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また明日  作者: 2626
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また明日 下

かつみんとたかしのせいしゅんゆうじょうものがたり。

 ある夜、塾から帰宅すると、両親そろって深刻な顔で、勝巳を玄関で出迎えた。

「何があったの?」

ただいま、の代わりに、彼は尋ねた。それには答えが無くて、靴を脱ぎ、リビングへ入った途端、完全に重苦しい雰囲気に飲み込まれた。

彼の両親は、ソファに並んで腰掛ける。まるで今さっきリストラされたので、明日など無いといった表情だった。

「いや、それが……」

明らかに動揺している父親に比べて、母親はしっかりしていた。だが、それも比べて、というだけだった。

「勝巳、びっくりしないで聞いてね」と息を吸って、「実は、お父さんと私が両方とも、海外へ長期出張を命じられて――」

 「何だ、そんなこと?」

「え」

思わぬ息子の反応に、二人は目を丸くした。

「僕なら叔母さんのところに厄介になるから、心配しなくてもいいんだけど」

「そ、その、何だ」父親が声を振り絞る。「――お前の受験の時になっても、戻れるかどうか分からないんだ。心配するなというのが無茶だ」

「でもさ、僕はもう心配されるのは嫌なんだ。正直ウザいよ」

「勝巳!」

母親がいきり立って勝巳を掴もうとしたが、さっとそれをかわして、勝巳はリビングを飛び出た。

「僕はあんた達のオモチャじゃないよ。言いなりにはならないし、逆らいだってするさ!」

「そうじゃないのよ!」


 「だったら、じゃあ何さ?」とは、自分の部屋に鍵をかけて、勝巳は閉じこもった後に言った。

「何もないが――それでも心配なんだ」

追いかけてきた父親は言う。

「それって馬鹿じゃないの?」

「馬鹿でいい、話をしよう」

「何も話す事はないと思うけど……」

「分かった。出来るだけ今のお前の意見を尊重しよう。いきなりこんなことを話した私達が、許せないんだろう?お前は、ここにいたいんだろう?」

「分かっているなら、どうして話すのさ?」

「お前は素直じゃないからな。それに難しい年頃だ。それなのに普段が大人しいから、かなり我慢しているんじゃないのか」

「そうだよ。じゃあどうする?」

「その分だと、梃子(てこ)でもここから動きそうにないからな。すまないが、一人きりにしてしまう。ハヤテは仕事中毒(ワーカーホリック)だからな。ただ、連絡だけはきちんと取ろう」

「うん、分かった」

「……そこで、嫌だとこぼしてくれれば、かえって安心なんだがな」

「父さん、せいぜい僕は、電話口で恨み言を言ってやるくらいが精一杯なんだよ」

「そうか。お前は昔から強情だからな。――だが、ほっとしたよ」

父親が離れていく気配がして、勝巳はベッドに倒れこんだ。


 結局、言えなかった。

僕にはこの先の人生なんか無いんです、僕はもうすぐ死ぬんです、その類のことを白状した途端に、あの人たちは発狂したようになるだろうと思うと、とても言えなかった。

 ――どうしたものだろう。

次から次へと案が浮かんだが、どれも実行不可能な、まるで夢のようなものだった。いっそ遺書でも書いておこうか、と思ったが、何を書いたにせよ、あの人たちが動揺しないとは思えない。隆は彼が死ぬだなんて、まるで思ってはいないし――。

そう言えば、その隆は今頃何をしているだろう、と彼は気になって、携帯にかけてみた。

着信のコール音が鳴り、そろそろ留守電に切り替わるだろうという時になって、ようやく相手が電話に出た。

「おい、今何している?」と勝巳は言った。

『――』

息遣いは聞こえる。だが何も喋ろうとしない。

勝巳は何かあったのかと声を荒げた。

「おい!」

『――テメエ、殺されたいか』

「は?」

何をいきなり、と彼は面食らった。

『テメエの所為だ……』

隆の声は特に不機嫌そうでも、怒ってもいない。それが逆に不気味だった。

「何だ、かけちゃマズかったのか?」

『殺されたいんだな』

頭に血が上っているのだろうか、とにかく会話が成り立たない。

「殺すの殺さないの、一体どうしたんだ?」

言い終えてから、彼の脳裏に、ある情景がいきなり浮かんだ。


 ――夜の静かな公園。ベンチに寄り添う隆と――どこかで見たことのある少女。ああ、これは何となく二人だけにしてやりたい、そういう雰囲気が漂っている。手をつなぐ二人。無言のやりとり。少女の細い指に淡く輝く指輪が見える。お互いの顔をちらちらと見合う二人。見たことの無い隆の表情。 ああ、これは部外者が立ち入ってはならないな――勝巳はそう感じた。


 直後に鳴り響いたのは、携帯の着信音だった。


 小さな悲鳴を上げて、少女は謝罪の言葉を口にしながら、手を解いて逃げ出した。ベンチに張り付いたまま、彼女を追いかけるに追いかけられない隆。

正気を取り戻してから、携帯に出る。


 「うわ」

分かった。隆の脳裏で、この情景が繰り返し、狂騒的に再生されているのだと。だから勝巳も共感して、見えたのだ。

「ごめん、悪かった。……せっかくのチャンスを、僕が水の泡にしてしまったんだね」

『……何だよ、何で知っているんだよ』

隆は力ない声でたずねた。

「何となく分かったんだよ。うん。ごめん。もし知っていたら、邪魔はしなかった」

『……これから、追いかける。しばらく、絶対に、かけてくるな。じゃあな、あばよ』

「わかった。じゃあな、また」

ぶつん、とそこで通話が切られて、勝巳はちっと舌打ちしてしまった。

「何だよ、言いそびれたじゃないか」

『じゃあな、また明日』くらい言わせてくれても良かったのに。勝巳はがっかりした。まあ、でも、仕方が無い。それから急に眠気が差してきたので、そのまま彼は寝てしまった。

 お互い――これが、最後の電話になるとは、思ってもいなかった。


 ハヤテは不在だったが、秘書に声をかけただけで、勝巳は無事に揺りかごのある部屋へ入ることが許された。

「さーてと」

彼は誰も居ないのに口にすると、デスクを押した。

滑らかにデスクは窓際へすべり、下にあった揺りかごが浮上する。

「!」

揺りかごの中に、誰ががいた。

驚く間もなく、浮上した途端にそれが内側から開かれ、勝巳は息を呑んだ。

 むくりと人影は起き上がり――、

「やあ!君が伏木勝巳君だね?よろしく!」

爽やかに挨拶した。

「あなたは誰なんです」

外見は若い。ブロンドに青い目。二十歳そこそこだ。きっちりとしたスーツ姿で、若いこともあって、まるで就職活動中の学生のようだった。

だが、漂わせる雰囲気は、どこか蒼然としたものだった。

「僕はジョー・フェンスター。那由他記室(なゆたきしつ)委員会のエージェントだ。Mr.フェンスターと呼んでくれ」

よく通るテノールの声。発音は完璧だった。

「……真なる神の奇跡の記録、保存を主な活動目的とし、世界中に支部を持つ巨大オカルト組織が、僕に何の用です」

にっこりと、彼は微笑んだ。見事なスマイルだった。ポーカーフェイスのように、感情を見せないための表情だった。

「流石だね、君は。ちゃんと知識を持っているようだ」

「そういうのはどうでもいいと言っているんです。――用件は何ですか?」

勝巳は珍しく、苛立たしげだった。完全なポーカーフェイスの相手に警戒するなという方が無理だった。

「よし、端的に言おう。禁書【グラン・グリモア第13版魔神録】――その中の『黒の書』を知っているかね?それを所有してはいないかね?」

 何かで読んだことがあった。――グラン・グリモアといえば名高い魔道書だ。バチカンの禁書目録にその名を連ねている。そして、黒の書――数ある魔道書の中でも、特に黒魔術系の召喚術について書かれたものだ。しかも、魔神録。その効力に憧れての贋作も数多いが、本物ともなれば、古代に封じられた異教の神々である魔神――悪魔を、現代に蘇らせうるだろう。

「知ってはいます。でも所有も閲覧もしていない」

事実だった。そういう、持っているだけで危険分子と見なされかねない代物は、彼は持たないようにしていた。

「口では何とでも言えるだろう?」Mr.フェンスターは、どこかから取り出した金属製のステッキの先で、勝巳を指した。「君だってADAMASTORに出入りできていたのだから」

「ADAMASTOR……」

思い出した。JJは言っていた。彼らは金次第でどんな望みをも叶えるのだと。

「知っているのだろう?ADAMASTORの連中がどの様な輩か」

 彼らは誰に何を売ったのだ?

