87.母は強し。
「ルーク?」
ルークの起き上がる気配に、花は目を開けた。
部屋はまだ薄い闇の中だ。早朝というより、未明と言った方がいい時間だろう。
「ハナ……まだ寝ているといい、まだ夜も明けていない」
そう言って優しく花の髪を梳くルークを花はぼんやりと見ていたが、やがてゆっくりとその瞼を閉じた。ルークは穏やかな寝息をたて始めた花を起こさないようにそっと寝台から抜けだすと、苛立ちを抑えるために大きく息を吐き出して意識を集中させた。
先程、王宮に張った結界が反応したのだ。
どうやら早馬が着いたらしい。
なんの知らせかは分からないが、花から離れなければならない事にルークは苛立っていた。
今日は新月なのだ。
何も起こるはずがないと自分に言い聞かせるのだが、それでも不安は込み上げてくる。
闇の気配がないか、侵入者はいないか王宮の隅々まで魔力で探ると、いつもより多い警備兵とアポルオンの気が感じられた。
恐らく、レナードとディアンも同様に警戒しているのだろう。
その事にルークの心は少しだけ軽くなる。
最後にルークは、花と部屋に施した防御魔法に綻びがないか確認すると、眠る花の額に口づけて、その場から消えたのだった。
*****
「どこからだ?」
ルークは執務室に入った途端、その場に控えていたディアンを問い質した。
執務室にはディアンの他に、レナードとセインもいる。
「セルショナードからです。どうやら本日、リカルド殿下の即位式が行われるようですね。これがその内容です」
ディアンの差し出した書面を受け取ったルークは、サッと目を通して皮肉な笑みを浮かべた。
「なるほどな……この内容では各国は対応にかなり戸惑うだろうな」
「ええ、恐らく。ですが、セルショナード国内での混乱はそれ程ないでしょう。リカルド殿下は元々国民には人気がありましたし、王の変貌ぶりは噂になっていたようですから。まあ、名君が突如として暴君に変わる事はそれほど珍しい事でもありませんしね」
「……ああ」
ディアンの言葉に、ルークは考え込むように短く答えた。
穏やかだった君主が豹変し、暴君と化す事は、このユシュタールでは珍しい事ではない。それは皇家の 呪われた血とでも言うべきなのか。
実際、帝国でも三代前の皇帝は突如として暴君と化し、民に圧政を布いた。それを皇弟が討ち果たし、その座に就いたのだ。
それが二代前の皇帝となる。
しかし、その皇帝に子はなく、結局、暴君と化した三代前の皇帝の皇子であったルークの父親が継いだのだった。
「各国としても、この知らせを歓迎すべきなのかは迷うところでしょうが、ジャスティンが即位式に臨席する事から、帝国の意思は伝わるでしょう」
そこまで淀みなく意見を述べたディアンは、チラリとルークを窺った。
「で……陛下はどうなされますか?」
「……リカルドの即位を歓迎する祝辞と、祝いの品を適当に贈っておけばいいだろう」
「かしこまりました。ですが陛下、そのお顔では歓迎していらっしゃる様には見えませんが?」
「顔は関係ない」
ディアンの言葉にも、ルークは不本意そうに顔を顰めたままだ。
そのやり取りを微笑みながら見ていたセインが口を開いた。
「リカルド殿下の即位が終われば、すぐにでもジャスティンが講和の為の使者と戻るでしょうから、私はその為の準備を進めます。それにしても……セルショナードは運よく交渉の切り札を手に入れましたね」
「……別に、切り札にもならんだろう」
更に顔を顰めたルークに、レナードが笑いを堪えて言う。
「ルーク、意地を張るな。お前、大人げないぞ」
「うるさい。黙れ、バカ」
それから始まった二人の大人げないやり取りに呆れてディアンは出て行き、セインもまた、以前のルークに戻った事に安堵しながら出ていったのだった。
**********
うっすらと目を開けた花は、部屋がすっかり明るい事に気付いて慌てて起き上がった。
長椅子に腰かけて書類に目を通しているルークは、すでに身支度が整っている。
「……おはようございます。あの……寝坊してしまいましたか?」
気まずそうに挨拶をする花に、ルークは微笑んだ。
「いや、まだ朝も早い……先ほど早馬が着いた為に俺は早く起きただけだ」
「早馬?」
途端に花は心配そうに顔を曇らせた。
「悪い知らせじゃない。セルショナードから、リカルドの即位を知らせるものだ」
それを聞いて花はホッとしたのだが、ルークは少しのためらいを見せた後、花の傍に来て寝台に腰かけた。
「ハナ……これが先ほど届いたセルショナードからの布告の内容だ」
そう言って、ルークは一枚の書面を花に差し出した。
この内容はすぐに噂になる。面白おかしく馬鹿な貴族達に語られ花の耳に入るより、先にきちんと伝えておいた方がいい。
そんなルークの思いを読み取った様に、花は静かに書面に目を通した後、微笑みながら返した。
「ありがとうございます」
「ああ……」
花はルークの気遣いが嬉しかった。だから少なからず布告の内容に衝撃は受けたが、ルークに心配をかけないようにと微笑んだのだ。
だが、リコの苦しみを思うと悲痛な思いが込み上げてくる。それを隠すように、花は小さく息を吐き出した。
と、その小さな吐息までを奪うように、花の唇をルークの唇が塞いだ。
「んっ!?」
そのまま枕に押し倒された花は、何がなんだかわからずに何度もルークのキスを受けた。
甘い刺激にクラクラしている花の喉元へと、ルークの唇は伝い下りて鎖骨をなぞる。
そして――
「ぎゃおう!!」
花はいつもの? 悲鳴を上げた。
「な、何でまた噛むんですか!!」
首元を抑えて真っ赤になった花に、ルークは笑いを堪えている。それを見た花は怒ったようにムムっと眉を寄せた。
「怒りでもいいから、俺の事だけ考えてくれ」
小さな声で呟いた言葉は花には届かない。
ルークは立ち上がると、睨み付ける花に構わずその額に口づけを落とした。
「今夜は食事を共にしよう」
「――え?」
そう言ってすぐに消えてしまったルークに、花は怒りも忘れて驚いた。
セルショナードから届いた布告によってルークは忙しくなるのではないかと、花は思ったのだ。
またルークが無理をしなければいいなと、心配しながら朝の身支度に取りかかった花は、鏡に映った首元の歯形を目にして再びルークへの怒りを思い出した。
――― もう! ルークのバカ!! 変態!!
