また明日 上
最高のフレンド。
略して「SF」です。
『ADAMASTOR』
――剥げかけた金メッキの文字は、かろうじてそう読むことが出来た。
ADAMASTOR、確かそれは、喜望峰に現れるという精霊の名前だったはず――しばらく扉の前で考えていた伏木勝巳は、ようやく思い出した。
――やっとのことで見つけたのは、怪奇な洋館だった。
裏路地の果てで、悪魔が住んでいそうな、古く暗鬱とした雰囲気を漂わせている。窓はあるものの、鎧戸で完全に閉じられていて、おまけにツタがその上を這っている。
禍々しい空気が、館全体からじくじくとにじんでいるようだった。
初めて目にした際、心の底からの悪寒に、彼は身震いした。
しかし、この店を紹介した友達の話では、「パーフェクトにオカルトな占い屋」なのだから、これも異常ではないのかもしれない――が。
入ろうか、帰ろうか、延々と彼が迷っていると、いきなり、
「どうしてここにいるの?」と言う声が背後から上がった。
彼は、わッ、とすくみあがったが、叱責するようなその声には、聞き覚えがあった。
「そ――園原、先輩!」
きつい目つきの少女が、彼を睨みつけていた。園原まゆみは、夜美濃高校の2学年で、彼が参加しているオカルト愛好会の部長だ。可愛いのは顔だけ、という少女でもあった。いつも気配を感じさせずに登場するので、彼は苦手だった。
「どうして、あなたなんかがここにいるの?」
まるで、自白しろと脅迫するような勢いだった。
「えーと――進路のことで、占ってもらおうかと思って――」
あっそう、と少女はどこか安堵したかのように、頷いた。
「園原先輩は、どうして?」
何気ない質問のつもりだったが、少女の顔は、ねじられたように歪んだ。
「どうして答えなきゃならないのよ」
彼を突き飛ばして扉を開けると、ぽっかりと生まれたくらがりに彼女は飛び込んで行った。
「あう」
彼は唖然とした表情のまま、汚い裏路地にしりもちをついた。その目の前で扉が閉じる。
かなり古びていて、蝶つがいもさび付いているのに、何の音もさせないで開閉するようだった。
「――何だったんだ、一体」
もしかして、恋愛関係のことで来たんだろうか、それとも――と色々と考えつつ、ホコリをはらって立ち上がる。いずれにせよ、気まずいので、帰ろうかな、と彼が思った時だった。
また、扉が開いた。
彼は驚いて顔を上げた途端、誰かとぶつかって、再びしりもちをついた。
「うわッ!」
先ほど入ったはずの、園原まゆみだった。彼女は彼をほぼ無視して、
「――どうしてよ!」
開かれた扉の中の暗がり――人影らしきものがたたずんでいた――に向かって、怒鳴った。
「どうして入れてくれないの!?」
どうやら、店から、つまみ出されたらしい。
人影は、黙って手を突き出した――指先にカードが挟まれていた。
くるりと裏返すと、『愚者』のアルカナだった。
「!」まゆみははっと息を呑んだ。「も、もう一度――!」
扉に駆け寄ろうとしたとき、扉が音も無く閉じられる。
二度目は無いらしい。
「……潰れればいいのよ、こんな店は」
園原まゆみはそう言って舌打ちすると、扉を蹴った。
「そ、園原――先輩」
彼はかろうじて名前を呼ぶ。
「一体、どうしたんです――」
園原まゆみは、すさまじい目つきで彼を睨んだ。
「あなたなんかには、関係ないわよ」
まだ何か言われるかと彼は怯えたが、しかし彼女は、もう一度扉を蹴ると、すごい速さで走り去った。あっという間に、その姿は見えなくなる。
「何だったんだ――?」
彼は首をかしげた。
とは言え、である。
筋金入りのオカルト少女の彼女が、たたき出されたのだ。
これは、何があったのかは知らないが、面白そうだった。
おそるおそる、扉に手を当ててみる。
ほんの少し押しただけで、分厚い扉がやすやすと開いた。
「――」
すき間からのぞいてみたが、何も見えない。暗闇が広がっているだけだった。何か、もっと見えないだろうか、と顔を扉に押し付けたとき、いきなり扉が開いた。
押しすぎたのだ、と悟るより先に、彼の体はバランスを崩して、前のめりに倒れこんでいた。
「――うわあッ!」
無様に床に両手をついて、彼はふう、とため息をついた。誰にも見られていなくて良かった。
落ち着くと、外観はあれだけ廃屋じみているのに、床はきれいに磨かれていて、すべすべとしていることに気が付いた。
「――『パーフェクトにオカルトな占い屋』、ね――」
彼は呟くと、よいしょ、と立ち上がる。
「上等じゃん」
その背後で音も無く扉が閉まった。
辺りが暗闇に覆われたとき、ぼうっと灯りが点いた。
入口から少し向こうに、小さなカウンターがあって、そこにはランプが一つと、いかにもオカルトな品々が並べられていた。本物か、作り物かは分からなかったが、そのいくつかは、彼のオカルト心をくすぐった。カドゥケウス、水晶のドクロ、ミイラ化した何かの手。メッキの剥がれた額縁。その中央にあるべき絵画は、すっぽりと抜けていた。
それらの品々の一つのように、ランプに照らされて、片目を大きな眼帯で隠した少年がカウンターの中に座っていた。
伏木勝巳を確認すると、カウンターにカードを伏せる。
「えーと、アルカナを当てろ、ってこと?」
勝巳が聞くと、こくん、と頷く。
厄介だな、と彼は思った。
彼には透視能力など全く無いので、適当に当ててみるしかなかった。確率と運次第なのだった。けれど、幸運の女神がアテにならないことは、彼は身をもって分かっていた。
きっと、正解しなければ、園原まゆみのように、つまみ出されるのだろう。
「――えーと」
でたらめにアルカナを思い浮かべる。星、月、太陽、戦車、皇帝、女帝、魔術師――。順番を無視して、適当に並べ立て、
「月」と言ってみた。
少年はカードを裏返す――『月』。
ランプのゆらぐ灯りのせいか、妙におどろおどろしい絵のように見えた。
「あ、やった」
しかし、少年は、もう一枚、カウンターに伏せて、それを指差した。
「え、また?」
また、うなずいた。何度も当てろ、ということらしい。
これはもうダメだ、と彼はあきらめた。
1度ならともかく、そう何度も偶然が続くはずがない。
「悪魔――だといいな」
彼がそう言うと、くるり、とカードがめくられる。
「!」思わず勝巳は息を呑んだ。
悪魔だった。
偶然が続いたのだ。
少年は、もう一枚カードをカウンターに伏せた。
「――3度目、か」
勝巳は、正直、当たるといいと思った。当たらないかもしれないと思ったが、それはあまり考えたいことではなかった。
当たれば、今度は「当然だ」と思うかもしれない。
こうやって、ギャンブルやら占いやらに、ハマっていくんだろうな――彼はそう思った。
「運命」
彼が答えたのに、少年は――今度は、カードを反さなかった。
その代わりに、黙って勝巳の背後を指差した。
その方を振り返ると、入ったときには気が付かなかったが、扉が二つ、通路に並んで左右にあった。
彼は、カウンターに向かって左側を指していた。
「入れ、ってこと――?」
勝巳の問いに少年は頷くなり、ランプを消した。
「待っ――」
遅かった。暗くなったと同時に、少年の気配も消えてしまった。
接客マナーは落第点だ、と勝巳はぼやいた。
やむをえず、手探りで指された扉にたどりつく。
入り口のように、扉は押しただけであっさりと開いた。
その中に入ると、ぼっと灯りがともる。
眩しい、蛍光灯の見慣れた光だった。
期待して入った先には、質素な机に卓上ライト、椅子が二つと――まるでドラマに出てくる、取調室のようだった。
コンクリートを打ちはなしただけの荒っぽい壁と床。
占い屋、というにはあっさりしすぎていて、これは騙されたと彼は思った。
何がパーフェクトにオカルトな占い屋だ――。
――出てきた人物が彼女でなかったら、彼は本当に騙されたと思ったままだったろう。
「占ってほしいことは?」
気が付いたときには、その少女は彼の目の前に座っていた。
いつの間に、と彼は思ったが、驚かなかった。園原まゆみもこうだからだった。
そういえば、似ているな、と彼は不思議にも思った。
雰囲気が、何となく、常人離れしているというか――。
「えーと……将来のこととか――」
占いなど信じていないので、ありきたりな質問しか、浮かばなかった。
少女は少し彼の目を見つめると、
「あなたに将来はありません」
断定口調で、あっさりとそう言った。
――勝巳は、特に『死』にまつわるオカルトに詳しかった。
それは、彼が『死』を何よりも――上手く生きていく方法よりも、知りたがったからだった。
知ることは近づくことだった。
それに近づくことは、とんでもない無謀さが必要だった。
しかし、彼は若く、好奇心だけで、人が踏み入れてはならない領域に、とっくに両足を踏み入れることに成功していた。
「知りすぎたから、ダメだったのかな――」
すんなりと、彼は言われたことを理解して、つまらなさそうに呟いた。
世界が多重構造だとか――生命の基となるものは『細胞』ではなく、物質と魂の融合物だとか――天使と悪魔の密かな抗争など――常識のある人間には笑われるような、しかしどうしようもない真理のいくつかを、彼はすでに知っていた。
「いいえ」
少女はまぶたを伏せた。長いまつげが、青白い顔に淡い陰影を生んだ。
本当にきれいな子だ、と勝巳はしみじみと見つめた。
薄っぺらい皮の中に血と肉と骨を詰め込み、脳みそを肥大させ、死ねば腐り果てるような、『人間』らしくはなくて――まるで神の似姿のようだった。あるいは完全な人形のような。
「あなたは知っているだけで、何一つ行ってはいない。そして信じてもいない。だから、あちら側にもあなたの存在は知られてはいるが、それ以上の干渉は原則的にしようと思わない」
すごいな、と彼は驚いた。少女はどうやら読心術も使えるようだ。読心術は、心理学と統計学などに詳しければ、習得するのは難しくない。
この際だ、と彼は違うことも尋ねてみた。
「僕が知りたいのは――魂の形が肉体の形なのか、ってことなんだけど」
口に出した後、彼はしまったと思った。
おい、これは――よく考えてみたら、口説き文句じゃないか?
