66.ムードは必要です。
クジサスを発って三日目の夜、花は割り当てられた小さなテントの中にいた。
旅芸人達には王太子の正妃候補の花とリコが恋に落ちて駆け落ちし、王に認めてもらう為に王都コステイへ向かっていると説明をしているので、皆が気を回して花とリコだけのテントを用意してくれたのだ。
「なに? その古典的ラブロマンス……」と花が呆れたのは言うまでもない。
そして明日はいよいよ王都コステイに入るのだ。
「覚悟はできたか?」
テントに入って来るなり投げかけたリコの問いに、花は微笑んで答えた。
「はい……大丈夫です」
そんな花の微笑みを見たリコは一瞬顔を顰めると、急に花の手首を掴んで引き寄せ押し倒した。
そのままリコが覆いかぶさる様に押さえつけた為、花は身動きが取れずに狼狽する。
「何をして……!?」
驚いて悲鳴じみた声をあげた花の口を、リコの口が塞いだ。
「ん……!?」
あまりにも突然の事に花は状況が理解できず、リコの舌を受け入れてしまった。
花は必死で抗おうとするが、それを許さないリコの巧みな舌の動きに簡単に支配されてしまう。
それからリコの唇は花の喉に、首元にと途中チリリとした痛みを残しながらおりていく。
暫くしてリコは起き上がり、涙を堪えている花を冷めた目で見下ろし呟いた。
「まあ、こんなもんか」
「なにが……何がですか!?」
花は涙に滲んだ瞳でリコを睨みつけた。
その問いにリコは首を傾げ、フッと笑うと花の首元に己が付けた赤いアザを指でゆっくりなぞりながら答える。
「俺たちは熱烈に愛し合っているんだから、これくらいの熱情の痕がないと説得力がないだろ?」
リコがその言葉と同時に力を弛めたので、花はリコから逃れ狭いテントの端へと後退った。
「だったら! 最初からそう言ってください!!」
花の怒りにもリコは心外だといった様子で片眉を上げる。
「それじゃ盛り上がらないじゃないか」
「何を盛り上げるんですか!?」
意味不明のリコの言葉に花は噛み付く。
「何事にも雰囲気が必要だろ?」
「そんなものいりません!!」
否定する花に向けて、リコは盛大にため息を吐いた。
「これだから女は面倒くさいんだ。すぐに雰囲気が足りないって言うくせに、こっちが努力しても鼻で笑って台無しにするんだよ。それで男にどうしろって言うんだよなぁ?」
「……すみません。さっぱりわかりません」
リコの愚痴めいた問いかけに花は素直に答えたが、やはり未だに状況がよく理解できない。
そんな花を見てリコは意地悪そうに笑った。
「覚悟できたんだろ?」
その言葉に花は一瞬顔をこわばらせ、逆にリコはいつもの優しそうな笑顔に戻る。
「まあ、心配しなくてもこれ以上は何もしない。ただ、これからの事を考えると必要なことだ」
そう言うと、リコはジッと花を見つめた。
「……何ですか?」
その視線の居心地の悪さに、花は不機嫌を隠さないで訊く。
「よかった……完全に皇帝の気配は消えたな」
安堵した様子のリコの言葉に、花は益々わからなくなる。
「どういう意味ですか?」
花の問いに、リコは一気に距離を詰める。
狭いテントにこれ以上の逃げ場はなく花は焦るが、リコはそんな花の焦慮には構わず片手を花のお腹に添えて囁くように言った。
「ここに……皇帝の子はいないということだ。皇帝ほどの魔力を持つ者の子なら、腹に宿れば必ず気配でわかる。それが今どんなにまずい事かはわかるだろ?」
「……はい」
リコの言葉に花は顔を赤くして頷く事しかできない。
「まあ、通常なら魔力の強い者の子どもは大歓迎なんだがな」
そう言ってリコは安心させるように笑った。
ユシュタールでは魔力の強い者の子どもは歓迎される。
それが例え自分の子でなくても、男性は喜び家族に迎え入れるのだ。
もちろん魔力が弱い者の子であっても、自分が娶った女性がすでに身篭っていたならば、家督を継ぐ以外の全ての権利を自分の子と同様に与えなければならない。
それ故に女性は安心して、男性に身を委ねる事ができるのだった。
また、子どもにも選ぶ権利はある。
子どもの父親が誰なのかは魔力の気配でわかる為、実の父親の許で暮らす事も、母親と新たな父親の許で暮らす事を選ぶのも自由なのだ。
