85.順番待ちは長蛇の列。
まだ陽も昇らない早朝、グッスリ眠る花を抱き寄せてルークは震える息を吸い込んだ。
花が再び腕の中に戻って来た喜びに、心が激しく揺さぶられている。
この上なく愛しい存在。
それなのに、昨晩は花に無理をさせてしまったとルークは悔やみ、今度は傷つけないようにそっと抱きしめて花の額にキスを落とす。
と、花がパチリと目を開けた。
「すまない……起こしてしまったな」
ルークは申し訳なさそうに花に声をかけたのだが、花は応えることなくルークの顔をジッと見たまま何度も何度も瞬きを繰り返した。
そして、いきなりルークの頬を軽くつねる。
「痛い?」
花の突然の行動に驚き、ルークは無意識に頷いてしまった。
すると花は急いで手を離し、優しくいたわるようにルークの頬を撫で、今度は自分の頬を強くつねると、その目にじわりと涙を浮かべた。
「……いひゃい」
ルークは慌てて花の手を取り、赤くなった頬をそっと優しく撫でた。
変わらず突飛な行動をとる花を愛しく思いながらも、まだ溢れる花の涙に心配になる。
「そんなに痛むのか?」
その問いに、花は小さく首を振ってルークにギュッと抱きついた。
「夢じゃない」
「ん?」
「夢じゃない。ルークがいる」
「……ああ」
「毎晩、夢を見たの。でも……」
涙を堪えて更に強く抱きつく花に、ルークはその感情を抑え切れなくなる。
花以上に強く抱きしめ、そして何度もキスをした。
軽く、深く、触れるだけのように、貪るように。
やがて花は背中にまわされた大きな手に安心して、再び眠りに落ちていったのだった。
***
微かな物音に花が目を覚ますと、ルークが身支度を整えていた。
「ルーク?」
「ハナ、起き上がらなくていい」
起き上がろうとした花をルークはすぐに制した。その言葉に花は甘えて、ボフッと枕に埋もれる。
身体に力が入らない。
それでも、目はルークを追ってしまう。
ルークは花と目が合うと、優しく微笑み寝台へと近づき腰かけた。
「ハナ……」
優しく花の髪を梳きながら、ルークは何か言いかける。
しかし、結局言葉にならないようで、そっとキスを落とすと、大きく息を吐き出して立ち上がった。
「今晩……遅くなるかも知れないが、できたら起きて待っていて欲しい」
ルークは花が大きく頷いたのを確認すると、屈んで再び花に軽くキスをして消えてしまった。
花は、初めてルークに「起きて待っていて欲しい」と言われた事に驚きながらも、幸せを噛みしめた。
――― 我ながら単純だな……。
昨日までの不安が嘘のように晴れていた。
当然忌まわしい記憶も、この先への不安もまだ花の中に在る。
それでも、ルークが傍にいてくれるなら、傍にいられるなら花は立ち向かえる勇気が湧いて来るのだった。
*****
ルークは自身の執務室ではなく、ディアンの執務室へと飛んだ。
レナードも瞬時に現れる。
「ルーク、どうした?」
滅多にディアンの執務室に足を踏み入れる事などないルークの行動に驚き、レナードはルークを見据えた。
と言うより、敢えてルーク以外を視界に入れなかった。
ディアンの執務室は、雑然とした自分の執務室やルークのそれとは違って、完璧に整理整頓が行き届いている。恐ろしいほどに。
その壁に並んだ書棚で何よりも場所を占めているのは、その背表紙に大きな文字で『レナード観察記録』と記された物。それが何十冊も並んでいるのだ。
そして、中には一冊だけ違う手蹟で『アポルオン観察記録』と記された物があるのだが、それは実はアポルオンがこっそり差し込んだものであり、中身は白紙である。
ディアンはあくまでもそれを無視しているのだが、アポルオンはその白紙の記録を開いては嬉しそうな吐息を洩らしているとかなんとか……。
更に、もう一つの大きな書棚に並んでいるのが、『○○伯爵家重要機密』などの、帝国の貴族達の家名と共に重要機密の文字が記された背表紙の冊子が並んでいる。そしてそれはよく見れば、帝国の貴族達だけでなく、七王国の王族・貴族の名も並んでいるのだ。
この執務室に侵入を試みようとした者達は、ディアン暗殺を企む者達の数十倍に上るのだが、未だかつて、それを果たし得た者はいない。
ディアンは突然現れたルークに驚きもせず、暗黒笑顔を見せた。
「おはようございます、陛下。それで、どのように為されますか?」
「ハナと私の前に二度と姿を見せない様に」
それだけ言うと、ルークはディアンの返事を待たずにその場から消えてしまった。
「え? おいっ! ルーク!!」
さっぱりわかっていない様子でルークを追ったレナードに、ディアンは愛情を込めた? 溜息を吐く。
