48.女心と男の事情。
花がこの世界に届けられて二か月が過ぎようとしていた。
居間でゆっくりと本に目を通していた花だったが、本の内容は少しも頭に入らない。
それは別の思いに囚われていたからだった。
――― ルークは……どうして何もしないんだろう……?
恐らくルークが知れば泣きそうな内容だったが、花は本気で悩んでいた。
――― 毎晩同じベッドで寝てるのに何もされないって女としてどうなの!?……やっぱり私が……。
花はさりげなくセレナとエレーンを窺う。
――― 二人とも美人だなぁ。嫌味を言いに来るご令嬢達もみんな綺麗だし……それに比べて私は……でもルークはかわいいって言ってくれたよね!
自分の容姿をよく理解している花は落ち込みそうになったが、アポルオンに言っていたルークの言葉を思い出し、気分を浮上させた。
が、また別の考えが浮かんでくる。
――― かわいいって言っても色々あるよね……いろいろ……例えば……キモカワイイとか?
「ぐほ!!」
己の考えで激しくダメージを受けた花は思わず叫んだ。
「ハナ様、大丈夫ですか!?」
「ハナ様!?」
セレナとエレーンが慌てて駆け寄って来る。
花は顔を赤くしながら、急いで謝った。
「ごめんなさい! 何でもないです!!」
気がつけば、扉の内側にいたカイルまでもが、厳しい顔つきで様子を窺っている。
花は三人に安心させるようにニッコリと微笑むと、自己反省会を始めた。
――― 何やってるの私!! 落ち込んでも態度に出さない。これ鉄則。例えキモカワイイでもいいじゃない、かわいいんだから……いや待て、ブチャカワイイって事もありうる。っていうか、キモいよりはブサイクの方がありじゃない? うんうん、きっとそうだ!!ペットでもブサイクな子の方がかわいかったりするよね、うん……ペット……ペットか……。
再び落ち込んでしまう花だった。
――― そうか、ペットか……そうだよね、ペットにもキスするもんね。うん……あれ? でも前にルークに好きって言ってもらったよね……あれからはないけど……あれもペットに対するような好きとか?……だってそうだよね、普通、本気で好きな子と同じベッドに二か月近くも一緒に寝て何もないってありえないよね……たぶん……ありえるのか? いやいやいや……どうなの?
経験の全くない花にはそこの所がわからない。だからと言って、誰かに相談するわけにもいかず、益々悶々と考えてしまった。
ルークの心、花知らず。である。
――― 生理的欲求もあるって言ってたけど、それってどれくらいの頻度であるものなのかな……うーん。もっとみんなの話まじめに聞いとけばよかったな。
女子校だったとはいえ、クラスの大半の子たちには彼氏がいたようで、時には猥談まがいの話で盛り上がる事もあった。
花も興味がなかったわけではないが、あまり熱心に聞いていたわけでもないので、それなりの知識しかない。
もちろん家でそんな話は絶対に有り得ず兄弟とも年が離れていた為あまり接点もなく、男性の生態? というものがよくわからなかった。
そうしてまた考え込んだ花は、もう一度さりげなくセレナとエレーンを窺った。
今度は顔ではなく胸元の方へ、そして自分の胸元を見下ろす。
――― 残念!!……そうとしか言いようがないです、はい。いや、ちゃんとあるよ、あるよね? 君たちは胸だよ。間違いないからね。
なぜか、自分の胸に向かって言い聞かせ出した花だった。
――― やっぱり必要なのは色気かな。色気……って、何考えてるの!? これじゃあ私、すごくそういう事したいみたいじゃない!! 違うのー!!
自分で自分が恥ずかしくなった花は心の中でひたすら悶えていたが、そのうち考えすぎた為か花はお腹が痛くなってきた事に気が付いた。
――― う……痛い。ズシリと痛い。でもこの痛み……。
少し考えてから花はトイレへ行ったのだった。
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今朝もやはり議会は紛糾していた。
――― 毎日毎日、飽きもせず同じ事ばかりよく繰り返せるものだな。
レナードは冷めた目で大臣たちを見ながら思っていた。
あの夜から大規模な戦闘はないものの、サラスティナ丘では睨み合いが続いている。
結局、セルショナードの思惑がわからないまま、膠着状態が続いているのだ。
それに誰もが苛立ちを募らせている。
そしてそれはレナードも同じだった。
――― まさか、昨日ハナに起こった事はセルショナード側の手の者か?
