135.捕獲大作戦。
輝く奇跡と共に世界が新しい朝を迎え人々が喜びに沸く中で、清らかな光がさし込む祈りの間だけが厳かな悲しみに包まれていた。
皆がただ言葉もなく、静かに横たわる花を見つめて立ち尽くす。
続く沈痛な静寂を破ったのは、クラウオスの不満げな声だった。
「おかしいなあ? なんでいつも僕はここぞって時になって負けるんだろう?」
「――それはお前が卑怯者だからだろ? 世界は正しき者が最後には勝つんだから」
ぼやいたクラウオスに答えたのは、初めて聞く、それでいてよく知った声。
皆が突然現れた存在に我が目を疑った。
それはクラウオスと全く同じに似て全く非なる紛うことなき尊き存在――創世神ユシュタル。
その圧倒的なまでの力にルークや皆の動きは縛られ、魔族達は畏れて姿を隠した。
しかし、クラウオスは驚いた様子もなく悠然と微笑む。
「やあ、兄さん。久しぶりだね。それで、探しものは見つかったのかな?」
「見つけたさ、お前をな」
「なんだ、やっぱりマヌケだね? 僕はずっとここにいたのに」
「――クラウオス。世界に直接干渉するのはルール違反だろ?」
「何を今更。反則技は僕の常套手段じゃないか」
静かな怒りを見せるユシュタルにもクラウオスは平然としている。
ユシュタルは目を眇めてクラウオスを睨みつけたが、それ以上は何も言わず長椅子へと歩み寄った。
「かなりの遅刻だよ? 兄さんは相変わらず時間にだらしないんだから」
長椅子に横たわる花を見下ろしたユシュタルは小さく息を吐くと、楽しげなクラウオスへ振り返った。
「クラウオス、お前は奇跡を信じるか?」
「突然何を言い出すんだよ。……兄さん、大丈夫?」
「さっきの事はどう思う? 僕は何も干渉していない。人間達が自らの力で起こした奇跡さ。それこそが僕らにとって奇跡じゃないか?」
「……下らないね」
「そう? でも、もう一つ奇跡はこれから起こるよ。だって、愛は世界を救うからね!」
高らかに宣言したユシュタルは天に向かって手のひらをかざした。
すると、その手のひらの上に柔らかな淡い光がほわりと灯る。
傍では小さな光もくるくると軽やかに踊っている。
「――ハナなのか!?」
体を圧する力から逃れたルークは、その腕の中に花を抱いたままユシュタルを問い詰めた。
一瞬、ユシュタルは自分の縛めを解いたルークに驚いたように眉を上げたが、すぐにニッコリ笑って答える。
「そうだよ。ちょっと見つけ出すのに時間が掛かって遅くなったけど、こうして無事に捕まえられたのは僕の作戦と二人の愛の力だね。やっぱり君の傍に戻って来たいって」
「……」
その笑みを冷やかしに変えてニヤつくユシュタルに、ずいぶん俗っぽい神だなとその場の誰もが思ったが口には出来なかった。
そんな微妙でありながらも期待に満ちた空気に水を差すように、クラウオスが苛立ちをあらわにした。
「バカバカしい。兄さんはせいぜい奇跡ごっこでもして、自分の創った世界を守ればいいさ」
「嫉妬するなよ、見苦しい」
「誰が兄さんなんかに」
吐き捨てるクラウオスの顔は今までにないほど悔しそうに歪んでいる。
「逃げるのか?」
挑発するユシュタルの問いかけに、立ち去ろうとしたクラウオスは足を止めた。
「違うよ。僕はこれから兄さんの大切なものをまた壊しに行くのさ。それが僕達の宿命なんだから」
「待てよ、クラウオス!」
「もう手遅れだよ、兄さん。何もかも全てね……」
軽薄に言い捨てて消えるクラウオスをユシュタルは追おうとしたが、ふわりと揺れた手に在る命の光を気遣ってか、肩を竦めて諦めを見せた。
そして花の側に膝をつくと、不快げに眉を寄せたルークに苦笑する。
「君が怒るのも無理はないけど、後でね」
その言葉にルークは何も返さず、冷たくなってしまった花の手を優しく包み込んだ。
「……よく頑張ったね」
ユシュタルは淡い光に慈しむように声をかけて、花の胸元に手を当てる。
皆が息を詰めて見守る中、光は徐々に花の体へと馴染んでいき、その輝きを薄めていく。
ルークは何も出来ない自分をもどかしく思いながらも花の手を強く握り、祈るように額を寄せていた。
どれほどの時間が経ったのかはわからない。
やがて花の頬に微かな色が戻り、閉じられていた唇からわずかな吐息がこぼれた。
「……ハナ?」
喉に詰まった声を無理に押し出したルークの呼びかけに応えるように、花は震える瞼をゆっくりと開いた。
緊張に張り詰めていた祈りの場の空気が一気に弛む。
花は何度か瞬きを繰り返すと、ぼんやりとルークを見つめた。
