37.キレてない。
「――ルーク?」
かすれた声で花はルークを呼んだ。
しかしルークからの返事はなく、ただ苦しそうな息遣いが聞こえてくるだけだった。
花はルークの腕の中で、なんとか身動ぎしてルークの背中を優しく撫でると、強く抱きしめられていた腕の力が少し緩む。
そうして、少し楽になった花はルークの背をそのまま撫でながら起こさないように小さな小さな声で歌う。
すると、ルークの呼吸は段々と落ち着くのだった。
もう何日もこんな夜が続いていた。
ルークは眠りに落ちると苦しそうに呻き、うなされる。
しかし、花は朝になってもその事には触れなかった。それによって更に苦しめてしまうのではないかと心配したのだ。
悩んだ末に花はジャスティンに相談することにした。
「ハナ様は陛下のお力の事はご存知ですね?」
「触れると……という?」
「ええ、そうです。そのお力です」
ジャスティンは肯定した後、暫く沈黙し、また話し始めた。
「恐らく、陛下のそのお力の影響でしょう。眠りに落ちて無防備になってしまう為、力が制御できず、色々な感情が流れ込んでくるのでしょう」
「え? でも……」
花はその言葉に驚いた。
触れているのは花だけだ。花が苦しめるほどの感情をルークを与えているのかと、涙が出そうになる。
それを見たジャスティンが慌てたように謝罪した。
「ああ、誤解させてしまい、申し訳ありません。決してハナ様のせいではございません。陛下は以前、急激にお力が増されていた時、お力を制御しきれずに触れなくても強い感情を読み取ってしまわれていたのです」
その事が、ルークを非情で冷酷な皇帝へと変えていったのだが。
ジャスティンは話を続ける。
「陛下がお苦しみになっているのは、恐らく戦場からの感情の為でしょう」
「戦場!?」
ジャスティンの顔は「やりきれない」と言ったとても厳しいものだ。
「ええ、死に瀕した者の感情は恐ろしく強い。陛下はそれをお読みになっているのでしょう」
「そんな!!」
花はジャスティンの言葉に愕然とし、青ざめた。
血液が逆流しているのではないかと思うほど、耳の奥でドクドクと音がしている。
戦場で死に瀕している者の感情を読んでしまうなど、どれほど恐ろしい事だろう。それが何百、何千と流れ込んで来るとしたら?
――― ルークが壊れてしまう。
花は座っていても倒れてしまいそうで、椅子の肘掛をギュッと握った。
その様子に気付いたジャスティンは隣室に控えていたセレナ達を急いで呼び、新しくお茶を入れ直すように言いつけた。
そして、ジャスティンは花の側まで来ると片膝をついて右手を胸に当てて言った。
「ハナ様、あなた様がいらっしゃられてから陛下は変わられた。いえ、昔の陛下に戻られた。あなた様は陛下の癒しなのです。お願い致します、どうかこのまま陛下のお傍にいて差し上げて下さい。そして、どうか私が忠誠を誓う事をお許し下さい」
そう言うとジャスティンは花のドレスの裾に口づけた。
花は驚き、ただジャスティンを見つめるばかりだった。
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「どういうことだ?」
思わず声を漏らしたのはレナードだ。
そこは、王宮にある小さな会議室だった。サラスティナ丘から報告の為に戻った将校の告げた内容にレナードは驚いたのだ。
レナードだけでなく、その場にいるセイン、内政長官のグラン、軍部を統括する大将のガッシュ、他数名も驚き、次いで渋い顔をした。
ルークとディアンのみ、いつもと変わらず無表情なままだ。
「なぜ、セルショナードにそれほどの魔力のある者達がいるのでしょうか?」
セインが驚きを隠せないままに疑問を口にする。
ルーク達は、対セルショナードの為の軍議を行っていた。そこへもたらされた報告は皆に動揺を与えた。
それは、王族クラスの魔力の持ち主が多数セルショナード軍に在ると言うものだったのだ。
「さて……セルショナード王はそんなに子だくさんでしたかね」
ディアンの惚けた言葉がその場に落ちる。
「ディアン!! こんな時にバカ言うな! そもそも、セルショナード王がどんなに頑張ろうと、魔力の強い者の子供は容易く生まれないだろうが!!」
