88.笑顔の裏側。
「ハナ様は素敵な方ね」
ディアンの執務室に連行されて――いや、案内していたレナードはアンジェリーナの言葉に頷く。
「ええ、もちろんです。芯も強くて頭もいいですし、控えめで――」
「レオナルド」
同意するレナードの言葉を優しく遮ったアンジェリーナの顔には呆れているような表情が浮かんでいた。
「レオナルド。女性はね、笑顔の裏に色々なものを隠しているのよ。それがわからないからあなたはあんな事に……」
「いい加減その話はやめて下さい!! そもそもあれは――」
大きく溜息を吐くアンジェリーナに反論しかけたレナードだったが、目の前に迫ったディアンの執務室の扉が開いた事で、その言葉を飲み込んだ。
「あれは? その続きを是非聞きたいですね、レナード」
開いた扉に凭れかかって爽やかに黒く微笑むディアンに、レナードはたた首を横に大きく振るだけだった。だが、ディアンはそんなレナードにさっさと見切りをつけて、アンジェリーナの手を取り、その甲に口づけた。
「お久しぶりです、母上」
「あら、私はずいぶん前から屋敷に滞在しているのよ? どうして久しぶりなのかしら?」
「きっと神の悪戯でしょう。私たちが出会わないように、すれ違いを仕組んでいるに違いありません」
「相変わらず、あなたの神は都合がいいのね」
「それ以外にどんな価値が?」
爽やかに微笑みながら交わされる二人の会話を聞きながら、レナードはそっとその場から去ろうとしたが、当然それは許されなかった。
「レオナルド、どこへ行くのかしら?」
「……ちょっと、そこまで?」
「レオナルド、久しぶりに親子三人そろったのよ? どうせ陛下からお許しをもらって――と言うより、陛下に命じられてハナ様の許に来たのでしょうから、時間はあるはずよ? これもきっと神様の采配ね。一緒に過ごさなければ申し訳ないと思わない?」
「……そうですね」
アンジェリーナの『神』も大概都合がいいのだが、レナードは諦めてソファに腰掛けたアンジェリーナの側に立った。
向かいに座ったディアンは満足そうにそれを見ていたが、アンジェリーナに向き直ると、その顔に皮肉の色を滲ませた。
「で、母上のご実家からは何と?」
「あら、他人事のように……あなたの伯父なのよ? それにしても、よくわかったわね? 私の元に兄から連絡が来た事を」
「ええ、私の大切な母上に何かあってはと心配で、常に気を配っておりますので」
「まあ、嬉しい事を。それで……あなたの伯父から手紙を預かったわ」
「ハナ様宛てに?」
「もちろんよ」
「え!?」
相変わらず微笑みながら交わされる二人の会話を黙って聞いていたレナードは思わず声を上げた。そんなレナードに構わず、アンジェリーナは持っていた小さな鞄から書状を取り出し、テーブルの上に置く。
ディアンはいきなりその書状を取り上げて開くと、読み始めた。
「おい!!」
驚くレナードを無視して、ディアンは早々に読み終わったその書状を懐へと仕舞う。
「サンドル王家は相当切羽詰まっているようですね」
「ええ、そうね。王籍から除籍して勘当した私にまで頼み込んで来るくらいだから」
サンドル王国は他国よりも非常にユシュタルへの信仰心が強い。
そして王家と神殿は密接に結びついており、神官達はみな王家に連なるものであり、王籍に在る者が多い。
アンジェリーナはレナード達の父親であるユース侯爵と出会った当時、サンドル王国の王太子と婚約中であった。王太子の正妃となる事が決まっていたのだが、家族の猛反対を押し切って、ユース侯爵と駆け落ち同然に結婚したのだった。
「母上……よろしいのですか?」
心配そうに顔を曇らせるレナードに、アンジェリーナはとっておきのドス黒い笑顔を見せる。
「無視すればいいのよ。あの陰惨な王城にハナ様がお出向きになられるなんて、とんでもないわ」
そう言うと、アンジェリーナは立ち上がった。
「さ、見たくもない息子達の顔も見た事だし、最後にあの無表情な顔でも見て帰ろうかしら」
「やめて下さい、ルークの機嫌が悪くなります!! 王宮の者達に迷惑です!!」
「それもそうね、ハナ様に何を暴露されたかヤキモキさせている方が楽しいわね」
「母上!! だから、何を言ったのですか!?」
「それはもちろん秘密よ」
「母上!!」
「いやだわ、レオナルド。女の秘密を詮索するなんて、男として最低」
「……」
「レナード、無駄な抵抗はやめて母上を馬車までお送りして来て下さい」
「あら、こちらのかわいくない息子も私をさっさと追い返そうとするのね?」
「何か問題でも?」
「ないわ」
アンジェリーナは再び脱力しているレナードを引き摺って、ディアンの執務室から出て行った。
それを見送ったディアンは深い溜息を吐くと、執務机に浅く腰かけ、腕を組んで考え込むように目を閉じたのだった。