花が最初にそれを知った時は少し驚いたが、地球にも同じような風習の社会があったなと納得したものだった。
ただ今の花は、次から次へと変わるリコの態度に戸惑うばかりだった。
しかしそんな花に頓着せず、更にリコは花の右手を取ると何事かを唱え始める。
すると花の体の中を電流のようなものが走り抜け、その甘くしびれるような感覚に思わず目を閉じた。そして目を開けた花は驚いた。
自分の右手小指に、リコの瞳と同じ色の澄んだ翡翠色の指輪がはめられていたのだ。
「これは?」
「正妃の証だ」
リコは花の右手をジッと見つめたまま言葉を継いだ。
「少々時間は掛かったが、これでハナの地位は保証される。これがあれば粗末に扱われる事はないし、他の男はハナに手を出せない。……それにしても随分はっきり色が出たな。この指輪はハナが纏う俺の気から作り出したものだが、普通は妃本人の魔力が邪魔をしてもう少し色も濁るものだ。やはりハナに魔力が全くないからか……」
最後は呟くように言うと、リコは花の右手小指の己がはめた指輪に口付ける。そして手を離したが、花はただただ驚いて呆然と指輪を見つめているだけだった。
しかし暫くして我に返ると、花は段々と腹が立ってくるのを感じた。
リコの行動に理解はできたものの、やり方に納得がいかない。
花は寝転んだリコの上に覆いかぶさると、驚くリコを無視して首筋に口付けた。
「ッつ!!」
思わず声を洩らしたリコは呆気に取られたように、起き上がった花を見上げた。
そんなリコを見下ろして、花は吐き捨てる。
「まあ、こんなものですね……ふんっだ!」
そして花はふてた様にリコの隣で横になると丸くなった。
唖然として花を見ながらリコは赤くアザが出来たであろう首筋を抑えていたが、すぐに聞こえてきた花の寝息に笑いを堪え切れず小さく吹き出したのだった。
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次の日、コステイに到着した花達は都の入り口で旅芸人たちの馬車から降り、別れを惜しんだ。
旅芸人達はしばらくコステイで稼いだ後、再び旅立つらしい。その際、口裏を合わせてくれることはしっかりと約束をしている。
クジサスの外れで花を拾い、その後馴染みのリコ達と偶然出会ったのだが、すぐに二人は恋に落ち、花が王太子の探していた娘だと気付いた時には手遅れだった、と。
「……今時、三文芝居でもそんな話はないですよ?」
花は再び呆れたが、リコは何食わぬ顔をして答えた。
「変に凝るより単純明快の方が、みんな受け入れるもんだ」
「そんなものですか?」
訝る花にザックが笑って言った。
「これから王に会いに行くんだから、王道を行かないと! ハッハッハ!!」
「……」
「……ハナ、殴っていいぞ?」
リコの有り難い申し出を残念ながら花は辞退した。
「いえ……手を痛めそうなので遠慮しておきます」
「……それもそうだな」
そんなやり取りをしながら歩いて進む四人だったが、街の中心部に近づくにつれ花はその賑やかさの中にも漠然とした不安を覚えた。
街の人々は皆明るく活気に満ち溢れて見えるのだが、どこか影が差している様にも感じる。
そしてその不安は王城を視界に捉えた瞬間、恐怖に変わった。
王城を黒い靄のようなものが覆っているのだ。
それは以前、夢の中で囚われた闇のようで花の心をざわつかせ、思わず隣のリコの腕をしがみつくようにギュッと握った。
「ハナ?」
花の脅えた様子に気付いたリコは、自分の腕を握る花の手をそっと撫で、それから優しく握ると手を繋いだ。
「大丈夫だ、ハナ。俺が守ると言っただろ?」
そう言って、安心させるように微笑むリコに花はハッと息をのむ。
リコの瞳が金色に輝いていたのだ。
それは一瞬で、目の錯覚だったのかも知れない。
しかし、その金色の輝きを見た花は一気に心が晴れ、落ち着いていくのがわかった。
「お願いします」
そう返す言葉と共に微笑む花に、今度はリコが息をのんだ。
柔らかな淡い光に包まれた様に見える花の、心からの温かな笑みがリコの心に沁みていく。
リコは思わず繋いだ花の手を強く握り締め、何とか微笑み返すと再び歩み始めたのだった。