44.臭い物に蓋。
「ねえ、みつ。どうしてお母様もお父様も来て下さらないの?」
明日は花が初等部に入学して初めての音楽会だった。
しかし、明日来てくれるのはナニーである美津のみだと、『みつ』こと矢島美津子から告げられたのだ。
「花様、旦那様はお仕事がお忙しいのですよ。それに奥様は今、お腹に赤ちゃんがいらっしゃるから体調が思わしくないのです。美津じゃご不満かも知れませんが、花様の演奏なさってるお姿は私がちゃんと見させて頂きますから我慢して下さいませ」
「ううん、みつが来てくれるのは嬉しいよ!」
そう言って花は美津に抱きついた。
英国ナニー協会公認の美津は、花が産まれた次の日に小泉家にやって来て以来、花の面倒をずっと見てくれたナニー(乳母)だ。
花にとって美津は家族以上の存在だった。
滅多に顔を合わす事のない父親や、花に触れる事もない母親、六歳年の離れている、今はどこかの名門中学の寮に入っている兄に比べて常に傍にいてくれる人。
音楽が好きになったのも美津のお陰だった。
美津の子守唄代わりに歌ってくれる歌はとても綺麗で恐い夢を見る事もなく安心して眠れ、美津の弾いてくれるピアノは心が弾むように楽しく、喜びに溢れた。
今は専門の講師についているピアノの練習も、始めは美津に教えてもらっていたのだ。
「あ、サムが来てるわ!」
そう言って駆け出そうとした花を、美津は引き止めた。
「花様、あのような使用人と親しくなどなさってはいけません」
「でも、でも……」
納得しかねるといった様子の花に、美津は大きく溜息を吐いた。
「花様、私はこれから少し用事をして参ります。その間お一人でお遊び頂けますか? 決してお庭からはお出にならないで下さいませ」
その言葉に花の顔はパアッと明るくなる。
「はい!」
花は元気のよい返事をすると、見逃してくれた美津に力いっぱい手を振って部屋を出て行った。
***
「サム!」
サムと呼ばれた壮年の歳の頃を少し過ぎた男は、駆け寄ってくる花を見て微笑んだ。
「やあ、お嬢さん。今日はせっかく掻き集めた落ち葉をまき散らすのはやめて下さいよ」
サムの笑いながらの言葉に花は「う!」と立ち止まる。
前回、サムに会いに来た時に、掻き集めてあった落ち葉の山の誘惑に耐え切れず、そのまま飛び込んだのだった。
「ち、違うわ! 前は止まれなかったの!! ちゃんと今日は止まれたもの!!」
サムは夏頃から小泉家に週に二、三回の頻度で出入りを始めた植木職人だった。
彼はれっきとした日本人なのだが、彼の名字『佐久』を花はどうしても言えず、いつも『サム』と呼んでいるのだ。
好奇心旺盛な花はすぐに彼に近づき仲良くなった。
七歳の子供らしい子供でいられるのは、美津とサムの前でだけなのだ。
――― そうだ……ギターもサムが弾いて聞かせてくれたんだ……。
そんな事を考え、花はこれが自分の思い出の中なのだと気付いた。
――― ああ、そうか……そうだ、だったらこの先は……思い出したくない! 見たくない!!
花の願いも虚しく思い出は紡がれていく。
**********
「え? お嬢さんはサンタクロースを信じてないんですか?」
「そうよ。だって私の所には一度も来てくれた事がないもの。サンタクロースが良い子の所に来るって言うなら、一番に私の所に来るはずだもの。だからいないのよ」
その言葉にサムは苦笑する。
「それはきっと、お嬢さんの所に来たくても来れなかったんですよ。だってこの家の煙突は塞がれているし、警備も厳しいですから」
サムはそう言うと少し考えるように黙り込む。
「そ、そうなのかな? 来たくても来れなかったのかな?」
花はサムの言葉に安堵していた。
幼稚園の頃から、お友達が冬休み明けにサンタクロースに何を貰ったか楽しそうに話しているのを聞く度に、サンタクロースなんていない、ずっとそう言い聞かせていた。
でも、この時期に幼稚園で歌っていたサンタクロースの歌でもあるように、きっとサンタクロースはドジだから花の家には入ってこれなかったんだ。
そう思うと、花は幼稚園に入ってからの特に辛かったこの時期が少し楽しいものに思えて来た。
――― あわてんぼうのサンタクロース。
「ふふ」と笑う花に、サムは内緒話をするように話し始める。
「お嬢さん、今年のクリスマス・イブの日には寝る時に窓の鍵をかけずに寝るといいですよ。お嬢さんの部屋はあそこでしょ?」
サムは花の部屋を指さして言った。
「そうよ、あそこ! サム、すっごくいい考えね!!」
喜んで大きな声を出した花を、サムは窘めるように小声で告げる。
「お嬢さん、この話は内緒にしときましょう。二人だけの秘密です」
『秘密』と言う言葉にワクワクして、花は共犯者の様な気分で大きく頷いたのだった。
*****
二十四日の夜は窓の鍵を開け、いつもなら五分で眠れる所がワクワクして中々寝付くことができなかった。
それでも、いつしかグッスリと眠りに落ちる。
そして次に目が覚めた時には真っ暗な闇の中にいる事に気がついた。
――― あれ?