「――さあ」少女は彼の背後を見つめた。相変わらずの無表情だった。「答えてもいいのですが――今は、あなたは帰った方がいいでしょう」
彼は嫌な予感がして、ゆっくりと首を後ろへひねった。
「――!!」
声にならない悲鳴をあげて、彼は椅子から転がり落ちた。
扉のすき間から、ぎらぎらと血走った目が、彼を睨みつけていたのだ。
カウンターにいた少年だ――勝巳は直感した。
「ここで、僕は殺されるってか――」
ここに彼が来たのは、死ぬためだったとしたら、ぞっとしない話だった。
冗談じゃない、と彼は思った。
「的中だね、僕には本当に未来がないんだから」
皮肉を言ったつもりだったが、
「まさか。あれは怯えているだけです」
「何に?」
少女は、勝巳のその問いに、はっきりと言った。
「あなたに、ですよ」
「どうしてなんだ――?」
彼にはずば抜けた身体能力は無かった。存在感が薄く、ぼんやりとした人間だった。怯えられるどころか、相手にされない方が多かった。毒殺に関する知識はあったが、誰かに毒を飲ませたこともなかった。
そもそも、彼には少年への害意など、まったく無かったのだ。
答えを求めるように勝巳は少女を見つめたが――。
「復讐と言うものは、概して怖いものですからね」
「――何を、言っているんだ?」
勝巳は戸惑った。
仰々しい言葉を並べ立てて、さもご大層なものに見せかけたいのだろうか。
自分が死ぬ、もしくは死なないかもしれない、たったそれだけのことを。
しかし、彼には、この少女がそういうことを言ったことが、どこか不自然に感じられた。
彼女はきれいだった。仰々しさが、一切必要ないほどに。
少女は、ぱちんと指を鳴らした。
ふっと光が消えた直後の、闇のあまりの黒さに、勝巳は目をしばたたかせた。
「――料金は結構です、帰途に気をつけて」
帰途に気をつけて――その言葉で、勝巳はあることを思い出した。
最近、この都市で、行方不明者が増加しているという話を。
その大半は、いつ失踪してもおかしくないような人生を送っている人間ばかりだったが――幼い子供まで姿を消しているらしい。
もしかしたら、それに巻き込まれて死ぬのかな、と勝巳はぞっとしたが、だとしたら、かえってすっきりしていていいかも知れないと思いなおした。その方が現実的だった。
闇に慣れると、手探りで部屋から出る。
「――もし無事に帰れたらさ」
何気ない会話の一つのように、彼は尋ねていた。
闇は目の奥まで入り込み、視界はゼロに等しかったが、少女がいる場所が、何となく彼にはわかった。
――カウンターに腰掛けている。
「また、この店に来てもいいかな?」
「――」
拒絶はされなかったようなので、彼は安心した。
もう一度、この店にやってくる時のことを思うと、まるで楽しい遊びを見つけた子供のように、わくわくした。
じたばたと少女が暴れるので、2、3発、頬を張ると、ようやく大人しくなった。
「動くな」
それでも、動かれてはたまらないので、言霊で縛り付ける。
少女の驚愕と恐怖が混じった表情が、いい。とてもいい。
何も縛るものはないというのに、手足がびくとも動かせないという状態に陥っているのだ。
虫ピンで止めた芋虫のように胴体を左右に曲げて暴れるが、それもやがて疲れ果てて動けなくなる。
悲鳴はない。口腔に布を詰め込まれ、猿ぐつわをかまされて、意味のない叫喚を上げているだけだ。
切れないナイフが、いびつに布地を切り裂いていく。少女の服を左右に切り開く。少女の恐怖に染まる目が、ナイフの動きを追っていく。可愛らしいデザインの下着が表れる。そういえば、この少女には彼氏がいるそうだ。恋した少女は綺麗になるというが、それは身だしなみを内面から整えるからだろう。
今度はスカートに手をかける。それを下に引き下ろすと、下着をもナイフで切り開く。少女が声もなく、泣き出す。
その表情も、たまらなく、良かった。
これから切れないナイフで自身の大事な××を抉り出されると知ったら、どんな表情をするのだろう。
そう思ったので、耳元で囁いてやった。
「貴方の××、ちょうだい?」
――目覚ましが鳴る。
寝起きの繊細な神経に遠慮なく突き刺さる、その騒音と振動に、勝巳は引きずり起こされた。
彼は朝に弱かった。
しかし、めずらしく、今朝は、彼は目覚ましに従って起きた。
ほぼ義務のような気分で、階下のキッチンへ降りて、両親と同じ食卓で朝食を食べる。
共働きの彼の両親は、朝は早く、夜は遅い。上の下の階級に属している人々の、典型的な生活だった。ビジネス街に近い、高級な高層マンションで暮らし、専門のハウスキーパーを雇わない代わりに、年に数回、海外へ出かける。
「勝巳、この前の期末試験のことだが――」
父親が、ややあって口に出した。
「もう少し頑張れば、医学部に行けるな。そのつもりなら、学費は出すが」
「できれば、将来は、法曹界に行きたいんだけど」寝起きが悪いので、勝巳は無愛想に答えた。「医者は過労死しやすいから」
真面目な表情の父親の前で、さして美味しくもなさそうに、パンをもぐもぐと食べている。視線はぼんやりとしていて、何も見ていないかのようだ。
「――人の命を救う仕事だぞ?」
「自分の命が、一番大事だって――」
父親は、さすがに顔をしかめた。
だが、母親がちらりと目で合図すると、頷いてみせた。
勝巳の寝起きの悪さは、うんざりするくらいに知っている。
「無理強いはしないから、まあ、考えておいてくれ」
「うん――」
どうでもよさそうな、生返事が返ってきた。
両親が仕事に出かけてしまってからも、勝巳はパンを延々と噛んでいた。始業時間までは、十分に余裕がある。
「――」
誰もいない食卓には、彼の分の温かい食事が並んでいる。
それは、デリバリーなどではなくて、親が作ってくれたものだった。
ポタージュスープにスプーンを浸して、音を立てないように飲む。
「うん――不味い」
ちょっと塩味がきつくて、あまりなめらかな喉越しでもない。
けれども彼は残そうとせず、黙々と食べるのだった。
階下に降りてきてから、実は、彼はずっと悩んでいた。
――あの人たちは、僕には将来がないだなんて知ろうものなら、本気で悲しむのだろうな。
彼の両親は、教育費という形で、彼の将来に投資しているのだった。それを無に返してしまうのだろうかという不安と、彼を本質的に理解こそしてくれないが、大事に養ってくれる存在への、単に『恩』という言葉では片付けられない執着も、彼は自覚を持って抱いている。
――さて、どうしようか。
勝巳は、本当に困っていた。
ごく普通の学生として、人間として生きていくだろうと思っていたが――人生、本当に何が起こるか分からないものだ。
私立夜美濃高校は、その地域では№1の進学校だった。
ここに通う学生の大半が、有名大学へと進学する。全国摸試の上位ランキングにも、何人もの在校生が名前を連ねていた。
クラスは試験の点数によって、上から、S、A、B、C、Dと分けられていた。
勝巳はAクラスに属していた。入学以来、彼はずっとそこにいた。
Sから落ちてきた生徒と、Sへ這い上がろうとする生徒の間で、彼は、彼らと同じように努力している風を装っていた。部活も、同じように、単にストレス発散でやっている、と見せていた。そうしていれば、疎外されることはなかった。
彼は、教師達には、ぼんやりと常に『何か』について考えている、大人しくて優秀な生徒だと、思われていた。
彼らの誰もが、それについて、深く考えようともしなかった。
勝巳は問題行動を起こしたことなどなかったし、彼らに勝巳について真剣に考える余裕は、全くなかった。
――勝巳とは比べようが無い、夜美濃の名声すら失墜させかねないほどの『問題児』がいたのだ。
オカルト愛好会の部室は、部室棟にはない。
本校舎から少し離れた、夜美濃高校付属図書館の地下資料室の一つを借りている。夜美濃は地域の名門進学校だったから、図書館も付属している。
そして、オカルト愛好会の部長の園原まゆみが、図書館長ととても仲が良いため、特別扱いを受けているのだった。
そこへ行こうと地下通路を歩いていると、ドアの窓越しに、古い蔵書が棚にきちんと並べられているのが見えた。まるで屍のようだった。通路の光が、窓から少しだけ差し込んで、誰にも読まれない知識の肉塊を照らしている――。
ここは本の墓場だ、と糸辺隆は思う。
上の一般開架は、誰かに読まれるための本が並べられているが、ここは違う。
とても厳かで、おぞましいものが、本という紙で出来た媒体の形で、屍のように横たわっているような予感がするのだ。
――よくアイツは、こんなトコロにいられるな、と彼はしみじみと思った。
『オカルト愛好会部室・関係者以外立ち入り禁止』
しばらく進んだ先で、B級ホラー映画で使われるようなドクロが、ドアに5寸釘で打ち付けられて、こう書かれた札をくわえていた。
――中の様子を小窓からうかがうと、伏木勝巳が壁際のソファで、一人、本を読んでいた。
「やっぱり、いたか」
声をかけて、彼はさっと中に滑り込んだ。彼はここの関係者ではないので、見つかるとマズいのだった。
金髪にピアス、制服をだらしなく着ているという時点で、彼は既に、この『進学校』と言う領域のアウトサイダーだった。
「ああ」
座れよ、と勝巳は目で向かいのソファを示す。
隆は、そこに片肘をついて寝そべった。
だが、何も言われなかった。
「他の連中は?」隆がそう訊ねたのは、彼らとこの部屋で出くわすのは、彼にとって少し困るからだった。
「クラス選試の準備で、誰も来やしないよ」
クラス選試ことクラス選考試験――それの結果で、クラスが変更されるため、夜美濃高校では、一般の考査よりも重大視されているのだった。
「え?いつだっけ?」
「明日」
事もなげに勝巳が言うので、かえって隆の方があきれてしまった。
「そんなんで、オマエ、本当に大丈夫なのかよ、クラス落とされるんじゃね?」
「要は、Aの平均点を下回らなければいいだけだからさ」
「そっか、オマエ、頭いいもんなー」
嫌味を言ったが、それより、と勝巳に返される。
「お前はどうなんだよ、このままじゃ留年だろ」
「あー、オマエまで教師みたいなコト言うんだ」隆はむっとした。
「――あのさ」勝巳は、ため息をついた。「お前は自覚なんてしてないんだろうけどさ、見ていて痛々しいんだよ、お前は」
「!」
隆は、一瞬、激怒したが、勝巳の様子が、教師達とはまったく違ったので、彼を殴れなかった。勝巳は隆と同じ立場で言っていた。
「僕らは、アイツらの言うことに従っているのが、一番安全だって分かっている」
全部分かっているんだ、全部、と目が伝えていた。
「従わないヤツが、お前みたいにされてしまうってことも――だから、僕らは怖いんだよ、落ちぶれるのが。怖いから、ズルく生きるしかないんだ」
「何だ、そのゴタクは」聞きたくもない、と隆は吐き捨てた。
だろうね、と勝巳は頷く。そして、言った。
「懺悔だよ」
「何で?」そう素直に隆が聞けば、
「お前はバカで素直だからさ」
しみじみとした顔で、酷いことを言われたので、隆はいらついて、
「――おい、殺すぞ」
勝巳の首に手をかけた。
もちろん、殺すつもりは無かった。
勝巳は、夜美濃高校では、隆のたった一人の友達だった。
彼の言葉にできない苛立ちを、言葉にできる、まれな人間でもあった。
「『もっと別の生き方があるはずだ、もっと別の世界があるはずだ、こんなものじゃ満足できやしない、もっと、別の、もっと』――お前がアイツらに対して吼えているのは、これだからだろう?」
「多分、な――」
本当の所は、隆にだって分からない。
夜美濃の最大の汚点と罵られながらも、どうして教師達や、彼を支配しようとする連中に、自分が敵意を持つのか、わかっていなかった。ただ、どうしようもないほどの何かが、滅茶苦茶に吼えて暴れるのを、止められないのだ。まるで、軸が不安定な暴れゴマのようだった。
「お前はさ、多分、正しく青春しているんだよ」
それを、勝巳は羨ましそうに言う。
「何だよ、その言い方」
感傷的なのは、ごめんだった。
それがうつりそうで、勝巳の首から隆は手を離す。
「僕らは、吼えることを止めたからさ、このまま行くしかないんだと思うんだよ――特に、僕は」
たまらなくなって、隆は、怒鳴った。
「だから、何だっつーんだよ、その言い方!黙らねえとマジでぶっ殺すぞ!」
勝巳は、首の掴まれた辺りに手をやって、それから、ぽつりと言った。
「アダマスターで、僕には将来がないと言われたんだ」
「へ?」
ブチ切れていたのも忘れて、隆は繰り返した。勝巳にその店を紹介したのは、彼だったのだ。
「あの野郎――オマエに将来がないだって!?」
勝巳は、あれ、と首をひねった。
「野郎?女の子だったよ、とても綺麗な」
「俺の時は間違いなく野郎だった、顔は隠していたけど、雰囲気でさ。憎たらしいヤツだったけど、言うことは当たっていた」
それで、勝巳にも勧めたのだ。いつもオマエは何かを考えているが、そのヒントをくれるかもしれないぞ、と。
「――日替わりなのかな?」
「知らねえけど。でも、ひでぇ占いだな、それは」
絶対に当たらないぜ、と隆はきっぱりと言った。
「うーん、だといいけど――」
しかし、勝巳は、どうも悩んでいるようだった。隆は困って、
「どうしたんだよ、オマエおかしいぞ?ま、そんなこと言われて、全然悩まないってのもアレだろうけどさ」
「まあ、ね――」勝巳は、今は悩むのは止めておくよ、と言った。
「ところで、あのさ――お前は何て言われた?」
「俺?」
隆は、真剣な表情で唸りだした。正確に思い出そうとしているようだった。
「えーとな、うーんと、上手くは言えないんだが――か、かー、カル……ぺ・ディエム?だったか、それと、友情は美しいとか、そんなことも色々と言われた」
「今日という日に花を摘め(カルペ・ディエム)、か――」
勝巳は感心した。やはり隆は、青春を生きているのだ。
「あのさ、つまり、今を生きろってことなんだろ?」
「だいたい、そんな意味だよ」
吼えて、暴れて、だが、鋭く傷つきやすい感性を持つ、隆にぴったりだと思った。
彼は、今を本当に生きることに、必死なのだ。
花は明日には枯れているかも知れない。
自分は明日の朝には死んで、花を二度と摘めないかもしれない。
だから、今日でなくてはダメなのだと、叫んで暴れているのだ。
「――カルペ・ディエム、いい言葉だ」
勝巳の言葉に、隆は、ありがとよ、と言ってから、
「オマエさ、もしかしたらさ、その女に騙されているのかもよ」
「騙される?」
「ほら、アレだ、霊感商法?脅迫して思い通りにする、みたいな」
「――その可能性もあるね」
だいたい、たかが占いを真に受けて、ああだこうだと真面目に話している二人の少年、というのも、よく思えば笑えるものだ。妙なものである。
彼女は、それを想像して、陰で笑いたかったのかもしれない――。
だが勝巳は、彼女のことを思うと、違うような気がしてならなかった。
彼女は、自分をどのような存在として見ていた?
