番外編.ディアンの憂慮。
小鳥の囀る声で目覚めたレナードはそのまま窓辺へと行き、勢いよくカーテンを開けた。
外は明けゆく太陽の爽やかな光に包まれている。
いい一日になりそうだ、とレナードは――。
「思えるかー!!」
と、太陽に向かって吠えた。
その声に驚いて小鳥達は慌てて飛び立っていく。
「朝から騒々しいですね、レナード」
溜息混じりにディアンはレナードを窘めて、そのまま優雅にお茶の入ったカップを口へと運んだ。
そんなディアンへと向き直ったレナードは、いつもは優しい曲線を描く眉を吊り上げる。
「ディアン! なんでお前が俺の寝室で朝っぱらからお茶なんか飲んでるんだ!? メーシプ!! お前も呑気に給仕なんてするな!!」
空になったディアンのカップにお茶を注いでいたメーシプがその言葉に動きを止めた。
「ディアン様、どうやらおぼっちゃまは寝起きが宜しくなかったようでございます」
「まったく……それで人に当たり散らすとは困ったものですね……」
「いやいや、待て待て……俺が悪いのか? そうなのか? いや、そうじゃないだろ? 目覚めた自分の枕元でお茶飲んでる奴なんかがいたら、誰だって怒るんじゃないのか?」
あまりにも当然のような態度で寛ぐディアンに、レナードは怒る自分が間違っているのかと錯覚しそうになる。
「そもそも、俺の寝顔なんか見て何が面白いんだ!?」
「おや、レナード……寝ているのに自分の寝顔が面白くないと、なぜわかるんですか?」
「え?……お、面白いのか?」
怒りに任せた問いかけに、心外だと言わんばかりに問い返されレナードは焦るのだが、ディアンはメーシプとチラリと視線を合わせただけで、再びカップを口へと運ぶ。
「な、なあ、俺の寝顔って面白いのか?」
不安そうに顔を顰めるレナードを無視してディアンは話題を変えた。
「ところでレナード、今日は確かキャロライン嬢とデートでしたね?」
「無視かよ!……って、え? なんで知ってるんだ?」
「運良く私も今日は休みなので、ご一緒しようと思いましてね」
「いやいやいや、待て待て待て……おかしいって、何かおかしいって……いや、確実におかしいって……俺はとっくに成人した大人だ。うん。なぜ、その俺が兄同伴でデートに行かなければならないんだ?」
冷静に、慌てずに、落ち着いて対処しようと心掛けていたレナードだったが、ディアンはそんな事もわからないのかと言わんばかりに大きく溜息を吐く。
「それは私が暇だからです」
「理由になってねえよ!!」
やはり冷静に対処するのは無理らしいレナードの突っ込みに、再びディアンは溜息を吐いた。
「しょうがないですね、では三つ選択肢を差し上げましょう。一、私を伴ってデートに行く。二、近くに私の姿を見ながらデートをする。三、常にどこからか私の視線を感じつつデートをする。さあ、どれにしますか?――ああ、心配しなくても寝所までは付き合いませんから、お会いになってすぐに……と言うのもありですかねぇ」
「……一番でお願いします」
爽やかに微笑むディアンに、何かを諦めたらしいレナードだった。
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「あの……レナード様?」
「キャロライン、これは俺の双子の兄のディアンだ」
「……ええ」
隣へチラリと視線を向け、ディアンを不本意そうに紹介するレナードに、キャロラインは「言われなくても分かります」との言葉を賢明にも飲み込んだ。
「初めまして、キャロライン嬢。お噂は兼々お伺いしておりますよ」
「ひっ!!」
爽やかに微笑んでいるはずのディアンを見たキャロラインはなぜか青ざめ、まともな挨拶を返せなかった。
その日、街中にある貴族の子女達が利用する人気のサロンはかなり客足が悪く、いつもは賑やかな店内も静まり返っている。そんな微妙な空気の中、ぎこちなく会話は進んでいったのだが、突然レナードが立ち上がった。
「すまない、キャロライン。王宮に侵入者が現れたようだ」
それだけ言うと、レナードはあっという間に消えてしまい、後に残ったディアンとキャロライン。
優雅にお茶を飲むディアンとは対照的に、キャロラインはそわそわと落ち着かない。
「キャロライン嬢」
「はいっ!!」
「お父上のファンテ男爵はお元気ですか?」
「え、ええ!!」
「そうですか、それは良かった。先頃のサンドル王国とマリサク王国の戦の影響で取引先を失ったと……それどころか大きな損害を受け、大変な負債を抱えてしまったと伺ったものですから、心配していたのですよ」