闇の魔力を使う者が魔族以外にいるとは聞いた事もないが、だからと言って全く無いとも言い切れない。
まだ闇の魔力についても、魔族についても知っている事など僅かでしかないのだから。
セルショナード軍にいると言う王族クラスの魔術師、まさかその者達の仕業なのか。
レナードはチラリとルークを見下ろした。
――― ルークは何か知っているのだろうか?
ルークは何でも自分一人で抱え込んでしまう。レナードにはそれが時々歯痒かった。
自分はルークに比べて何の力にもなれないが、それでも頼って欲しいと思う。
一人で苦しみ、孤独を強めていくルークを見ていたくなかった。
だからこそ、そのルークが心を委ねる存在が現れた事が嬉しい。
しかしもし、セルショナードがその事を知って花を狙って来たのだとしたら?
その考えがレナードから離れない。
そんなレナードの思考は騒がしい議場の中でひときわ甲高く響いた声によって打ち切られた。
「陛下、恐れながらお伺いしたき事がございます!」
今までの議論で熱くなった勢いのままに、外大臣のコーブは声を上げた。
それにルークは冷めた声で応じる。
「なんだ?」
それでもコーブは興奮のままに発言をする。
「ハナ様はいったいどのような御方なのですか?」
途端に議場は張りつめた静寂に包まれる。
皆があの満月の夜から、いや花が側室として現れた時から抱いていた疑問だった。
そしてそれは、昨夕のシューラの音色にのせて聞こえた歌声に更に増すばかりだったのだ。
「――以前も申したと思うが、その方らが知る必要はない」
相変わらずルークの声は冷めていたが、その中には怒りが含まれているようでもあり、それを感じ取ったのかコーブは押し黙った。
そこへ内大臣のドイルがしたり顔に言う。
「まあまあ、ハナ様が何者でもよろしいではないですか。あのような稀有な御方が我がマグノリア帝国に、しかも陛下のお側におられるという事実が重要なのです」
その言葉に賛同する声がいくつも上がる。
そしてそれはそのうちに心得違いなものへと変わっていく。
「是非、お側で聴いてみたいものだ」
「次の満月の夜にも歌って頂きたい」
「いっそ毎度、満月の夜に歌って頂ければよろしいのではないでしょうか。きっとユシュタルもお喜びになるでしょう」
そこへ一人の老齢の大臣が熱っぽく声を上げた。
「何も満月にこだわらぬとも昨夕の歌声も見事だったではないですか! 私の魔力は今も満たされたままですぞ!!」
実際、この場にいる者達の魔力は皆、満たされている。
それは魔力の衰えによって『器』に穴が開いたように魔力が流れ出し、魔力の枯渇を待つだけだった者達を驚嘆させ、歓喜させた。
もちろん、しばらくすれば元の状態に戻ってしまうのはあの満月の奇跡から判っている事ではあったが。
議場はその大臣の言葉から更に熱に浮かされたような状態になった。
それに反して、ルークの纏う空気が恐ろしいほど冷たく、冷然としていくのだがそれに気付く者は少ない。
「ではいっその事、戦場でハナ様に歌って頂けば兵士たちの力は――」
ある長官の発言は最後まで続く事はなかった。
議場の窓ガラスが激しい音と共に一斉に粉々に砕け散ったのだ。
その砕け散ったガラスは議場内へと飛び散る。
瞬時に防壁魔法を作動させた者達によってほとんどの者は無事だったが一部の、熱に浮かされたように発言し立ち上がっていた者達は、その破片を浴びてしまった。
「今、何か申したか?」
議場にルークの静かな声が響いた。
その静かな声が響き渡るほど、議場は静寂に満ちているのだ。
痛みに呻く声すらない。
皆がただ息を飲み、微動だにせずその場に座す事しかできなかった。
皇帝の怒りを買ったのだ。
ここ最近の緊迫した情勢にも関わらず穏やかに見えた皇帝が、瞬時に以前の無慈悲で冷酷な皇帝へと戻っていた。
そして今までならば、こんな状況に陥ると必ず取り成していたはずの宰相が目を瞑ったままである事に、縋る思いで視線を向けた者達は愕然とする。
そして、近衛隊長もまた同様の態度である事に絶望的な思いを抱いた。
――― どうすれば……。
誰もがこの場で発言する事を恐れ、ルークの言葉に答える事が出来ないでいたのだった。