54.お腹の冷えは大敵。
枕を背に寝台に座って『王宮七不思議』を読んでいた花は、書類に目を通していたルークが立ち上がった気配に視線を向けた。
「ぎゃお!!」
花の奇声に動きを止めたルークが不思議そうに訊く。
「どうした?」
「な、何で服を脱いでるんですか!?」
「……以前に言ったと思うが、普段寝る時に俺は何も身につけないからだが?」
どうやらルークは今まで気を使ってくれていたらしいが、花にとってはそれどころではない。
「何言ってるんですか!? ダメダメです!! お腹壊します!!」
「……」
以前の言われ様に比べて随分良くはなったな、と思いながらルークは結局ため息を吐いて服を着直した。それに安心した花は、ルークの「どうせすぐ脱ぐのに」と言う呟きは聞こえない。
そして次の朝、前日と全く同じ事態に陥り、生まれて初めて花は自分の寝付きの良さを呪ったのだった。
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満月の夜から三日後、セルショナード軍がサラスティナ丘から完全撤退し、その後セルショナードは全国境を封鎖した。
それは王の魔力によって施され、ネズミ一匹通さないほどの強力なもので、王の許可がない限りはセルショナードに入る事も出る事も叶わず、行商人達は足止めを食うことに不満を漏らしたが、それ以上にこの完全封鎖がマグノリア帝国からの報復攻撃を防ぐ為のものではないかと先行きに不安を抱いたのだった。
当然、マグノリア議会は紛糾したがそれでも以前の悲壮感漂うものとは違い、どこか優越を含んだ余裕あるものだった。
「やはり帝国の権威を取り戻す為にも、ここは報復攻撃に打って出るべきです!!」
「しかし、セルショナード王の魔力は陛下に次ぐ程強大なもの。その力が注がれて封鎖された国境を突破するのは至難の技ですぞ」
「まあまあ、そう目くじらを立てなくてもほっとけばよろしい。国境封鎖などといった捨て身の策、そのうち立ち行かなくなって白旗を上げて参りましょう」
結局、いつもの如く結論も出ぬまま問題は先送りされた。
「本当にあの時間は無駄だな」
思わずぼやいたルークを窘める者は誰もいない。
「早急に手を打たないといけませんね」
ディアンの相槌の後、今後のセルショナードへの対応が検討された。セルショナードは講和の為に話し合う事さえしようとしない。
しかし、センガルの受けた仕打ちを思えばこのまま見過ごす訳にはいかないのだ。
**********
その日は皆の疲れもかなり溜まっているようで、早めに会議を切り上げることにした。ルークはそのまま執務も切り上げ、久しぶりに花と夕食を共にしようと青鹿の間へと赴く。
だが、先触れもなく訪れた為に花は留守だった。
「申し訳ありません。只今ハナ様はシューラ奏者と面会をなさっておられまして、もうお戻りになられると思うのですが……」
慌てて使いを出そうとするエレーンをルークは止めた。それからレナードに帰るように促し、窓際の長椅子に腰を掛け花が戻るのを待つことにする。
先程まで聞こえていたシューラの音も聞こえないので、花はそれほど時間を置かず戻るだろうと、黄昏が忍び寄る街を眺めながらルークは久しぶりにゆっくりとした時間を過ごした。
――― 最初は限りなく怪しい、珍妙な娘だと思ったのだがな……。
ふと、花と初めて会った時の事を思い出し、思わず笑みをこぼす。
――― いつの間に、こんなに心を奪われたんだろうか……。
気がつけば、そんな事を考えていた。
それから最近の花を想う。
『好き。ルークが好き。大好き』
触れあう肌から伝わる花の気持ちは、甘い蜜のようにルークを蕩けさせる。あれほどに無垢な愛情を注いでくれる相手など今までいなかった。
恥じらう姿に更に煽られ、花の口から洩れる甘美な声に衝動を抑えられなくなる。
それでも己の理性を総動員して花を怖がらせないよう、無理をさせないようになんとか抑制しているが、正直それがいつまで保つかは分からない。
思わず目を瞑り大きく息を吐き出した時、花の気配がした。
「陛下!」
青鹿の扉が開き、嬉しそうに入って来た花を見ると今すぐその理性が飛んでしまいそうになる。
それでもなんとか自制し、花に軽いキスをするに止める。
***
久しぶりにルークとゆっくり食事ができ花は嬉しかった。食後のお茶を飲んでいる今、セレナ達は気を利かせて部屋に下がっている。
他愛もない話を楽しみながらも、ふと落ちた沈黙の後にルークが口を開いた。
「ハナ……お前には以前の世界で婚約者がいたのか?」