それから、ルークへ怒りを燃やしていた花は、リコやセルショナードへの心配と不安をすっかり忘れていたのだった。
*****
「ハナ様、あの……面会の申し込みが来ているのですが……」
申し訳なさそうに伺うセレナに花は読んでいた本から顔を上げた。
今日もゆっくり過ごそうと、面会の申し込みは全て断って貰っていたのだが、わざわざ花に伺うと言う事は、よほどの相手なのだろう。
「どなたなのですか?」
興味を引かれて尋ねた花は、その答えに驚いた。
「レナード様達の御母君でいらっしゃる、アンジェリーナ様です」
***
午後になって青鹿の間にやって来たアンジェリーナはとても美しく、成人した息子が二人いるとは思えないほど若々しかった。
そして、アンジェリーナは花を見た瞬間、吹き出した。
――― 今まで色々な反応をもらったけど、吹き出されたのは初めてだなぁ。
軽くショックを受けながら微笑んだ花に、アンジェリーナは謝罪した。……笑いを堪えながら。
「ご、ごめんなさい、ハナ様。違うのよ……クク、ハナ様を見て笑った訳ではなくってよ。ただハナ様が……」
全く説得力のない謝罪である。
アンジェリーナが落ち着くまで待って、やっと自己紹介を兼ねた挨拶をする事ができた花はソファへとアンジェリーナを勧めた。
「本当にごめんなさいね、いきなり笑ったりして。ハナ様があまりにも……ぷっ!」
――― もうこの際、指さして笑ってくれてもいいです……。
半分やけくそでそんな事を思っていた花だったが、嫌な気分は全くしていなかった。
「あの……私も未だに信じられないですから。陛下の側室にして頂いた事は――」
困った様に微笑む花に、アンジェリーナは慌てて遮った。
「あら、本当に違うのよ。ハナ様は噂通りお可愛らしい方だわ。ホント、あの子……陛下にはもったいないくらい。私が笑ったのは、ハナ様があまりにも……クク、陛下の気を纏ってらっしゃるから、おかしくて」
「はあ……」
チラリと花の右手小指の指輪を見てアンジェリーナは更に笑うのだが、花には何がおかしいのかさっぱりわからない。
「あの子……陛下はハナ様に愛の言葉を囁いたりするのかしら?……ぷっ!!」
「ええ!?」
昨晩の事を思い出した花は顔を赤くした。
「だって、あの無表情な顔でそんな、ぷっ、どの面下げて……あ、間違ったわ……クク、愛の言葉なんて!! ククク……ダメ、笑いが止まらない……」
――― えっと……なんと答えればいいのでしょうか……?
