36.犬も歩けば棒に当たる。
――― 狂犬ルークめ!!
翌朝、鏡の前に立った花は心の中で叫んだ。
花の鎖骨の少し上、首の根元の所にくっきりとルークの歯形が残っていたのだ。
それを見たセレナとエレーンは「まあ、ホホホホ」となぜか嬉しそうに微笑んでいる。
――― なぜ喜ぶ? あなた達の国の皇帝は変態なんですよー!
心の中で二人に訴えながら、恥かしそうに花は告げた。
「あの……今日は首元が隠れるドレスがいいです」
その言葉に二人は残念そうに答える。
「まあ……隠されてしまうんですか?」
「陛下の愛の証をお見せしないんですか?」
二人の言葉に花は絶句した。
――― な、何言ってんの!? 普通、人に見せる物じゃないよね!? 愛の証って何!?……ま、まさか、この世界の人たちって噛みつくのが普通なの!?
知識はあれども経験が全くない花は、その辺りを誤解して悩む事になるのであった。
**********
「セルショナードの目的はいったい何だ!?」
「本当に他国と密約を交わしてないのか!?」
その日の議会も紛糾していた。
ルークは片肘を立て頬杖をついたまま無表情に、後ろに控えたレナードは冷めた目をして、大臣達を見ていた。
ディアンに至っては宰相席で目を瞑って座っている。
「サンドル王国を始めとして、他国も此度のセルショナードのマグノリア侵攻には非常に義憤しておるようです。セルショナード軍に対抗するためにマグノリアに兵を派遣してくれるとまで言ってきております」
外大臣のコーブの言に、内大臣のドイルが噛みついた。
「それが罠だったらどうする!? マグノリアに兵を引き入れた途端、牙を剝いたらどうする!?」
「そのように疑心暗鬼に囚われていては、いつまでたってもセルショナードに対する事はできぬ!!」
そうしてまた、議会は紛糾する。
そのうち誰かが言いだした。
「陛下が『果て』へと注ぐ魔力を、わずかばかりセルショナード軍へと割いて下されば……」
その言葉に同調する声が上がる。
「そ、そうだ、少しくらいなら『果て』も大丈夫では……」
「そもそも、この帝国の大事に、陛下が他国の『果て』にまでお力を添える必要などないのでは?」
その意見に政務長官のセインなど幾人かは顔をしかめているが、殆どがその意見に同意の声は上げないものの、光明を見出したような顔をしている。
――― どいつもこいつも勝手な事言いやがって!
レナードはそんな大臣達を見ながら、思わず歪みそうになる顔をなんとか平静に保つ。前に座るルークの顔は見えないが、恐らく無表情のままだろう。
そうしてレナードはチラリとディアンの方へ視線を向けて、凍りついた。
――― 笑ってる……ディアンが笑っている……。
レナードは見なかった事にして、視線を大臣たちに戻す。
ディアンは二日前、花のドイル達に対する『人柱宣告』に甚く感動していた。
「さすがハナ様、なんと素晴らしい事をお考えになるのでしょう。あの馬鹿なカス共も少しは役に立つ事もあったんですね」と言って、微笑んだあの笑いだった。
議場は「陛下にお任せすれば」と言った楽観的な空気になりつつあり、そこへ外政長官のサントスが恐る恐るルークに声を掛けた。
「へ、陛下……」
「なんだ?」
冷徹な声でルークは返事をする。
それに気圧されたようではあったが、それでもサントスは勇気を振り絞り続けた。
「先日、力の強い術者に聞いたのですが……最近、頓に陛下の魔力が強くなったと……」
その言葉は更に議場を喜びに沸かせた。
「おお、それはなんと……」
「ではセルショナードなどすぐにでも撃破できるのでは……」
また無責任な発言が飛び交う。
そこにルークの静かな声が聞こえ、皆が聞き入る。
「確かに……その術者の言う通り、余の魔力は上がっておる」
その言葉に歓声が上がる。
「しかし、それに比するように『虚無』の勢いが増しておる故、余の力はこれ以上別には割けぬ」
ルークの言葉に、「そんな!」といったような悲鳴染みた声があちこちから上がる。
実際、セルショナードの侵攻に符合するかのように『虚無』の勢いが増しているのだ。
そしてまた、議会は紛糾していった。
**********
花にとってその日はとても楽しい一日だった。
シューラ奏者とシューラについて、音楽についてかなり語り合えたのだ。
花はシューラ奏者からシューラのお手入れ方法などを聞き、シューラ奏者は、花の拙いながらも奏でた音楽に感動していた。
「このように静かに奏でるなんて思いつきもしませんでしたが、何とも言えず心地よい音色ですね」
そしてまた会う約束をして、シューラ奏者は帰って行ったのだ。
そんなご機嫌な気分だったのだが、夜着に着替えて首元の歯型を見た途端、ルークへの怒りが湧きあがり、『後悔しろよ!リスト』の特別版にまた新たに『ルークの変態!!』『スケベ!!』等書き加えていたのだった。
そして、心の中でも罵詈雑言を浴びせていた。
――― もう! ルークのバカ!! 絶対絶対、いつか三回まわって……。
「ハナ?」
「わん!」
思わず花が吠えてしまった。
――― 私が吠えてどうする!?
自分にツッコミを入れながら、恥ずかしさのあまり真っ赤になって花は抗議する。
「もう! 急に声を掛けるのやめて下さい!!」
「ハナ」
「何ですか?」
「襲ってもいいか?」
「は……!? な、何言ってるんですか!?」
「ダメなのか?」
「ダメです!!」
「……そうか」
心底残念といった表情でルークは呟いた。
――― な、何でそんな顔するの!? いやいや、意味わからないし! ダメダメ、情に絆されちゃダメ!!
花は自分に喝を入れながらリストを片付け、急いで寝台に入ったのだった。
ルークの不可思議な態度に首を捻りながら。
一方のルークは思わず聞いてしまった事を後悔していた。
――― 次からは聞かずに襲おう。
掛け布に包まった花は、なぜか背中がゾクリとしたのだった。