ただの客か?
しかし、もしそうでなかったら――。
「ややこしいことになったらさ」隆はどう猛に笑った。「その女、俺がボコボコにしてやっから」
殺しはしないが、前歯くらいは折るかもしれない。
「……また停学くらったら、どうするんだよ」
「まあ何とかなるだろ」
気楽に笑うので、勝巳はバカバカしくなってきた。
(カルペ・ディエムに、友情は美しい、か。)
口の中で呟く。
(きっとコイツの将来は、いいものになるんだろうな。)
そう思うと、少しだけだが、救われた気がした。
仮病で授業をサボったのは、生まれて初めてのことだった。
いや、半分は仮病ではなかったのかもしれない。
相羽つづみは、この一週間、何かを食べようとしても喉を通らなかったし、寝ようとしても寝られなかった。
精神的にも肉体的にも追いつめられていて、限界が来たのかもしれなかった。
彼女は元々Bクラスだったが、前回のクラス選試でCに落ちてしまった。今度こそ這い上がるんだ、と両親や担任から言われ、何より、自分自身が「上がらなければならない」と思っていた。
それなのに、だ。
今朝、今度のクラス選試の結果が、担任から告げられた。
彼女は相変わらずのCクラスだった。
「今度は、全体的に平均点があがったからね」
担任は慰めにもならないことを言ったが、彼女はほとんど聞いていなかった。
どうしよう、どうしよう、と頭の中で何度も呟く。けれど、どうしようもなかった。彼女なりに、精一杯あがいた結果がこの様だったのだ。これ以上は、できなかった。
親は何ていうだろう、友達はどんな反応をするだろう――それから、自分は、どうしよう?
――ぐらぐらと、目眩を覚えて、彼女はまるで泥濘のようなものになりかけた。顔から血の気がゆっくりと引いていくのを、まるで体の内側から空白に塗りつぶされていくかのように感じた。
だから、半分は仮病だったのだろうと思う。
「先生、保健室に行っていいですか」
「あ、あぁ、うん――」
担任は、担当するクラスの生徒の欠席が増えるのは困ると思ったが、少女は見るからに真っ青で、哀れを誘った。
「行っておいで」
保健室で、彼女は一時間ほどベッドに横になったが、目がさえて眠れるものではなかった。
何を考えても、今以上にマシなことは思い浮かばなかった。
期待を裏切ったのが辛かった。友達と同じようになれないのが悲しかった。そうでしかいられない自分が恨めしかった。無能は罪だと思った。どうしよう、どうしよう、でもどうしようもないじゃない、と何度も悲鳴をあげそうになるのをこらえた。
ごめんなさい、と呟くと、なぜか泣けてきた。ぐすぐすとしばらく泣いていたが、彼女は不意に、屋上に行こうと思った。
数年前だかに、そこから飛び降りた生徒がいたらしく、屋上への扉は閉鎖されていたのだが――最近、鍵が壊されて、行けるようになったらしい。彼女が所属するオカルト愛好会の間で、また閉鎖される前に、飛び降りた生徒の噂を確かめに行こうという話が出ていた。
ちょうど、保健医は席を外していた。
どうしようもないの、と彼女は小さく言うと、のろのろとベッドから起き上がった。
誰にも見つかってはならないという気がして、おそるおそる、廊下を進む。授業中だったので、足音にも注意した。大勢の人がいるはずなのに、とてもとても静かだった。
――と、階段を誰かが下りてきたので、彼女はびくりとした。
だが、下りてきた人を見て、ほっとする。
図書館長は、彼女の姿を見とめて、目を丸くした。
「おや、どうしたんだい?」
彼は、オカルト愛好会の顧問を進んで引き受けるような人なので、普通の教師よりも、よほど彼女らにとって親しみやすい人だった。ただ、時々だが、彼女とは価値観が全く違う、と思うことがあった。
「気分が悪くて、保健室で寝ていたんですけど、楽になったので、授業に出ようと思って」
「無理をしたらいけないよ」
「ええ、もう大丈夫ですから。――それに、次こそクラス上げ、頑張りたいですし」
「ああ。君なら、必ず成果を出せると信じているよ」
残酷な励ましを、彼は知らずにやった。
「君はとても大人しくて、本当にいい子だからねえ」
彼女は、少しだけ顔を引きつらせたが、耐えた。
「……あ、ありがとうございます、頑張ります」
でも、どうしようもないの。
その確信は、彼女は声に出さなかった。
「そういえば」と図書館長は嫌なものを思い出したように、「ヤツの噂を聞いたかい?」と言った。
「ヤツ?」
「ほら、Dの彼だよ」
Dの彼、と言えば――ある意味では学校一の有名人の、彼しかいなかった。
「糸辺隆……が、また何かやったんですか?」
「らしいよ。噂だがね、また、その噂が――」
何となく、言い方が気に触ったが、糸辺隆という不良は、教師達にとっては、それほど厄介なのだろうと思った。
「とある事務所の窓ガラスを割って、駆けつけた警備会社の方々相手に、暴力を振るったらしい」
「……怖い」
「だろう?あんな邪魔者は、早く退学させてほしいよ」
「……ええ」
いっそ彼みたいになれたらな、と彼女は思った。こんなに苦しくは無いんだろう。邪魔者になりきれたら、楽になれるだろう。惨めさって、こんなものなのかな、と彼女は唇をかみ締めた。
「じゃ、体に気を付けてね」
言いたいことを言って、すっきりしたらしい彼は、さっさと階段を下っていった。
「ええ、はい」
――運が良かったのか、それっきり、誰ともすれ違わずに、彼女は屋上の扉の前に立つことができた。
噂の通りに、鍵はかかっていなかった。
鍵が付けられていた所が、何かの工具を使ったのだろうか、薄い金属板の扉からくり抜かれていて、それ越しに屋上が見えた。
無地のコンクリートの一部分。
深呼吸をしてから、ドアノブに手をかけた。
――扉は簡単に開いた。
「あ……」
予想とは裏腹に、そこには、何も無かった。
打ちっ放しのコンクリートが一面に広がっていて、錆びた柵が、四角く囲っていた。ぽっかりと青い空が、その上を覆いつくしている。
彼女はふらふらとしながら、真っ直ぐ、柵まで近づくと、下を覗き込んだ。
――怖い。無性に怖さがこみ上げた。
とても怖い場所だった。風がほんの少し吹くだけで、吹き落とされそうになって、怯えるくらいに。
それでも、そこは日常の延長なのだった。彼女は柵に指を絡ませて震えているのに、階下の教室から、教材のCDでも流しているのだろう、間抜けな英会話が聞こえてくる。
同じ学校の一部なのに、ここだけが別の世界のようだった。
「別の世界」彼女はひとりごちる。
この世ではない世界のことだ。
「でも……自殺は、問答無用で……地獄だっけ」
地獄は、様々な宗教の中に、定義も形態も違って登場するが、「暗いところ」だというのは、共通している。永劫に苦しみが続く場所だというのも。
「……何もかもなくなるのなら、まだいいのに、ね」
涙が、またこみ上げてくる。景色がぼやけ、にじむ。間抜けな英会話が耳に突き刺さる。外国の諺を思い出して、「神は自ら助ける者を助ける、じゃあ自ら助けない者は?」と、そんな他愛も無いことを考える。
そして――あれだけ「どうしようもない」と確信していたのに、彼女はその場所から一歩も動けないでいた。
戻っても進んでも、どちらも辛いのだった。だが、そのままでいても、頭の中が気持ち悪くてたまらなかった。
誰か、誰か――!
