35.悪いのは誰だ。
「ハナは大丈夫なのか?」
執務室に戻ったルークに続いてすぐに現れたレナードは訊いた。
「――ああ」
「今日は、もういいんじゃないか? ハナの傍にいてやった方が……」
「ハナに、大丈夫だから戻れと言われたんだ」
その言葉にレナードは驚いたように声を上げた。
「本当に?」
「ああ」
短い返事と共に、ルークは嘆息して書類に目を落とす。
そんなルークの様子を見ながら、レナードは考え込んだ。
あんな場面を目にしたら、普通、女性は泣き叫ぶものではないのか。気を失う女性だっているだろう。男でも慣れないものは悲鳴を上げ、失神してもおかしくない。
実際、セレナも悲鳴を上げ動揺が激しく、落ち着くのに時間がかかったのだ。
「ハナは……出来すぎじゃないか?」
思わず漏れた言葉に、レナードが後悔した時は遅かった。
「どういう意味だ?」
ルークの静かな怒りが伝わってくる。
しかし、レナードは上手く言葉を続けられなかった。
「……いや、今のに深い意味はない。すまん」
それからしばらく、重苦しい沈黙が続いた。
ルークにもレナードの言いたい事はわかっていた。
確かに花は出来過ぎなのだ。
ある日突然、暖炉の中に現れ、異世界から来たと言う娘。
花は自分の置かれた状況をいち早く理解し、不満を漏らすことなく、ルーク達の望む以上に上手く事に対処してくれる。
――― それどころか、あの歌は……いや、歌じゃない、ハナそのものが俺にとってはなくてはならない存在になってしまった。
花は何があっても、笑っている。
先程も、青ざめ震えながらも微笑んでいた。
だがあれは花の仮面にすぎない。
あの微笑みの裏に花は色々な感情を隠している。ルークにはそれがわかっていた。ルーク自身、冷酷で非情な仮面の裏に本当の自分を隠しているのだから。
しかし、花はルークの前では仮面を外し、色々な表情を見せる。
もちろんそれが全てでないのは解っているが、そんな花の前だからルークも素の自分を見せる事が出来るのだ。
「レナード、なぜあの女はハナがあの時間にあの場所を通る事を知っていたんだ?」
ルークは、手元の書類から目を上げることなく聞いた。
「今、調べさせている」
レナードの返事は、「なぜ」に対してではない。
内通者がいるのは明らかだ。その内通者が誰なのか、そして誰の息がかかっているのかを調べさせているのだ。
あの娘は恐らく、その者に躍らされたに過ぎないのだから。
ルークもそれはもちろん判っていて聞いたのだ。
「ハナの結界を強化しないとな……」
ルークはひとり言のように呟いた。
**********
「もう扱えるのか?」
「ルーク?」
寝室でシューラの弦をポロンポロンとゆっくり弾いていた花に、ルークが声をかけた。
花はルークが突然声をかけても驚かなくなったが、今日はいつもより現れるのがかなり早い為に驚いたのだ。
「綺麗な音色だな、この前は気付かなかったが」
花の驚きに構わず、ルークは続けた。
「これは、私の国ではどちらかと言うと、ゆっくりと奏でるんです。私はこの楽器を扱った事はないんですが、これに似たギターと言う楽器なら少し弾けたので」
そう言ってそっとシューラをテーブルに置いた。
それから、改めてルークに向き直る。
「ありがとう、ルーク。シューラも、明日シューラ奏者に会わせてくれる事も」
零れそうなほどの笑みを見せる花に、ルークは眩しそうに目を細めて答えた。
「いや、構わない。せっかくの面会を台無しにしたのは俺のせいだからな」
いつものニヤリとした笑いをしない、どこか距離を置いた感じのルークに、花は直接の距離を縮め、ルークの手を握った。
それから長椅子へと引っ張って行き、並んで腰を掛けた。
手はまだ握ったままだ。
「ハナ?」
そんな花の行動に、ルークは少し戸惑っているようだった。
「ルーク、今日のあの女性は、以前ルークが罰して右腕を失くしてしまった人ですか?」
「ハナ……知って……?」
花の爆弾発言にルークは驚きを口にした。
それに花は少し困ったように答える。
「色々な人が、色々な事を親切ごかして教えてくれるんです」
その言葉にルークは考え込むように黙り込んでしまった。
「ルーク、あの女性はどうなるんですか?それにあの術者らしい人はどうなったんですか?」
「ハナ……」
花の質問にルークは言葉を詰まらせた。
しかし花は引かなかった。
「ルーク、私知っておきたいんです」
