79.白馬に乗った王子様。
少し残酷に思われる表現が含まれるかも知れません。
「姉さま……」
曇天の空の下、優しく光り輝く真昼の奇跡を王宮の窓から眺めていたシェラサナードは、そっと呟いた。
その頬を流れ落ちる涙を見て、クリスが心配そうに足元に縋る。
「母さま……かなしいの?」
「――いえ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう。私はこれから陛下にお会いして来ますから、クリスはテイラにご本を読んでもらってなさいね」
優しく微笑んでクリスの頭を撫でると乳母のテイラに目配せをして頼み、シェラサナードはルークの執務室へと急ぎ向かったのだった。
**********
「殿下……」
温かな光が消えてしまった後も、暫く王の亡骸を抱いたままのリコにザックが心配そうに声をかける。
リコはそっと王を横たえ、側に控えていたメルクに視線をやった。
それを受けてメルクは黙ったまま深く礼をすると、王の亡骸へと手を伸ばす。
厳かな時間が流れる裁きの間に、突如耳障りな声が割り込んだ。
「あーあ、ついにやってしまったんですね、兄上」
転移によって現れた王太子の声は、座り込んだままだった花のすぐ耳元で響いた。
と同時に、花の喉元に冷たい感触が伝わる。
王太子は小刀を花に突き付けているのだ。
突然の事にジャスティンもカイル達も動く事ができなかった。
魔力を大量に消費してしまっているジャスティン達に比べて、王太子のそれはあまりに強大で邪悪な力に満ちている。
「ハナ!!」
リコの青ざめた顔を見て、王太子は厭な笑いを洩らした。
「ククク……兄上は狡い。いつも私の欲しいものを奪っていく。臣の忠誠も、民の信頼も、父上の愛情さえも……だから一つくらいはくれてもいいでしょ?」
「マックス、何を言っているんだ……それにハナは私のものでは――!?」
リコの憂慮を含んだ言葉は途中で途切れる。
花と王太子の姿が裁きの間から消えてしまったのだ。
「ハナ様!!」
ジャスティン達の切迫した声が部屋に響く。
今、魔力の安定しないリコをはじめ、ジャスティン達も王太子を追って転移することは不可能だった。
「メルク!! マックスはどこへ飛んだ!?」
焦燥に駆られたリコの問いにメルクは動揺を抑えて答える。
「殿下は……気配を消しておられるようで追う事が出来ません」
「くそ!!」
リコが花に与えた指輪の気配を追う事さえできない。
騒然とする場にジャスティンの魔剣が小さく鳴った。
ジャスティンは厳しい表情で剣の柄を握る。
「月光の塔です!!」
言うが早いか、ジャスティンは駆け出し、カイル達もそれに続く。
「転移できる者は転移して王太子を止めろ!!」
リコもその場の者達に怒鳴るように命じると、駆け出す。
王太子の闇に沈んだ瞳には狂気しか映していなかった。
花が王太子の側室達のようになる事を考えただけでリコの胸は潰れそうになったのだった。
***
いきなり目の前の景色が変わった事に花は驚いた。
しかし、よく見ればそこは月光の塔の祈りの間、しかも花の喉元に突き付けられていた小刀がないことに勇気づけられ、花は逃げ出そうと立ち上がりかける。
途端に後ろへ押し倒され背中を強く打ちつけてしまった。
衝撃に一気に肺の中の酸素が押し出され、そのまま肺が委縮してしまったかのように酸素を取り入れる事を拒む。
王太子は苦しむ花に馬乗りになって嬉しそうに笑った。
「この小刀を覚えているか? これはハナが髪を切り落としたものだ。今度はどこを切り落とす? その小さな耳がいいかな?」
呼吸をすることもままならない花は、抵抗するどころか動くことすらできなかった。
それでも花は痛みと苦しみの涙が滲んだ瞳で、王太子の闇に沈んだ瞳を睨み付ける。
ヒヤリとした小刀が耳に当てられ、花は覚悟を決めたが……
瞬間 ―――
花の胸元でリリアーナの石が虹色の閃光を発した。