脳裏に浮かんだ謎に、ひやりとする。

「知っています、でも――僕は何もやっていない」

Mr.フェンスターはステッキを持ち直し、ぶん、と横に振った。ステッキの握りの部分が、ぴたりと勝巳のこめかみに触れる。彼の脳天を砕く寸前だった。

「――ッ!」

悲鳴はこらえた。だが、冷や汗はどうしようもない。

「僕は短気なんだ、さっさと答えろ!」

やけに高圧的に、彼は問い詰めた。

エセ紳士め、本性を見せたな、と勝巳は思った。

「答えろ、と言われても――知らないものは知らない。探すなら他を探してください!」

事実だった。つとめて冷静に述べた。それが、気に障ったらしかった。

勝巳は、Mr.フェンスターの笑顔が、邪悪なものに変わったかのように見えた。

 「強情だね、君も」

ステッキで勝巳のみぞおちを、どん、と突いた。

 こみ上げる嘔吐感。激痛。勝巳は前のめりになって胴体を抱え、絨毯に膝を突いた。そのまま、襟首を掴まれて、彼は引きずられた。ふざけるなと、思ったものの抵抗も出来ず、彼は揺りかごに頭部を突っ込まれた。

「これはいい機械だ。何故この会社が所有しているのかは知らないが――自らを鍛える機具としても、拷問機具としても素晴らしい。君も入りたまえ」

やめろ、と呻くのも間もなく、彼の全身は揺りかごに包まれた。

辛うじて首をひねると、見事なまでの微笑を浮かべたMr.フェンスターの目と視線が合わさった。勝巳を軽蔑しきったかのような、冷えた目だった。

「あんた――!」

呟きかけたところで、強烈な眠気に、勝巳は襲われた。


 不意に覚醒する。目覚めの気だるさもない。

まるで、ぷっつりと鋭いナイフで切られた糸のような気分。

「ここは――」

どこだ、と口にする前に、直感的に理解した。

向こう岸の見えない、暗い大河のほとり。暗くも明るくも無い、独特の時間帯。空は濁っていて、夜昼の区別もはっきりしない。風さえ吹かない。

直感的に理解した。ここは異界、この世ではない世界だと。

その境界間際に、彼はいるのだ。

 ――ハヤテが開発部門に命じて作らせた『揺りかご』は、人に臨死体験をさせる装置だった。彼女はある事件の後から、死に瀕するような体験をしなければ、生きているとの実感――充実感が得られなくなってしまったのだ。だが、生の実感を得るために作り出した機械は、思わぬ別の作用をもたらした。


 死への恐怖の減退と、異世界を垣間見る恐怖の体験。


 懲罰にも、鍛錬にも使えるのだった。

ハヤテはあくまでもそれらを恐怖を催す幻覚、幻聴と信じていたが、勝巳はすぐに気が付いた。それらは別世界の事実なのだと。

 大河は、不気味なほど静かに流れている。勝巳は指先を浸してみた。生ぬるい水が不愉快にまとわりつく。

「レテ河、三途の川――次元世界の境界線は、やはり水なんだ」

しばらく流れに逆らって、川原を歩く。その間、誰にも出くわさないので、たずねる事もできなかった。

ここが異界であるとしたら、どこの異界なのだろうか。天界なのだろうか、魔界なのだろうか。

 やがて、どこかから唸り声が響いてきた。巨大な獣の咆哮。勝巳はぎょっとして、辺りを見回した。

 彼岸に、何かがいた。それは滞空したり、地面に激突したり、跳躍したりを繰り返して――まるで頭を無くしたバッタのように、暴れまわっているのだった。必死に河を渡ろうと試みるが、どうしても水に触れられないようだった。

 近づくにつれて、はっきりと見えた――人とウロコを持つ生物が混ざり合ったような、大きくておぞましい怪物がのた打ち回っている。角の生えた、どの生物を模したかも分からない金属製のヘルム。胸部にぽっかりと空いた空洞。

 奇天烈の極みのような存在であるのに、強烈な既視感に勝巳は戸惑った。どこかで見たことがあった。確かにどこかで。彼はこれを見たことが。確かに僕はどこかでこれを見たことが、ある!

 「――GUUUUUUUUUUUUUUUUUUUOHLOLOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON!」

それは勝巳を見つけた途端に、地面も震えるような、大咆哮を上げた。

「――DOOUGLOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON」

その声にもならない雄叫びの中に、彼は確かに聞いた。

「……『魂を返せ』?『名を返せ』?」

「GOUGOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON!」

異形は吼えた。吼えて暴れた。鋭い爪牙で自分の体を切り裂き、赤い血を(ほとばし)らせる。自傷行為を続けるその姿は、異常なほどの生命力に満ち溢れていた。悪魔のような怪物だった。

 だが、あるべきものが欠けているような印象を、勝巳は感じた。どうして胸に穴が空いているんだ――?

「でも、悪魔だとしたら、名も魂も無いだなんて……そんなハズは」

 悪魔の我思う故に我あり(コギトエルゴスム)は、その魂の名だ。魔の肉体を形成する情報の礎が、名の言霊なのだ。だから、高位の悪魔であればあるほど、名を重んじる。

 勝巳の目に映る異形の者は、その迫力といい存在感といい、とても低位の悪魔だとは思えなかった。おそらく魔神クラスの悪魔だろう。

「GULOOOOOOOOOOOOOOOOOOOH!」

悪魔は吼えた。音にならない絶叫だった。

「あ!」

勝巳は殴られたかのようにのけ反って、そのまま川原に倒れた。爆音のような、広域の精神感応に耐えられなかったのだ。

「な、何て声を出しやがる――!」

 だが、倒れた拍子に、それは視界に入った。勝巳は息を呑む。

 所々剥がれかけた金メッキの文字が、ちらちらと光る。

おそるおそる、起き上がって近づくと――間違いない、ADAMASTOR。しかし古びた洋館は無く、扉だけが地面から突っ立っている。

「――まさか、だろ」

ノックすると、扉は内側に開いた。いや、開かれた。

カウンター内に、まるで生ける彫刻作品のように綺麗な少女が座っていた。カウンターがあるきりで、壁や床は無い。

「シン……さん?」

そっと、呼びかけた。

「ええ、私です」

彼女は、触れればひんやりとした磁器の滑らかさを感じそうな、無機質的な肌をしていた。声も同じ、質感を持っている。

「どうして、ここに?」

「アダマスターの扉は世界のどこにでもあって、どこにもないのです。もっと単純に言ってしまえば、店主は気まぐれで色々な場所に扉を移転するのです」

「気まぐれ――ですか」

その気まぐれを左右する事由を、運命と呼ぶのだろうな、と勝巳は悟った。

「私はそれに従うだけです」

彼女はタロットカードをカウンター上に3枚並べた。

勝巳は当てようとして、その前にある事が気になった。

「ここに、Mr.フェンスターも来たんですか?」

「答えられません。それが決まりです」

来たのだろうな、と勝巳は思う。そして誰に『黒の書』を売ったのか、聞き出そうとしたのだろう。そして、間違いなく失敗したのだ。だから苛立っていたのだろう。

とばっちりで僕が、勝巳はうんざりした。ここに来たわけだ。

「恋人、世界、塔」

当たるという確信があった。彼女の思考をわずかに突くだけで、表のアルカナは示される。それを言うだけでいい。

しかし、それ以上は――何かの壁が設けられているのか、一切わからなかった。どうやら人のプライバシーの領域には踏み込ませてはくれないようだ。

「正解です。それでは何を知りたいのですか?」

「僕は色々と知りたいことがあって、臨死の際を体験しようとしたんだけど。僕はどうして霊能が覚醒したんだい?」

「あなたが死に迫りつつあるから、です。死と生の界移動はご存知ですか」

「『死とは新たなる世界への不帰の旅立ちである』、こんな所かな?」

「その通りです。あなたは自らの死が近いゆえに、あの世の能力を得つつあるのです」

「なるほどね。そうか、こうして僕はどんどん死にかけていくんだ。――僕はどうしたらいい?」

勝巳は、ぼう然と呟いた。

「生きたいですか?死にたいですか?」

「そりゃ、生きたいよ。死ぬのも怖いから」

少女は――シンは、事務的に言った。

「あなたの命より大事なものを捧げれば、将来は変わるでしょう」

「命より、大事なもの?」と、勝巳は繰り返した。「僕は幸せな人生を送っているから、僕の命が一番大事だと思っている」

「いいえ、それは偽りです。――家族、友人、恋人。沢山、あるのでしょう?」

「……」

勝巳は露骨に嫌だという顔をした。

「いいや、逆だ。だから嫌なんだ。断るね。とても幸せな人生を送ってきたんだねと笑われても、それは嫌だ」

「あなたはどうして善い人間であろうとするのです?」

シンは、冷たい声でたずねた。

「善くあることに何も利益を見出してはいないのに、そうであろうとするのですか?」

まるで誘導尋問をされているようだった。NOと答えたはずが、YESと頷いているような。


 「知るか。僕に聞くな!僕はただ僕であるだけだ!」


 勝巳は吐き捨てた。まぎれもない、本音だった。

彼はただ何となく、社会的正義や倫理を踏破できないでいたのだ。他には特に理由などなかった。道を横断するのに、何となく横断歩道の前に立ち、青信号を待つような――そういうものだった。