彼女は、今まで大して信じたこともない、天にまします何かに、痛切に願った。助けて下さい。どうにかして下さい、と。
だが、それの御業は謎めいているということは、すっかり忘れていた。
その時、
「……テメエは誰だ?」
すすりなく彼女の真後ろから聞こえてきたのは、ドスの効いた低い声だった。
ほとんど気配を感じさせずに、いきなり肩を掴まれて、振り向かされる。
真っ先に目を引いたのは、頭の悪そうな金髪。見るからに、イカれた不良の――。
「おい、名前は?」
「あ、あぁあ……」度肝を抜かれて、彼女はろれつが回らない。
駆けつけてきた警備員を暴行した。絡んできた連中を、二度と絡めない体にした。暴力団に命を狙われたことがある。人を殺したらしい。
ありとあらゆる異常な噂が、次々と脳裏に浮かぶ。
まさか、その当人である糸辺隆と、この場所で遭遇するなんて。
「ああああじゃねえよ、テメエの名前は?」
掴んだ手に力が入る。彼女は慌てて言った。
「相羽、つづみ、です」
「ふーん。で、どうしてここに来た?」
答えられる理由ではない。彼女は困ったが、すぐにひらめいた。彼なら、できるかもしれない。
「――オカ会の話で、ここから、飛び降りた生徒がいるっていうから、確かめに来たの」
「テメエもオカ会かよ。――人間を失敗したような連中ばかりだな」不愉快そうに、彼は吐き捨てた。
「あっそ」彼女は不愛想に答えたが、事実その通りだとは思った。彼女は「失敗した」のだ。それで、どうしようもなくなったのだ。
「でも、いいって思わない?そういうの」
強がりで言ったつもりだったが――後から、本当にそう思った。
「きっとその生徒は、自由になれたのよ。ダメなものになってしまう前に」
でも、私はもう、それになってしまっている――顔を上げている気力もなくて、彼女はうつむいた。
「ダメなもの?」
隆の問いに彼女は言い切った。
「あなたみたいなクズのこと」
「そうか。いい度胸だな」糸辺隆は舌打ちした。「俺が誰にも容赦しないってのは、知っているな?」
「知っている。でも、それが何だって――!」
言い終える前に、髪を掴まれ、顔を上げさせられた。
フェンスに後頭部を押し付けられる形になったので、いやでも彼の姿を見てしまう。
糸辺隆は、威圧的な、凶悪な笑みを浮かべていた。
まるで悪鬼のようなその形相で、彼は拳を振り上げていた。
「こういうことだってんだよ」
頬骨と顎がぐらりと揺れた後、フェンスが頭に食い込み、血の味と鈍くて深い痛みを感じて、首がねじられたように軋んだ。殴られた。その事を、やっと彼女は自覚した。
「――あ、が」
痛みの味に、彼女はぼう然となる。殴られたのは、初めてだった。視界がまたぼやける。痛い。本当に痛かった。
「痛いだろ?」
頭を揺さぶられて、はっと正気に返った。
彼は、また拳を振り上げていた。
「――い、いや!」
顔を庇おうとしたが、目を閉じるのだけで精一杯だった。
「バーカ」
嘲りとともに、髪の毛が放されて、彼女は驚いた。
――殴らなかった?
「ど、どうして!?」
「死にぞこないなんか、殴ったってしょうがないだろ」
殴った方の手をひらひらと振りながら、あっさりと彼は言った。
「そんな、つもりじゃ――」
見抜かれていた。彼女は言葉に詰まる。
「黙れ。この屋上に死ぬために来たのに、飛び降りるのができなくて、困っていたんだろ。俺を挑発して殺させようとしたんだろ。本当にダメな死にぞこないだな」
事実を突かれて、つづみは、反射的に絶叫した。何かを考えての言葉ではなかった。
彼女が嫌いな蛇を、うっかり素手で掴んでしまったときと、表情は同じだった。
「違う!あたしは死にたいんじゃない!違う!」
「じゃあ、どうしてここに来たんだよ?」
「だ、だから、オカ会の――」
「分かった、テメエはそういうことにするしかないんだな――じゃあ、オカ会のブス女どもに伝えろ。面倒だから屋上に来るな。来てもいいが、テメエらの前歯はヘシ折るぞ」
唐突に、太い指が彼女の唇をめくり上げると、上の前歯を摘んだ。
「――ぃ!」
隆のとんでもない行動に、つづみは目を剥いた。
「死ぬんだったら今更歯の一つや二つ、要らないな?生きるんだったら前歯は大事だな?――折っていいか?別にいいだろ?」隆は、まったく造作なさそうに言った。
この男は、とつづみは真っ青になった。噂以上だ。
「い、いや、嫌、やめて!」
歯を摘まれても、人間は必死になれば喋れるのだと分かった。少なくとも、嫌がっている声は出せるのだと。
「ふーん」
ひどくつまらなさそうに、隆は指を離した。親指と人差し指に付いたよだれを、さも汚そうにズボンでぬぐう。そして、
「出てけ」
と、彼女を解放する。
「う、あ、あ――!」
彼女にはもちろん、異議はなかった。
震える腰を叱咤して、変な声を出しながら、扉まで逃げた。
そこまで来て、ふと、彼女はある疑問にたどりつく。
「あ、あんたはどうしてここにいるのよ?」
確かに、ここは教師たちに見つかりにくい場所かもしれないが、何も無いので、つまらないのではないか?それに、また問題を起こしたらしいから、停学なり登校禁止なりの措置が必ず取られているはずなのに――。
「体感してんだよ」
ぶっきらぼうな口調だった。
「な、何の――?」
「ここから飛び降りて死んだ気分ってのは、どんなモンだったんだろうな?」
「それは……」
「ちっともわかんねーから、俺はこうして何日もここにいる」
「……」
答えられなくて、彼女は口ごもった。
ついさっきまで、惨めで惨めで、生きていてもマシになれる気がしなくて、何を考えるのも辛くて――それでここに来たのに、彼女はためらった。
ためらうことがいいことだったのか、悪いことだったのかは分からない。ただ、その場に留まっていることは、まるで、暗い海にゆっくりと沈んでいくような絶望に、ひとり泣きながら浸らなければならないようだった。
いや、彼が邪魔しなければ、頭まで沈みきってしまって、そうして彼女は――。
「惨めだった。生きていてもマシになれないと思った。生きていても何の解決も出せない、これ以上生きていてもしょうがないって。呼吸するたび、体を覆う、全ての空気が、お前はダメな人間だって囁いているみたいだった、針で刺されるみたいだった」
つづみは、とつとつと言った。
「ふーん」
隆の無愛想な反応にも構わず、相手にされなくてもいいと、彼女は何かに憑かれたように饒舌だった。
「死にたいわけじゃなかった。死ねば解放されるとか、そういう幻想も、全然見られなかった。ただ自分で自分を押しつぶすみたいだった。それも辛くて、少しでいいから、楽になりたかった。重たかったの。すごく重たくて痛かった。重たいのにも痛いのにも疲れたのよ。だから、一呼吸、したかったの。それで――」
「じゃあ」低い、だがどこか上の空の調子で、隆は呟いた。「ねえさんは、息継ぎのために、ここで死んじまったのか」
「――!」
この時、つづみは、どう言った表情をしていいのか、完全に分からなかった。多分、泣き出しそうな、あるいは呆気にとられた、間抜けな道化のような表情だったのだろう。
彼女が、噂の飛び降りて死んだ生徒であるということも、それが彼の姉であるということも、何も知らずに、つづみはとんでもない道化役をやっていたのだ。
こともあろうに、彼の前で。
後悔と羞恥心とがない交ぜになったまま、彼女はおそるおそる、彼に声をかけた。
「あ、あ、あのう――」
「何だ?」さっきの彼女のように、隆はフェンスに指をからませて、額を押し付けている。そして、振り向きもしなかった。
その姿を見て、彼女はもっと赤くなった。
「ご、ごめんなさい」
「ああ」と、愛想の欠片もなく、彼は言った。「気にすんな」
――二人とも、まさか、これがなれ初めになるとは、この時には思っていなかった。
ただ、つづみは何かと気分が沈んだ際に、どうしても彼を思い出してしまうようになったし、隆の方も、屋上でぼんやりしていたら、そこにふらふらとやってきて、死んだ姉を連想させた、一人の少女の姿が、記憶にくっきりと痕をつけていた。
糸辺隆はつるまない。つるむとしても、相手は勝巳くらいだった。勝巳は彼の親友なのだが、ケンカでは役に立たない。どちらかと言うと、何かと相手を挑発しがちな彼を抑える役になることが多い。ただ、隆にその気は無くても、相手方は、見るからにツッパリの不良の形をした彼に、ケンカをこれでもかと売ってくるのだ。
彼は、だから、一対多数のケンカを買うことが、ざらにある。
そういう時に、彼が何より大事にするのが、逃走経路だった。無理やりに一度勝ったとしても、次の相手に負けてしまったら、何の意味もない。続けて勝つためには、ちゃんと逃げることも不可欠だと思っていた。
その日も、彼はチンピラとやり合って、相手が仲間を呼んだので、さっさと逃げ出したのだった。
しかし――その日は、その仲間が、逃げ込むはずだった路地から出てきてしまい――咄嗟に反対の路地へ飛び込んだのだった。マズいと焦りながらも、背後から迫る足音に追われて、彼はやみくもに逃げた。
やっと撒いたと思った時には、彼は知らない場所にいた。
とにかく、息を整えようと地べたに座った時だった。
「あー、あーゥ」
真後ろから、首元に熱い息がかかった。
「!」彼は、反射的にそいつを組み伏せて、腕をねじり上げていた。
「あ、ああいあー!」
哀れみを催す情けない悲鳴を、そいつは上げた。
よく見てみれば、ねじり上げた腕は、濡れた雑巾を握っていた。彼が組み伏せたのは、病的なほど痩せた、見知らぬ少年だった。
「て、テメエ」
そこでようやく、彼は気が付いたのだが、彼はある建物の玄関口らしきところにいた。
間取りも薄暗くて見えにくいが、どうやら洋館のようだ。
「あおー、あおー」
哀れな声を少年は上げている。
その片目はガーゼの包帯で覆われて、これも痛々しかった。
どうやらこれは、自分が悪かったようだと、隆は少年を解放した。その拍子に、もらったクッキーの包みを、少年の鼻先に落としてしまった。可愛らしいピンクのリボンで縛られている、後生大事に彼が抱えていた、それを。
「ぎゃう!」
少年は、解放された途端に、小さくうずくまって、代わる代わる隆の顔とクッキーの包みを見た。――と、唇の端から涎をこぼした。
「あー、それはなァ」
それは隆にとって本当に大事なものなのだが、さっきのこともあったし、何より少年がひもじそうなので、
「食っていいぜ」
「おーう!」
少年は文字通り飛び上がって喜ぶと、包みを胸に抱いた。
そして、ちょいちょい、と彼を奥に手招きした。
「ん、何だ?」
何度も頭を下げながら、少年は扉を開けて、そして彼を手招いている。
「入れってか?」
「あー、あー!」
「ったく、分かったよ」彼はやれやれと首を振った。
彼が入ると、ぼっと卓上の燭台のロウソクが次々と炎を上げて輝きだした。
そこは――かつての王侯貴族のための調度品に彩られた、まるで腐って落ちる寸前の、熟れた果実のような部屋だった。どこかから、かぐわしい上品な香が漂ってくる。壁には油絵やタペストリーが掲げられ、さりげなく置かれた彫刻品が、ぞっとするほどの存在感を放っている。それらは、何百、何千年の間、優美と豪奢の結晶として、人の目をどれほど楽しませてきたのだろう。そして、巨大な、宴で使われるような円卓と、それを囲む華麗な造形の椅子たち。
隆は、汚い路地裏から、数世紀前の欧州の貴族の館にタイムスリップした気分だった。
彼には価値がわからなかったが、そこの一室は、壁の絵一枚でさえ、古美術商に売り飛ばせば、生涯遊んで暮らせるほどの値がするのだった。
燭台が最後に照らし出したのは――黒いローブをまとった人影だった。堂々と部屋奥の椅子に腰掛けている。
こいつが洋館の主か、と隆は思った時、口を開いた。
「よう若いの、ウチの受付係によくしてくれてありがとう、だ」
ローブで顔の上半分を覆っているが、ヒゲも生えていないし、声も若い。そんな男に若造呼ばわりされても、納得が行かなかった。
「テメエ誰だ?」
「俺はここの店主だ」
「ここは店だったのか?」
だとしたら、何の店だろう。
「ああ。まあ、先に座ってくれ、糸辺隆」
そう言われるまでも無く、勝手に座りかけていた隆は、さっと立ち上がった。素人目には分からないように、体を構える。
「どうして――」
「ここは占いと魔術の店だ。店名はADAMASTORという。占いは、客の名を当てて、信用を掴む」
すっと男は指を持ち上げて、隆を指した。
「若いの、いいや糸辺隆、君は高校生で、不良で、戦闘が得意だ。勉強は――好きではないらしいな。ある女の子から好意を向けられていて、君の方でもまんざらでもない」
それを聞いて、彼は不愉快に感じた。特に最後のくだりを。
「知り合いはちょっとした仕草や外見で、大方のヤツの素性を当てるけどな」
彼は私服だが、見た目で年齢は分かるし、ふてぶてしく自信に溢れた態度からは弱さは感じられないし、そして、あのクッキーは市販の品ではない。
だが、それを聞いて、ぎゃはははは、と店主は大円卓を叩いて、爆笑した。
「そうか、そうか、疑うのも無理は無いんだ」
じゃあ――と店主は身を乗り出した。
「浄罪の方法を知りたくないか?ありとあらゆる罪――七つの大罪さえも浄められる方法だ。いやいや、殺人だって無かったことにできる」
にやりと、いやらしい笑いを唇に浮かべる。
「――テメエ!」
だが、隆は店主の胸ぐらをつかめなかった。逆に、掴むがいいと差し出されたような印象を受けたのだ。
「君はなかなか賢いな、隆」深々と椅子に腰掛けて、店主は嗤った。「そう、俺が気分を損ねたら、絶対に教えてもらえないから、だ。でも、君は運がいい。俺は今、上機嫌なんだ」
まあ座るんだ、と言われて、隆は従うしかなかった。
「……いくら払えばいいんだ」
「ん?金か?」
「おい」聞き返されたので、隆は馬鹿にされていると、イライラが募った。「金じゃなかったら、何だっつーんだよ!」
細くて長い指を、複雑に絡ませながら、店主は言った。
「俺としばらく話をして欲しい」
「は?」
隆は顔をしかめた。この変人は、何を言っているのだ?
