53.爪のお手入れは大切です。
――― ぎょわあああああ!!
「ハナ……」
目覚めた花が心の中で上げた悲鳴に、ルークは呆れたように小さく息を吐き出す。
ルークの腕の中で目覚める事にはすっかり慣れた花がったが、今朝はそうもいかなかった。
「だ、だだ、だだ!! はは、はだ、はだだ!!……」
言葉に出来ないほど慌てふためいている花に構わずルークは腕に力を込め、ギュッと花を抱きしめる。
――― ぎゃおお!? ダダ、ダメです!! もう、無理です!! いっぱいいっぱいです!!
相変わらず心の中で奇声?を上げる花をルークは無言でしばらく抱きしめていたが、今度は大きく息を吐いた。
「まあ……これ以上は無理か……」
そう呟くと、ルークは寝台から起き上がった。
もちろん、何かで隠す事もせず堂々と。
花は思わず「ぎゃ!!」と声を上げて目を瞑る。
しかし、恥ずかしいながらも気になるのが乙女心というもので、チラリとルークを窺い見るが――
「ぎゃほ!!」
そう叫ぶと、花は掛け布を頭まで被った。
花に背を向けて服を着ていたルークはその奇声に振り返ったが、スッポリと掛け布を頭まで被っている花の奇行には慣れてしまったのか、優しく微笑むと再び身支度を整え出す。
一方の花は、掛け布に包まり悶えていた。
――― せせ! 背中!! ルークの背中に爪痕があります!! 誰のものなのでしょうか!? 誰の……って私ですか!? 私なのですか!? ぐは!!……いや、きっとあれは猫の仕業に違いないのです!! ふふふふ……。
段々と現実逃避を始めた花にルークが声をかける。
「ハナ、大丈夫か?」
その気遣わしげな声に、恐る恐る花は真っ赤に染まった顔を掛け布から出す。
ルークはすっかり服を着て、寝台に腰を掛けていた。
「あ……」
頭は大丈夫です。と、言いかけた花だったが、次のルークの言葉に質問の意味を取り違えている事に気付く。
「身体は……きつくないか?」
その優しい問いに花はただ黙って頷くことしか出来なかった。
花の答えに安心したのか、ルークはホッとしたように微笑むと花の頬に軽くキスをして立ち上がる。
「……もう行かなくては。ハナはもう少し休んだ方がいい」
そう言って優しく花の頭を撫でると、ルークはその場から消えた。
――― ……ど、どどどどどうしよう!? いや、何が? わかんない!! でもどうしよう!?
ルークが去った後も花はパニック状態でひたすら悶えていたが、ふと動きを止めて自分の手を見つめた。
――― 爪、もっと短くしたいな……って、ちちち、違うんです!! そういうつもりではないんです!!
なぜか誰かに言い訳をする花だった。
ピアノを弾く為にいつも短かった花の爪は今、以前より少し長めに綺麗に整えられている。
シューラを上手く爪弾く為でもあり、この世界の爪切りを上手く扱えないこともあり、いつもセレナ達に手入れをお願いしているからだ。
――― ピアノ弾きたいなぁ……。
ピアノを想うと切なくなる。
それでもこの世界でルークに出会えた事は『神様』に感謝したい。
――― 本当にルークは優しいよね……これが理想の恋人ってやつなのかな?
などと、ほんのり頬を染めていた花だった。
が――
――― なんじゃこりゃー!?
まるで誰かに憑かれたような言葉を心の中で吐いた。
鏡の前に立った花は自分の体を見て驚いたのだ。
それは体の諸処に浮いた赤いアザ。
唖然としている花の顔はこれ以上ないほど真っ赤に染まり、あまりの衝撃に呼吸困難に陥りそうになっていた。
そして、それを見たセレナとエレーンはやはり「まあ、ホホホホ」と嬉しそうに微笑んでいる。
――― こ、こここ、これ、これってキキキ、キスッ……キスマーク!?