「……」
「負債総額は確か、三億――」
「あのっ!! 私、用事を思い出しましたので!! こ、これで失礼致します!!」
慌てて立ち上がったキャロラインはディアンの返事も待たず、駆け出す勢いでサロンを後にしたのだった。
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「おかえりなさい、ディアン」
屋敷の居間に入った途端、声を掛けられたディアンは、驚く事なくその相手に微笑みかけた。
「母上、お戻りになられていたのですか?」
「ええ、レナードに恋人ができたと聞いて。是非、紹介してもらおうと思ったのだけれど、一足遅かったようね?」
「ええ。恐らくその機会はないと思います。申し訳ありません、母上」
アンジェリーナの向かいのソファにゆっくり腰を掛けると、申し訳ないと思っている様には全く見えない顔でディアンは謝罪した。
「で、いくらなの?」
「正確には確認をしないと分かりませんが、三億程ですよ」
「そう。で、どうするの?」
「どうするも何も……どうせレナードはすでに用意しているんでしょうから?」
「はい、その様に申し付かっております」
側で黙って控えていた執事のメーシプが頷く。
「では、それと同じ額を侯爵家の方から回して、レナードの財産に穴埋めしておいて下さい。もちろんレナードには悟られないように」
「かしこまりました」
メーシプへ指示するディアンの言葉を聞いて、アンジェリーナは眉を上げた。
「あら、素直に払ってあげるの?」
「ええ。元々レナードは彼女の家に援助するつもりだったのですから、それを止める事は出来ませんよ」
「あの子は本当に……甘いわね……」
「父上にそっくりですからね。目的を持って自分に近づいて来た者達を、承知していながら受け入れるのですから、どうしようもありません」
二人の間には暫く言い様のない沈黙が落ちた。
「ごめんなさい、ディアン」
「――なぜお謝りになられるのですか? 私は母上の……父上と母上の子供として、レナードと共に生まれて来れた事だけは神に感謝してもいいと思っている程に嬉しいのですよ。それに、レナードの存在は私を救ってくれているのですから」
「ディアン……私は貴方を愛しているわ」
「もちろん、存じておりますよ。母上の愛情を疑った事など一度もありません」
「……ありがとう」
「いいえ、お礼を言われる様な事は何も。さあ母上、美しいお顔をいつまでも曇らせているのはおやめになって下さい」
ニヤリと笑うディアンに、アンジェリーナもその顔から愁いを晴らして同じ様にニヤリと笑い返した。
そして今度は、先程とは違った明るい沈黙が流れる。
「貴方の様にいい男がいつまでも独りというのもどうかと思うわ。早く素敵な女性を見つけなさいな」
「さあ、それはどうでしょうかね。今は愛すべき手のかかる弟達の面倒を見るだけで精一杯ですから」
「かわいい弟達の面倒を見てくれるのは母親として嬉しい限りだけれど、あまり無茶はしないでちょうだいね。昔……学院に通っていた頃の様に……」
「あれは若気の至りですよ。今はもう少し上手く立ち回れる様になりましたから、ご心配には及びません。それでは私はちょっと王宮の様子を見て参ります」
そう言って立ち上がったディアンに、アンジェリーナは呆れた声を出した。
「貴方の部下達が侵入者の真似事までするとは知らなかったわ」
アンジェリーナの言葉にディアンは再びニヤリと笑い、その場から消えた。
**********
「ディアン!! なんでお前の部下達はわざわざ王宮に忍び込むんだ!?」
「いったい何をそんなに怒っているんですか? いい訓練になったでしょうに。ああ、欲求不満ですか?」
「違うわ!!――とにかく、手続きを踏んでちゃんと王宮門から入る様に指導しておいてくれ!!」
「次からは、気を付けるように伝えておきます」
「次こそは、だ!!」
怒りが治まらない様子でレナードが消えてしまうと、それまで黙って二人のやり取りを聞いていたルークが小さく息を吐いて、口を開いた。
「ディアン、お前ちょっとレナードに対して過保護すぎないか? あいつだって十分わかって――」
「おや、嫉妬ですか?」
「……誰に、何に対してだ?」
「私は陛下の事も愛しておりますので、ご心配なさらないで下さい」
「……」
ルークはそれ以上の気味悪い会話を続けることは止め、侵入者達――ディアンの部下達から集まった情報を元にした報告を聞く事にしたのだった。
花が現れる数十年前の出来事でした。