81.只今、戻りました。
「殿下! 今のはいったいどういう事なのですか!?」
「ハナ様はリカルド殿下のご正妃ではなかったのですか!?」
ルークと花が消えた後、セルショナードの臣下達からは次々と戸惑いの声が上がった。
マグノリアまで転移するという皇帝の驚異的な力にも驚愕していたが、それよりもなぜ皇帝が花を連れて行ってしまったのか――いや、そもそもなぜリコは花から正妃の証である指輪を外したのかが理解できなかった。
しかもその時に起きた出来事―― 花の右手小指から指輪が砕け散るように消えた時、花の纏っていたリコの気配までもが同様に散ってしまったのだ。
花が真実リコの正妃だったのならば、先程のように簡単に花からリコの気配が消える事など有り得ない。
それはユシュタールの民にとって周知の事実であり、常識であった。
「――あれは仮初めの指輪だ。無理に纏わせた私の気を指輪によって縛っていたに過ぎない」
「それではハナ様は……」
リコの答えを聞いた臣下の一人から思わず洩れ出た言葉がその場に落ちる。
いつの間にか、祈りの間には重たい沈黙が流れていた。
これからセルショナードは厳しい時代を迎えるだろう。
しかし、ヴィシュヌの名を冠したリコが王として立つのなら、そしてユシュタルの御使いと言われる花が正妃としてリコの隣に立つのならば乗り越えられる、国民もきっと共に困難に立ち向かってくれる。そう期待せずにはいられなかったのだ。
そんな臣下達の気持ちを理解しているリコは、大きく息を吐き出すと再び口を開いた。
「お前達も、本来ならマックスが――王太子がハナを正妃に迎えようとしていた事は知っているだろう? しかしそれがどんな結果をもたらすことになったか……私はそれを避ける為にハナを保護していたに過ぎない。時期がくれば彼女をマグノリアへと帰す約束だった」
つらつらと出て来る尤もらしい言葉にリコは自身で呆れていた。これではまるでリコが花の為に尽力していたようではないか。
いったいどれ程の嘘を重ねればいいのだろう。
母であるクリスタベルの予言がリコを縛り付ける。
「――ハナを王太子の正妃として帝国に揺さぶりをかけ、セルショナードの民に癒しをとクラウスは王へ進言していたそうだが……そもそもこの戦の目的はなんだったのか……」
吐き出すように小さく呟いたリコの言葉に答えはなかった。
いつの間にか姿を消してしまったクラウスの目的が何だったのか、答えられる者はこの場にはいない。
だが、全てにおいて責任があるのはクラウスではなく自分達なのだ。その事を自覚している臣下たちの気持ちは重い。
と、そこへ今まで沈黙を守っていたジャスティンが口を開いた。
「リカルド殿下には出来るだけお早く王位に就いて頂きますようお願い申し上げます。そうでなくては講和を進める事ができませんので」
その言葉に皆が我に返った。
ユシュタールに在る国は全て絶対君主制である。セルショナードに王がいなくては帝国と和平を成すこともできないのだ。
いつまでも後ろを振り返ってばかりいてはいけない、前を向かなければ。
「ジャスティン殿、申し訳ないが講和については今暫くお待ち頂きたい。我々は王と王太子殿下の崩御を国民に……国内外に布告を発し、急ぎリカルド殿下に御即位して頂くゆえ――」
「もちろん構いません」
この混乱を治めるには暫く時間がかかるだろうが、新しく王となるリカルドとセルショナードの政務官達の手腕を見るにはいい機会だ。
メルクの申し出に微笑んで答えたジャスティンは、最後に一言付け加えた。
「国内外には……ハナ様のお立場も明確に布達して頂きたい」
「――もちろんだ」
リコの強い返答にジャスティンは深く頭を下げたのだった。
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「ハナ、大丈夫か?」
なんだか『神様』に届けられて初めてこの世界に来た時の感覚に似ているような、ふわふわした気分だった花の耳に、ルークの心配そうな声が入って来た。
「……ハナ?」
花を守る様に抱きしめているルークの腕に僅かに力が入る。