「……あなたは素晴らしいですね」


 いきなりだった。勝巳は目を丸くした。彼女の口から、そんな言葉が出るとは、まったく思わなかった。皮肉めいた印象も無く、そこも新鮮だった。

「え、あ、ありがとう――」

反射的に呟くと、いいえ、と返された。

「階上に何があるかを知りながら、目の前にある梯子に登らないということは、素晴らしいことです――いえ、奇異です」

「君が今いる環境が、たまたまそうだってことじゃなくて?」

「そうかもしれません。ですが、あなたは素晴らしいと思います」

「ありがとう」

また彼女は目を伏せて、いいえ、と返した。

「それで――」

と、勝巳が言いかけたのを遮って、

「あの吼え(たけ)る悪魔のことですね」

と、彼女は静かに言った。

「あれは何ですか?」

シンは、少し黙ってから話し出した。

「魂も名も無き悪魔だそうです。本来なら存在しえない異形ですが――この境界は現世であり、あの世である場所。あのような中途半端な存在でも、ありうるのだろうと店主が言っていました」

「……初耳だ」

「あれは、本当に珍しい存在です。知らなくても当然かと」

「でも、僕はどこかで見たことがあった」

勝巳は呟いた。

「確かにどこかで――」

 そのとき、ぐらりと視界が揺れた。凄まじいめまいに襲われて、勝巳は両手と膝をつく。

「あ、あああ、そんな――」

急激に意識が薄れていく。思考がまとまらない。いや、ぼやけていく。シンの声が、遠くから聞こえてくるようだ。それはあの悪魔の咆哮と混ざり合って――。

「また機会があれば、お会いしましょう」

GOUOLOLOOOOOOOOOOOOOOON!

世界がぼやけていく中、どこまでも叫びが響いてきた――。


 どこかから声が響いてくる。

「勝巳!起きてくれ!」

うるさい、黙れ。

僕は寝たいんだ、邪魔をするな、と振り上げた手が何かに当たった。鈍い音。何に当たったんだろうと、重たいまぶたを上げると、まなじりを吊り上げたハヤテと目が合った。

「……」

声を出すのも億劫で、勝巳はそのまま目を閉じようとした。

「起きろ。話がある」

だが襟首を掴んで、引き起こされた。揺りかごから出た途端、勝巳は吹きだした。

 Mr.フェンスターが屈強なエージェント2人に組みふされて、まるで親の敵を見るような目で、勝巳を睨んでいるのだ。

「Mr.フェンスター……よくもやってくれたな」

「それはこちらが言いたい」

Mr.フェンスターというのか、とハヤテは苦々しく呟いた。

「こいつは社長室に不法侵入したのだが、勝巳、何もされなかったか?」

「思いっきり殴られて、揺りかごに突っ込まれました。僕を殺すつもりだったようです。あんなに怖い思いをしたのは、生まれて初めてです」

ウソと事実を混ぜて語った。

もっとも、胸の辺りがまだむかついていた。

「そうか」

ハヤテは指を鳴らした。

エージェントがエセ紳士をぶん殴る音がしばらく続き、勝巳が眉をひそめると、ようやくハヤテはもう一度指を鳴らした。音は止む。

その間、顔色一つ、彼女は変えなかった。

「不法侵入したということは、わが社の警備体制に不備があったということだ。だがそれは、許すか許さないかの問題ではない」

「許さないで下さい。二度と会いたくないんだから」

「よし、分かった。それを捨ててきてくれ」

Mr.フェンスターはまるでボロ雑巾のような有様で、社長室から連れ出された。


 「最近の連続行方不明事件も、アイツが何かしら関与しているのではないだろうね――」

それを見送って、ハヤテは口に出した。

「何でも、子供から大人まで、消えうせているというじゃないか」

勝巳は、首をひねった。那由他記室委員会はまともなオカルト組織だ。そこのエージェントが人を拉致する事など、あり得ないように思える。

「……それは、無いと思いますけど」

「そうか。あと――お前の予知の件だが、面白い情報を得た」

「どんな情報です?」

ハヤテは、ちょっと眉をしかめて、

「工場の化学汚染の浄化作業中に、巨大なウロコを発見したらしい、魚類でも爬虫類でも無い。もちろん冗談か悪質な悪戯だろうが」

「そうですか……」

勝巳は適当な相槌を打った。だが、考えていたのは、工場を襲ったのはやはりあの悪魔なのだろうなという、突拍子も無いものだった。

「ねえハヤテさん」

でも、やはり、バカバカしい。半ば疑いつつ、勝巳は一応はそう決め付けた。

「Mr.フェンスター、どうやって捕まえたんです」

「秘書が見つけたのだよ。アポ無しに社長室にいた男を」

「そうでしたか。良かった。あの野郎、短気で困ったんですよ」

「そうか。だとしたら、私の勘は正しいな」

「勘?」

「あの男は私と似ているような気がした、それだけだ」

ハヤテは珍しくぼそぼそと呟くと、勝巳を抱きしめた。

「何にせよ、お前が無事でよかった。本当に」

勝巳は目を閉じる。男性用のブランド香水の匂い――ブランド名は忘れた。それの中にほんのりと混ざる、ほろ苦い体臭。

 甘ったるい女性らしさのないその匂いが、勝巳は好きだった。

人のぬくもりに包まれるという快感。おそらくもっとも原始的で、究極的なそれを味わいながら、勝巳はぼんやりと考えていた。

 僕は幸せだ、もう十分だ――と。


 こんな下らないことを話したことがあった。

友情ってどんな価値があるんだろうな、と。

彼は試したらボロが出ると言い、隆は笑って馬鹿にした。

じゃあ俺の将来はどうなるんだ。オマエ次第なんだぞ、と。

その言葉を思い出しながら、勝巳はぼんやりと黒板を眺めていた。

相羽つづみという少女が、昨夜から家に帰っていないらしい。連絡も取れないそうで、家族は捜索願を出したそうだ。今度のクラス選試でランクアップした上に、特に悩んでいる様子も無かったことから、事件に巻き込まれた可能性がある、何か知っている者はいないか、と教師が呼びかけたが、誰も手を上げようとはしなかった。

その後の休憩時間は、まさにお祭り騒ぎだった。

相羽つづみは、Aクラスに所属していたため、他のクラスからも見にきた生徒がいた。

それでも、誰も理由らしき理由を知らなかった。

放課後、彼はいつものようにオカルト愛好会の部室へ向かった。

そこでは――まるで女王のように園原まゆみが振舞う、いつもの光景が繰り広げられていた。今日はタロットカードのようだ。


 勝巳はそれには参加せずにソファに座り、持参した本を読む。いつもの流れだった。

「正位置でこのアルカナが出ると、それは――」

女性は、どうしてあんなに占いが好きなのだろうと勝巳は思った。そういえば、とこの前のこっくりさんを思い出す。その際、相羽つづみに、彼はビンタをくらったのだった。

彼女が「好きな人に殺される」という予言をされていたのが、少し気になる。彼女が好きな人、とは誰だろう。

いつもだったら、無視するところだが、今回は事件性があるかもしれないのだ。

 勝巳は目を閉じて、本の表紙に両手を当てた。簡単な魔術を使おう。本の内部にある文字を、相羽つづみの好きな人の名前の形で拾い集めるという。今の彼の霊能なら、可能だろうと思った。思うだけで、術式は完成した。後は走査(スキャン)のように本を透過すればいい。