突然の質問に花は驚いたが、それでも何とか答えた。
「婚約者と言うか……結婚が決まった相手?でしょうか……」
「……どう違うんだ?」
眉を寄せて聞くルークに花は困った顔をする。
「えっと……結納っていうか、正式に婚約をした訳ではなく……親の決めた相手です。まだ、一度会っただけですし」
「ハナは……その男と結婚するつもりだったのか?」
ルークは少し躊躇いながら質問した。それに花も同じように躊躇いながら頷く。
「そうですね。恐らくあの時、あの人に迫られて逃れる為にバルコニーから落ちなければ結婚していたと思います」
「……それでこの世界に?」
「はい」
ルークの感情の窺えない静かな問いに花は再び頷いた。
バルコニーから落ちてこの世界に来たとルークには伝えていたからだ。
「でも、助かりました。あのままバカボンと結婚するのはやはり嫌だったので」
花はそう言って笑った。
「バカボン?」
「はい、あ、バカボンって言ってもあの国民的人気者のバカボンではなく、ましてやバカボンのパパの事でもなく、バカなボンボンを略してバカボンって事です」
思わず謎の言葉「バカボン」を聞き返したルークは、花の説明で益々理解不能になったが諦めた。そして吐き出すように呟いた。
「バルコニーから落ちてしまうほど嫌な結婚相手から逃げ出したというのに、この世界に来ていきなり側室にされたのはついてなかったな」
苦笑するルークのその言葉に、花はまだ気にしているのかと少し怒ったように答える。
「そんなことないです。だって私、本当はラッキーって思いましたから」
「ラッキー?」
驚くルークに花は意味が通じなかったかと、もう一度言い直した。
「幸運に思いました。だってルークすっごくカッコいいから」
「は?」
ルークは呆気に取られたような顔をしている。それに花は少し悲しそうに苦笑して続けた。
「正直に言えば、どうでも良かったんです。あちらの世界に私は大切に思える人がたった二人しかいませんでした。その二人は血の繋がった家族でもないんです。一人はもう亡くなってしまって……もう一人は大切な友達です。本当は今もすごく会いたいですし、私があちらでどういう扱いになっているのかよくわからないので心配かけているかと思うと、堪らない気持ちになります。それでもあちらの世界に帰りたいとは最初から思いませんでした」
そこで一呼吸置いた花は、紅茶を一口飲んだ。そして心配そうに見ているルークに笑いかける。
「だから、この世界に来た時も本当はどうでも良かったんです。今まで通り、流されて生きればいいと思っていました。でも大切な人がたくさん出来ました。セレナもエレーンも、レナードもジャスティンもカイルもジョシュも他のみんなも、いきなり現れた私の事をあの満月の夜以前から大切にしてくれました。そして今も変わらずにいてくれます。私はそんなみんなが大切です」
例えそれがルークの側室と言う立場だったからだとしても、なんの蟠りもなく好意的に接してくれる事が花は嬉しかった。
そして花はテーブルに置かれたルークの手に自分の手を重ねた。
「私にとってルークは……すっごくすっごくすっごく、大事で大切なんです。すっごくすっごく宝物で大好きなんです……なんだか上手く言えません」
そう言って花は残念そうに笑った。ルークはそんな花の重ねられた手を握り返し小さく呟く。
「やはり無理だ」
「え?」
花は上手く聞きとる事が出来ずに聞き返すが、ルークはいきなり立ち上がると握った花の手をそのまま引き寄せ、傾いだ花の体を抱き上げた。
「ルーク!?」
驚く花をそのままお姫様抱っこで寝室へと連れて行き、寝台にそっと横たえる。
この後の当然予想される展開に花は戸惑い、ルークのキスが唇から首筋をたどって胸元近くにおりると思わず腰が引けて声を洩らしてしまった。
「やっ……」
その声にルークはピタリと動きを止め、顔を上げた。そして上目遣いに少し悲しそうな声で聞く。
「いや?」
そんな反則技を使われた花は、顔を真っ赤にして首を横に振る事しかできなかった。
それなのにルークは更に追い詰める。
「ちゃんと言葉で言って欲しい」
花はこれ以上ないほど赤くなった顔に涙を浮かべつつ答えた。
「……いやじゃないです」
そう言ってギュッと目を瞑った花に、ルークは良く出来ましたとばかりに唇に、頬に、瞼にキスを落とし、再び唇に戻る。
今度は甘く激しく。
ずっと目を瞑ったままの花には、ルークの顔がいつも以上に意地悪そうに、そして嬉しそうに笑んでいる事に気付かなかった。