「気持ち悪いことほざくんじゃねーよ!」
気持ち悪いだって?と、店主は心外そうに叫んだ。
「君自身は気付かないだろうが、君は本当に素晴らしい存在だ。俺らしくもなく、出会えた僥倖に心底感謝しているくらいだ。こうして言葉を交わす刹那一つに、どれだけの価値があるか。金では換算なぞできやしない」
サイコ野郎、俺のことを気に入っているらしいな、と隆は複雑な気持ちになった。だが気に入られても到底ありがたいとは思えない。
「じゃあ俺は何様だ?」
「……それを知りたいか?」
店主は嬉々として隆に尋ねた。
「自分自身を知りたいよな?自分という謎を、この目で見たい、確かめたい、そうだろう?人間が己自身を極めつくしたいと思うのは、当然の性だ。そして人間は極めるためになら何でもやるのだ、手段は全く問わないんだ」
「……馬鹿言ってんじゃねーよ、テメエに聞いてんだ、答えろ!」
「いいや、俺の口からじゃ、とても言えないね」
はぐらかされるような店主の言動に、やっと隆は店主に言葉巧みに話をさせられていることに気が付いた。
すぐに椅子を蹴って出て行ってやろうとしたが、迷いがあって、できなかった。
「だが見せる手段はある――鏡、だ」
「鏡?」
「映したものの魂の在るべき姿を映す鏡、だ。俺が持っている」
隆は、どきりとした。魂の在るべき姿、だと?
「見れば、どうなる?」
「どうにもならないさ、本来の魂の宿るべき体が見えるだけなのだから」
見たい。彼は思った。彼には、獣のような一面があって、それがどれだけ悪いことだと頭で分かっていても、体が何かを攻撃するのを止められないことがあった。そのくせ、攻撃したことは後で散々に後悔するのだ。
そんな自分は、一体何なのだろうか?
けれど――彼の知り合いである、一人のオカルトマニアの少年に言われたことが、彼の好奇心の片端を握って、抑えていた。
「『見れば、見られる』って聞いたんだが――」
「賢い友人を持ったな!」
どん――と、店主は、拳を円卓にひどく叩きつけた。
イカレたのか、キレたのか?隆が警戒したとき、
「友情は素晴らしい、本当に素晴らしい、畜生め、素晴らしいぞ、それで君はその形でいられたのか!何てヤツだ、素晴らしい、友情は眩しいくらいに素晴らしい!」
その拳からこぼれ落ちたのは、ガラスの破片だった。
間もなく、赤い雫が指の間からにじみ出る。破片に絡まりながら、円卓の上に広がった。
「おい、て、テメエ――!」隆はぎょっとした。
「いいんだ、これでいいんだ、君がその姿を諦めていない限り、これは見たってしょうがない――」
握りこぶしを開くと、もうそこには何も無かった、傷さえも。その手をひらひらとさせて、店主は再び指を複雑に絡め合わせた。
「……何を見せるつもりだったんだ?マジックか?」
「まあ、そんなもの、だ。君に比べれば本当に些細なものだった」
「あのさ」どうしても気になって、隆は尋ねた。「マジで俺って何様なワケ?」
「いずれ分かる」謎めいた、いかにも予言者ぶった口調だった。「だが、その時にはもう遅いだろう。カルペ・ディエムだ。君は今、この瞬間にこそ、奇跡だ」
「…誉めてんのか?」
「もちろん!」
ああ、そうだ――と店主は懐から何かをつまみだした。
銀色の、小さな指輪だった。シンプルなデザインで、宝石も嵌められていないが、ロウソクの炎にちらちらと淡く輝いた。
「これを彼女に渡してやればいい。間違いなく喜ぶ」
受け取って、隆はぎょっとした。何度か握ったことのある、指の細さ。それにぴったりのような気がした。
「……サイズ、マジで合っているのか?」
凄いと驚くより、気持ち悪かった。
「彼女もまた特別な存在だ。だから分かる。合っているとも」
店主は平然と笑った。
「……テメエ、何の魂胆でこんな真似をする?」
「俺は、ちょっと商売で失敗してね――客の選別を間違えたんだ」
店主は大げさに肩を落としてみせた。
「だが、君ならその失敗を取り戻せるんだ。だから可能な限りのことは援助する」
「は?断る。俺はテメエなんかのために働きたくはねえ」
「いや、あえて俺のためにする必要は全然無いんだ。君は君の思うがままに暴れればいい。それだけでいいんだ」
「は?テメエ、狂っているんじゃねえのか」
気味が悪かった。隆はまるで幽霊と言い争っているような気分だった。殴って蹴っての暴力で決別できる相手ではない。直感がそう囁いていた。
「狂っている?もちろんそうだとも」
認めやがった。隆は警戒心を張りつめさせた。だったら、何をやってもおかしくはない。
「そう警戒するな、俺は君には何もしない」
店主が、慌てた様子で――と隆には見えた――そう付け足した時だった。
突然、屋敷の玄関のあたりが騒がしくなったと思うと、扉がひしゃげて破られる音がした。そして、大勢の怒声と足音が乱暴に入ってきた。
「こんなところに逃げ込んだのか、ヤツは」
騒々しい怒声の中に、隆はその言葉を聞きつけて、舌打ちした。
しまった、付けられていたのか。
仲間を呼んで、彼をぶちのめしに来たのだろう。
「おい店主、ここを動くなよ」
たとえ狂人であろうと、この事態に巻き込むつもりはない。隆は椅子から立ち上がると、まっすぐ扉に向かって走った。
「まあ待て。ウチの受付係が応対する」
店主はのん気なものだった。
「フロントマン?まさか――」
口に出しかけて、彼は確かに耳にした。知らない、知らないと繰り返す、怯えたような甲高い声を。
「そう、そいつさ」
怯えた声は、次第に悲鳴のようになった。詰問する罵声と、肉を殴打する音と共に、それはどんどんか細くなっていく。すぐに声にならない叫びのようになった。
「しまった、アイツ――!」
ほとんど他人である人を巻き込んでしまった。隆は唇を噛んで、部屋から飛び出そうとしたが――。
「動くな、糸辺隆」
店主の一声で、彼は動けなくなってしまった。束縛するものなど何も無いのに、コンクリートで固められたかのように、手足が動かせなかった。呼吸が苦しい。視線一つ動かすのさえ。ひどい脂汗を伴った。
「食っていいぞ、JJ」
店主はにやにやとあざ笑いを浮かべながら、囁くように言った。
「全部、全部だ。血の雫さえ残すんじゃない」
何だと?隆が戸惑ったときだった。
扉の向こうで悲鳴が途切れた。いや、罵声も聞こえなくなった。ただ響くのは、大量の雨のような音。泥を壁に叩きつけるような音。何か硬質なものが本来の形を失うほど、押し潰される破壊音。やがて、ぬめりを帯びた肉が、壁を這うような――おぞましい沈黙が訪れる。まるで獣が獲物の骨を丁寧に舐めているようだった。
「まさか、アイツは」
彼は無理やり視線を動かした。扉の下から、何か黒っぽい液体が、ほんの少しだけ、にじみ出ている。わずかに立ち込める匂いを嗅ぐ。錆びた鉄のようなそれは、まさか。だが店主は相変わらずご機嫌そのもので、
「おいおい、君は動かなくていいんだ。不要な好奇心は身を焼く」
かなりの時間が経ったように隆には思えた。ようやく店主が、手を一度打つと、隆の体はまるで狭い棺桶から解放されたかのように、ぐらりとよろめた。ほとんど体当たりして、彼は扉を開ける。
予想を裏切って、惨劇があったことを示すものは、何も無かった。
カウンターで、さっきの少年がもぐもぐと口を動かしていた。彼の姿を見とめると、目を丸くして、空のクッキーの袋をかざし、何度も頭を下げた。
破られたはずの玄関の扉も、閉まったままだった。
「一体、何だったんだ――」
信じられなかった。先ほどわずかに嗅いだ血の匂いさえ、今はもう感じられない。
「何も無かった。これだけだ、君」
店主はそれからこう続けた。
「また、気が向いたら是非来てくれ。運命の三女神が優しくしてくれるなら、また君と会えるだろう」
彼は、血まみれの両手を握り締めながら、階段の踊り場に突っ立っている。血まみれなのは、姉の死体に抱きついたからだ。彼の姉は自殺した。通う高校の屋上から飛び降りたのだ。
だが、唐突に彼はうな垂れて、足元のそれを見つめた。
それ――男の死体だった。頭部が変な角度にねじれている。階段から足を滑らせて転げ落ち、首の骨が折れたのだろう。
彼は既にこの光景は夢だと分かっていた。だが、自分の意思ではどうにもならない夢だった。
ぐぐぐ、と強引にねじられるように、男の首が動いた。
彼は、口の中がからからに乾いて、絶叫したかった。だが、できない。これはそういう夢なのだ。
男の顔が彼を向き、かっと目を開いて、こう言った。
「よくも俺を突き落としたな」
場面が変わる。
姉は、弟の目から見ても美人だった。誰に似たのだろうと思うほど、目鼻立ちもしっかりしていて、色白だった。
その姉が、先ほどの男の体の下で、すすり泣いているのだ。悦んで、ではなく、屈辱と絶望と痛みのために。
彼は柱に縛り付けられて、それを見せ付けられている。
男から姉を庇ったために、体中あざだらけで、むごい有様だった。
自分の姉が犯されている光景など、見たくも無い。聞きたくも無い。やめてくれ。俺を殴れ。俺は殴られても構わない。だから俺を殴れ。だが彼は見なければならなかった。そのジレンマに、彼は苦しんだ。姉のためにも、見てはならなかった。しかし、腫れ上がったまぶたは閉じきれず、血を滴らせる唇からは、うめき声の一つも出せなかった。
男が腰を獣のように振っている。姉のすすり泣きが、いっそう甲高くなったようだった。やがて男は動きを止めた。
見ないで、と泣いていた姉は、声を無くしたかのように静かになった。
この瞬間に、姉は殺されたのだと、彼は信じている。
あの男の体の下で、美しい顔もしなやかな体もどろどろに崩れて、まるで腐った生ゴミのようになってしまったのだ、と。
――そこで目が覚めた。ひどい夢だった。
だが避けられない。
毎年、この時期になると、否が応でも見てしまう。
彼はぼんやりと肌色の天井を眺めた。
天井?
