便性が、主に低所得層や児童の防犯用に人気を博している。
ジュリエットは眼前まで端末を持ち上げると、顔に掛けていた偏光グラスを額まで持ち上げた。
若い頃に多少の無茶をした所為か、最近になって目が利かなくなってきた。
これ以上悪化するようなら、何処かの国の闇医者に、視力矯正を施してもらう必要がある。
それでさらに不都合な事態になったら、その時に初めて正規の医者の下へ駈け込めばいい。
「・・・何・・・これ・・・」
端末を操作し、届いた電子手紙の送信者を確認した瞬間、ジュリエトの表情が歪んだ。
その送り主は、15年前の『雇い主』。
かつてジュリエットが、カネのために生きていた頃の。
どこで今の自分のアドレスを知ったのだろうか。
まるで計ったかのような最悪な時機に送り付けられた電子手紙に言いようのない嫌悪を示す彼女は、車窓から端末を投げ捨てようと、それを握る右手を掲げた。
しかし、数時間前に街角のキャッシュボックスにて当面の利用料金を入金した惜しさと、改めて端末を購入する面倒さが、未遂で終わらせ、ジュリエットに手紙の内容を読ませるに至らせた。
これがアメリナ軍亜人間部隊が同じ中東にて『プロテクト雪風』を発見した2日前、距離にして400マイルも離れていない場所での出来事である。
「・・・こんなことだろうとは、予想してたけど。あなた達にとって、私の価値は幻飼としてしかないだろうし」
観察室の中央。
そこに置かれた事務椅子に座り、書類を払いのけてテーブルに肘をつくジュリエットの右手には、火が点った煙草。
その周囲を包むのは、まるで香のような匂いを孕んだ紫煙。
ジュリエットの眼前に置かれているのは、部屋の隅から灰皿代わりに拝借した、超化プラスチック製のコップ。
この際煙草を吸わなければ、『やってられない』。
エータに遠慮したくもない。
「それで、なんで私なの、今更?興行が落ち目の今でも腕利きの幻飼なんて幾らでもいるでしょ?それこそエータと契約しているのが。まさか15年前の腹いせ?」
「いえ、そうではありません。ミス・チュージョーが適任と部長特務補佐が判断されたのです」
ジュリエットから見て反対側、同じくテーブルに向かうスティーブが語る。
「大体、幻体なんて薬物と脳外科手術でいくらでも従順にでき」
「っくす!」
ジュリエットの言葉は、子供のようなくしゃみで遮られた。
彼女達を遠巻きに見守っていた白衣の一人、おそらくは三十路にも届かないであろう若い女性がばつの悪い顔色を表す。
「煙草が嫌なら、此処に居なくてもいいけど?」
「ティーチャー・・・」
「分かってる、冗談」
「ごめんなさい・・・」
ジュリエットの左斜め、同じくテーブルを囲うように座るアレクサンドロアが彼女を嗜めた後、件の白衣は謝罪を述べる。
煙草は一本だけで勘弁してあげよう。
それにしても若い。
顔もそうだが特に声が、酸いも甘いも知らない少女の様だ。
自身がこの頃の年齢には、田舎の整備工場にて農耕用の亜生物の面倒を見ていた。
あの仕事の中では女であるより、無名ながらも亜生物産業工学高校を卒業したことを重宝された。
幻体の世界に踏み込んだのは、それから数年後のことだ。
人の才能と言うものは、何処で何に開花するか分からない。
ここまでの人生を鑑みるに、咲いて欲しくなかった才だが。
「ミス・チュージョーの言いたいことは分かります。確かに幻体の『調教』には薬物や手術を用いるのが一般的です。ですが、『雪風』の場合には異なります。第一に、雪風シリーズには設計図、つまりは遺伝子レベルでの行動や思考、そして能力のリミットは設けられていません。これは雪風シリーズのそれぞれが個体が持つ、特化した専門性を共通の制限で縛ると、どうしても無駄なデチューンとなってしまいます。そのため、一般的な幻体に用いる、遺伝子に刻まれた制限を助長する投薬や手術は意味を為しません」
プロテクト雪風なる幻体を披露された後、ジュリエットは彼ら、雪風シリーズについての簡単な経緯と特徴を聞かされた。