目に涙を溜めて笑いを堪えているアンジェリーナに花はなんと返せばいいのかわからない。
なんとか再び落ち着いたらしいアンジェリーナは、深呼吸を何度か繰り返すと、少し顔を引き締めて話し始めた。
「陛下はね……成人する前まではよく屋敷に遊びにいらっしゃったのだけど、私は一度も陛下のお声を聞いた事がなかったの」
「え……?」
驚きに声を上げた花だったが、続く話に更に驚く。
「陛下はお生まれになった時から産声も上げられなくて……陛下の乳母――と言っても何人も変わったのだけれど、その者達も一度として陛下のお声を聞いたことがなかったらしいわ」
そこでアンジェリーナは一旦言葉を切ると、お茶を飲んだ。
「それが、陛下が三歳におなりになった頃に分かったのだけど、私の双子の息子達とだけはどうやらお話しなされていたようで……ジャスティンが教育係についてからは陛下も少しは他の者ともお話しになられるようになったのだけれど……要するに恥ずかしがり屋さんだったのね……その陛下が……クク……愛の言葉を口にしていらっしゃるとしたらもう……笑わずにはいられないでしょう? そうよね!?」
「え? はい」
思わず条件反射で答えた花だったが、今聞いた話に戸惑うばかりだった。
――― というか、今の話を『恥ずかしがり屋さん』でまとめていいのでしょうか……。
微笑みながらも花は幼い頃のルークを想って胸を痛めていた。
しかし、アンジェリーナは再び笑い出している。
「でも……ハナ様が現れて下さってよかったわ」
「え?」
考え込んでいた花は、いつの間にか笑いの止まっていたアンジェリーナの言葉に驚いた。
アンジェリーナは先程とは違った柔らかな笑みを花に向けている。
が、すぐにその笑みはディアンそっくりの黒い微笑みに変わった。
「ディアンにしてもそうなのだけれど、陛下の女性関係を今まで誰も知る事が全く出来なくて……器用にも魔力の気配を上手くお隠しになってしまうのよね」
「そうなんですか……」
微笑みながらアンジェリーナの話を聞いていた花だったが、その内容には胸がチクリとしていた。もちろんルークの過去に女性が何人もいただろう事はわかっているが、やはり心は苦しい。
「……嫉妬はしても、それを表に出さないのがいい女だと私は思うわ」
「はい?」
いきなり話が変わった事に驚いた花だったが、ニヤリと笑うアンジェリーナはやはりディアンとよく似ていて、花は二人が親子だと実感せずにはいられなかった。
「それに器用な男って、嫌味で私はあまり好きじゃないわ。それに比べてレナードは……クク」
どうやらアンジェリーナは笑い上戸らしい。
しかし、急に背筋を伸ばすと顔を顰めて呟いた。
「いやだ、もう邪魔が来たわ」
その言葉と同時に、青鹿の扉が勢いよく開いた。
「母上!! 何を言ったのです!?」
血相を変えて、文字通り飛んで? 来たらしいレナードとは対照的に、アンジェリーナはその美しい顔に優しい微笑みを浮かべてレナードを見た。
「まだ何も。これからよ」
「母上、お願いですからやめて下さい!!」
「あなたがそこまで言うならしょうがないわね。じゃあ、五歳の誕生日にディアンからもらった――」
「人の話を聞いて下さい!! しかも子供の頃の話など……」
「あら、嫌なの? じゃあ、大人になってからの、あなたがあの積極的なお嬢さんに――」
「それもやめて下さい!! 息子の過去をバラして何が面白いんですか!?」
「あなたの反応」
「……母上……」
脱力するレナードに、アンジェリーナは更に言い募る。
「レオナルド、そもそも女同士の会話に割り込むのは無粋な男のする事よ。そして私は無粋な男が嫌い」
「誰のせいだと――」
「レオナルド」
優しく名前を呼ぶアンジェリーナの声に、その口を閉ざしたレナードとは逆に、花は疑問を口にした。
「レオナルド? レナードの事ですか?」
「ええ、ハナ様はご存じなかったかしら? 私はサンドル王国の出身なの。レオナルドは私の出身国でのレナードの呼称なのよ。レオナルドが嫌がるから、この呼び名で呼んでるの」
「なるほど」
楽しそうに笑うアンジェリーナの説明に、花は納得した。
「母上、後半部分の説明がおかしいです。ハナ様も納得しないで……」
「じゃあ、ディアンの事はなんて呼ぶんですか?」
「ディアンの事はディアンなの。あの子は反応がなくて面白くないのよ」
「二人とも私の事は無視ですか?」
「ディアンはサンドル王国では、何て呼ぶんですか?」
「ダイアンよ」
「え?……ダミアン?」
「……」
聞き返した花の言葉に、一瞬無言になった二人だったが、すぐに気を取り直したらしいアンジェリーナがニッコリ微笑んで立ち上がった。
「ハナ様、まだお疲れでしょうに、無理を言って申し訳ありませんでした。邪魔でしかない邪魔者が現れたので、私はこれでお暇致しますわ。またお時間のある時にゆっくりと女同士の話をしましょうね」
「ええ、是非。こちらこそ何もおもてなし出来なくて申し訳ありませんでした。とても楽しかったです」
花も立ち上がって返した挨拶にアンジェリーナは微笑むと、レナードに厳しい視線を向けた。
「さ、できれば息子であって欲しくないもう一人のかわいくない息子に会いに行くから、案内して」
「いやです」
「レオナルド」
「ディ、ディアンの執務室なんて、何度も行った事があるでしょう!? いい大人が一人で行けない訳じゃ――」
「レオナルド」
レナードの名を再び優しく呼んで、その言葉を遮ったアンジェリーナの顔は、美しさに輝いている。
「レオナルド、一つ教えてあげるわ……女の子には、例えまだ幼い子供でも大人の女性扱いしてあげるものよ? そして成熟した大人の女性には、少しくらい子供扱いしてあげるのが、いい男の条件よ。わかったかしら?」
「……はい」
その返事に満足したのか、アンジェリーナは花に退室の挨拶をすると、レナードを引き摺りながら出て行った。
それを見送った花は『母は強し』だな、と感心したのだった。