ルークに心配をかけている事に我に返った花は慌てて目を開けるが、一瞬、眩暈を起こしてふらついてしまった。
「ハナ!!」
ルークは花に回した腕に力を入れて支える。切羽詰まったルークの声に、花は深呼吸を何度か繰り返して応えた。
「――大丈夫です……少し立ち眩みしただけですから」
ルークの心配に滲んでいる金色の瞳を見つめて微笑んだ花は、次第に周りに目を向ける余裕が出てきたのだが……。
「グっ!!」
危うく驚きの声? を上げそうになったが、どうにか堪える事ができた。
花とルークが着いたマグノリア王宮の月光の塔にある『祈りの間』には、多くの驚きに満ちた顔があったのだ。
レナードやディアンはもちろん、セイン、ガッシュ、グラン……そして、内大臣のドイルや外大臣のコーブ達までいる。
「あ……あの、只今戻りました」
なんとか動揺を抑え気を取り直した花はルークから少し離れ、深々と頭を下げた。
それに安堵と喜びに顔を輝かす者、残念そうな顔をする者といたが、その中でなぜかいるアポルオンが声を上げた。
「姫さん……ひどい顔だな!」
その言葉に花はハッとして、青ざめる。
言われた内容ではなく、アポルオンを見てリリアーナの石の事を思い出したのだ。
当のアポルオンは無言のディアンに制裁を受けながら、「ギャッ!!……ちがっ!!間違えたんです!!……ひどい恰好って……言いたかっ……」と悲鳴を上げていたが。
「どうした?」
花の顔色に再び心配そうに顔を曇らせたルークに、花は訴えた。
「私……リリアーナさんの石が……リリアーナさんが気を集めて作って下さった石が私を守って下さったんですが……」
上手く言葉を継げない花だったが、それでもルークは理解したようで安心させるように花の背を軽く撫でて微笑んだ。
「それは心配しなくていい。リリアーナは大丈夫だ」
ルークの言葉にホッとした花に、レナードが近づき声をかけた。
「ハナ……よく頑張ったな」
レナードの率直な言葉が花の心に沁みて涙が込み上げてくる。レナードの碧い瞳もいつもより輝き滲んでいるようだった。
しかし、レナードはルークに向き直ると、微かに怒りを含んだような声で諌める。
「陛下、無謀すぎです!! セルショナードからマグノリアまで転移するだけでも無茶ですのに、ハナ様までご一緒になど――ハナ様にどれ程のご負担が……」
レナードの小言をルークは全く聞いていない様子でセイン達に顔を向けると近づく事を許した。
すると、皆が駆け寄る様に近づき嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ハナ様がお戻りになられて本当に宜しゅうございました」
「あの……ご心配をおかけしました」
再び深く頭を下げた花に皆は慌てるが、その中、離れた場所にいるドイルが困惑したように声を上げた。
「陛下、これはいったいどういう事ですか!? リカルド殿下のご正妃になられたハナ様がなぜここに……それにハナ様の気配が……?」
その問いにルークの気が刺すように冷たくなっていく。
「――リカルドの正妃になったというのは偽りであった」
ルークの厳然とした言葉に一部の者達がざわめきだした。
そこへアポルオンを踏みつけていたディアンがルークへと近づき進言する。
「陛下、陛下もハナ様もかなりお疲れの様ですので、今日はもうお休みになった方が宜しいかと存じます」
ルークはその言葉に頷くと、ディアンへと耳打ちするように告げた。
「――急ぎ、セルショナードへの進軍を中止するよう伝えろ。セルショナード王と王太子が斃れた。リカルドが王位を継ぐだろうが、先程そのリカルドからの講和の申し入れを受けた。詳しくは後ほど話す……では、後を頼む」
ディアンがルークから離れ恭順の意を表したのを見届けると、ルークは花をそっと抱き寄せて囁く。
「ハナ、もう少しだけ頑張ってくれ」
花が不思議に思いルークへと顔を上げようとした瞬間、ふわりとした感覚が再び襲い、気がついた時には青鹿の間へと移動していた。
少し気分が悪いが、恐らくセルショナード王城からマグノリア王宮へとあまりにも遠い距離を転移した為に、平衡感覚が少し狂っているのだろう。