その眩しさに思わず目を瞑った王太子の小刀を握った手を、小さな巾着から飛び出した黒い子猫のような獣が噛みついた。
「ッ!?」
思わず小刀を取り落として王太子が怯んだ隙に花はその場から這うように逃げ出したのだが、小さな獣はすぐに消されてしまった。花は思わず目を閉じ、それでもそれは一瞬で、逃げる事を止めなかった。
そんな花を嘲笑うように、わずかな距離はすぐに詰められ、王太子に再び捕らえられてしまう。
「なんで逃げる?」
歯を食いしばって抗う花に王太子は首を傾げる。
それから何を思ったのか急に嬉しそうに笑った。
「ああ、そうか……逃げられないようにすればいいんだ。死んでしまえば、もう逃げられないな?」
王太子は不気味に呟いて、花の首に手をかける。
痛む肺に必死で酸素を取り入れていた花は、じわりと首を絞められて徐々に意識を手放していった。
――― ルーク……。
***
リコが月光の塔にわずかな時間で辿り着いた時、祈りの間の入り口ではジャスティン達も先に転移した者達も足止めされていた。
王太子の魔力で扉は固く閉ざされ、祈りの間全体に結界が張られているのだ。
今、この場に王太子の魔力を超える者はいない。
闇に沈んだ王太子の魔力は計り知れないほどであった。
「くそ!!」
リコは何度目かの悪態をついた。
器がいくら大きくても、力を使いこなせないのでは意味がない。
安定しない力をなんとか集中し高めようとするが、上手くいかなかった。
ジャスティンにしても、リリアーナの戦闘形で闇に囚われた多くの兵達を相手にした為に大量の魔力を消費していた。
皆がなんとか、王太子の結界を破ろうとするが叶う事はなく、ジャスティンは限界を超えた力で結界を破ろうと試みるのだが、それをリリアーナが邪魔をするのだ。
「リリー……」
ジャスティンの焦れた様な声が絶望感漂うその場に落ちる。
しかし、急にジャスティンはハッと振り向いた。
一拍遅れて、その場の誰もが突然の気配に息を呑む。
「なんで!?」
ザックは突如として現れた人物を見て驚きの声を上げた。
「――どけ!!」
力あるその言葉に皆が無意識に従うと同時に、パシンッ!!と甲高い音と共にその場に衝撃が走った。
その衝撃は塔全体に伝わる。
花は朦朧とする意識の中、激しい音と微かな衝撃を感じた。
「なっ!? お前――!?」
王太子の驚駭に満ちた悲鳴があがり、圧し掛かる重みがなくなった事に花は不思議に思い、ゆっくりと目を開けた。
……ルーク?
音にならない声で花は呟いた。
これはきっと最期に自分の願望が見せている幻だ。
そうとわかっていても、動かない体でなんとか幻影に手を伸ばそうとするが、やはり動かない。
ルークの顔は今にも泣きそうに見えた。
どうせ最期なら笑顔がいいのに。
そう思った花の頬に温かい手が触れた。そして、その手は首をすべり胸へと移る。
すると温かい感覚と共に、花の呼吸も体も楽になっていった。
「ハナ……痛みは?」
徐々に意識がハッキリとしてきた花の耳に、ずっと聞きたかったルークの声が届く。
「……ルーク?」
信じられない思いで花はルークへと、今度は動く手を伸ばした。
その手をルークは握り締める。
――― あたたかい……。
ルークの優しい瞳が涙に滲んで見えるのは、花の瞳が涙に濡れているからだろうか。
「ルーク!!」
花の切望が滲んだ声に、ルークは花を抱き起すとそのまま強く抱きしめた。
「ハナ……」
抱きしめられたその温かな感触も、耳に聞こえる優しい声も、そして懐かしい匂いもすべてがルークだった。
苦しみではない、喜びに息が詰まるほどギュッと花はルークに抱きつく。
今の花はセルショナードの事も、ユシュタールの事も何もかも忘れ、ただルークに再び会えた喜びで満たされていた。
涙が花の頬を伝う。
その涙は、今までの苦しみと悲しみを全て洗い流すかの様にとめどなく溢れ出てルークの温かい胸に沁み込んでいったのだった。