いや、天井に人の顔が――。
「ちょっと、しっかりして!」
間違いない、人の顔だ。それも大事な。
一瞬とは言え、亡き姉を彷彿とさせる顔立ちの、少女だ。
「あ」
だるい。答えるのも面倒で、そう言う。
「あじゃないってば!滅茶苦茶うなされていたんだよ、びっくりした」
「嫌な夢を見た」
「教えてよ。人に話すと、そういう夢は現実にならないんだって」
「ねえさんが死んでいく。そういう夢だった」
少女は目に悲痛な色を浮かべる。
「自分を責めている?責めても、それは結局、自己満足だよ」
事実を言われて、彼はイライラした。八つ当たりだった。彼女は知らないのだ。彼の姉が死んだ本当の要因を。
「じゃあどうしろってんだよ。どうにもならねえだろうがよ」
少女は、少し考えた後、彼の両手を包むように握り締めた。
薄い皮膚の向こうで、みずみずしい血と肉が生きている。
「何だよ」
口では嫌がってみせたが、彼はその手がどうしても振りほどけなかった。温かかったのだ。心地よかったのだ。その感覚は、恥ずかしさにも勝っていた。放課後の屋上には、彼らだけしかいなかった。
「いくら過去のコトだって、無かったことにはできないよね――」
その通りだと彼は思った。
無かったことには、絶対にできないのだ。過去のことだと忘却の彼方に押しやってしまうことも、できなかった。
「そうだな」
ああ、と彼はあることを思い出して、彼女の手を振り払う。
「これ、やるよ」
ポケットから淡く光る銀の指輪を取り出して、その手に落とした。
手を振り払われてわずかに失望の色を浮かべていた彼女の表情が、ぱっと喜色を浮かべたものに変わる。
「うわ!ありがとう」
「いや、別に――」
「大事にする……うん、大事にする」
目には少しの涙をたたえて、それを大事そうに仕舞った。校則で、アクセサリーの着用は禁じられているからだった。彼女は、後でシルバーチェーンに通して首から下げよう、と思っていた。
「泣くんじゃねーよ、ガキみたいに」
「い、いいじゃんか、嬉しいんだから!」
何だかな、と彼は思う。彼女のことは、別に好きではない。好きだとか、そういう強い感情は、彼はまだ持っていないのだった。だが、こうして一緒にすごしていると、いつか彼女のことを好きになれそうな気がするのだった。それは予感のような曖昧なものではなく、確信に近かった。
「オマエ、いいやつ!」
可愛らしい細工物のような洋菓子の数々――沢山のそれが寄せ集まると、カラフルなブーケのようだった――を片端から鷲づかみにして貪り食う。
よほど甘いものに飢えていたのか、ガリガリに痩せた少年は両手にエクレアとブルーベリーのムースを掴んで、確保してから、言った。
「う、うん、ありがとう」
勝巳は、目の前の光景に、わずかに青ざめていた。
――数分前のことだった。
クラス選試も終わったことだし、アダマスターに行こうとふと勝巳は思った。だとしたら手土産も必要だろうと、駅前の洋菓子屋で、彼女の好みに合うことを祈りつつ、適当に見繕って、色々な種類の洋菓子を買った。
贈り物にしたいんですけど、と店員に伝えて、可愛らしい箱に保冷剤と一緒に入れてもらった。
彼女に気に入ってもらえるかどうかはともかく、偽善でもいいから、誠意を示したかった。
先日のように、そっと扉を押すと、奥の方のカウンターで、ランプをともしたまま、眼帯の少年がぐったりとしていた。
「――」
彼を認めると、不機嫌そうに鼻を鳴らし、カウンターにカードを伏せる。
「女司祭」
当たりだった。
2枚目が、すぐに伏せられた。
「塔」
3枚目の時、彼は少しだけ考えた。
外れたなら、菓子だけでも置いて帰ろうか。
「吊るされた男?」
――少年は、首を左右に振った。
「あ、そっか」
幸運の女神は、本当にアテにならない。
「――じゃあ、これだけでも」
と、勝巳が箱を差し出した時だった。
少年の形相が、がらりと変わった。
差し出した勝巳の両腕を掴むと、体をひねってカウンターの後ろの棚を蹴飛ばす。
ぐるん、と棚は回転した。
その背後には穴倉らしき暗黒が口を開けていた。
「あ……」
面食らっていた勝巳は、腕ごと引っ張られて、はっとした。
「ま、待った、全部あげるから――ぎゃあッ!」
抵抗したが、まもなく、彼の背後で、秘密の扉が閉じた。
真っ暗な中で、階段を滑り落ちるように下って、着いた先は、まるで地下牢のような場所だった。
床にも壁にも、石が敷きつめられている。天井だけは木造で、むき出しの太い梁が、真っ黒くすすけていた。
ひんやりとした空気の中で、人の脂肪から作ったような黄ばんだロウソクが、大きな長方形の石のテーブルの上で、じりじりと音を立てて燃えていた。
そこに眼帯の少年はケーキごと勝巳を連れてくると、箱だけ奪った。猛然と、引きちぎるようにふたを開けて、顔を突っ込むと、食べ始めた。彼女にあげるはずだったのに、と勝巳はショックだった。時折、少年は顔を上げたが、奪ったら殺す、と言いたげに、目は勝巳を睨んでいた。
まるで、飢えた獣が、しとめた獲物を安全なねぐらまで引きずって、むさぼっている様だった。
「――だ、だから取ったりしないって」
勝巳は、逃げようと後ずさった。
洋菓子の尽きたとき、彼は勝巳をどうするのだろうか?
勝巳は、想像したくもなかった。
「にげるなよ」
抑揚の無い、淡々とした声に、勝巳はぞっとした。
「あ、あのさ――」
勇気を振り絞って、彼は言った。
「アルカナ当てに、僕は失敗したんだろう?だったら、出て行った方がいいんじゃないか?」
「にげるな」
少年は、クリームと食べかすにまみれた顔を、にゅう、と勝巳に近づけた。
ひ、と勝巳はのけぞって、小さな悲鳴を上げた。
少年の唇から鋭い八重歯が見えていた。
あれほど洋菓子を食べたのにも関わらず、ひどく生臭い息が、勝巳の顔にかかった。
やめてくれ――と、彼が叫びかけた時だった。
「このうまいものは、どうやったらくえるんだ?」
勝巳は、え、と目を丸くした。
緊張が切れたとたん、その場にへたりこむ。
「知らない、のか?」
信じられなかった。
この少年は、どういう人生を送っているのだろう?
外見は、勝巳より少し年下のようだが――。
「しらない、だから、おしえろ」
「材料とかも?」
「ざいりょう?」
「小麦粉とか、バターとか、砂糖とか」
「ああ」と少年は納得したように頷いた。「シンさまのたべものか」
「シンさま?」
もしかしたら、という予感がした。それは当たっていた。
「ここの、あとつぎだよ」
「店主の娘なのか――」
「むすめ?」少年はいぶかしそうに首をかしげた。そして、ニヤニヤと笑いだした。「うん、そう、むすめ。たったひとりのむすめ」
気に触る言い方だった。
「何か、複雑な事情でもあるのかい?」
「なんにも、オレちゃんはしらないもの、ひひひひ」
いやらしい笑いを浮かべたままの彼に、これ以上聞いても無駄だろう、と勝巳は思った。
「ところで、君は?」
「ん? だれ?」真顔で返される。
「だから――」勝巳は、そこで、少しだけ考えた。「オレちゃんの名前は?」
「JJってきごうが、オレちゃんのねーむらしい」
話していて、ひどく疲れる相手だと勝巳は思った。
「――じゃあJJ、僕はまたいつか美味しいものを持って、ここに来るよ」
「ギャオ!」
変な雄たけびをあげて、JJは勝巳に飛びついた。
「うわッ!」
勝巳はぎょっとした。
JJはとても軽かったのだ。
思いきり飛びつかれても、さほど動じないですんだくらいに。
勝巳は普通の体格だったし、大して鍛えている方でも無かったのだが……。
「オマエ、とてもいいやつ!」
「……そりゃあ、どうも」
JJはすぐに勝巳から離れ、洋菓子を貪り食うのを再開した。
「オマエ、いいやつ!」
いいやつ、と呼ばれていたが、その当人はあまり嬉しくなかった。やや青ざめてさえいた。
「う、うん、ありがとう」
「だから、いいことをおしえてやる」
「いいこと?」
教えると見せかけて、危害を加えるつもりなのだろうか?
「いいんだ、別に」
勝巳は首を横に振った。
「別に、僕は知らなくてもいいんだ」
その程度の危険な誘惑なら、はね退けられた。
しかし、
「シンさまたちについて、オマエはしりたくないのか?」
ひどい誘惑だ、と勝巳は顔をゆがめた。
JJが悪魔のように思えた。一番揺さぶられたくない心の奥を、ずばりと無遠慮に突き刺された気がした。
だが――彼は逆らえなかった。
「……知りたい」
こっちへ来い、と手招くと、JJは、勝巳の耳元で囁いた。
「イーブンな代償さえ払えば、あいつらはどんな願いだって叶えるぜ」
「!」
全身に、鳥肌が立った。
理性の働く前に、上ずった声で、彼はたずねていた。
「どんな願いでも……?!」
「代償がそれと同等なら、さ。――まあ、考えてみるといい」
――ぐい、とJJは勝巳を押しやると、むしゃむしゃと食べ始めた。
もう興味がないらしく、勝巳の方を見ようともしなかった。
勝巳は、無性に逃げ出したくなった。
怖かった。
JJよりも、彼女が怖かった。
彼女は、勝巳に、いったい何を叶えさせたいのだろう?
「JJ、君は」
階段まで後ずさってから、勝巳は無理に自分を落ち着かせて、ある疑問を口にした。
「願いを叶えたことがあるのか」
「ん」
気軽な返事だった。
「あるよ」
下唇を少し噛んだあと、勝巳はとうとう、訊ねた。
「――何を代償に、どんな願いを叶えたんだ?」
「ん~」
JJはマドレーヌを丸ごと飲み込んで、にやにやと笑いながら言った。
「わすれた」
同等の代償――命と吊りあうものなど、やはり命しか無いのだろうと、勝巳は思った。
もしかすれば、莫大な金で、命を買うこともできるのかもしれないが――いくら彼が大事に育てられていても、そこまでの金は持っていなかった。
第一、JJの発言だって、これといった確証が無いのだし――。
そもそも近未来に自分は死ぬだろうかと冷静に考えている自分も、どうかしている。
どうしようかな、と暗い裏路地をとぼとぼと歩きながら悩んでいたが、彼は突然、それどころではなくなった。
小さな、ぞわぞわと背筋を這うような、気味の悪い声が聞こえたのだ。
次はあの子にしよう
子犬のしっぽの男の子
そういえば、最近、この都市では行方不明者が増えているという話で――。
「!」
いきなり逃げ出せば、気づかれる。彼は荒くなりそうな呼吸を、必死で抑えて、人通りの多い方へ、出ようとした。
その間も、声は響いてきた。
先に足の親指は切ってしまおう
そうすれば走れなくなる
ふざけるな、と勝巳は歯を食いしばった。そうしていないと、混乱と恐怖で、おかしくなりそうだった。
なぜ、いきなり聞こえるようになったのか?
