第二話「2051年目の再訪」
「まさか、あなたをお客として乗せることになるとは。この仕事をしていて、今日が一番幸せな日です」
「まあ、私なんかで喜んでもらえるなら」
「何を言ってるんですか。あなたは『クイーン』なんですよ。伝説の幻飼である」
「もう、15年も前の事だけど」
個人客車の偏光窓からは空に浮かぶと錯覚するような有料路、その先には何層にも疑似地表が、まるでスポンジとクリームの菓子のように積み重なった、マンハルタ島。
都市部の土地問題は、この画期的な技術革新で解決したが、傍から見たら科学教信者の妄想空間にしか感じられない。
本物の地を踏みしめていなければ人は生きていけないと、ジュリエットは常々考えている。
羽も翅も無ければ、空を見上げ生きていくまで。
見下ろすように、見下すようになってしまったら陸上動物としての終焉だ。
「それで、この15年間は何処で何を?『クイーン』がいない間の幻体バトルは本当に腑抜けでしたよ」
ジュリエットが搭乗した個人客車の運転手は饒舌だ。
何でも、少年期から、幻体バトルの虜だったらしい。
つまりは熱狂的な幻体バトルフリーク。
数十分前、空港の客車プールで、この客車のドアを開けた瞬間に大声で驚かれた光景が、ジュリエットの脳裏にいまだこびり付いている。
彼女は今年で51歳。
『現役』だった時代に比べ、髪も肌も年相応になったが、分かる人間には一目見て自分が『クイーン』と呼ばれていた者と判別できるようだ。
それについては、この15年間で幾度か経験したことでもある。
最初の数年間は帽子と偏光グラスと化粧で誤魔化しても、何処でも人だかりに囲まれることが多かった。
だが、最近では幻体バトルの人気低迷に比例して、それが激減している。
喜ばしい次第だ。
あんな狂気が長く続いて欲しくなかったし、長く続くとも思っていなかった。
「幻体から離れて生きていたよ。普通の女として」
「それでも、今更エータの本社に行くんですよね?ファンとしては『クイーン』が復帰するならすごく喜ばしい事態ですが」
「まあ、ね」
先日、観光客として中東に滞在していたところ、何処で知ったのか自らの小型端末にエータ・ジュネレーションからの呼び出しが掛かった。
15年の時間で義理も愛想も消え果てていたが、件の文面には、締めに『彼』の名前。
それが無かったら今更マンハルタに、エータの本社に足を運ぶ理由にはならなかっただろう。
エータとの絆は途絶えたが、『彼』との絆は細々とだが、確かに健在だ。
それに、電子手紙に踊る、『自分にしか出来ない仕事』に好奇心を揺さぶられたのも事実だ。
だがそれを引き受ける心意気など、彼女の中に微塵も存在していない。
大ぴっらに笑い飛ばした後で、慇懃無礼に断るつもりだ。
飽くまでもこれに応えたのは、『彼』の顔を最低限度だけ立てる行為に過ぎない。
「申し訳ないけど、煙草吸っていい?飛行機の中じゃ吸えなかったし。灰皿は持ってるから」
「本当は禁煙車なんですが、『クイーン』の頼みじゃ断れませんね。それに煙草が習慣づいたご老体じゃ辛いでしょう。特別に、一本だけなら大目に見ますよ」
「ありがとね。あと、見た目はちょっと老け顔だけど、まだそんなに歳じゃないから」
了承得たジュリエットは傍らに携えていたバッグから横に広い箱と金属製のライターを取り出した。
この銘柄はジュリエットのお気に入りだ。
箱から丁寧に内容物を一本だけ取り出す。
細身のそれには、染みのような色が浮かんでいる。
愛用するようになってから知ったことだが、煙草草の他に巻かれている薬草がそうさせているらしい。
彼女は蓋を開けると、口に咥えたそれに火を点した。
ジュリエットが煙草を介して息を吸うに、煙草の火から乾いた火花が少々飛び散る。
これも薬草の所為だ。
数時間、久方ぶりの煙草。
燻し煙、メンソールの清涼感、甘く味付けされたフィルター、薬草の香り高い気品。
それがジュリエットの肺と心を満たす。
年齢を重ねると、多少の我が儘と見え透いた算段は通せるとジュリエットは学んだ。
彼女が生まれた時代では既に、喫煙は忌み嫌われる風習の仲間だった。