偶発的に生まれた初期のそれは歩兵の延長線上として運用されていたが、雪風が持つ特化を許容する性能が判明するにつれ、多様な状況や運用に適した個体が生み出されていった、とのことだ。
『神の業』を嘲笑いもって冒涜する、なんて科学論理と商売勘定だけに目が眩んだ領域だろうか。
だが、自分が確かな自信を振りかざして罵倒できるものでもない。
15年前、ジュリエットの『引退』と同時にエータが引き取った幻体は、ブルージュエルやノートルダムベルズなどの、彼女の手持ちの中でエースと呼ばれる者はエータと契約していた他の幻飼に引き取られ、疑似生殖や交配型生体製造により子を儲けるまでに至ったらしい。
だが、半数以上の幻体は、かつてのジュリエットの予想を裏切らず、愛玩用として競売に送られたらしい。
おそらく、その中の殆どが、すぐに命を落としただろう。
謂わば、自分は見殺しにしたのだ、彼らを。
「第二に、時機が乱れてしまったのです。通常、幻体に対する各種の『調教』は、生体槽内、つまりは卵の状態で始めるものですが、プロテクト雪風が此処に到着した時には既に孵化していました。今からでも無理を承知で行うこともできますが、つまらない事故で死亡させたくはありません」
「・・・それはあの子を生き物だと思って?商売道具だと思って?」
「・・・どちらもです」
「あっそ」
ジュリエットは雪風担当チームの主任が紡いだ回答を、短く切り捨てた。
その真意がどちらだとしても、彼女の心情は変わらない。
底辺だ。
「・・・第三に、上層部が雪風に対してそれほど熱意を持っていないという現状です。確かに雪風シリーズは幻体としては卓越した能力を保有していますが、往々にして戦場は数がものを言う場合が多いです。核弾頭を積んだ弾道ミサイルでも、対空ミサイルの雨に降られては為す術もありません」
「その例え方、好きじゃない」
「ティーチャー・・・」
「分かったから。はい、続けて」
「・・・雪風の製造そのものでエータの経営が簡単に傾くことはありませんが、『商品』としての価値が薄くなったものに投資できる金額は限られています。プロテクト雪風の親である、最新モデルであった『ガーディアン雪風』の製造はすでに8年前です。雪風シリーズのためだけに設けられていた、生体幻転子炉の製造ラインや超反応神経システムの調整場もまた、今は別のものに置き換わっています。仮に、プロテクト雪風が死亡したとして、あの個体が疑似生殖からの細胞分裂で手に入れた生体幻転子炉などが、新しく製造した雪風に適合するかは確証がありません。研究開発費も下りないでしょうし、それ以前に上層部が簡単に雪風の新個体の製造を許可するとは思えません」
「そっちの台所事情はそれくらいでいいから、つまりは?」
「ミス・チュージョーにはプロテクト雪風が研究開発に従順になるように調教してほしいのです。ガーディアン雪風の製造時より、技術は大きく向上しました。いまなら、プロテクトを元手に、雪風シリーズの安価製造に漕ぎ着けるでしょう。少なくとも、解剖や軍への出荷は行いません。そもそも、ガーディアンが最後の契約と、軍から念を押されていましたから。量産体制に入れば、それも変わってくると思いますが」
ジュリエットはコップの底へ、煙草を押し当てた。
そこから、最期の紫煙が立ち上り、そして霧散していく。
「・・・だから、私じゃなくてもいいでしょ?エータお抱えの幻飼にやらせれば済む話じゃない?」
「ティチャー。ミシュエル=ハウランドは覚えてる?」
「・・・」
ジュリエットはその名をいまだ記憶している。
ミシェルはエータ専属契約の幻飼の一人、ジュリエットの後輩に当たる人物だ。
調教の腕は良く、本人の器量も悪くは無かったが、幻飼バトルでは功を急ぎ、度々敗北をもって幻体を死なせていた。
「で、私より先にミシェルに請け負わせて、失敗したってこと?なら、私が適任でしょうね?根無し草の独身老婆なら、死んでも誰も気に掛けないと?」