花のその言葉に、真剣な眼差しに、ルークは暫く逡巡した後、口を開いた。
「あの娘は一通りの調べが終わったら処刑される。それと、あの術者はあの娘の乳母だったそうだが、あの時に絶命したらしい」
皇帝の側室を殺そうとしたのだから、当然の処置だろう。
また術者に関して言えば、本来証人となる人物をすぐに殺す事などしないのだが、あの時、詠唱していた攻撃魔法は、その前の比ではない程強力だった。
その為、レナードも慌てたのだ。
恐らく術者の命を掛けての物だったのだろう。
「そう……」
花の声は平淡だった。
繋いだ手からは、花の感情は何も窺えない。
その事がルークの心を冷たくする。
「ハナは俺を嫌うか? 冷酷で非情だと、他の者のように俺を恐れるか?」
酷く冷たい声で責めるようにルークは聞いてしまった。
しかし、他の者なら恐れ慄くであろうその声音に、花は優しく微笑み、握った手に力を込める。
「私、小さい頃、犬を飼いたかったんです」
「……犬?」
いきなり変わった話の内容にルークは驚き、ただ聞き返すだけだった。
「ええ、犬です。だけど、お父様は動物が嫌いで許してもらえなかったんです」
「そうか」
この話がどこへ行くのかさっぱりわからず、ルークはただ相槌を打つだけだった。
「それで、近所に犬を飼っているお家があって……その犬はいつも庭の小屋の側に繋がれて寝ていたんですけど……」
「それで?」
「ある日、私、そのお家の庭に入り込んで、繋がれている犬に近づいたんです。だけど、その犬は寝たままで相手にしてくれなかった。名前を呼んでも、撫でても反応してくれなくて、尻尾を振って欲しくて、遂に尻尾を思いっきり引っ張ったんです」
「どうなったんだ?」
結末に興味を引かれたルークは続きを促すように聞いた。
「思いっきり噛まれました。血がたくさん流れて、すっごく痛かったです。今でも傷が残ってるんですよ、ほら」
そう言って花は、繋いでいた手を離し、ルークに右手を見せた。
確かに花の右手の甲には二か所の白く少し引きつったような痕が残っていた。
「すごく痛くて、たくさん泣いて、もちろん両親にも怒られて、だから人の敷地に勝手に入り込んで、勝手に我が儘を押し付けるような事はもう二度としないと誓ったんです」
花は、話は終わりとばかりにニッコリ微笑んだ。
本当は、この話にはまだ続きがある。
怒った父親が犬の飼い主に抗議をし、結局犬は処分されてしまったのだ。
花は自分の軽率な行動が何の罪もない犬の命を奪ってしまった事で、罪の意識に苦しみ、酷く悲しんだ。
だが、それはルークには告げない。
「ハナ……」
ルークは少し呆れた様な、困った様な顔で少し微笑んで、花の傷痕の残った右手を取り、口づけた。
「ルーク……」
少し上擦ったような声で花はルークの名を呼んだ。
それに応えるように、ルークは上目遣いで花を見ると、ニヤリと笑う。
そして、右手に噛みついた。
「ルーク!?」
今度は驚いたような声でルークの名前を呼んだ。
「な・な・何で噛みつくんですか!?」
「その話でいくと、俺は犬だろう?」
「えええ!?」
何でそうなるの? と言いたい所だが、違うとも言い切れないようで、花は言葉に詰まる。
そんな葛藤をする花には構わず、ルークは花を抱き寄せ、唇にキスをした。
そのまま下唇に軽く噛みつき、驚いて開いた花の口内に舌を侵入させ、花の舌を絡め取る。
「ん……」
激しく深いキスに、花はただ身を任せるしかなくなる。
背中に回されたルークの左手は、優しく宥めるように花の背を撫で、右手は首筋から肩へと滑って行く。
花の唇から離れたルークの唇は、そのまま花の喉元へとキスが続いた。
と――
「ぎゃふん!!」
花が悲鳴?を上げた。
ルークは顔を上げ、呆れたようにため息を吐く。
「だからハナ、もう少し色気のある声を出せないのか?」
「だだ、だって! なんでまた噛みつくんですか!?」
首筋を抑え、顔を真っ赤にして涙を浮かべた花に、ルークはニヤリと笑って答えた。
「バカだな。俺の優しさなのに」
「な!?……意味がわかりません!!」
涙ぐんで抗議する花の頭をポンポンと叩いて、ルークは立ち上がるとさっさと寝台へ向かった。
しばらくそんなルークを睨んでいたが、結局、花もルークのあとを追い、寝台に入る。
そして、パニック状態で気持ちの落ち着かないまま、それでもルークに抱きつき―― 一分で眠りに落ちた。
「――なんだ、この拷問は……」
ルークは一人呟いて、眠る努力をしたのだった。