何かがおかしいと花は気付いたが、それが何かなのかは自分の体に意識が向くまで理解できなかった。
そして理解した時には、信じられなかった。
この真っ暗な闇は、ひょっとしたら車のトランクの中にいるからじゃないのか。
聞こえてくる耳障りなエンジン音と振動で花は思った。
それに花はどうやら口を粘着テープか何かで塞がれており、腕を後ろ手に縛られている。
まさか、そんな訳ない。
花はこれが夢だと思い込もうとして、もう一度眠りに落ちることにした。眠れば嫌な事は忘れられるから。
***
次に目が覚めたのは、ドサリと体を地面に落とされた痛みによるものだった。
しかし、目を開けてもやはり真っ暗な闇の中で、何が起こっているのか花にはわからない。
だが、そのうち真っ暗に閉ざされた扉の向こうから男達の言い争う声が聞こえ、七歳の花にもやっと状況が理解できた。
誘拐されたのだ。
そして、それにサムも加わっている。
何を話しているのかはわからない。ただ二人の男の怒鳴るような声と、サムの哀願するような少し悲鳴染みた声が聞こえて来るだけ。
花は再び目を閉じた。
――― これは夢、すごく悪い夢。だって今日はサンタクロースが来てくれる日だもの。私は良い子だから、きっと素敵なプレゼントを持って来てくれるもの。
眠るのだ。
眠れば悪い事は全部忘れられる。だからもう一度眠るのだ。
***
ぼんやりとした暗闇の中、目の前にサムの顔があるのに気がついた。
いつもの陽気な顔とは違い、何か痛ましげな物を見るような、苦しそうな顔をしている。
サムは花の口を塞いでいたテープを剥がし、腕を縛っているロープをナイフで切っていた。
「――サ……?」
サムと呼びたいのに、声が出ない。
サムはそんな花の様子を無視して呟いた。
「逃げるんだ。ここから逃がしてやるから」
ここに花を連れて来たのはサムではないのか、なのに逃がそうとするなんて花は訳がわからない。
だがサムの言葉通りに遂げられる事はなかった。
「おい、佐久!! 何してるんだ!?」
その怒気を含んだ声にサムはビクリと動きを止め、それからゆっくりと声を発した男の方へ振り向いた。
「この子を逃がすんだ。殺すなんて聞いていない」
「馬鹿かお前は!! 顔を見られて生きて帰せるわけないだろうが!! しかもこいつの親父は警察に知らせるなって言葉を無視してさっさと知らせたんだ!! よっぽど金の方が大事で娘の命など惜しくないんだろうよ!!」
怒鳴り散らす男の言葉を花は冷静に聞いていた。
――― ああ、お父様にご迷惑をかけてしまった。
たった七歳の子供が考えるような事ではない事をぼんやり考えていたが、いきなり襲った衝撃と痛みに一気に現実に戻る。
サムが花に覆いかぶさっていた。
その衝撃に驚いたのだが、胸のあたりにチリリと感じる痛みがわからず、目を凝らす。
すると怒鳴り散らしていた男とは別の男が血に濡れたナイフを振りかざしていた。
それからもう一度、衝撃が襲ったが、花は再び意識を手放した。
楽になる為に。
***
花は顔に感じる熱で目を覚ました。
目の前には真っ赤に燃える炎が見える。真っ暗闇の中に炎は赤々と輝いているようだった。
パチパチと火が勢いよく爆ぜる音がする。
体を起そうとした花は手の平のぬめりとした感触にハッとする。
――― 血だ。
花の周りには炎とは違う赤で染められていた。
そのまま真っ赤に染まった先に視線を向けると、蹲ったまま動かないサムがいた。
「サム?」
なんとかサムの方へ行こうとしたが胸の辺りがチリリと痛み、花は自分の胸を見下ろす。
そこは真っ赤に染まり、それがサムのではなく自分の血だと理解した花はやっと現実を直視した。