二人の問答は、昨日花に面した伯爵令嬢――イザベラについてだった。
別にイザベラの行動に非があったわけではない。ただ、ルークが許せないだけなのだ。
それゆえ表立って処罰するわけにはいかず、ディアンへと任す事にしたのだった。
「さて、どうしましょうか……」
そう一人呟くディアンの顔は、それはそれは楽しそうなものであった。
イザベラの父親である伯爵の言動は最近目に余る。
本人は内大臣ドイルの腰巾着として、ドイルを隠れ蓑に上手く立ち回っているつもりなのだろうが、ディアンにしてみれば、目の前で裸踊りを見せられているくらいに目障りなのだった。
そして結局、イザベラの実家である伯爵家は、ディアンお得意の『生かさず、殺さず』によって零落していくのであった。
**********
レナードはうんざりしていた。
もうすぐ夜の刻(二十二時)になろうというのに、講和条件についての朝議は終わりそうにない。
そもそも今、条件について論じ合う事自体がおかしいのだ。議論する事は別にあるというのに。
しかし、大臣達は如何にセルショナードから絞り取れるか、平たく言えば、自分たちの懐にどれだけ入れられるかを論争しているのだ。
当然、セルショナードを属国にすべしという意見も出た。
これはルークの一睨みで潰えたが。
あまりの馬鹿馬鹿しさにレナードが思わず溜息を洩らした時、突然ルークが立ち上がった。
途端に議場は静寂に包まれる。
「これ以上は無駄だ」
それだけ告げると姿を消してしまったルークを追って、レナードもまた消える。
ディアンは唖然とした様子の大臣達に呆れながらも、口を開いた。
「今、我々が為さなければならないのは一日も早いセンガルの復興と、軍の補強、二度と他国からの侵入を許すことのない様に軍の配置の見直し、国境警備の強化などです。明日からはそれをお忘れなきようお願い申し上げます」
そう言うと、議会の終了を告げ、ディアンもさっさとその場から消えてしまったのだった。
**********
「ハァナ」
「ひゃうっ!!」
長椅子で本を読んでいた花は、突然耳元で甘く囁くようにルークに名を呼ばれて悲鳴? を上げた。
「もう! いきなり声をかけるのはやめて下さいって言ってるじゃないですか!!」
耳を抑えて真っ赤になった花は後ろに立つルークに文句を言うが、当のルークは嬉しそうに微笑んでいる。
そんなルークに、花はムムっと眉を寄せたが、すぐにその顔に笑みを浮かべた。
「早かったですね?」
遅くなるかも知れないと聞いていたので、深夜になるかと花は思っていたのだが、まだ二十二時を回った所だ。
「ああ……あまりに馬鹿らしいので、切り上げてきた。もう、いい加減あの―― 」
花の隣に腰かけたルークは、その言葉を切った。
微笑んで話を聞いていた花は、そんなルークに少し首を傾げる。その仕草が愛らしくて、ルークは思わず軽く口づけた。
花と二人でいる時に、あの馬鹿共の話をするのはあまりに無駄だと思えたのだ。
ルークは隣に座る花にもう一度キスをした。先程よりも深く。
唇を離すと、ルークは一度大きく息を吸った。
「ハナ……俺は以前、ハナを面白半分で側室にしたと言ったが……」
そこでルークは再び言葉を切った。花は心配そうにしてはいたが、黙って聞いている。
「俺は生涯、正妃も側室も娶るつもりはなかった」
「ルーク?」
花は思わずルークの手を握った。吐き出すように言うルークがとても苦しそうだったのだ。
それは以前、セルショナードの王太子が言っていた事に関係があるのかも知れない。『皇帝は皇太子時代に何人もの側室を殺めた』と。
だが花は、例えそれが事実だったとしても、無視する事に決めていた。大切なのは今のルークなのだから。
冷静に考える花の気持ちが伝わった訳ではないだろうが、ルークは花の握った手を握り返して微笑んだ。
「子を生す事が帝位に就く者の義務だという事もわかっている。だが、そんなものはどうでもよかった。……まあ、それは今も変わらない。それがジャスティン達にどれだけの負担をかけるかもわかっているのにな……。貴族達は妃を娶れ、子を生せと五月蠅いが、その一方であいつらは自分の帝位継承権が何位なのか指折り数えているんだ」
そう言って薄く笑うルークは、心底貴族達を嫌悪しているようだった。
「ハナはこの国の帝位継承権を持つ者達が何人いるか知っているか?」
「……百人くらいですか?」
「いや……はっきりわかるだけでも、五百人は下らないだろうな……」
ルークの答えにハナは驚き、目を見開いた。
そんな花にルークは微笑むが、その瞳には苦悩が宿っている。
