42.効率化には時間短縮。
黒い……暗い闇の中。
寒い。冷たい。
赤い……熱い炎の中。
――― サム……サム?
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「ハナ様、ターダルト王国の大使から贈り物と面会の申し込みが来ておりますが?」
「どちらもお断りして下さい」
花はセレナに返事をすると大きく溜息を吐いた。
あの夜から、マグノリアの貴族達だけでなく他王国の使者などより贈り物や面会の申し込みが増えて来たのだ。
以前から多少はあったのだが、それらは常に断って来た。
皇帝陛下のただの側室でしかない花が他国の使者と会うなど、ややこしい事態を招くことはあれど利益は何もないと、今まで受けなかったのだ。
本当は、これ以上の面倒な人間関係を築きたくなかったというのが正直なところだったのだが。
しかし今、面会を申し込んできているのは明らかに皇帝の側室ではなく、『癒しの力』を持った花に会う為だ。
世界中に癒しの音楽を届ける為には会うべきだろう。
ユシュタールの民を癒す事、それが花のこの世界での存在意義なのだから。
――― でも今はまだルークの傍を離れたくない。ううん、本当はずっと離れたくないけど……もう少しだけ待って欲しい。
今の不安定なマグノリアから、ルークから離れられない。
それが言い訳でしかない事は花もわかっていた。
――― 『神様』は怒るかな?
ぼんやりとそんな事を考えていた花だったが、セレナとエレーンの会話が耳に入って来て驚いた。
「ええ? セレナって婚約者がいるの!?」
思わず大きな声を出してしまった花に、セレナは苦笑しながら答える。
「いいえ、ハナ様。婚約者がいたんです。今はいません」
「ええ……」
その言葉に花は、どう反応すればいいのかわからなかった。
ユシュタールでは成人は十八歳からだが、大体は長い青春を皆楽しみ、結婚するのは五十歳前後らしい。
もちろん魔力による寿命の差から一概には言えないが。
そして貴族の子女たちにはほとんどの者に婚約者がいるらしく、その者達が正式に婚姻を結ぶのも五十歳前後となるらしい。
「十代の頃より決められていた許嫁だったのですが、どうしても私その方を好きになれなくて……というより生理的に受け付けなくて、だから私、レナード様よりハナ様の侍女のお話を頂いた時に喜びのあまり小躍りしてしまいました」
いつも落ち着いているセレナが小躍りするところを想像して、花は思わず微笑んでしまう。
それでもやはり気になったので聞いた。
「でも、本当に私なんかの侍女になってよかったの?」
侍女になれば、仕える相手を一番に優先しなければならない。
その為、結婚後も侍女を続けている者はかなり少なく、貴族の子女が侍女になるのは大抵が結婚前の行儀見習いの為であって、結婚後も続けることはない。
結婚間近だっただろう年齢のセレナが、花の侍女になったのには当分結婚の意思がないと示す為なのだ。そして花の侍女となった事で婚約も破談となったのだった。
「ええ、もう何十年も嫌で仕方なかったんです。あの男から解放されてどれだけ嬉しいか! ハナ様には本当に感謝しております!! それだけでも有難いですのに、ハナ様の素晴らしさときたら……」
なんだか段々と熱の入ってきたセレナの語りにくすぐったくなってきた花は、打ち切る為に慌てて相槌を打った。
「確かにわかるわ! 私も婚約者となる方にお会いした時にどうしても生理的に受け付けられなくて、思わず逃げ出してしまったから」
そしてバルコニーから落ちたのだが。
あのバカボンの事を思い出し嫌な気分になった花だったが、突然のレナードの声にその感情を抑えた。
「え? ハナ様って婚約者がいたんですか?」
取り繕いの微笑みを浮かべてレナードの方に向き直る。
「今日は転移して来られたんですね」
これ以上は思い出したくなかったので、レナードの言葉を無視して花はルークに声を掛けた。
今日は久しぶりに昼食を一緒に食べる約束をしていたのだ。
いつも昼間は扉から入って来るのだが、今日は転移してきたらしい。
「ああ、時間短縮の為だ」
ルークの返事に花は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見てルークは、なぜか顰めていた顔に笑みを浮かべた。
ルークは最近の忙しさに花と過ごす時間がほとんどなかった為、今日は無理に時間を作ったのだった。
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「ハァナ」
「ぶみゃ!?」
突然耳元で聞こえた、いつもより艶っぽいルークの声に花は驚くと同時に甘く痺れるようで腰が抜けそうになった。
「ルーク!?」
顔を真っ赤にしながら振り向いた花だったが、そのまま唇を奪われてしまう。
書き物机でユシュタールの世界地図を見ていた花をルークは椅子から抱きあげると、寝台へと向かった。
それなのに、ルークはキスをやめるどころか深めていく。
「ルー……ッ!?」
仰向けに横たえられた花は驚いて声を出そうとするが、その声はそのままルークの口に塞がれ吸い取られてしまう。
花に覆いかぶさるようにしてルークはキスを続けていたが、一度、花を強く抱きしめると起き上がった。
「ルーク、何をしてるの?」
ルークの動きを、ただ目で追う事しかできない花の頭の中はパニックになっているのに、なんとか出せた小さな声は呑気な事を聞いていた。
その問いに、花を切なそうに見下ろしていたルークは再び覆いかぶさるように花に近づくと、艶めいた声で花の耳元に甘く囁く。
「まだ何も……まだ何も始まってないだろう?」
その言葉に、もはや何も考えられない。
それなのに花の口は再び小さな声を発した。
「何を始めるの?」
「ハナは何を始めたい?」
すぐ間近にある、あまりにも美しい顔が優しく甘く微笑む。
もし花が横になっていなければ、あまりの微笑みに腰が砕けて倒れていただろう。それどころか、今すぐ気を失ってしまいそうだ。
返事をしない花にルークはもう一度甘い声で聞いた。
「何をする? ハナ」
「あ……」
なんとか声を出そうとする花をルークは優しく促す。
「あ?」
花はありったけの、なんとか機能している思考をかき集めて答えた。
「あっち向いてホイッ!!」
***
ルークは眠っている花の髪を優しく梳いていた。
あの後、『あっち向いてホイ』が何なのか、聞こうとしたルークに花は「ルークはしちゃダメです!!」と涙目で訴えた。
そして「もう寝ます!!」と宣言した後、いつも通りすぐに眠りに落ちたのだ。
笑いながらその様子を見ていたルークだったが、本当は笑っていないと無理にでも花を抱いてしまいそうだった。
花の「ルークが好き」と言う小さな告白を聞いてから、ルークの心は喜びに満たされている。
――― だが、俺は……。
ルークは花の事を想えば想うほど、己の想いに縛られ身動きが取れなくなってしまっていた。
――― これが愛とかいうやつか?……バカだな、俺は。
ルークは己の言葉に自嘲し眠る花の頬に優しくキスを落とすと、自身も眠る為に目を閉じた。
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黒い……暗い闇の中。
寒い。冷たい。
赤い……熱い炎の中。
――― サム……サム?
赤い、赤い炎が!!
「キャアアアアア!!」
花の張り裂けそうな悲しみと痛みに満ちた悲鳴が明け方の部屋に響いた。