 簡単に、文字は集まった。隆、糸、辺。

嫌な予感がした。


 糸辺隆。


 彼はさっさと部室を出ようとした。確認したいことがあったのだ。

その時、女の子達が、一斉に悲鳴を上げた。

「!?」

勝巳は驚いて振り返る。

「ど、どうしよう、ねえどうしよう!」

「正位置で死神が出たって事は、相羽ちゃんは、もう――」

「残念ながら、もう手遅れ、ってことね……」

園原まゆみは、でも、と呟いた。

「犯人が『恋人』って出ただけでも、マシよね。きっと携帯の通話記録を調べれば、何か証拠が出てくるかもしれない」

今度は、ぞっとするような沈黙が辺りを支配する。

勝巳はそれに耐えられなくなり、ついに口にした。

「占いが当たっていると、先輩は本当に思うんですか?」

「私は信じるわ」咎めるような口調で、彼女は言った。「だって、あまりにも当てはまっているから」

「偶然と思い込みで、そんなのはどうにでもなるでしょう?」

「出来すぎた偶然は、必然と呼べるわよ」

「必然?」何か、引っかかった言い方だった。「誰かがそう仕組んだとでも、言うんですか。バカバカしい。何を根拠に言っているんです」

そこまで言って、勝巳ははっとした。口が滑った!まゆみは問い詰める。

「伏木君、あなた、まさか――『恋人』について、何か知っているの?!」

「いいえ、何にも」

「でもあなたは彼女と話していたはずよ――何か、『恋人』について」

「名前さえ、彼女は知らせてはくれませんでしたよ」

「そう――じゃあ、どうしようもないのね」

勝巳は言い逃れると、今帰宅するのも間が悪いので、しばらく居座ることにした。


 園原まゆみは、今度は自分達について、占っているようだった。

「あら、月、悪魔、塔――が、全て正位置で出るなんて」とまゆみは言った。

「あまりイイ意味じゃないですね」と少女の一人が言った。

「そうかしら。私にとっては、中々いい意味よ」

「え、先輩、何かあったんですか?」

「あったわ。とてもいい事が。秘密だけれどね」

それを聞きつつ、こっそりと、隆の携帯へかけてみる。

 つながらない。

ますます焦燥して、彼は山のように「連絡しろ」とメールを送った。だが、返事は来ない。

どうしたものか、と彼は途方にくれた。だが、しばらく待つしかなかった。


 とうとう塾の時間が近づいたので、それをちょうどいい理由として、勝巳は部室を出た。

 つながらない電話。返信の来ないメール。不安と焦りだけが募る。

 友情は試されるという。だが、こんな形で試されるとは、冗談ではなかった。

 たまりかねて、彼はハヤテに連絡を取った。警察の捜査情報を教えてもらえないか、と。

 ハヤテが帰宅した時、勝巳はリビングのソファでふて寝していた。

「おいおい勝巳、盗聴には配慮してくれ」と彼の叔母は言う。

「うー」

勝巳は露骨に嫌そうな顔をして起き上がる。

 今日から叔母と同棲するとはいえ、目新しさも感激も無い。仕事中毒のハヤテは滅多に家に帰らないのだ。

「それは『はい』の返事なのかな?」

ハヤテが書類をちらつかせると、勝巳は形相を変えた。

「はい!」

「その変わりよう……残念ながら、君の親友は容疑者として、警察が必死で探している。だが、痕跡すら見つかっていないそうだ」

書類を受けとって、勝巳はすぐに目を通した。


 あの夜、二人は相羽つづみの家に行ったが、隆のあの外見上、相羽つづみの家では歓迎されなかったようだ。そのために二人はどこかに出かけてしまい、そのまま帰ってこなかった。

 心配になった家族は学校、知り合いなどに手当たり次第に連絡して、最後には捜索願を警察に出したのだと。

警察では、これを連続行方不明事件の一つとして取り扱っている――。

なお、糸辺隆の場合、容疑者たりうる可能性がある――。

 捜査上の情報は機密のはずだったが、ハヤテのコネクションは広く深い。これくらいは、簡単に手に入れられるのだ。

「何てこった。これじゃあいつは、まるで犯人扱いだ――」

ハヤテの淹れてくれたコーヒーにミルクを垂らして、勝巳はうめいた。

「そうだね。――君は彼の無実を信じているのかい?」

「アイツ馬鹿ですから。できないんですよ、こういうことは」

「本当にそうなのかい?人間は何にでもなれるんだ」

「ハヤテさん!」

勝巳は泣きそうな顔で言った。

「アイツは、もうアイツ以外にはなれないんですよ」


 しかし、翌朝、学校へ行くと、早くも隆が逆上してつづみを殺したのだという噂が、広まっていた。

相羽つづみの妹が中等部に所属していて、そこからの情報らしい。よりにもよって、一番いい子だった姉が不良を連れてきたため、父親が怒鳴りつけたのだ。不良は逆上したそぶりを見せた。姉は不良をなだめるために、一緒に外へ出て行ってしまった。姉は駆け落ちなんかする人間じゃない。アイツが逆上して――ということだった。

 その内にマスコミも騒ぎ始めた。

進学校の生徒が、というだけで、面白いゴシップ記事になるのだった。

 誰も隆を庇う人間はいなかった。

勝巳は何も出来ないまま、噂が広まるのを傍観するしかなかった。


 自分の無力さを味わいながら、それでものうのうと過ごしていた彼は、ある夜、とんでもない夢を見た――。


 まだ明るい内に、勝巳はアダマスターへ出向いた。両親を空港で見送ってきた、その帰りだった。また変質者に襲われるかもしれないという恐怖は、もう感じなかった。以前助けてくれたアイツは、もういないのだ。半ばヤケクソな気持ちだったのかもしれない。けれど、残りはもうどうでもいいという投げやりなものだった。馬鹿で乱暴だったが気のいいアイツは、もうどこにもいないのだ。

 街を歩くと、雑音のように人の思念が片端から入り込んできて、めまいがした。けれどそれさえもどうでもよくなり、無視してさまよい歩いた。両親の前では隠していたが、実は限界に近かった。今の彼の有様ときたら、まるで弱りきったヤク(ジャンキー)のようで、警察よりも救急車を呼ばれそうな有様だった。

 もう歩けない、という時になって、剥げかけた金の文字が目に入ってきた。ADAMASTOR。よろよろと動き、扉に体を押し当てて、中に入る。


 カウンターには、Mr.フェンスターが優雅に腰掛けていた。

「やあ!元気じゃないみたいだね」

「……」

JJはどうしたのだろう。どうして彼がここにいるのだろう。その他諸々の疑問さえ、たずねる気力も無くて、彼はその場に座り込んだ。

「この店は、金品次第では誰であろうと――魔術を行使する権利の無い者であろうと――魔術用品を売ってしまうのだ。店主の気まぐれ次第でね。不正に行使された魔術を取り締まるのが、我々の役目の一つでもある。それで、僕がここに来たというわけだ」

勝手にまくし立てると、Mr.フェンスターは尋ねた。

「それと――今朝の新聞を読んでみたのだが、彼が君の親友だったのか、それとも彼女と親しかったのか、どちらなんだい?」

興味津々と言った様子で、残酷なことを。

「彼女は死にました。でも隆は殺すつもりじゃなかった」

「ふうむ。痴情のもつれというものかね?」

酷い言い草だと思った。だがマスコミはそのようにはやし立てているのだから、無理も無いのかもしれなかった。

「それだったら良かったんです」

「そうでは無いと?」

「ええ。話すのも面倒ですから――どうぞ」

勝巳は手を差し出した。自分の想念(イマージュ)を読ませるために。

そうかい、とMr.フェンスターはその手を取った。

途端に、視界が暗転する。


暗がりから光のあるほうへ進むと、そこはどこかの公園だった。

勝巳は、公園のベンチにうずくまると、ある方向を指差した。

Mr.フェンスターがそちらに向かうと、血を吐くような怒声が聞こえてきた。

「――お前だけは殺してやる!」

いきなり物騒だな、と魔術師(エージェント)は思った。

木陰から覗くと、何か血まみれの物体と、その前に立つ少年と、暗くてよく見えないが――人影が見えた。

「ふうむ」

 少年は、人影に跳びかかった。だが、それに触れることは叶わなかった。突如、地面が輝いたかと思うと、魔方陣が出現し、その中央から黒く巨大な影が、彼めがけて躍りかかったのだ。影と比べて、あまりにも彼は小さかった。まるで蛇と蛙の戦いだった。悲鳴を上げる暇もなく、頭からかじられて、彼は絶命した。それでも影は飢えているようで、血まみれの物体にもかじりついた。あっという間に食い尽くすと、地面に飛び散った血の跡も、影は舐めた。そうして、姿を消した。


 唐突に、爆発的な哄笑が巻き起こった。


 人影は体をのけ反らせて、辺りをはばからぬ大声で嗤っていた。ひどく耳障りな声だった。地獄で悪魔が笑うような。


 「ふうむ、『黒の書』によって呼び出された悪魔と、その使役者――か。次から次へと生贄を捧げているようだから、まだ完全には契約が為されていないだろうが、脅威であることには間違いない」

魔術師の後ろに付いてきた勝巳は、ぐったりとした様子で、呟いた。

「生贄――」

「そう、生贄だ。処女・童貞の子供が最も好まれる。もっとも今回は無差別であるようだがね」

「……例外的に、汚れた魂も好まれる。他人の血で汚れた魂も。そういう魂を好む悪魔もいるでしょう」

「汚れた?どちらがそうなんだい?両方かい?」

「隆は父親を殺している。そして、彼女も殺してしまった」

――ふっと世界が揺らいだかと思うと、場面が切り替わった。勝巳の想念が別の光景へと移ったのだ。


 隆は、血まみれの何かの側でひざまずいて、すさまじい形相で人影を睨んでいた。

「そいつは、もう生きていられないんだから、楽にしてやりなさい」

それは、人倫を越えたような事を、平然と言ってのけた。

「黙れ!お前だけは殺してやる、殺してやる、殺してやるー―コイツの分も復讐してやる!」

それに対して、隆は、ただの獣のように吼えるきりだった。

 Mr.フェンスターは舞うような足取りで、隆に近づいた。途端に顔をゆがめる。血まみれのそれは、腹部をかっ(さば)かれて今にも絶命しようとしている、少女だったのだ。

隆は臓物を腹からはみ出た彼女を抱きかかえて、わずかに震えていた。彼に抱かれて、少女の目は虚空をさ迷い、かすかな呼吸は命が尽き果てようとしていることを示していた。苦痛の果てにその境地に至ったのだろう、表情は虚ろで、痛ましかった。