「いやいや、レナード。下手な弓矢も数撃てば当たるっていうし、大勢の側室がいれば、十数人くらいは何とかなるんじゃないのか?」
ガッシュの言葉にレナードは驚愕する。
「どんだけやりまくってんだよ!?」
「あの、そもそも論点が違うのでは?」
「……」
グランの冷静な言葉に二人とも押し黙る。そのままグランは発言を続けた。
「それにしても、王族クラスの魔術師がセルショナードに十数人もいたとは思えませんな。やはり他国が力を貸しているのでしょうか?」
皆がその言葉に緊張したが、ルークの静かな発言でそれは弛んだ。
「いや、それはない。サラスティナ丘から他国の王族の魔力は感じられない」
実は、ルークは少しの魔力を割いてセルショナード軍を探っていた。
ただ、それを公にするとまた、馬鹿共が変な期待をするので黙っていたのだ。
少し緊張を解いた一同は、続くルークの言葉にまた驚いた。
「だが……セルショナードの王族の魔力も感じられない」
「え? それはいったい……」
セインの言葉は途中で途切れた。
セルショナード王には三人の王子と四人の王女がいる。
しかし、王太子の地位にあるのは第二王子との話から、恐らく第一王子は魔力が弱いのだろう。
また、王女の四人のうち第四王女以外の三人の王女は、一度はルークに謁見したことがある。
要するにお見合いだったのだが、その時にルークは三人共魔力が弱い事を理由に断っている。ただの難癖だったが。あとの第三王子と第四王女の魔力の程は判らない。
ただ言えるのは、セルショナード王が歴代王にない程の魔力の持ち主だと言う事だった。
王太子はそれに次ぐ程の力らしい。
その王たちの魔力が加わらずに、マグノリア軍に苦戦を強いている事が驚きだった。
数で言うなら確かに不利な戦いだったが、兵士たちそれぞれの個々の能力はマグノリア兵の方が圧倒的に優れている。本来なら五千のセルショナード軍に三千のマグノリア軍でも十分に渡り合えたはずだったのだから。
それではこの苦戦は、十数人の強力な魔術師たちの力によるものなのか。
――― それほどの魔術師は、いったいどこから現れたんだ?
皆の心の中には疑問だらけだった。
サラスティナ丘からじりじりと後退していたマグノリア軍は、更に後退するしかなく、今はサラスティナ丘に一番近い街のセンガル近くまで後退していた。
結局、軍議は更にサラスティナ丘に向けて千の追加派兵をする事で決着した。
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王宮内は、開戦当初のどこか楽観的な雰囲気から、悪化していく戦況に徐々に重苦しいものへと変わって行った。
それは王宮内だけでなくマグノリア全体もそうであった。
その中にあっても、やはり馬鹿は馬鹿で大馬鹿者であった。
ルークがユシュタールの崩壊を防いでいる限りはマグノリア帝国は安泰だと言うのだ。
今回の戦は、セルショナードの戯れだと、ルークがユシュタールを質に取っているも同然なのだから、本気で向かってくるわけがないと。
今まさに、その戦で何百、何千の兵たちが命を落とし、その苦しみをルークが背負っていると言うのに。
花は微笑みを浮かべながらも、心の中で呪文を唱えていた。
――― キレてないっすよ! キレてないっすよ!!
そんな花には構わず、馬鹿貴族は更に言葉を続ける。
「ハナ様、ですから陛下は今、大切なお体なのですから、くれぐれもお疲れさせませんように。ご寝所であまり我が儘をおっしゃらないようにお願い致します」
そう、したり顔で諌言する伯爵夫人に花は笑顔で頷く。
――― 三枚刃でもキレテナーイ!!
花はもはや、自分が何を言って自身を宥めているのか分からなくなっていた。
今、口を開けば間違いなく取り返しがつかない事になるだろう。そう思い、唯ひたすら黙って微笑んでいた。
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それから数日後、サラスティナ丘の防衛線が突破され、センガルの街がセルショナード軍によって占拠されたという報せが届いた。
センガルに留まっていた者は皆、兵士も無辜の民も関係なく無差別に殺戮されたという報と共に。