「……」
「あ、ちょっと待ってね」
何か言おうと口を開いたものの声が出ない花に気付き、ユシュタルがその額にそっと手をかざした。
途端に先ほどよりも花の顔色が良くなる。
「――ルーク……おはようございます」
「……おはよう」
「私、とても素敵な夢を見ました」
「夢?」
「はい。すっごくかわいい天使がずっと傍にいてくれて、優しい光に輝く世界に連れて行ってくれたんです。綺麗な音楽も聴こえて、幸せいっぱいでした」
「……そうか」
「……」
声が出るようになった花の口から発せられた言葉は朝の挨拶。
それから何事もなく嬉しそうに話し始めた花の様子に皆の気が抜けた。
ルークも泣き笑いの表情でどうにか挨拶を返し頷くだけだったが、ユシュタルは堪え切れずに噴き出して笑い出した。
「……あれ? 神様?」
花は笑い声のする方に顔を向け、ようやくその存在に気付いて目を丸くした。
改めて辺りを見回せば、なぜかリコまでいる。
「……あれ? リコ?……あれ?」
「――ハナ、どこか苦しかったり、痛む所はないか?」
状況がどうにも理解できず戸惑う花のほんのり熱を取り戻した頬に左手を添え、自分に視線を向けさせたルークは、右手に握ったままの華奢な手を更に温めようとするかのように唇を寄せて囁き訊いた。
「はい。……大丈夫です」
花はその優しい問いに感謝を込めて微笑んだが、ルークは悲しげに目を細めた。
「――すまなかった」
「……いいえ、私は何も。ルークは? 皆は大丈夫ですか?」
ルークの謝罪を受けて何が起きていたのかを思い出した花は小さく首を振ると、逆に皆への心配を口にした。
「ああ、大丈夫だ。俺も……皆も」
ルークは安心させるように表情を和らげ、後ろへと振り返った。
いつの間にか縛めの解けた皆も力強く頷くと、そのまま黙ってこの成り行きを見守る。
ホッと息を吐いた花が起き上がろうとぎこちなく動かした体を、ルークは支えながら顔を曇らせた。
「ハナ、まだ無理をしない方がいい」
「いいえ、大丈夫ですから」
まだ立ち上がる気力はないが、やはり横たわったままでいるのは居心地が悪く、せめて座りたかった。
そしてどうにか長椅子に座った花を見て、ユシュタルが笑う。
「うん。大丈夫そうだね」
「神様……」
花は安堵するユシュタルに何を言えばいいのかわからず、声を詰まらせた。
「花ちゃん、今までご苦労様でした。遅くなってごめんね?」
続くユシュタルからの労いの言葉に花は俯きわずかに黙り込んだ。
が、すぐに爽やかな笑みを浮かべて顔を上げた。
「いいえ、神様はお忙しいのですから仕方ありません。――――と言うと思ったら大間違いだ、コノヤロー」
「え……?」
思いがけない花の返事にユシュタルも皆も唖然としたが、ルークとディアンだけは当然だとでも言いたげな顔をしている。
花は皆の様子に構う事なく続けた。
「言いたい事はたくさんあります。でもそれを全てこの場で言うのはとても時間がかかるので、後ほど書面にしてお渡しいたします。ですから、今は一つだけ言わせて下さい」
「な、何かな?」
まるで次の言葉を恐れているかのようにユシュタルは後じさりながら促す。
「――やっぱり、羊は『メェ~』の方がかわいいと思うんです」
「え……?」
今度はルークまでもが驚き、ディアンも訝しげな顔をした。
しかし、ユシュタルは首を傾げると、少し考え込んでから呟く。
「んー、そうか。間違えちゃってたか」
「はい、やっぱり牛が『モォ~』の方が……って、あれ? 間違い……なんですか?」
本当は神様に言いたい事はたくさんある。クラウオスの姿が見当たらない事も気になっている。
だがこの場でそれを口にしても悲しみが募るだけだと、軽い話題を持ち出した花はユシュタルの言葉に困惑した。
「うん、まあね。この世界を創る時、花ちゃんの世界を参考にしたからね」
「……でも、魔物とかいませんよ?」
「え? いたよ? すごく大きい奴。牙とか生えてて、のしのし歩いて……そういや、人間はあの時、見かけなかったなぁ……。何度か通ったんだけどね?」
衝撃の事実に花は呆然としながらも必死に頭を働かせた。
以前、花がよく眺めていた世界魔物図鑑には、子供の頃に持っていた図鑑の恐竜と色合こそ違うが、姿かたちが似ている魔物達が載っていた事を思い出す。
「……それって白亜紀とか……ジュラ紀とか……」
どうやらユシュタルは時間の概念が花とはかなり違うらしい。
「それにしたって、魔力なんてありませんよ?」