「殺してやりなさい。どうせ助からないんだから。――本当は分かっているんでしょう?それはもう生かしてやるより、殺してやった方が救いになるのだと」

暗がりの人影は、嘲るような口調で、そう言った。少女を生きたまま開腹したのは、そいつで間違いはないのだろうか。

「ふうむ……」

こいつが事の真の犯人か、と魔術師は見極めようとしたが、どうも明確にはならなかった。勝巳が顔を知らないのか、あるいは知っていて隠そうとしているのか、それとも術的に対抗策が張られているのか――そのどれかだろうと思った。

「うるせえ、黙れ!」

隆は彼女を抱きかかえたまま、その場を動こうとしない。

「よくもこんな真似をしやがって――」

 到底許せる所業ではなかった。大事な人を害されて、1秒と黙っていられる性格でもなかった。だが、動けば腕の中の命の炎がその時に消えてしまう、恐怖感が彼を釘付けにしていた。揺らぎと固定の、その刹那だった。

不意に彼女の手が持ち上がり、そっと隆の頬に触れた。

「――泣かない、ほら」

小さな、はっきりとした声で、確かに彼女はそう言った。断末魔の呻きなどではなかった。かすかに浮かんだ表情は、微笑んでいるようだ。そして、手は地面に落ちた。意識を失ったのだろう。

 隆は感電したかのようにびくりと震えた、そして彼女の体を地面に横たえると、その細い首に手をかけた。


 この時の彼は何を考えていたのだろう。

 大事な彼女を無駄に死なせるくらいなら、いっそ自分の手でと思ったのか、彼女が生きている限り、続く苦痛を止めたいと願ったのか。どちらにせよ――と、Mr.フェンスターが複雑な思いで見つめる中、若枝をへし折ったような、鈍い音が響いた。


 そこで光景は終わる。


 勝巳はMr.フェンスターとの握手を振りほどいた。

「アイツ馬鹿なんですよ。携帯持っていたんだから、いつものように僕を呼べば良かったんだ。僕を呼んでいれば何かが変わったかもしれないのに。でも呼ばなかった」

「呼べなかった、ではないのかね?」

「どちらでも、同じですよ、僕にとってはね」

「悲しい話だ。だが非常に許せないと感じるね。僕は短気だから、絶対に許さないのだよ」

ふ、と勝巳は微笑んだ。悲しすぎる笑いだった。

「僕は、正直、どうでも良かったんです。無関係の誰かが犠牲になるのなら。でも、そうじゃなかった。アイツと、あの子は、生贄なんかになっていい人間じゃなかった。ちゃんと人間として全うするはずだったのに。でもあんな風に、まるで虫けらのように殺された!」

「君はどうやら事件の黒幕ではないな――」

「まだ疑っていたんですか」

勝巳は呆れたように言った。

「ああ。君は知識もあり、探究心もある。人道を踏み外してでも、魔術の道を極めようとしても不思議ではない」

「……僕は、そういう意味じゃ、変わり者なんでしょうね」

「奇妙ではあるね。僕も若い頃はやんちゃだったものだ」

「若い頃?失礼ですが、お年は――」

「そろそろ60代に差し掛かる。君くらいの娘もいる」

魔術師は見た目を裏切るものだ、と勝巳は痛感した。まるで化物だな。

「さっき君は、隆君が彼の父親も殺していると言ったね。それについても話してもらえないだろうか」

Mr.フェンスターは言った。

「断ると言っても、あなたは強引に僕から記憶を引き出すつもりでしょう?」

勝巳は振り払った手を、差し出し、Mr.フェンスターの手を握りしめて言う。Mr.フェンスターはポーカーフェイスで微笑み、

「うむ、君は大変に物分りがいい子だ」


 ――糸辺隆は父子家庭で育った。母親は彼が幼い頃に失踪して、姉が母親代わりだった。

彼らの父親は、異常な男だった。傍流とはいえ、それなりの古武術の名家に生まれながら、戦闘狂のようなところがあった。この世の全ては敵だと言わんばかりに、自分の息子も、平気で鍛錬だと言っては、暴行した。親族が何度か庇ったが、殺されかけたこともあり、何もできなかった。ただ一人、彼の姉だけは殴られたことがなく、いつも隆を庇った。それだからか、隆のシスター・コンプレックスは異常なほどだった。どうして姉だけは殴られないのか、とは一度も思ったことが無かった。自分が殴られても、姉だけは殴られないと言うことが、彼の救いになっていた。姉に守られて、辛うじて、彼は壊れないでいられた。


 しかし、それは裏切られる。


 年頃になって、誰が見ても美人だと言われるようになった姉は、父親に暴行された。あの女への復讐だ、と嗤いながら、彼らの父親は、外道のような所業をした。姉を殴らなかったのは、このためだったのか。隆は必死に姉を守ろうと抵抗して、半死半生の目に遭わされた。いつも誰かに怯えていた痩せっぽちの少年が、飢えた獣のような目をした壮年の男に勝てるはずがなかった。

 彼の目の前で姉は泥にまみれるような屈辱を味わい、そして壊れてしまった。何か思いつめたような目をして、いつものように学校へ出かけ、そして二度と「ただいま」を言わなかった。

 姉の死で、彼の中のもっとも繊細な部分が、叩き潰された。

彼はもう二度と父親を恐ろしいとは思わなかった。


 恐怖、それが何だ。

 

 ある夜、彼の父親は家の階段から転落して、あっさりと死んだ。彼が手を下したのだろうか。警察が調べた結果が、娘が死んだためやけ酒をあおった男が、足を滑らせたのだということだった。彼を哀れんだ親戚が、警察機構へ手を回したのかもしれなかった。彼の恐怖の源は、これでいなくなったのだった。


 「いやはや――何とも可哀そうに」

知り終わって、思わず魔術師は呟いていた。

「黙れ!」

勝巳は手を振り払い、その手でMr.フェンスターの頬を張った。

「何をする、痛いじゃないか!」

勝巳は形相を歪めて言う。

「アイツだったら、この時点であなたを病院送りにしている。同情とか、そんな気持ち悪いものはいらないんです」

「ふうむ。それは失礼した」

彼は杖をくるくると回すと、それで床をとん、と突いた。

「それでは僕は本当に失礼させていただこう」

優雅に一礼すると、扉を開けて出て行った。

「ええ――さようなら」

視線をカウンターに戻すと、目を輝かせたJJが椅子の上に這い登ってきたところだった。

両手の平を上に向けて、そろえて勝巳へと差し出す。

「ごめん、今日は無いんだ」

がーん、と何かに殴られたようにJJの形相が変わった。露骨なほどに態度が冷たいものに代わり、しぶしぶカードを並べる。

「運命、魔術師、吊るされた男」

JJは黙って一番奥の扉を指した。


 そこには――まるで、どこかの王朝の爛熟期の王室のようだった。美しい以前に、その迫力に気おされてしまうような。

「よう、伏木勝巳」

一番奥に腰掛けている、黒いローブ姿の男。店主だな、と分かる。

「こんにちは……」力なく挨拶をする。

「相談したいことを当ててやろうか」

唐突に言われたが、勝巳は怯まなかった。

「いいえ、自分の口から言います」

「そうか」

勝巳は、深呼吸をして、言った。

「どうして僕が生きているのか――僕が死ぬはずじゃなかったのか!?」

「そう、それだ!」

店主は、にんまりとした笑みを、口の端に乗せた。

「友情と言うのは、実に素晴らしいな――」

「……何を言うつもりなんだ」勝巳は呟く。

「友情の素晴らしさ、だ」店主は高らかに謳うように言った。「『アイツの命がないなら、俺の分をくれてやれ』 ――刎頚の交わり? とんでもない、自分の命を分け与えるような友情なんざ、空前絶後だ! 新約聖書いわく己の命を友に分け与える以上の愛は無いらしい、だとしたらこれは至上愛だ! 俺は初めて見た、こんな愛を!」

それを聞いた途端に、勝巳は、真っ青になった。

「あ、ああああああああああ、ああああああ」

声にもならない悲鳴がこぼれる。

「アイツは、あの馬鹿は、そんな、ぁあああああああああああ!」

 彼が一度は疑った人間が、彼のために、彼の所為で死んでしまった。まるで基督(キリスト)が全人類の原罪を購うために磔にされたのだと、知らされたようだった。

 アイツはここに怒鳴り込むついでに、要求したのだろう。俺の命をくれてやれ、と。

事実を知ったところで、彼は泣けなかった。涙はこぼせないのだ。

「どうだ、素晴らしいだろう。素晴らしすぎるだろう。――賢い愚者と間抜けな戦士の友情はこうして大団円を迎えて終わった!」

「そんな、嫌だ!それだけは嫌だった!」

勝巳は悲鳴を上げた。死ぬべきは彼だった、はずなのだ。覚悟も決めていた。諦めもついていた。なのに、それなのに!