それでも花は自分よりもルークが力を使いすぎている為に、辛いのではないかと心配になる。
「ルーク……大丈夫?」
「大丈夫だ」
花の心配そうな問いにルークはすぐに答えると、そのまま花の頬にキスを落とす。急なルークのキスに動揺する花の耳にセレナ達の驚喜する声が入って来た。
「ハナ様!!?」
「――セレナ、エレーン……」
慌てて駆け寄ってくる二人に花は嬉しそうに応えた。
ルークは小さく溜息を吐くと、セレナ達へと花の背をそっと押す。
二人は泣き崩れるように花の足元で膝をついた。
「ハナ様……お戻りになられて……よかっ……」
いつもは冷静なセレナが嗚咽まじりに安堵の言葉を紡ぐが、上手くいかないようだった。エレーンに至っては、声もなく涙を流している。
花も同じ様に膝をついて、その瞳に涙を溢れさせた。
青鹿の間に戻り、セレナとエレーンに再会してやっと花はマグノリアに戻って来たと実感する事ができたのだ。
「セレナ、エレーン、ただいま。――心配かけてごめんなさい」
花の言葉に二人はただ首を振るだけだった。
暫く再会を喜んでいた三人だったが、やがてセレナが気を取り直した様に背筋を伸ばす。
「――私、湯浴みの用意をして参ります。エレーン、あなたはお茶の用意を」
目尻の涙を拭いながらセレナはそう言うと、花の手をそっと取って立ち上がる様に促し、自身も立ち上がる。そして、数歩後ろに下がるとずっと黙って見守っていたルークに深く頭を下げた。
「陛下、申し訳ございません。大変な御無礼を――」
「構わない」
ルークはセレナの言葉を遮ると、同じ様に立ち上がって深く頭を下げるエレーンにも顔を向けて命じた。
「二人とも、ハナは酷く疲れているから休む準備をしてやってくれ」
その言葉に二人は急ぎ動き出す。
確かに疲れていた花は、湯浴みの用意ができるまでソファに座ろうと向かいかけたのだが、再びルークに抱きとめられた。
「ハナ……」
心の底から絞り出したような、安堵と苦しみが混じったような声で名を呼ぶルークに花は不安が込み上げてくる。
やはりルークは辛いのではないだろうか?
魔力や魔法の事がよくわからない花でも、今日のルークがかなり無茶な事をしていたのはわかる。
私が休むより、ルークが休む方が先だろう。
見上げたルークの顔色はやはり悪いようで、花は先にルークに休んでもらおうと口を開いたのだが、言葉を発する事はできなかった。
ルークに口を塞がれてしまったのだ。
「んっ……」
乱暴なほどに性急で深い口づけに、花は息をすることも儘ならなくなる。
足に力が入らず凭れかかる花を更に強く抱きしめたルークは、それでも唇を離すことなく花の舌を絡め取る。
が――
「ッ!?」
急に口内にピリっとした痛みが走り驚いた花だったが、それ以上にルークは驚いたようにハッとして唇を離した。
「……ルーク?」
束の間、驚いたように花を見つめていたルークは、不思議そうに呼び掛ける花の声に気を取り直して口を開いた。
「ハナ……怪我をしているのか?」
そう問われて初めて、花は先程の痛みが口内の傷のせいだった事に気付いた。セルショナードの王城で、王に突き飛ばされた時に切ったものだろう。
「……そうみたいです」
花の返事にルークは一瞬困ったような顔をしたが、すぐに優しく微笑み、再び唇を合わせた。
今度は優しくゆっくりと。
「……ふ……あっ!?」
ルークの舌が花の口内の傷を優しく舐める。と、同時に強烈な甘い痺れが花を襲った。花は思わず縋るようにルークの腕をギュッと掴むが、耐えられそうにない。
そう思った瞬間、ルークはそっと花から唇を離し、最後にもう一度軽く口づけてから顔を起こした。
花はぼんやりとしながらも、今の甘いキスが治癒魔法だった事に気付く。ずいぶん心臓に悪い治癒魔法だが。
「……ありがとうございます」
「――いや……」
なんとかお礼の言葉を口にした花に、ルークは苦笑して応えた。
そこへエレーンがお茶を運んできてくれたので、花とルークはソファに腰をおろして久しぶりにゆっくりと、エレーンの淹れてくれたお茶を楽しんだのだった。