2.後はお若いお二人で。
「では、後はお若いお二人で……」
仲人さん――なんとか銀行の頭取の奥様がお見合いには常套句の言葉を告げると、仲人夫妻と花の母親と、お相手の桜庭……桜庭……桜庭次期総帥のお母様が席を立った。
――― 桜庭なんて言うんだっけ??? ま、いっか。『桜庭さん』で。んー桜庭か……結婚すれば『桜庭花』になるのか……なんか、微妙。
二人きりになった後、しばらく沈黙が続いていたが、ようやく桜庭が口を開いた。
「花さんは大学でピアノを専攻していらっしゃるそうですね。よかったら弾いていただけませんか?」
その言葉に花は顔を上げ桜庭の顔を見た。
――― あ、鼻毛出てる。しかも三本も。さっきまで出てなかったのに……って、そうじゃなくピアノね……。
「そうですね、でしたら今度我が家に遊びに来て下さい。我が家自慢のピアノで演奏をお聞かせ致します。桜庭さんが来て下さったらきっと両親も喜びます」
にっこり笑って教科書通りの――心にもないことを言った。
「それは嬉しいお誘いだ。あ、でも……あそこにピアノがありますよ?あれで弾いて下さいよ」
――― ええ!? あれでって……ここで今? この振り袖姿で?お茶を楽しんでいらっしゃる皆様の前で??? 何言ってるの、このおじさん。
「いえ……残念ながら、今この場で皆様にお聞かせするほどの腕ではございませんので……桜庭さんにも恥をかかせてしまいますから……」
再びニッコリ笑って婉曲に断った。が、通じない。
「でも、ピアノ専攻してるんでしょ? 上手なんでしょ?」
――― すごい……本物のバカボン初めて見ました。ちょっと感動です。
「上手かどうかは……ただ好きで、勉強させてもらってるんです。それに、私は小心者なので、人前で弾くのはちょっと……」
――― これで引き下がる? というか、引き下がれ!!
「わかりました。じゃあ、ちょっとお待ち下さい」
そう言って桜庭が席を立つ。
――― やれやれ、引き下がった……さて、これからどうしたらいいのかな? お庭散策とかが定番? というか、帯苦しい。トイレ行きたい。でも面倒くさい。もう帰りたい。
一人鬱々としていると、桜庭が帰って来た。
「じゃあ、行きましょうか。」
――― どこに? と聞きたいけど、淑女としては紳士の後ろを三歩下がって黙って付いていくべきなのかな……いや、なんか違う? まあ、いいか。
そう思い黙って後をついて行き、エレベーターに乗り桜庭が最上階の一つ下の階のボタンを押すのを見た。
――― ??? ラウンジか何かかな?
疑問に思っているうちに目的の階に着き、エレベーターを降りる。
――― ……なんていうか……客室??? にしては扉が少ないし???
そうこうしているうちに、桜庭は大きな扉の前で止まり金色のカード―― どうやらカードキーらしいもので扉の鍵を開けた。
「さ、どうぞ」
そう言うと扉の中、部屋らしき場所へと促してくる。
上手く引き下がることも出来ず、花は部屋の中へと足を踏み入れた。そして、驚きに目を見張る。
――― スイートルームだ。しかも、超がつくデラックスなスイートだ。たぶん、国賓級が泊る……初めて入ったけど、ホントにすごいな……あ、そう言えば、このホテル桜庭グループのひとつだ。
花の家も金持ちとはいえ、さすがにこんな部屋は利用したことがなかった。驚きのあまり、一歩二歩と部屋の中に足を踏み入れる。そうこうしているうちに扉の閉まる音がした。
――― あれ?……あの……これは二人っきりってやつですか???……もしかして貞操の危機?
冷や汗が背中を伝う。目を瞑れば我慢できると思ってたけど、さすがに初対面で鼻毛の出てるバカボンとは……と焦っていると、桜庭が奥の扉を開けた。
「こっちがリビングになってるんです。ほら、あそこにピアノがあるでしょ?」
そう言って、部屋の中を指し示す。
『ピアノ』の言葉に花は反応し、先ほどまでの危機感も忘れ、桜庭の後をついてリビングに足を踏み入れる。と、同時に驚いた。
「わあ! ベヒシュタイン!!」
喜び、ピアノの傍まで駆け寄り(と言っても、着物なので早くはない)まるで頬ずりでもせんばかりに撫でまわす。ピアノと言えばスタンウェイがあまりにも有名だが、ベヒシュタインも世界三大ピアノメーカーに数えられ、また花の一番好きなメーカーでもあった。
「じゃあ、弾いて下さい」
「はい?」
桜庭の不躾な言葉に嬉々としていた花は驚いた。正直、このピアノは弾きたい。でもこの格好で? この振り袖にたすき掛けをしピアノを弾いている姿を想像し、少し興ざめしてしまった。
「ここなら人目もありませんから弾けるでしょ?」
そう言って、桜庭はニタリと笑った。
――― バカボンがニタリと笑うなんて……残念。というか、気持ち悪いです。
桜庭の意図がわかったものの……納得はできないけれど半ばやけくそのような、でもベヒシュタインが弾けるという誘惑もあり、少し無理して弾くことにした。
「じゃあ、少しだけ……簡単なものを」
そう言って、ピアノの前に座り鍵盤を弾きだした。弾きだすと気分が高揚してきて段々とピアノと自分だけの世界に入っていく。そうして、三曲弾き終えたところで、ふと目線を上げると、すぐそばまで桜庭が寄っていたことに驚いた。
「げ!……あの……どうでしたでしょうか?」
恐る恐る、聞きながら立ち上がり距離を取ろうとしたが、桜庭にがっしりと手を掴まれてしまった。
――― ひいっ!!
「素晴らしい!! 実に素晴らしい!! この繊細な手があんな素晴らしい曲を奏でるなんて信じられない!!」
そう言って桜庭は詰め寄ってくる。なんとか花は距離を取ろうと後ずさるが、桜庭はどんどん前へと来るので、気がつけば壁際まで追い詰められていた。
――― この人素晴らしいしか言わないよ。ボキャブラリー少ない!! それに顔近い!! 近すぎてキモイ!! というか、目線変わらないんですけど!? 身長サバよみすぎだよ!!……いや、そうじゃなくて!! どうする? 私!? って、顔近付いて来たー!! ぎゃあああああ!!
なんとか花は桜庭を押しやり逃げようとするが、着物が絡まって上手く足が動かない。
――― すみません。嘘言いました。目を瞑っても我慢できません!! できませんでした!!
切羽詰まったこの状況で、誰に言っているのかどうでもいいことを謝る。今は逃げることが先決だと言うのに、パニックとは恐ろしいものである。そうして、廊下への扉でなく、バルコニーへ続く窓へと向かい外へ出た。
「花さん、どうして逃げるんですか? どうせ、結婚するんだからいいじゃないですか。ただの婚前交渉ですよ」
そう言って、ニタつきながら桜庭は花をゆっくりと追い詰める。
バルコニーの手すりに縋り、近づく桜庭に恐怖の目を向け、花は叫んだ。
「ごめんなさい!! 無理です」
「無理でも我慢してもらわなきゃ」
――― ぎゃあああ!! なんていうか生理的に無理!!
更に距離を詰める桜庭に、限界に達した花はバルコニーから身を乗り出した。
――― 落ちる!!
そうして、花は地面に向けて落下していった……はずだった。