どうして自分が狙われているのか?
何も分からないまま、ただ声が徐々に這いよってくる。
男の子の成分は
たんぱく質と可愛い泣き声
このクソ野郎。
勝巳は内心で悪態をついた。この変態に、自分が――。
だが、それも気休めでしかない。
じきに、彼は、ハァ、ハァという、まぎれもない喘ぎ声が、背後の暗がりから忍び寄ってくるのに気が付いた。
「う、わ、あああああああああああああああ!!!」
その瞬間、ぶつり、と彼の中で何かが限界を越えた。何かに、思いきりはじかれた様だった。まっしぐらに、明るい方へと走り出した。
彼をそうさせたのは、どうしようもない恐怖、嫌悪感、逃げたいという衝動の混じりあった結末だったのかもしれない。
つんざくような悲鳴を上げたつもりだったが、実際は、空気が喉からもれただけだった。
大して鍛えてもいなかったので、すぐに息があがった。
それでも、恐怖だけで、それに追い立てられるように彼は走った。
逃げる子は悪い子だ
喘ぎ声は彼の首筋にかかるほど寄ってきていた。
なまぐさい息だった。まるで墓場から這い出た屍のような。
かびたような体臭も酷かった。
勝巳は、無理やりに息を止めて走った。
路地からもう少しで、人通りのある道へ出られる所に、たどりついた。
そこには、光が差していた。
助かった――勝巳が、安堵した瞬間だった。
背後から肩を強く掴まれた。
そして、
「捕まえた」
ひどく嬉しそうな一言が、耳元で囁かれた。
――時間が真っ黒に染まって、止まった。
そして、勝巳は、積み上げていた何かが、がらがらと、もろくも崩れていく音を聞いていた。視線は凍りついたように、目指していた明るい世界を、ただ見ていた。
――もう少しだったのに。
勝巳は、案外冷静に思った。
これで、もう僕はお終いなのか――?
「テメエ何してやがるんだ!」
怒鳴り声に、勝巳ははっと我に帰った。
肩の手を、身をよじって振り払う。
すぐに逃げていく足音を聞いて、ああ、と止まっていた呼気を吐き出した。
「た、隆――」
隆は、原付に乗っていた。勝巳はそのエンジン音など、まったく聞かなかった。とんでもなく動揺していたのだろう。
「おい、しっかりしろ!」と、原付から飛び降りて、真っ青な勝巳を隆は引き起こす。
「あれは」ひりつく喉から、強引に勝巳は声を出した。「誰だった――?」
隆は、めずらしく言葉に詰まっている様子だった。
「……ミイラだった」
包帯で顔をぐるぐる巻きにしていたのだろうか――振り返らなくて、正解だったと彼は思った。
「そうか」
勝巳が落ち着いたのを見て、隆は倒れた原付を起こした。
「なァ、アレだ、こういう時は、ケーサツに行こうぜ」
「……2ケツでか?」
ただでさえ隆は、普段から警察に厄介になっているのだ。
「非常事態だろ、グチャグチャ言ってんじゃねーよ」
殴ってでも連れていくぞ
重ねて、そういう直情的な声が聞こえてきたので――つい、勝巳は苦笑してしまった。
どうやら、心の声というヤツらしい。
だが、どうして聞こえるようになったのだろうか?
襲われたことで、感情が高ぶったための、一時的なものなのだろうか?
「ああ、うん――」
バランスを取りながら、原付は発進した。
「あのさ」
言い忘れていたことを、勝巳は思い出した。
「おう」
「ありがとな」
「別に気にすんなよ」
必ずヤツをブチ殺す
隆なら本当にやりかねないと、慌てた勝巳は釘を刺した。
「生かして、思い知らせてやろうよ」
「!」
原付は黄信号で急停止した。
隆の性格なら、赤であろうとそのまま進むのだが。
「どうして分かった?」
ここで答え方を間違えると、勝巳でさえ、殴る蹴るの暴行を受けるのだ。
「オマエの性格くらい、分かっているよ」
「はッ!頭のいいヤツは性格が腐っているなァ!」
隆はそれからごそごそと懐を探ると、後ろ手で、勝巳にある物を手渡した。
「う」勝巳は顔をしかめた。渡されたのが、すべすべとした鞘に仕舞われた、折りたたみ式のナイフだったからだ。
「これから警察に行くってのに、コレはいくらなんでも――」
「うるせーよ。護身用だっつーの」
渡し忘れたらどうするんだよ
「お前は極上のバカだろう」勝巳は、色々と、呆れ果てた。
「黙れっつってんだよ。――それでだな、襲われたら、絶対にマジで殺されるって瞬間まで、ソレは見せるんじゃないぜ。威嚇したら、逆にキレて襲ってくるってこともあるからな」
「いやに実戦的だな」と言い終えないうちに、彼のわき腹に肘が入れられた。彼は内臓を抉られるような痛みに脂汗を流した。
「とにかく、本当にボコられるって時に――メチャクチャにソレを振り回せ。必ず相手は怯む。想定外だからな、必ず一度は怯む。そのスキにオマエは逃げるって寸法だ」
「……改造スタンガンの方が、効果があるだろうに」もはや意地だった。
「――黙れっつっただろうが!」
うるさい野郎を原付から叩き落とそうと、隆は上体をひねった。
「――あ?」
思いっきり殴りつけてやろうとしていたのも忘れて、彼はまじまじと勝巳を観察した。
勝巳の瞳孔が開いていた。
だが、どこも見てはいなかった。口も薄っすらと開かれていて――呼吸は止まっていた。ただでさえ生白い顔は、まるで生きていないかのように青かった。
ある種のトランス状態に陥っているのだ。
彼が極限まで集中したときに、決まってこうなるのを隆は知っていたが――今は、そんな状況ではなかったはずだ。
「……お、おい!」
怖くなった時に、ふっと勝巳の目線が彼を捉えた。
「うおい!」ガラにもなく隆は怯んだ。
「隆」
原始的な感情を押し込めたような、勝巳らしくない、低い声だった。
変質者に襲われて頭がイカれたのか?
そう思うと、隆はぞっとしない気持ちだった。コイツはいつだってクールだったのに――。
「聞いてくれ、隆」
その正気を疑うほどの、異様さが、今の勝巳からは漂っていた。
ようやく、信号が青へと変わった。
「な、何だよ!もう走らすけど、落ちるんじゃねえぞ」
とろとろと原付が走りだした。
「信じてくれなくてもいいんだ」
本当にいきなりだった。勝巳はそう呟くと、隆の両脇から手を入れて、ぐい、と彼の体を引いたのだ――中央線側へ。
「!」
咄嗟のことで対応できず、隆は勝巳もろとも路面に転がった。
原付はガシャンと横倒しになり、サイドミラーが割れてしまった。
幸い、付近に車がいなかったからよかったものの――大事故になるところだった。
「て――テメエ!」
隆は完全に逆上した。
路面から飛び起きるなり、勝巳を蹴りつけた。背中を丸め、頭を抱えて、芋虫のように道路にうずくまる親友に、抑えようの無い怒りをぶち当てた。
いくら蹴りつけても抵抗しないので、髪の毛を掴んで引き起こし、その顔を気が済むまで殴りつけた。
爆発した怒りのために、そこが道路であるということも、手加減も、全て忘れていた。骨が折れようが、歯が欠けようが、知ったことでなかった。どうして勝巳がそんな行為に及んだのか、とても考える余裕は無かった。
「テメエなんか殺されりゃよかったんだ!」挙句の果てには、そんなことまで口走る。「助けなきゃよかったぜ」
だが、彼はすぐにその発言を悔やむことになる。
ドォン――と、落雷のような、轟音が響いてきた。
反射的に隆が辺りを探ると、通るはずだった道の先方が、夕闇の中で、真っ赤に炎上して、黒い煙が立ち上がっていた。
いや、勝巳がこの奇行に走らなければ、間違いなく今頃はその道路の付近を走っていただろう――それに気が付いた途端に、彼の背筋を冷たいものが流れた。
後で彼は知ったのだが、タンクローリーが坂道のカーブで対向車と衝突し、積んでいた化石燃料が、炎上しながら道を流れるという、大惨事が起きていたのだった。
「お、おい――」
ためらいながら、彼はぼろぼろの親友に声をかけた。
「悪かったな、ボコっちまって――」
だが、手を離すと、すぐに、勝巳は芋虫のように丸まってしまった。がたがたと、まるで病人のように震えていた。
「……ごめんなさい」
ごめんなさい、そればかりを繰り返す。
隆に怯えているにしては、様子が変だった。
――そもそも、勝巳は彼のキレやすく冷めやすい気性を、誰よりもわきまえていたはずなのに、どうしてあんな行動を取ったのか?