「お前が嫌だってことは、相手だって嫌なんだ。その短い人生のうちに学ばなかったか?」

「――」

勝巳はうな垂れて、頭を抱えた。「――相談なんか、するんじゃなかった。いや、ここに来なければ、何も知らずに済んだんだ。そして僕が幸せな人生を終えただけだったのに――それだけだったのに!」

「過去のことは悔いても遅いさ。だからこそ人は未来を求める。足元の現実は捨て置いてな」

「足元の現実――」

勝巳は繰り返し呟いた。

「足元の――」

そして彼は微笑を浮かべた。

「そうだ、今、やれることがあった」


 隆に教えてもらった、秘密の抜け道を通る。

夜の学校に忍び込むのは、ひどくどきどきすることだった。

夜美濃高校は、不気味なほど静まり返っていた。

「――?」

 何か、血なまぐさいような、獣の臭いがした。臭い。ひどく不愉快な臭いだった。何の臭いだ?辺りを見回す。夜の校庭。風が吹く都度に、臭いはひどくなる。校舎内から漂っているようだった。

 表玄関に回って、彼はぎょっとした。全ての扉が、開いているのだ。通常なら堅く閉じられて、朝まで誰も通さないのに。こっそり様子をうかがいに、近づく。徐々に強くなる血の臭い。鉄が錆びたような。誰かいるのだろうか、周囲に気を取られて、勝巳は足元の段差につまずいた。突如、その目の前を、青白く輝く火の玉がよぎる。空気を焼く、オゾンの臭い。つまずいていなければ、彼に命中していただろう。

「!」

彼は咄嗟に壁に身を寄せた。その壁が、いきなり彼を押し倒した。床の冷たさと、頭部に当たる、金属の感触。背筋が冷えて、思考が停止する。

だが――それ以上、何もされなかった。

「――君か!」

誰かがそう呟くと、彼は解放された。そこでやっと顔を見る。

Mr.フェンスターが、青白い顔をして、腹部を押さえて、立っていた。

「Mr.フェンスター、あんた何を――」

血の臭いは、彼から漂っている。

「独断専行の報いだ。僕の目の前で少女がさらわれてね、黙って見てはいられなかったのだ。罠だとは知っていても」

ぐらりと魔術師の体が揺らぎ、その場に膝をついた。

「だ、大丈夫ですか!?」

「何の。これぐらいで、魔術師はくたばらないものだ」

それより――と、勝巳に尋ねた。

「君はどうしてここに来た」

「見たんですよ」言葉を選びながら、勝巳は言った。「この高校の屋上で誰かが地獄へ引きずりこまれる光景を」

「そうか。君にも霊能が発現しているようだね」

霊能。それは天界や魔界などの異界の抗体であり、見えないものを見、聞こえないものを聞く能力。魔術方式の基礎であり、源でもある。

「霊能――でも、何かが邪魔して、その前の光景が見られなかったんですよ」

「術的に障害が色々と設けられているのだよ。おそらく術者が、この事件の犯人だ」

「おそらく?」

「僕を襲ったのが――」


 ――GRORORROLLLOHN


 低い唸り声と共に、夜の闇の中から、それらは這いずり出てきた。コールタールの沼から這い出た、人型のような。

「――食屍鬼(グール)!魔界の住人が、どうしてここに!?」勝巳はぎょっとした。

魔術師(エージェント)は杖を握り締めながら、言った。

「既に、ここは半分魔界に近しい場所なのだ。強大な魔神だの天使だのを召喚する際に、その莫大な存在性は世界を歪める。この世を異界と等しくしようという作用のもとに。歪められた世界は、魂を歪めようとする。霊的抵抗、いわゆる霊能のないものは、真っ先に狂う――だからこそあれは禁書だったのだ」

杖から青白い火球が放たれる。それはグールを次々消し飛ばし、強烈なオゾン臭を漂わせた。獣の臭いがひどくなる。戦いなれているらしく、あっという間に片付いた。

「……待てよ」

勝巳は、呟いた。

戦いなれているMr.フェンスターが、たかがグール相手でここまで負傷するのだろうか。

「じゃあ、あんたに負傷させたのは、一体何なんだ?」

「あれだ」

Mr.フェンスターは杖で指し示した。

「狂った魂は、魔界に相応しい姿に体をも歪められる」

それは、周囲のグールの死体と比べると、巨大な類人猿のようだった。だが、巨大な体とは裏腹に、頭部は異様に小さい。人面を模した仮面を被っているが、それは既に人ではない。

「あ――」

勝巳がぼう然としたとき、Mr.フェンスターが動いた。

「逃げろ!」

巨体に似合わぬ俊敏な動作だった。瞬きする間に、それは勝巳の目前に迫る。勝巳はMr.フェンスターに突き飛ばされた。勝巳が寸前までいたところに、怪物の足がめり込む。

火球が、それをなぎ払った。バランスを崩した怪物は、Mr.フェンスターの方に倒れこみながら、拳を突き出した。杖でそれを受け止め、対峙する魔術師。

「あ、あんたはどうなるんだ――!」

「既に増援は呼んだ。後は持ちこたえていればいいだけだ!君は逃げろ。一般人は巻き込まない。それが僕の主義だ!」

勝巳は、くちびるをかみ締めた。

「――屋上へ行って、召喚を止めてくる。そうすればいいでしょう」

「余計な真似をするんじゃない、小僧!」

怪力に押されながらも、魔術師は叫んだ。

「君の安全など誰も保証できないのだぞ!」

「いい。僕は行く!」

「待て!」

「嫌だね!」勝巳は走り出した。

怪物が彼を追おうとしたが、火球がそれを阻んだ。一発が仮面に命中した。怪物はのけ反り、仮面が床に落ちた。あらわになった顔は――かつて図書館長と呼ばれていた人間のものだった。

『邪魔ヲスルナ!』

精神に響く声で、それは叫んだ。

「待ちたまえ。君の相手は僕だ」

仮面を無くした怪物は、ぶつぶつと、呪文のように繰り返した。タガが外れたのだろう。段々悦に入っていくようで、繰り返すごとに声の調子がどんどん上ずっていく。

『男ノ子ノ成分ハ――タンパク質ト可愛イ泣キ声。タンパク質ト可愛イ泣キ声。タンパク質ト可愛イ泣キ声』

Mr.フェンスターは青白い顔であったが、しっかりと杖を握った。

「彼の後を追うのだ。ぐだぐだ抜かすのは結構だが、邪魔しないでもらいたい」


 階段を駆け上る。Mr.フェンスターの所にグールが集結していたのが幸いして、ほとんどグールとはすれ違わなかった。

屋上への扉は、開いていた。

グールの足跡がべったりと辺りを汚している。

ここから、邪魔者を葬るべく召喚されたのだろう。

フェンスに囲まれて、グールの足跡の内側で魔法陣が明々と輝き、その中央で何かが光っていた。


 うごめく、膨れた赤い肉の塊。


 それが何であるか直感で悟った途端、勝巳はその場に嘔吐した。


 子宮。


 本来ならば赤ん坊を生むための臓器が、おぞましい食屍鬼どもを産む『門』として使われたのだ。

そして今、魔神をこの世に具現するべく、孕んでいる。

彼の脳裏に、腹を捌かれて死んだ相羽つづみの姿が思い浮かぶ。彼女は、子宮を抉り出されたのだ。

「あ、ああ、何てことを、何てことを――!」

だが、その瞬間、彼は更におそろしい予感に震えた。

それは何の脈絡もなく、不意に脳裏に浮かび上がったのだ。

『月』、『悪魔』、『塔』が全て正位置で出た――と、園原まゆみは言った。それは中々良いことなのだと。

愛好会の部長であるにも関わらず、アルカナの意味を無視するかのような発言が、ずっと気になっていた。

――だが、もしADAMASTORでそのアルカナが当たっていたのだとしたら?

「アンタが真犯人だったのか」

「そうよ、私が図書館長も巻き込んで、やったのよ」

背後からの声。

どん、と――続けて彼を襲った衝撃に、勝巳は意識を手放した。


 気が付けば、椅子に縛り付けられていた。

気絶したのはほんのわずかな間なのだろう。縛られた手足に、しびれはない。だが、痛い。手首が切り裂かれて、そこから血が滴り落ちていた。

「起きた?最後の生贄君」

聞きなれた、とがめだてする様な声。やや金属的な。

魔女の黒いローブに身を包んだ、園原まゆみが、彼を睨みつけていた。

「起きたよ。このクソ女」

頬を張られた。血の味。

「そのうるさい口も、今日までね――」

「今日が僕の最後の日か。まったくバカバカしい。こんなことに付き合わされるなんて、実にいい迷惑だね」

「私がどうしてこうするのか――あなたには絶対に分からないでしょうね」

はははは、とそれを聞いて勝巳は笑い出した。嘲笑だった。

「ああ、動機はよく分かるよ、僕だって術は知っていた。知れば実践したくなるのが人間さ――(こと)に絶対的な力を得る術ともなればね!」

でも、と勝巳は憎々しげに続けた。かろうじて憎しみはこらえていた。彼女を何よりも恨み、憎むべきなのは彼ではなかった。彼女ごときに、大事な存在を奪われた、アイツだった。