再び心の中で叫びながらも、なんとか花は落ち着いた声を出す。
「あの……首元まで隠れるドレスでお願いします」
その言葉に二人はやはり残念そうに答えた。
「まあ……隠されてしまうんですか?」
「陛下の情熱の証をお見せしないんですか?」
――― な、何言ってんの!? ってか、今度は情熱の証!?……愛の証は……付いてないか……いやいやいや!! ガッカリなんてしてませんから!!
二人の言葉に焦りながらも思わず歯形を捜してしまう花だった。
**********
その日の議会は朗報に沸いていた。
先程、早馬によってもたらされた報せは、昨夜遅くにセルショナード軍がサラスティナ丘より撤退を開始したと言う驚くべきものだったのだ。
「昨夜のハナ様の歌声も素晴らしいものでしたから、セルショナード軍の者共も心を入れ替えたのでしょう」
「だが、このまま素直に見逃していいものか? こちらは大変な損害を被り、辛酸を嘗めさせられたのですぞ!!」
「確かに尤もです。それにしてもハナ様の美しい歌声が月の輝きとともに響き渡ったあの幻想的な時間は忘れられませぬな」
など、各々が好き勝手に話している。
そうした浮かれた大臣達とは対照的に、ルークやディアンなどの主だった者達の顔つきは厳しいままで、それに気付いた大臣たちは慌てて花の事は禁句とばかりに口を噤む。
それでもその場は終始明るいものだった。
***
「いったい何を考えてるんだ!?」
苛立ったレナードの声が小さな会議室に響くが、残念ながらそれに応える声はなかった。
その場にいる誰もが、同様の疑問を抱いていたからだ。
今回のセルショナード軍のサラスティナ丘侵攻は不可解な事ばかりではあったが、それでも一番に考えられる理由としては領土拡大が目的ではないかと皆が考えていた。
だが、セルショナード軍が撤退を開始した今となってはその理由も当て嵌まらないと思われる。
まさか大臣達の言葉通り、花の歌声によって改心したなどとは到底考えられないからだ。
マグノリア帝国の東に位置するセルショナードは、肥沃な大地に穀物がたわわに実り、国土に面した海を流れる暖流に乗って泳いでくる豊富な海産物に恵まれた豊かな大国だ。
そして、その暖流の影響で年間を通して常に温暖な気候なのだ。
一見すれば、とても隆盛した国に見える。
しかしセルショナードは今、ある危機を迎えていた。
豊富な食物と温暖な気候、そして現王の強大な魔力による治世に後押しされ人口は急激に増加し、今現在においてそれは飽和状態を迎えている。
このままでは食糧供給が追いつかなくなることは目に見えているのだ。
穀物と海産物以外に特化した産業も資源もないセルショナードが他国から食料の輸入に頼るのも限界があり、恐らく一度でも飢饉に見舞われれば、瞬く間に王国は衰退の一途をたどるだろう。
もちろん、歴代にない程の魔力を有する現王の治世において飢饉などというような事態が起こるとは考えにくいが。
そもそも、王がそれほどの力を有しながら何故、国土拡大が叶わなかったのか。
その原因は千数百年前に遡る。
現王より数代前の王の時代に隣国ターダルトとの戦において『果ての森』に面する北の国土を奪われ、更に不運な事にその戦において王の魔力が弱まっていた時に天変地異が起こり、辛うじて残っていた『果ての森』に面する北東の大地が割れ、海が傾れ込んでしまったのだ。
『果ての森』に面する大地がなくなったセルショナードはそれ以来、国土拡大を成せないでいる。
それ故、『果ての森』近くのサラスティナ丘侵攻かとも思われたが、それならば何故過去の戦で怨恨もあり王の魔力でも勝っているターダルト王国へではなく、わざわざヴィシュヌの再来とまで言われるマグノリア皇帝を頂く帝国なのか。
それどころかユシュタールの危機である今は国土拡大よりも、維持に各国が躍起になっているというのに、いくら『果ての森』に面していないとはいえ他人事ではないはずだ。
そして、それを考えれば、皇帝を失う事など考えられないはずであるのに。
結局、セルショナードの思惑が攫めないまま皆は押し黙っていた。
「何を考えているんだ……」
レナードが再び吐いた言葉は静寂に満ちた会議室の床へと吸い込まれていった。