ジュリエットが乾草の優しさを楽しみ終わる頃には、個人客車はマンハルタの上部、第二層に滑り込んだ。
「此処に来るのは本当に久しぶり。15年でこんなに変わるなんて。浦島太郎みたい」
「何ですか?ウラシマタロウって?」
「ジパニアの昔話。善意に甘えていたら自分が知らない未来に行き着いちゃった男の話」
「そういえば、『クイーン』はジパニアの血が混じっているんでしたっけ?」
「少しだけだけどね」
薄茶色の髪と瞳故にそうと思われることは少ないが、ジュリエットの祖父はジパニアの人間である。
その証拠に、ジュリエットの『チュージョー』の姓は、祖父とその後ろから連なるものだ。
ジパニアの言葉で表すなら、『中條』だ。
「15年の間にジパニアには行ったんですか?」
「居たのは1週間くらいだけだったけど。トーキョータワーは見たよ」
「どうしたか?」
「ジパニアの血は混じっていても、そこで暮らしたわけじゃないから。特にこれと言った感想は浮かんでこなかったよ」
「そんなものですよね、観光地なんて」
個人客車は第一層に設けられた『天窓』から零れる日光を浴びながら走る。
此処はまだ『本物』が届く。
低所得層が住む最下層域中心部は人工光だけが頼りだ。
「見えてきましたよ」
運転手の言葉に釣られ、ジュリエットは座席に預けた上半身を起こして、フロントガラス越しに前方を窺う。
マンハルタの第三層が基部。
『此処』だけの為に、積層帯の一部が切り抜かれ、そこに最上部を超える高層ビルが聳えるは、正しく数年前に移転したエータ・ジェネレーションの新本社棟だ。
第二層から空中道路のようにエータの建造物へ伸びる専用路を通り、個人客車は第二層
部の正面玄関前へとたどり着いた。
停車する前からそこに見えていたのは、黒服の男達。
おそらく自分の出迎えだろう。
『いかにも』な服装が、僅かに癪に障る。
客車が玄関前に停車するやいなや、件の黒服が客車のドアを開けた。
「お待ちしておりました、ミス・チュージョー」
「こっちは待たせてるつもりなんて無かったけど」
売り言葉にもとれるジュリエットの軽言に、黒服の男は表情筋一つ動かさなかった。
ゲストの心境を傷つけてはいけないと教育されているのだろう。
「客車の料金は私でもで支払わせて頂きます。どうぞ、そのままお降りください」
「別にいいよ。変に恩を売られたくないし。で、いくら?」
「いいんですか、『クイーン』?せっかく申し出てもらったのに」
「いいから」
運転手から言い渡された金額を、彼への気付けを上乗せして、ジュリエットは黒服が眺めている横で自らの財布から取り出した。
幻飼を『廃業』にしてから15年。
懐に余裕がそれ程も無いのは事実だが、自身で述べた通り、エータの世話にはなりたくない。
「さっきの喫煙を許した見返りってわけじゃないですが、サインをお願いできます?」
「いいけど、今更こんな私のサインなんて貰って嬉しい?」
「もちろんですよ、お願いします!」
運転手が乗務員席と客席の仕切りを開いて、ジュリエットに向かって、ノート型の電子端末を差し出す。
それを受け取ると、ジュリエットはペンで描くように、右手の指先で画面に在りし日に嫌というほど請われた、自分の名を崩した意匠を書き込んだ。
「名前は?」
「ジョージです」
「オーケイ、ジョージ。これでいい?」
「ありがとうございます!『クイーン』の伝説の復活を楽しみにしてますよ!」
「・・・あんまり期待しないで待っててね」
客車から降りたジュリエットは、それを小さく手を振って見送る。
おそらく自分と彼がもう一度会うことはないだろう。
だからこそ、多少なりとも世話になった人物には誠意を見せたい。
エータと、延いては幻体に関連した者以外には。
「さあ、行きましょう」
「え?今のマンハルタをちょっと観光してこようと思ってたんだけど」
「・・・」
「冗談。さっさと案内して」
そろそろこれくらいにしないと、痛い目を見るのは自分だろう。
自重を誓いながら、ジュリエットは先導する黒服に従って、本社棟へと踏み入った。
劇中でジュリエットが愛飲している煙草は、実在する「ガラム」という銘柄がモチーフです。