「いや!! いやぁ!! サム!? サム!!」
必死でサムの名を呼ぶが、蹲ったままのサムはピクリともしない。
炎の勢いは益々大きくなっていき逃げなければいけないのに、花にその意識はなくただサムに近づこうと体を這っていく。
外にサイレンの音が聞こえたような気がした。
そうして花は何度目かになる、意識を手放す事にしたのだった。
**********
花が連れられた場所は頑丈にできた倉庫で火の回りが遅く、また花は寝転んでいた為、幸い煙を吸わずに済んで助かったのだ。
胸の傷は花を庇ったサムの体を貫通して花の鳩尾を傷付けたものだったが、傷もそれほど深くなく命に別条はなかった。
結局、身代金目的の誘拐は失敗し、三人の仲間のうち一人は仲間割れの為殺害され死亡、もう二人はその後警察に捕まり服役する事が決まったらしい。
しかし、この事件は世間で取り扱われる事はなかった。
花の将来に傷が付くと言う名目で小泉家の力を使ってマスコミに箝口令が敷かれたのだ。
花の父親は、病院のベッドに横たわる花に酷く憤慨していた。
「なぜ、鍵をかけていなかったんだ!! 今回の事件はお前の不注意のせいだ!! いったいどれだけの人に迷惑をかけたと思っているんだ!!」
この父親の言葉に花は謝る事しかできなかった。
そして、母親の姿を入院中に見る事は一度もなく、「お前のせいでもし、お腹の子に何かあったらどうするんだ!?」との父親の言葉から、体調を崩したらしい事がわかった。
父親に怒られる事は恐くない。母親が姿を見せない事も悲しくない。
ただ、花のせいで美津が酷く父親に怒られ、土下座せんばかりに謝罪しているのを見るのが辛かった。
それからサムの事を考えた。
サムは違法賭博で作った莫大な額の借金があったらしい。
サムはなぜ私を庇ったんだろう。
庇うくらいなら最初から裏切らないでほしかった。
嘘をついたなら最後まで嘘をついていて欲しかった。
どうして助けたの?
どうして殺してくれなかったの?
あの時死んでいた方がずっと楽だったのに!!
花が成長すると共に、負の感情までも大きく成長していた。
それにずっと蓋をしてきたのだ。
それが今溢れ返って大きな闇となって花を襲う。
どうして嘘をついたの?
どうして殺してくれなかったの?
あの時、死んでいた方がずっと楽だったのに。
そう、死んだ方が楽なんだ。
このまま死んでしまえばいいんだ。
真っ暗な闇の中、花は自分の死を望む感情に囚われていた。
ここはとても気持ちがいい。
このままここで闇に飲まれてしまえばいい。
ゆらりゆらりと闇の中にたゆたう気持ち良さに、花はゆっくりと瞳を閉じた。
――― ハナ!!
どこかで花を呼ぶ声がする。
それでも花は応えない。
じっと闇の中で瞳を閉じたまま。
――― ハナ!!
何度も花を呼ぶその声はとても逼迫していた。
その声は段々と悲しそうに、苦しそうになる。
花はそんな苦しそうな声を聞きたくなかった。
彼はいつも苦しんでいる。
だから彼の苦しみを少しでも和らげてあげたい、癒してあげたい。
彼が好き。
彼の傍にいられるなら、私は辛くても苦しくても生きていたい。
「ハナ!!」
「……ルーク!?」
真っ暗な闇の中、花は自我を取り戻した。
ここがどこだかわからない。それでもルークが傍にいるのがわかる。
私は辛くても苦しくてもルークの傍で生きていきたい。
花はそう強く願い、ルークの声がする方へ手を伸ばした。
「ルーク!!」
花の伸ばした手をしっかりとルークが掴んだ。
「ハナ」
優しく温かい、そして安堵したようなルークの声が聞こえた。