73.物は言いよう。
『……ごめんなさい。どうか、許して……お願い。ルークを……あの子を……』
体中が締め付けられ息が出来ないような痛みと記憶の苦しみから解放されたリコは、青白い顔のまま寝室の窓から外を眺めていた。
花の澄んだ歌声が響き渡った奇跡の様なひと時が終わり静寂に満ちた今も、月は光り輝いて王城を、街を優しく照らしていた。
これほどに明るい月夜など随分久しぶりだった。
どれくらい時間が経ったかはわからない、ガチャリと開いた扉の向こうに花が立っていた。
その姿は居間からの光を浴びて淡く照らされ、その眩しさにリコは目を細める。
「リコ?」
花は暗い寝室で窓際に腰かけている人物に一瞬驚いたが、それがリコだとわかると問うように呼びかけた。
リコは月の光に照らされて、その瞳を金色に輝かせている。
「リコ?」
花は再び呼びかける。
本当にリコなのだろうか? 月光に薄く浮かび上がる姿はリコそのものなのだが、纏う雰囲気がいつもと違うのだ。
しかし、リコが部屋に明かりを灯した瞬間、その幻想的ともいえる姿はかき消え、いつもの優しい微笑みを浮かべたリコに戻っていた。
「綺麗な歌だったな……疲れただろう? もう休んだ方がいい」
そう言うと、リコは花に何も言わせず、寝室からさっさと出て行ってしまったのだった。
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「おはようございます!!」
ノックもなしに、朝から元気よく入って来たザックは担いでいた大きな木箱をドサッと床に下ろした。
と、同時にガシャンと中の何かが割れた音がしたが、ザックは気にした様子もなくジャスティンに目を止めると無邪気な瞳を輝かせた。
「ジャスティン殿!! 聞きましたよ、その魔剣の事!! 是非一度、見てみたいものです!!」
国境で百名以上のセルショナード軍を撃破したジャスティン達一行だったが、その殆どがジャスティンの魔剣によるものだったと伝え聞き、その魔剣についてリコ達は調べていた。しかし、皆が口を重くし語ろうとしなかったのだ。
何せ、兵達の魔力はそのままに、体に傷一つ負わずに倒されたと言うのだから不思議な事この上無い。
それがやっと昨夜、療養の為に王都に戻っていた一人の兵から聞きだす事が出来たのだ。ザックはその内容を聞いて、俄然、興味が湧いたらしい。
今まで話し合いをしていた四人はザックの言葉になぜか急に無言になる。それを不思議に思いながら花は口を開いた。
「そういえば、ジャスティンの魔剣の事は私も陛下から伺った事がありましたけど、どんな魔剣なのかは教えて下さらなかったので……どのような力の魔剣なのですか?」
無邪気な花の問いに一同は目を逸らしたが、ジャスティンは優しく微笑んで答えた。
「ハナ様、この子は女の子なので女性に害を成す事はまずはないですから安心して下さい。しかし、少し我が儘な子で、好き嫌いが激しくて気分屋なので困った事になる可能性もありますから、ここで紹介するのはやめておきますね」
上手く誤魔化した説明に、カイル達三人は「物は言いよう」だなとジャスティンを改めて尊敬した。
花はなんとなくその場の空気を読んで了承したが、この場には空気をまったく読まない男が一人いるのだ。
「え~、我が儘な女の子って俺大好きだな~。是非、お相手願いたいなぁ。ジャスティン殿、一晩でいいから貸し――」
「ザック」
場の空気に無頓着なザックの言葉をリコは遮った。
そして、軽く咳払いをして続ける。
「その箱は何だ?」
その問いにやっとザックはジャスティンの魔剣から視線を外した。
「ああ、それは街のみんなからのハナ様への贈り物です」
「え!?」
ザックの言葉に花は驚きの声を上げる。
「いやあ、昨夜の歌声は素晴らしかったですからねぇ。なんでも感謝したいって色々預かったんですよ。手紙も入ってます。あ、もちろん呪はかかってないですよ、ちゃんと調べましたから」
――― さっき、ガシャンっていってたよな……どんだけ、ぞんざいな奴なんだ、こいつ……。
カイル達三人は心の中で呆れていた。
トールドはいつもの事と慣れているのかザックを無視して箱を開け、割れてしまった紙に包まれたボトルらしき物を取り出し、それに添えられた手紙を確認する。
その包みからはポタポタと液体が零れ落ちており、それをトールドは魔法で全て取り除く。
「どうやらこれは、サグラン通りのマイサからのカリン酒だったようですね」
「えー!! 惜しいことしたな、マイサのカリン酒は絶品なのに!!」
――― お前のせいだろうが!! お前の!!
残念そうに言うザックに、三人は心の中で突っ込む。
そんなやり取りの中、花は未だに驚いて半ば放心状態であった。
――― えっと……感謝って私に?……手紙??? あれ???