「今、帝位継承権第一位に在るのは皇太子だ」
「え? でも……」
「ああ、今は空位だから継承権第一位の者は存在しない」
存在しない者が第一位の継承権を持っているなんて訳がわからない。
花の考えに同意するようにルークも苦笑を洩らした。
「そして第二位は……ジャスティンだ」
その言葉に花は再び驚く。その気持ちをルークは汲みとった様にゆっくりと説明を始めた。
「この世界では魔力が第一だ。魔力が強い者ほど優先される。よってそれは継承権でも表れる。もちろん、直系子孫が優先はされるが……それ以外においては、より皇統に近く、より魔力の強い者が優先される。よって今、このマグノリアでの帝位継承権はジャスティンの後に、ディアン、レナードと続く……そしてジャスティンの子であるクリストファーが今は何位だったか……が、あと十年もすれば第三位になるだろうな」
その説明で花は理解した。
あの時――セルショナード王がジャスティンに自身の最期を見届けるように懇望していたのは帝国王宮の侍従長にではない、第二位の帝位継承権を有する者に対してだったのだ。
とすれば、講和についてルークがジャスティンに全権を委ねたのも……。
「あれ? ジャスティンのお子さんは第三位になるんですか?」
母が先帝皇女ならば、ジャスティンよりも皇統に近いのではないか、そう思って花は聞いたのだが、その問いにルークは何故だか、嫌そうな顔をする。
しかし、諦めたように息を吐き出すと、再び口を開いた。
「帝位継承権は度々入れ替わる。リカルドが今何位なのかは知らないが、近いうちにあいつが第二位の継承権を得るだろう」
その言葉に花は心底驚いた。もう何度驚いたかわからない。
しかし、当然と言えば当然なのかも知れない。リコはクリストファーと同じ様に、先帝皇女を母に持ち、しかもヴィシュヌの名を冠す程の魔力を発現させたのだから。
考えたくはないが、ルークにもしもの事あればリコがマグノリア皇帝とセルショナード王とを兼任することになるのだ。
「まあ要するに、この魔力は別としても、俺の代わりはいくらでもいるという事だ」
自嘲めいたルークの言葉に、花は握り締めた手に力を入れて大きく首を振った。
ルークの代わりなどいるわけがない!
例え、ルークに魔力の欠片もなくても、花にはルークでなければダメなのだ。
ルークは花のそんな強い想いを読みとったのか、嬉しそうに微笑むと握った手に口づけた。
それから、おもむろに花の足元に跪く。
「ルーク?」
ルークは不思議そうに問う花の瞳を熱い眼差しで見上げた。
「ハナ、俺の指輪を受けて欲しい」
「ルーク!?」
今度は驚きの声を上げて立ち上がろうとする花を、ルークは握った手に力を込めて押しとどめる。
「……いやか?」
珍しく不安を含んだ問いに、花は慌てて首を振った。
――― いやなわけがない!! でも……。
「今は正妃の証と呼ばれているが……指輪は本来、男が愛する女に贈るものだ。独占欲の塊でしかないが……俺は二度とハナが他の男の指輪をしている所を見たくない。ハナを独占したいんだ」
そう言うと、再び花の涙に滲む瞳を見つめた。
「愛している」
ルークの告白に、花はただ頷くことしかできなかった。
胸に溢れる気持ちが言葉にならない。
それでも花の想いはルークに伝わった。
ルークは一度花の右手に口づけると、何事かを唱える。
次の瞬間、リコの時と同じように――いや、あの時以上に体中に甘い痺れが走り、花は目を閉じてルークの手をギュッと握った。
そして目を開けた花が見たのは、自分の右手小指に光る指輪。
それはルークの瞳と同じ綺麗な金色で、その中にはまるでプラチナに輝く星のように光が瞬いている。
「きれい……」
花は思わず呟いた。
その震える唇をルークが塞ぐ。
優しく甘いキスの後に、ルークは花を強く抱きしめた。
「馬鹿な貴族達が何を言おうと関係ない。正妃など、ただの称号でしかないんだ。俺はこの先の生涯、ハナ一人だけだ」
「――でも……」
花はいつまでこの世界にいられるのかわからない。いられたしても、魔力のない花はすぐに老いていくだろう。
そんな花の不安を追い払うように、ルークはキッパリと告げた。
「かまわない。俺の傍にいてくれるなら、ハナがしわくちゃの婆さんになろうが、どうなろうがかまわない」
花がいなくなった後に自分がどうなるのかは、わからない。だが花が存在する限りは、もう二度と離さない。
そう強く心に誓ったルークは、再び花を強く抱きしめた。
息苦しいほどの抱擁は心地よく、花は喜びに震える身体をルークにそっと委ねたのだった。