**********
茜色に染まるサイノスの街を眺めながら、花はセルショナードの王都・コステイの事を思い出していた。
セルショナードの方が早くに陽は傾くので、もうコステイの街は宵闇に包まれているだろう。
花は込み上げる悲しみを抑えるかのように胸に手を当て、そして歌った。
昔、留学先で聴いたその歌は、神への賛歌なのか、愛の賛歌なのか、それとも壊れた世界を嘆く歌なのか。
愁いを帯びた旋律は、サイノスの街に物悲しく響き渡る。
それでもその歌声は優しい癒しを与え、人々の心に沁み込んでいったのだった。
歌い終わった花は、後ろからルークに抱きしめられた。
ルークの気配は感じていたので驚きはしなかったのだが、花は困った様に俯く。
「ルーク、ごめんなさい」
「……何かあったのか?」
花の頭に口づけて、その唇を柔らかな頬へとすべらせていたルークはその動きを止め、花の謝罪に訝しげに返した。
「髪の毛は自分で切ったんです。そのせいで心配をかけてしまいました」
先程、久しぶりにルークと夕食を共にするという事で、気合を入れたセレナ達にあれこれと世話を焼かれた時に、花の髪がルークの元へ届けられたと聞いて花は驚愕した。
まさか、あの時に切り落とした髪の毛がその様な趣味の悪い事に使われていたなどと、思いもよらなかったのだ。
ルークの腕の中で向きを変えた花は、ルークの顔が苦しそうに一瞬歪んでいたのを見逃さなかった。それでもルークはその顔に花を気遣うような微笑みを浮かべる。
「すっかり短くなってしまったな……」
肩までになってしまった花の髪を優しく梳きながら残念そうにルークは呟いた。
花はルークの優しさを感じて、ニッコリと微笑む。
「大丈夫です。私はムッツリスケベなので、またすぐに伸びます」
「……ムッツリスケベ?」
「え!?……いえ、大事なのはそこではなくて……」
気にしていない事を伝える為に、明るく冗談で返したつもりの花だったが、ルークには通じなかったようだ。恥ずかしくなった花は、慌てて話を戻した。
「あ、あの、本当にごめんなさい。いきなり髪の毛が届けられたら、驚きますよね。私の国では古来より髪の毛に魂が宿るって言われてて、呪いにも使われたりとか――」
焦って取りとめもなく話し続ける花の言葉を、ルークは遮るように尋ねた。
「いや、別に呪は施されてなかったが……気になるのか?」
「気になるっていうか……あれ?……ひょっとして、まだあったりとかしませんよね?」
「……あるが?」
「え?…………うそおおおおお!!!」
ルークの返事に花は一拍置いた後、まるで某有名絵画のように叫んだ。
幼い頃に、花が悪戯をするとなぜか髪を梳きながら言い聞かせられた、ナニーだった美津の言葉を思い出す。『髪は女の命と言うくらいですからね。綺麗な心を育てれば、髪も綺麗に輝くのですよ。でも悪い心を持てば、悪いものが髪に乗り移ってしまいますよ』と。
セルショナードの王太子から逃れようと花が髪を切り落としたあの時、花は酷く負の感情に囚われていた。だとしたら悪いものを喚び寄せてしまうかも知れない。
「なんで捨てないんですか!? 怨念が乗り移ったらどうするんですか!? 呪いの日本人形みたいに伸びたりするんですよ!? えんがちょなんです!!」
「……」
花の言葉の半分以上が理解できないルークだったが、とりあえず処分したいのだと言う事だけはわかった。
「……要するに、処分したいんだな?」
ルークの問いに花はブンブンと大きく頷いた。
先程まで、花を気遣いながらも心に淀んでいた陰鬱な気分が消えている事に、ルークは苦笑しながら何事かの呪文を唱えた。
すると、ルークの手元に少し大きめの文箱が現れた。
「それは?」
「ハナの髪の毛が入った――」
「ぎゃあああああ!!」
ルークの言葉を終わりまで待たず、花は悲鳴を上げて文箱から遠ざかった。
「……なぜそこまで怖がるんだ? 自分の髪だろう?」
「だからこそです!! 私は自分を知っているんです!! 髪は長い友達なんです!! 日本人の心なんです!!」
「……」
花自身、テンパっていて何を言っているのか分からないのだから、到底ルークに理解できるわけがない。
ルークは諦めたように大きく溜息を吐いた。と同時に、一瞬ルークの手元に青白い炎が浮かび上がり、あっという間に文箱も炎も消えてしまった。
「あれ?」
不思議そうにする花に、ルークは説明した。
「今のは攻撃魔法の一種だ。あれくらいの対象物なら、この世に塵一つ残さず消してしまえる」
「ええ!? すごいですね!!」
感嘆する花は、安心したような、嬉しそうな顔で微笑んだ。
「ありがとうございます」
「ああ……」
「ルークって便利ですね!」
「……」
ニコニコと微笑む花に、ルークは何も言わなかった。
その為、安堵のあまり洩れ出たその言葉が、ルークを微妙な気持ちにさせていた事に花は全く気付かなかったのだった。