今まで、マグノリア王宮で貴族達から阿るような謝辞の言葉や煌びやかな贈り物を貰った事はあったが、このように街の人達からなんらかの贈り物を貰った事などなかった。ましてや手紙など……
もちろん、セレナ達はとても嬉しそうに感謝の言葉などをくれたが、王宮で働く人々は畏敬の念を抱いているらしく、また花がやはり皇帝の側室という立場もあってか明らかに遠慮していた。
「ハナ様、大丈夫ですか?」
呆然としたままの花にジャスティンは心配そうにする。
それにやっと花は我に返り、微笑んで答えた。
「ええ……はい、大丈夫です」
「ハナ様、ご覧になられますか?」
トールドの言葉に、花は勢いよく頷いて箱の側へと近づいた。
そんな花の様子を見てから、リコはジャスティンに声をかける。
「ジャスティン、俺はもう出るが、いい加減俺の部屋で俺の正妃を攫う計画を話し合うのはやめろ」
「おや、この計画にはもちろん殿下も加担して頂くのですよ」
去りかけたリコは立ち止り、振り向いた。
「……もし、嫌だと言ったら?」
「ご冗談を」
ジャスティンは軽く片眉を上げて答え、それにリコも肩を竦めて答えた。
「ああ、冗談だよ……ちっとも面白くなかったがな」
そう言って苦笑するとザックと共に去って行った。
ちなみにザックは最後に「ジャスティン殿、俺、諦めませんから~」と言い残していったのだった。
そんなやり取りをトールドは心配そうに見ていたが、花は手紙に夢中で全く気付いていなかった。
『正直なところ、戦が始まって以来、不安で堪りませんでした。しかし、ハナ様の美しい歌声に淀んでいた心が徐々に晴れていくようでした。まだ戦が終わったとはいえませんが、これからの事に希望を持っていきたいです。本当にありがとうございます』
手紙の内容はこの様なものが多かった。
街の人たちの率直でちょっとぶっきらぼうな感謝の言葉に花の胸は締め付けられそうだった。
昨夜は、ただ自分の為に歌っただけなのだ。
だから本当はこんなに感謝される資格なんかない。
それでも、花は心温められる街の人たちの気持ちに報いたかった。
そして、ルークの為だけでなく、できる事なら世界を癒すために少しでも努力をしようと、新たに決意したのだった。
余談だが、手紙の中には『長年、悩まされていた肩コリが治りました』『女房が優しくなりました』などといった内容もあり、花はクスクスと笑いを洩らしていたが、『行方不明だった猫が帰ってきました』という内容には首を捻ったのだった。
その後、シューラを弾く前に何気なく外を見た花は驚いた。
――― おお!?
まだ今日は一度も歌っていないのだが、王城を覆っている黒い靄が薄くなっているのだ。
――― ……月光効果?
そんな事を考えながら暫く窓の外を眺めていると、トールドが来客を告げた。
「第三王子がですか?」
「ええ、ハナ様にご挨拶をなさりたいと。お通ししてよろしいでしょうか?」
「……もちろん、かまいません」
そう応じながらも、花は王太子のようだったらどうしようと緊張に笑顔が引き攣りそうになっていた。
しかし、居間へと通された第三王子を見て花は奇声を上げた。――心の中で。
―― うひょおおおおお!! なにこれ、なにこれ!?
「はじめまして、義姉上。僕はセルショナード王国、第三王子のニコラウス・セルショナードと申します。どうぞ、ニコスと呼んで下さい」
王子はそう挨拶すると、少しつり上がった眉を下げ、眦の少し垂れた大きな翡翠色の瞳を細めてニッコリと微笑んだ。
燃える様に赤い髪といい、その姿はリコのミニチュア版だった。
リコより少し大きめの瞳と、ふっくらとした頬が幼さを象徴している。
「はじめまして、ニコス。私は花、どうぞよろしくお願いします」
淑女らしい挨拶を返した花は、そのまま気になった事を聞いた。
「ニコスはおいくつなんですか?」
「七歳です。でも、もうすぐ八歳になります」
ハキハキと答えるニコスに、花は悶える。
――― か……かわいい!! どうしよう!? すっごくかわいいんですけど!!……お持ち帰りしたらダメかな?
「ハナ様、それは新たな国際問題に発展しますから残念ですが、お諦めになって下さい」
突然聞こえたジャスティンの声に驚き、花は振り向いた。そして顔を真っ赤にしながら問う。
「……私、声に出してました?」
「はい」
――― ま……またやってしまった……。
今度は羞恥に悶えた花だったが、なんとか気を取り直してニコスに声をかける。
「失礼しました。ではニコス、あちらに美味しいお菓子があるので、一緒にお茶にしましょう」
なんだか怪しい誘い文句を口にして、花はニコスを応接ソファへと案内した。
ニコスの侍従やジャスティン達は、少し離れた場所に控える。
そして用意されたお茶を飲んで落ち着いた頃に、ニコスが口を開いた。
「僕、義姉上にお礼を申し上げたくて……」
「お礼?」
ニコスの言葉にキョトンとして花は聞き返した。
それにニコスは笑顔で答える。
「はい、僕ずっと怖かったんです。みんなは見えないって言うんですけど、一年くらい前から城に黒い靄の様なものが掛かり出して……どんどん濃くなって、すると父上達の様子も変わっていって……僕すごく怖くて部屋から出られなくなったんです。でも、義姉上がお歌を歌って下さったら、靄が消えるんです。夜になったらまた出てくるけど……でも、昨日の夜のすごく綺麗なお歌から靄がずっと薄くなって、だから僕部屋から出られる様になったんです……信じられないかも知れないですけど……」
意気込んで話すニコスの言葉に花は驚いていた。
しかし、そんな様子の花を誤解したのか、ニコスの言葉は徐々に勢いをなくしていく。それに花は慌てて応える。
「いいえ、信じます。私も……私も黒い靄の様なものが見えますから」
「本当に!?」
「ええ」
驚いたような、喜んでいるようなニコスの顔に花は微笑んで頷いた。
それから暫く靄について話した後、花はシューラを奏でたり、ニコスにシューラの弾き方を教えたりして二人で楽しい時間を過ごしたのだった。