「お前じゃ無駄だ」

「どうしてよ?」

まゆみは、椅子に縛られている勝巳を蹴り倒した。ことごとく自分に逆らう彼の態度に、苛立しさが頂点に達したようだった。

「こんなのじゃ、足りない、全然足りない、もっともっともっともっと欲しい!――ここじゃない世界に行きたい!」

両手を天にかざして、魂の奥底から噴出したような、彼女のそれは絶叫だった。

だが、勝巳は、冷め切った心地でそれを聞いていた。憎しみより、哀れみが募るようだった。


 「だから私は知識を求めた、努力もした、障害も乗り越えた!儀式を行い、邪魔者は潰した!力を得た、権利も剥奪した!彼岸へ行くために!到達するために!もう私だけのものだ!私でなければならない!私だけでなければならない!私だけが彼岸へ到る!此岸から泳ぎ渡ってみせる!土くれから生まれた身のままで!私はここではないどこかに行ってみせる!」


 絶叫が終わった瞬間、あたりは静まりかえった。誰もものを言わず、闇でさえも息づくのをひそめている様だった。

まゆみは上気した顔で、闇に覆われた天井を見すえていた。その姿は美しかった。極めつくしたものだけが至ることができる世界に、彼女は足を踏み入れていた。いや、その一部に成り果ててさえいた。混じりけの無い金属同士がぶつかって、澄んだ音を奏でているようだった。

その余韻は永遠に続くかに思われた。

 ――だが、小さな、体をひくひくとよじらせる様な笑いが、徐々に広がっていった。

「私だけ?私だけでなければならない?――なんて道化だ、バカバカしい」

勝巳は、もう蔑んだあざ笑いを隠そうとさえしなかった。

「違うんだろう?お前は自分だけ特別でなきゃ耐えられない惨めなヤツ、それだけだろう?所詮は土くれから作られた身の上だろう?本当は誰からも相手にされないのが怖いだけ、たったそれだけだろう?ええ、そうだろう?」

「違う!私は本当に成し遂げたのよ!」

悲痛な、絶叫だった。だが、勝利の雄叫びでもあった。

「ほら――具現している!」

血で描かれた円陣の中央――膨れ上がった子宮から、それは這い出していた。

 肉と金属がねじれて絡み合い、中途半端に溶け合っている、人間と爬虫類と金属のあいの子のような姿。何の生物を象ったのかも不明である、角の生えた奇妙な金属製のヘルムをかぶっていた。勝巳が生と死の狭間の悪夢の中で見た姿とほぼ同じだった――胸の中央部分に穴が空いていないのを除けば。

 その異形の姿を、惚れ惚れと、まるで神々しい天使が光臨したのを目の当たりにしたかのような恍惚とした眼差しで、まゆみは見つめた。

「地獄の――強大な力を持つ悪魔ね、間違いない。何て化物じみた魔力、存在感、邪悪さ、素晴らしい!欲しい!私はこれが欲しかったの!これで私は超越できる!人間を超克できるのよ!」それから、まるで卑しい虫けらでも見るかのような目で、勝巳を睨んだ。「どうせ人間ごときには、私なんて、理解不能なんでしょうけどね」

「その逆だね」

勝巳は断言した。

「お前なんかに、人間を無理やりに辞めさせられたやつの気持ちなんか、わかってやれるかよ」

「何を今更――」

まゆみは円陣からそびえ立つ、異形の化身を見上げた。それは蛇のような下半身を、すっかり地面から浮かせていた。

「さあ、魔神よ、私の願いを叶えるのよ!」


 『――ァ』


 辛うじて人間らしいその口元が、大きく、獲物を食むかのように開いた。わずかに吐き出される、地獄の炎。そして、低い、周りの空気を静かに震わせる第一声が――。

『名を――我を名づけよ!』

「な――」あまりのことに、まゆみは絶句した。「これだけ強大な悪魔が!? どうして、名無しなのよ!?」

異形は、ただ吼えた。

『我を名づけよ!』

すぐに彼女は冷静さを取り戻した。

「秘められた名を知られた悪魔は、召喚主の絶対的な奴隷になるというわ――つまり、あなたは名前を白状したくないのね」

『我を名づけよ!』

まゆみはグラン・グリモアを手に、静かに呪文を唱えた。

「イム・ウラスラ・テトラグラトマン、その秘名を我に明かせ!」

円陣がまばゆい光を放った、と、円陣の模様が網となって、異形の体にまとわり付いた。途端に煙が立ち込める。じゅうじゅうと体を焼かれ、異形は狭い空間でのた打ち回った。それでも、異形は叫んだ。

『我を名づけよ!』

「強情なヤツね――!」

まゆみは凄絶な表情を浮かべると、グラン・グリモアの頁を数枚引きちぎった。それに怪しげな燭台から火を移し、円陣内に投げ込む。それは円陣内で爆発的に燃え上がり、異形を猛炎で包んだ。聞くに堪えない、絶叫と苦悶が上がる――。

「天界の炎に焼かれし者よ!その魂まで焼き消されたいか!」

だが、それでも、異形は、ただ一言、

『我を名づけよ!』

と叫んだ。


 その時だった。


 まゆみの背後で、ふらふらと勝巳が立ち上がった。椅子ごと蹴り倒されたときに、手の中に滑り落ちたナイフで、束縛を切ることができたのだ。隆にもらったナイフだった。血を抜かれているために、真っ青な死人のような顔で、危うい足取りだった。それでも、ほとんど倒れこむように、まゆみに体当たりした。まゆみは予想外の勝巳の行動に、グラン・グリモアを手放してしまった。脆く、古い魔の本は、地に落ちて、頁を散らしてしまう。

「――こ、このゴミが!」

まゆみはかっと血相を変えた。アセイミナイフをかざして、地面に這いつくばっている勝巳に跳びかかる。

だが、それよりも早く――勝巳は、何も書かれていないグラン・グリモアの頁を握り締めていた。震える指で、そこに自らの血で、何かを書きなぐる。

その背中にまゆみはまたがり、アセイミナイフの刃を突き刺した。

「死に損ないのくせに! よくも! 生きていても何の価値の無いくせに!」

彼女が怒っていたために、刃は勝巳の背中の肋骨のところで止められた。

「――ごぶッ!」激痛に、勝巳は体を痙攣させた。

すぐにナイフを引き抜き、まゆみは、今度こそ狙いを外さないように、慎重に、時間をかけて、臓器を狙った。

「あのねえ、生きていても無意味なんだから、死んでくれる?」

「……ぃ」

かすかに、勝巳は喘いだ。無意味じゃなかった。少なくとも――。

最後の力で、握り締めていた頁を、ぐしゃぐしゃに丸めて、円陣の中に振り飛ばす。

「! あんた今度は何を!?」

 だが、まゆみのことなど、彼は眼中に無かった。

 じっと、円陣の中で焼かれる、異形を、どこか優しい目で見つめていた。死と生の間の悪夢の中でも出遭ったその姿を、まるでデジャヴでも見るかのような心地で、今、ここで目の当たりにしていた。だが湧き上がる感情は、悪夢の中で抱いたものと近しいものだった。親しみと懐かしさ。この悪魔は、今や胸に穴がない。穴は埋められたのだ。満たされたのだ。完全な形へと成ったのだ。


 彼にはもう分かっていた。

 異形の正体を形容する、もっとも相応しい名が。


 「……なぁ、おい、お前なんだろ」

かすかな呟きに、まゆみは青ざめた。

「まさか、そんな」言いかけて、すぐさまアセイミナイフを振り下ろした。「それ以上、私を邪魔するな!」

だが、間に合わなかった。


 「馬鹿だな、名づけてやるよ、糸辺隆」


 振り下ろされたアセイミナイフが、『見えざる手』によって粉々に砕かれた。まゆみの細い指の数本も巻き添えに潰されて、血まみれの金属片が勝巳に降りかかる。

 甲高い絶叫がまゆみの唇からほとばしった。砕かれた指の痛みよりも、恐怖の色が強かった。

恐怖――間違いなく恐怖だった。凄まじい恐怖だった。

 既に光を失った円陣の中から、めらめらと全身から炎を上げながら、背の高い、がっしりとした体格の少年が歩み出てきた。彼女への桁外れの憎悪と害意に、目じりが裂ける限界まで開かれた目といい、わざとらしく骨を一本ずつ鳴らす様といい、炎をまとった長い舌で嬉しげに唇を舐める態度といい――。


 『――GUOOOOOOOOLOLOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHN!』

 それは夜空を震わせるほど、吼えた。

 それは音波ではなかったが、それから半径数キロ内にいた者を、一瞬、びくりと驚かせた。


 「な、何を、何を、あああ、したのよ、あ、あんたはッ!」

がたがたと震えるまゆみは、どもりながら勝巳を問い詰めた。

「――僕は、ただ、檻の鍵を投げ込んで、名前を呼んでやっただけだよ」

「そ、そんな馬鹿な、ヤツがあんなものに、なれるハズがッ!」

ひくッとまゆみは喘いだ。

今は、それどころではない、逃げなければならないのだ。

道を、逃走経路を確保しなければ!