「私たちはそうは思っておりません。ただ、ミズ・ハウランドがプロテクト雪風の調教中に、雪風から暴力を振るわれたのは事実です。死亡事故にまで至らなかったのは幸いですが、左腕から左胸部まで酷い骨折や裂傷を負いました。通常、人間に危害を加えた幻体は即座に殺処分ですが、今回は事情が違います。プロテクト雪風は親の、ガーディアン雪風の死を認知しているようです。孵化以前の初期調教も施せなかったことも加わり、情緒不安定になることが多々見受けられます」
「で、ミシェルのことは、幻体とは関係ない事故か何かでと言い訳した?」
「・・・はい、エータがそのように処理しました」
ジュリエットの予想をエータは裏切らない。
最悪の方に。
「それで、私が死んだら、エータが適当に言い訳すると?それで、何事も無かったようにまた幻飼を連れてきて、同じような話をここですると?利口な手口で惚れ惚れしちゃう」
「いや、ティーチャーが、プロテクト雪風にとって最後のチャンス」
「・・・どういうこと?」
ジュリエットが顔をしかめる。
幻体に関する話の中で『最後』とは、往々にして『最期』までの一歩手前だ。
「先のミズ・ハウランドの事故も含めて、上層部の雪風に対する心情は限りなく消極的です。部長特務補佐が掛け合い、なんとか即時殺処分は免れました。そして、もう一度の機会も。ミス・チュージョーにさえ、あの個体が手に負えない場合、その時こそ処分が実行されます。機密保持のために、これまでの雪風シリーズの、開発・製造・運用の全てのデータも。それだけは、現時点で雪風に携わる者として、何としても避けたいのです」
本音を隠す余裕も、既に持ち合わせていないようだ。
ジュリエットは小箱からもう一度煙草を取り出し、火を点した。
女性研究員には気の毒だが、口に出して誓ったわけではない。
「それって、私がこの話を受けた場合でしょ?断ったら?」
「・・・あなたを非難したり責めたりするつもりはありませんが・・・答えは失敗と変わりません」
「・・・馬鹿みたい・・・本当に自分たちのことしか考えていなくて最低」
ジュリエットは立ち上がり、横広の観察窓の前まで歩いた。
件の幻体は、ジパニアにおける正座と呼ばれる体勢で、アルファベットが描かれた布製のキューブを手に取って回し弄っている。
かつて、自分がこの世界から逃げ出した際、自らが擁する幻体を犠牲にした。
最初の数年間は、彼らの顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
幻体にしては男女共に人気が高かった、ブルージュエル。
過去のバトルで負った、右の頬を横断する消えない傷跡が不屈の証と称されていた、ノートルダムベルズ。
ジュリエットは煙草を持たない、左手で前髪を掻き分け、その付け根を握る。
洗脳まがいの調教を超えて、妙に自身へ懐いていた、サンセットレイ。
当時の最年長、右下腕で襟下を掴んで掻く癖があった、ミカド・ソード。
彼らを忘却の彼方へ押し遣ることは、並大抵の苦痛ではなかった。
それなのに。
そうであったのに。
また、こんな事態に直面している。
今度は憶測や噂では済まされない。
自分の逃走か失敗が、そのままこの幻体の死に繋がるのだ。
ジュリエットが下ろした腕、その先の指先に挟んだ煙草から、灰が床へ零れ落ちた。
15年前のあれは、意味が無かったと笑いたいのか。
それは誰が。
エータか、『運命の女神様』か。
いずれにしても、今すぐそれを殴り倒したい。
もう、遅い。
見てしまったのだ。
面識はまだ交わしていないが、あの寂しげな幼顔を。
もう一度、あの子を、苦痛にはしたくはないし、させたくはない。
「・・・とりあえず、今の状態を確認してから決めるから。コミュニケーターのチャンネル番号は?」
「1961」
ジュリエットの背後から、アレクサンドロアが即座に対応した。
まるで、待ち焦がれていたように。
ジュリエットの回答を認知したスティーブが、彼女に駆け寄り握手を求めるのは、それから数拍後だった。
それを彼女は先ほどと同様に、拒否する。
1961、延いては生歴1961年は幻体の、そして雪風の基本遺伝子設計モデルともなったであろう、突然変異の蛾が旧ジパニア統治領南洋方面の諸島地域で発見された年だ。
験担ぎのつもりだろうか。
科学信奉者とその申し子が、なんてみっともない。