彼はようやく、その不可解に気が付いた。
「勝巳、おい、オマエ――!」
動こうとしない勝巳を抱き起こした時だった。
隆は、本当にどうしていいのか、分からなくなった。
彼は泣いていた。泣きながら、頭を抱えて、延々と謝罪の言葉を繰り返していたのだった――「助けられない、ごめんなさい、ごめんなさい――怖いんだ、焼け死ぬのは嫌なんだ」
――夜美野高校のオカルト愛好会室では、クラス選試の終わった日に、気分転換だと、こっくりさんが行われていた。
勝巳は面倒だと思い、本に夢中なふりをして、参加していなかったが、園原まゆみや自称・霊感少女たちが、和気あいあいとやっていた。
「こっくりさん、こっくりさん、私はAクラスに上がれますか?」
耳を澄ますと、どうやら話題はもっぱらクラス選試についてらしい。
「うわ、『あ、が、る』だって!よかったね!」
「やった、頑張ったかいがあった!」
「じゃあ――」前が、いい反応だったので、そのついでに、という感じだったのだろう。「私は好きな人と両思いになれますか?」
自分がその人だったら、と勝巳は考えた。
恋愛に関して、こういうことをアテにする女の子より、好かれようと必死に自分を磨く子の方を、好ましく思うだろう。
だが、人の好みに、あえて文句を言うつもりもなかったし、彼は基本的に、害もなければ毒も無い人間だった。
「きゃあ!」
どうしたんだろう、悲鳴が上がったので、勝巳はそちらに顔を向けた。
「ちょ、ちょっと、誰が動かしたのよ!?」
「ヤバいよ、これは!」
何かの騒ぎが起きているようだが――。
「静かに!」
園原まゆみの一声で、辺りは静まり返った。
「早く、こっくりさんを、お送りするわよ!」
その場が落ち着いてから、勝巳は、こっくりさんをしていた一人に、話しかけた。悲鳴を上げた当人に。
「アレ、騒がしかったけれど、何があったの?」
僕でよかったら相談に乗るよ?と付け足した。厄介事への対処法も、いくつか知っているし。
すると、少女は一気にまくし立てた。
「あのね――好きな人と両思いになれますか、ってこっくりさんに聞いたんだけど、こっくりさんがね――」
「止めなさい!」
横合いから急に怒鳴りつけられて、二人はびくりとした。
園原まゆみだった。
「伏木君、あなたって人には、本当にデリカシーがないのね」
「す、すみません――」彼女が苦手な彼は、謝るしかなかった。起立して、うなだれる。
「謝るだけなら、誰にだってできるわね」
「ええ、まあ――」
「そういうの、もういい加減にしたらどう?」
あまりの言い様に、勝巳も少しいらだった。
「……何を、ですか?」
元から、こういう人だが、流石にうんざりした。
「どうして、とか、何で、とか、一々深く尋ねることを、よ」
アダマスターでのことも、含まれているのだろう。
「……それは、すみませんでした。これから、気をつけます」
解放されてから、彼はぐったりとソファに寝そべった。
それで気が済んだのか、園原まゆみは、愛好会の顧問でもある図書館長と、何か楽しげに話し合っていた。
ねえ、とひそめた声で、さっきの女の子が話しかけてきた。
「大丈夫?」
「慣れているから、大丈夫だよ」
彼女のほっとした様子を見て、勝巳は誠実そうな顔で尋ねた。
「こっくりさんは、何て言ったんだい?」
「わ、私が――好きな人に殺されるって」
少女は、少し涙ぐんでいた。
「ど、どうして殺されなきゃならないのよ」
「恋愛に刃傷沙汰は、珍しくないよ。好きな相手にもよるけれど」
「でも――」
「こっくりさんが怖いのは、暗示によって、人の本音が出るからだよ。特に、誰かに不幸になってほしい、そういう負の本音がね」
少女は、泣きそうな顔になった。
「じゃあ、あの中の誰かが――!」
「本人だという可能性もある」
「!どうして私が――!」
少女の声が大きくなりかけたのを、勝巳は素早く抑えた。
「あくまでも可能性、それだけだよ。だから、ああいうのはやめた方がいいんだ。なまじ知ってしまうと、我慢できなくなるだろう?」
「――」泣きそうな顔のまま、少女は黙っている。
「で」
勝巳は意地悪く尋ねた。
「君はソイツのことが本当に好きなのかい?」
――ぱあん、という音がして、ああ、と勝巳はひりつく頬を押さえて思った。デリカシーの欠損には、やっぱりビンタか。
「そんなこと、関係ないじゃない!」
少女は叫ぶなり、部屋から飛び出して行ってしまった。
「伏木君、あなたは――」
園原まゆみや、他のメンバーの突き刺さるような視線を浴びて、彼はいたたまれなくなった。
「……本当に難しいですね、こういうことは」
いけしゃあしゃあと言った彼に、ついに心底怒ったのか、まるで烙印を押すかのように、園原まゆみは吐き捨てた。
「人間として最低じゃない」
――よりにもよって、そこで目が覚めた。
寝起きの気分は最悪だった。ひどい頭痛がした。寝返りをうったら、どすん、と下に落ちた。分厚い絨毯の手ごたえ。
「お早う」と聞きなれた声がする。
「……」
答える気もしなくて、彼はソファの上に戻って、寝そべった。
「おや、何か言ったらどうだい?」
「うるさい黙れ死ねババア」
「……そういえば、君は寝起きが最悪だったね」
まもなく、かんばしいコーヒーの香りに、勝巳はむくりと起き上がった。
彼の自室ではなかった。病室でもなかった。
社長室の見本のような、高級品に満たされて、つんと尖ったビジネス臭のする広い部屋だった。
彼は、何度か来たことがあった。
国際的な軍事産業会社WALHALL――この国では、民間警備保障などを主にやっている――の、支部社の頂の部屋。
そこの最高責任者が、彼の叔母ハヤテなのだった。
「どうしてここに――?」
彼はきちんと傷を手当されて、毛布をかけられていた。
「君の友達がだね、うちの支所に殴りこんでくれたのだよ。最高取締役を出せ、非常事態だ、とね」
彼女はくすくすと笑いながら、いい香りのするコーヒーが並々と注がれたカップを、彼に渡した。
「バカだ、特上のバカだ」勝巳は確信した。「この前、窓ガラスを割って、連行されたくせに」
「だが、彼はこうするしかなかったんだろう?」
きっと、彼女が直々に隆を尋問したのだろうと思った。
病院に勝巳を連れて行けば、通報されて、今度こそ退学処分を受けるというところまで白状させたのだ。
「まあ、奇縁とはいえ、彼は私と会ったことがあるからね。うちの顧客の窓ガラスを割ってくれた際に」
元は海外で、軍隊相手に商売をしていた人なのだ。一見、物腰は穏やかだが、敵に回すと本当に怖い。
「まあ、散々ボコってくれましたからね――」
「私の前で土下座されたのだが、あれには閉口した」
だが、と叔母は切れ長の目で、じっと勝巳を見すえた。
「君が私や現状を認識できず、ついに失神までしたほどの恐慌状態に陥っていたのだけは、あれだけは違うと言い張っていたのだよ」
「ハヤテさん」
勝巳は、コーヒーをすすりながら言った。
「どうしたんだい?」
「僕は、どれくらい頭のいい人間だと思いますか?」
「WALHALLの研究・開発部門には、君程度の人材なら溢れている」
だが、と続けた。
「君は他人の心理を把握するのが巧い。そのメソッドを意識的に流用すれば、特定の状況の分析や、その操作もできるようになるだろう。営業部門には、ぜひ入ってほしいところだ」
「……」
それにしても、美味しいコーヒーだ。叔母の性格がそのまま反映されているような、シャープな味と香り。ごめんなさい、と勝巳は呟いて、言った。
「――だが、私個人としては絶対に入れたくない。万が一、あんな目に遭ったら――」
「勝巳!」ハヤテは叫んだ。
いきなり彼女に両肩を掴まれたので、彼はコーヒーをこぼしてしまった。
「どうして私の考えている事が分かった!?」
「ハヤテさん」
だが彼の目は、今や中空をさ迷っていた。顔色は青ざめていき、唇をかみ締めて――わなわなと体を震わせると、
「才葉工業の第一工場が、もうすぐ爆発する――劇薬が工場の敷地内から流出して――また、何人も死んでしまう」
膝から崩れ落ちた。
「勝巳! いったい何を言いたいんだ――」
ハヤテは戸惑った。
「もうすぐです、間に合わない、まただ――」
勝巳はソファに倒れると、毛布に顔をうずめて動かなくなった。
「――」
ハヤテは、だが、すぐに秘書から、山奥の化学工場がなぜか爆発して、劇薬が川へ流れこみ、近隣の住民から次々と被害が出ている――その中には彼女の会社が警備をつとめている、ある事務所からの報告もあったのだ――と知らされた。
その対応に追われた後で、彼女が社長室へ帰ると、勝巳は窓の外を見つめていた。高層ビルの天辺からの夜景に見とれているのだろう、彼女が近づいても、反応が無かった。
「勝巳」とハヤテは呼びかけてみた。
「ああ、ハヤテさん」と甥っ子は振り返る。
「あれの説明してほしいのだが――」
「僕にも分からないんです。だから、憶測でしかないのですが――」
彼らは、お互い自身の正気を疑いながら、同時に言った。
「「未来予知」」
「多分。でも、どこか奇妙で」勝巳は物憂げにため息をついた。
「何でもいい。言ってごらん」
「……化学薬品の工場というのは、爆発や火災を、何よりも恐れて建てられた施設だと思うんです」
「薬物汚染など、ましてや――という事かな?」
「ええ」
「タンクローリーも、そういうものだと思うんですが……」
「人間というのは、何をしでかすか、常に想定外だよ。テロなど、まさにそれだ」
とんでもないものなのだ、と彼女は言った。
「今度の事も、設備に不具合があったのかもしれない。管理体制に不備があったのかもしれない。つまり、人災かもしれない。あるいは、自然災害――天災かもしれない」
とうとうと諭すように説くハヤテに、勝巳は何かの直感を得て、信じられないような推論を――自分でも正気を疑いつつ――作り上げた。
「人間でも自然でもない第三者によって、引き起こされたとしたら?」
静かに、叔母は首を横に振り、厳しいが穏やかな目で、じっと彼を見つめた。
何かの権力を掌握している者の寛容さと、傲慢さが、この一室の空気のように、つんと彼の鼻を痛ませた。
「勝巳、もしそれが事実だとしてもね、私が頷くことはないだろう。そうでなければ、私達にも対処の仕様もあるからね」
「ハヤテさん」勝巳は、叔母が顔色を変えるだろうことを覚悟して言った。「あれを使わせてくれませんか」
「ダメだね、とても」
あっさりと彼女は断った。
「私が、あんなものの使用許可を、可愛い甥っ子に下すと思うかな?」
「ハナから思っていませんよ。でも――」
勝巳は意固地を装った。
「隆のヤツ、使用方法を僕にバラしたんですよ。その効果もね。アイツが耐えられたことなら、僕だって耐えてやる」
「珍しく強情だね」
「『人は死んだらゴミになる。だから死ぬ前に暴れてやれ』、隆の口癖ですよ。僕にだって暴れたい時があるんです」
ハヤテは、やや眉をひそめ、唇を引き締めてみせた。参ったと感じた時に、彼女はそういう表情をするのだった。
「……彼は君の悪友だな、本物の」
勝巳は、否とも是とも言わなかった。そして、
「いつならあれは空いていますか?」
「使いたがる人間は今のところ私以外に居ないから、いつでも空いているよ」
ハヤテはそう言うと、デスクに両手を置き、すっと窓側へ押しやった。重量感を放つそれは、意外にも軽やかにすべり、下にあった巨大な銀の揺りかごのような装置が浮上した。大きな揺りかごのようだったが、実は鋼鉄の処女と同じ、拷問機具のようなものだった。
「これが開け方だ。秘書に言えば、この部屋に君を通すようにしておく」
「叔母さん、ありがとう――」
勝巳はほっとしたように笑みを浮かべた。だがハヤテは苦笑して、
「叔母さんと呼ぶな。私は君の親戚の中でも、ろくでなしの部類に入る人間だ」
「……僕は好きなんですけどね、ハヤテさん」
「そうかい、感謝するよ」
物騒なものを囲みながら、二人は和やかな雰囲気だった。
と、扉がノックされて、秘書が入ってきた。
「失礼します、先ほどの化学工場爆発に併発する事務所汚染の件ですが――」
そこまで口にして、秘書はやや迷惑そうに勝巳を見た。
「あ、ハヤテさん、じゃあ、僕はこれで」
仕事の邪魔にならないよう、勝巳は軽く会釈してから退出した。
携帯が懐にあるのを引っ張り出し、着信履歴を確認する。一件だけ、糸辺隆がかけてきていた。ほんの少し前、ハヤテと彼が話していた時だ。
そして2度目にかかってきたのを、勝巳はやれやれと呟いて、取った。
『よう』
いつもの調子だったので、彼は切なくなって肩を落とした。ヤツはバカだと、しみじみ思った。だが、一々気にしていれば、友人というものは長くやっていられない。
「ようじゃねえよバカ。お前は常習癖のように警察沙汰寸前の真似を起こしやがって、あ」
エレベーターが着いた。人が降りた気配を感じて、勝巳は体を廊下の隅に押し付けて隠し、社員らしいスーツ姿の男をやり過ごしてから、それに乗った。一階のボタンを押す。
『何だよ、いいじゃねえか、気にすんな』
「お前にとって生きるってのは、思う存分に暴れるってことだろう」
『いきなり何だ?ま、当たっているがよ』
「お前の所為だけど、お前のおかげでもあるからね」
『何か上手く行ったのか?』
「まぁね。死に近づけば、何か運命が分かるかもしれない」
『は?』
「いや、何でもない」
そうか、と隆はそれ以上詮索しなかった。
『ところでさ』
「うん、どうした?」
『あ――やっぱ、いいわ。後で話す』
後で話す?隆の性格上、そんな事は滅多に無いのだ。勝巳は変に思って、
「本当にどうしたんだ?お前らしくないぞ」
『うるせえ。じゃあな!』
強引に切られてしまい、もう一度かけ直しても切られたので、勝巳は首をかしげるしかなかった。
かつみんとたかしのせいしゅんゆうじょうものがたりのぜんはん。