ばっと勝巳から降りると、潰れた指で、グラン・グリモアの頁をかき集めた。この魔の本は、少しなら魔に対抗する能力を有しているはずだ。盾代わりに使えるはず――。

 しかし、遅かった。

『うおァおおおおおおろぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおゥ――!』

それは炎と咆哮を口から吹き上げて、まゆみに襲いかかった。彼女を押し倒し、首に手をかける。

慌てて彼女はグラン・グリモアをかざそうとしたが――それから炎上を始めた。古い本はあっという間に消し炭になり、手放す間もなく、彼女の腕に火が移った。肉の焼け焦げる匂いとまゆみの絶叫が辺りに充満した。

『俺は言ったぜ、アイツの分の復讐も果たしてやると。だからテメエだけはそう簡単に殺してやるかよ』

炎を振り払おうと手を振る彼女の背中側が、黒く染まる――次の瞬間、穴は彼女に食らいついた。そして、下へ下へと引きずり込む。

まゆみは、自分が何をされるのか、理解して震え上がった。

地獄――魔界への道連れにされるのだ。

「い、いや、嫌! やめて!」

それを聞いて、燃える異形は激昂した。本当に激怒した。

同じ言葉を、違う状況で、違う人間が言ったのだ。

その人間は、もう生きてはいない。

『バーカ』異形はまゆみの唇をめくり上げると、その上の前歯の一つをへし折った。『何が「やめて!」だ』

「いぎゃあああああああああああああ!」

まゆみがそれで気を抜いたためだろうか、あっという間に、肩から下が、穴に呑まれてしまった。異形は彼女から手を離した。そして、残虐な目で、彼女をまじまじと観察した。喜悦と満足感の入り混じる、獣のような目つきだった。

「あ、あ――た、助けて」

まゆみは勝巳に目を向けたが、勝巳は半分目を閉ざして、顔を上げているのも辛い様子で、まったく話にならなかった。

しかし、小さな声で、「あんたは言ったよな、自分は特別なんだって。 確かに特別だよ、生きながら地獄に行けるんだからさ。良かったね、ここじゃないどこかに行けて」

「い、嫌なの!私が欲しかったのは――」

もう鼻まで呑まれてしまった。まゆみは泣き出した。勝巳は嘲った。

「あんたが欲しかったものは、絶対にあんたじゃ得られない!」

燃えている腕まで、彼女がすっかり呑まれてしまうと、穴は徐々に小さくなって、消えてしまった。


 ――勝巳は小さく息を吐くと、必死に意識を保とうとした。目を開けているのも、呼吸するのも辛かった。もうすぐにMr.フェンスターの呼んだ増援がやってくるはずだった。ここで意識を手放せば、あの世へ近づくのだろうと分かっている。だが、揺りかごで臨死の体験をしたためか、恐怖は少なかった。

 (あーあ、こんな風になるなんて、思わなかったな)

 彼はADAMASTORでの会話を思いだした。


 「今やれること、それは、アイツの復讐を、僕が代行してやることだ」勝巳は言った。隆の無念の復讐をすると断言した。

「おいおい」

と、店主は口を挟んだ。

「それは依頼なのか?」

「依頼だ。僕に代行する機会をくれ」

「いいだろう。だが代償は分かっているな?」

「分かっている」

勝巳は、頷いて見せた。

「僕の、何が欲しい」

「そうだな――」

と、店主はしばらく考えて言った。

「お前と彼の、記憶を透写(トレース)させてくれ。彼の奇跡の要因が分かるかもしれない」

「分かった」

 ――それの是非善悪はともかく、彼はやったのだ。

 結果的には、成功した。傷だらけになりながらも、彼の復讐を見届けた。成功したのだから――まだ死ぬわけには行かない。意識を失ってはならない。絶対に。絶対に、だ。

必死にこらえていると、ふと頬に触れるものがあった。彼の指先が、大きな円を描きながら、勝巳の頬を触っていた。

「?」

視線を、苦労して上へ向ける。ふてぶてしい笑み。自信に溢れて、やや荒んでいる。

見慣れた、隆の笑みだった。

『これで良かったんだ』

「――」

『俺は、あるべき形に戻った、たったそれだけだ――』

ふっと、炎が吹き消されるように、隆の姿は消えた。

後はどこまでも黒い夜空が広がっているだけだった。


 それから数日して、怪我から回復した勝巳は、ADAMASTORを訪れていた。

いつものようにアルカナを当てて、最奥の部屋に通される。

そこでは、にやにやとした笑みを口の端に乗せた、店主が待っていた。

「よう勝巳、元気だったか」

「ええ、どうにか」

それきり、特に話すことも無いので、お互い黙っていた。

「そういえば」と勝巳が突然話し出す。「僕、Mr.フェンスターに誘われたんですよ。那由他記室委員会のエージェントにならないかって」

「それは凄い。あれのエージェントに誘われることなんか、滅多にないことだ」

「断りました。僕は、魔術師になりたいわけじゃない」

「そうか!」

と店主は爆笑した。

「面白いヤツもいるものだ。会えた僥倖に感謝しよう」

それから、ふと考えて、

「勝巳、もしかしたらお前は、俺の後継者の一人になりうるかも知れないな――」

珍しく真剣な口調で言った。

その時だった。まったくの虚空から、突如として腕が出現し、店主をぶん殴ったのだ。勝巳は驚いて、げっと思わず叫んでしまった。

その腕を、彼は何度も見たことがあったのだ――。

「……ッァ!」

ぎっと歯を食いしばると、店主は再び、いやらしい薄笑いを浮かべた。

「そうか、そうかい、友情ってのは素晴らしい、本当に素晴らしすぎるものだ」

「皮肉ですか」

勝巳は、泣きだしそうな声で言った。


 アイツは、まだ自分のことを、友達として思っていてくれるのか。

 陰から見守っていてくれるのか。


 「いいや、どうしようもないくらいの羨望、だ」

店主は眼前の書類に片端から血で署名(サイン)し終わると、その一枚を勝巳に渡した。

「これは――?」

英語で書かれているが、字が汚すぎて全然読めない。のた打ち回る蛇のような筆跡だった。よく見れば、左右と上下がひっくり返った筆記体で書かれていた。

「彼の存在を公に俺が記録した――いわば戸籍書類だ。渡した先が天界寄りの思想団体だったら、それは指名手配書になるだろうし、魔界寄りだったら御神影(イマゴ・デイ)の一つとして崇められる。お前にくれてやる、使い方は任せる」

勝巳は冷め切った紅茶をすすって、その書類を眺めていたが、

「アイツは、結局、僕のために失敗して、人間じゃいられなくなった。僕は彼のために成功して、人間でいなきゃならない――そう思うんです。だから、僕はこれを自分で持っています」

彼は低い声で術式を詠唱し始めた。簡単な術式だった――紙上の情報を肉体へと、呪的に書き写すための。

ほんのりと文字が光を帯びると、すっと紙から浮き上がり、勝巳の口の中へと次々入り込んでいった。最後の一文字を呑み終えると、勝巳は小さく喘いだ。異物を飲み込むというのは、楽な作業ではない。

「損な性格をしているな、お前」

店主はそう言って、呆れてしまったようだ。

「それで彼はお前だけの悪魔になったが、存在が広まれば、お前を殺してでも、呪的文章(スペル)を解読しようとするヤツが出てくるだろう。誰だって自分だけの魔神や天使を求めるからな」

「それは、それまでですよ」

勝巳は椅子から立ち、部屋を出て行こうとした。ガキが妙にませやがって、と店主は小ばかにして笑った。だが、声は明らかに彼という人間を、面白がっていた。


 「そういえば」

大きな扉を開けながら、勝巳は言った。

「僕、アイツに最後に何ていうつもりだったか、分かりますか?」

その最後とは――隆が悪魔化する以前、そこそこ平凡だった生活の中でのひとときを指していた。

勝巳が死ぬことを覚悟していた時に、隆に言いたかった事だった。

「分かるさ、分かるとも。――言おうか、俺が?」

自信たっぷりに、店主は嗤う。

「いえ、やっぱり、僕が言いますよ。僕が一番言いたかったんだから」


 やや乱暴に扉を閉じた後、扉にもたれたかと思うと、勝巳はその場に力なく座り込んだ。膝を抱えて、そして、カウンターの方を見上げた。

ランプが灯って、オカルトな品々を照らし出す中に、異様なほどの気品をたたえて、シンはカウンターに腰掛けていた。絶対と絶頂が織り交ざったかのように、堂々と美しかった。

「シンさん――僕は」

すがるように差しだした手を、彼女はカウンターから降りて、そっと手の平で包んだ。

「彼はあなたの側にいる。言えば、届きます」

「ありがとう、シンさん」

勝巳は片手で両目を押さえた。今の感情を見られたくは無かった。だから、そうするのが一番いいと思ったし、彼女も別に咎めたてはしなかった。


 彼は極力、感情を抑えて言った。

 泣き喚けば、きっとアイツに笑われる。

 今は気配は感じられないが、必ず近くに、隣にいるのだから。


 「僕は、アイツにずっとずっと、いつか終わる日まで、言っていたかったんです。――『じゃあな、また明日』って」

最哀のフィナーレ。

略して「SF」。

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