「ああ、それねー。虚無を抑えるのに自分達で頑張ってもらおうと思って力を追加したんだよ。そうしたら、なぜか寿命も延びちゃったね?」
「……」
花も皆も、創世神を前にして今にも口から飛び出しそうになる罵詈雑言を抑えるのに必死だったが、当然ユシュタルにその努力は伝わらない。
「まあ、そんな事よりも、花ちゃんはとっても頑張ってくれたのでご褒美をあげたいと思います!」
「……御褒美?」
世界の創造を「そんな事」で片付けた神に言いたい事は募るばかりだが、花はひとまず新たな話題に集中した。
「そう、ご褒美! 花ちゃんが望むなら、元の世界に帰してあげられるよ?」
その言葉に花は小さく息を呑んだ。
ずっと花の傍に膝をついてその手を握っていたルークの手にも思わず力が入る。
だがルークは何も言わず、花に向かって優しく微笑みかけた。
「――いいえ。私は帰りたいと思いません。でも……でも、もしご褒美を下さるのなら、私はこの世界で、ルークの傍で生きたいです」
花は真っ直ぐにユシュタルの碧く滲む金色の瞳を見つめて答えた。
正直に言えば、後悔もある。名残惜しくもある。
自分の傲慢な気持ちから高く張り巡らせていた壁を取り除けば、きっと元の世界で新たに見えるものがたくさんあるはずだから。
両親とは一度も向き合って話をした事がない。沙耶には別れも言えず悲しませているかも知れない。
だけどそれ以上に、大切なルークの生きるこの世界で生きたいのだ。
「ハナ……」
ルークは迷いない花の返事に込み上げる感情を抑えると、ためらいながらも重ねて問いかけた。
「本当にいいのか?」
「もちろんです。ルークこそ覚悟は出来ていますか? 以前伝えた通り、私は執念深いのでルークが嫌だと言っても離れませんから」
花のきっぱりとした宣言にルークは一瞬泣きそうに目を細め、次いで一片の曇りもない、初めての晴れやかな笑みを浮かべた。
「――はっ……鼻血が出そう……」
「大丈夫か? やはりまだ横になっていた方がいいんじゃないのか?」
自分がどんな表情を見せたのか自覚のないルークは、顔を真っ赤にした花の額に手を当てて熱がないか心配そうに調べ始めた。
「……何か俺、馬に蹴られたい気分」
ぼそりと呟いたザックにリコが苦笑する。
「――では、そろそろ後片付けを始めましょうか」
「……ああ」
ディアンがやれやれと深く息を吐きながら、それでいてドス黒い笑みを浮かべると、レナードはすっかり静けさを取り戻した王宮を窓から見下ろしながら頷いた。
やらなければならない事は山ほどあるのだ。
「六王国については、私も微力ながら協力しよう」
「おや、微力などとご謙遜を。せっかくここまでお越し頂いたのですから、存分にお力を発揮して下さって結構ですよ」
「……」
「王、なんだかこき使われそうな気配ですよ。適当にトンズラしましょうね」
リコの申し出に爽やかに微笑んで応じたディアンを見て、ザックが大きく囁く。
もちろん周囲に丸聞こえであるが。
ようやく皆がいつもの調子に戻った和やかな場に、ユシュタルの楽しそうな笑い声が上がった。
「本当に二人は熱々なんだね。正直、僕にとっては予想外の展開だらけだったけど、でも良かった。じゃあ、花ちゃんの元の世界では誰も悲しむ事がないように細工しとくね?」
「――はい。あの、色々とありがとうございます」
今度は恥ずかしさに頬を染めた花が、ホッと胸を撫で下ろしてお礼を口にすると、ユシュタルは笑顔のまま首を振った。
「ううん。元々僕はこのまま花ちゃんに残って欲しかったんだ。でも彼がちゃんと花ちゃんに選んで欲しいって望んでいたからね。花ちゃんに悲しんで欲しくないって。だからこれは頑張った彼へのご褒美だね」
「……彼?」
不思議そうに首を傾げる花に、ユシュタルは楽しそうな笑みを更に深めた。
「やっぱり気付いていなかった? こうして今、花ちゃんが元気でいられるのも実は彼のお陰なんだ。本当なら僕は間に合わなかったかも知れない。だけど彼が幼い力で必死に花ちゃんを守ってこの世界に留めていてくれたから、僕は花ちゃんの命をもう一度繋ぐ事が出来たんだよ」
「私を、守って……」
呟いた花は思わずお腹に手を当てた。
不安に押し潰され、深い闇の底に沈んでしまいそうになった時に何度も救ってくれた、心に響いたあたたかな声。
先ほどの募る悲しみの中で、ずっと寄り添い励ましてくれていた、そして夢のような世界へ、ルークの許へと導いてくれたかわいい天使。
思い当たる事は今までにもたくさんあったのに、なぜ気付かなかったのだろう。
「ルーク、私……」
微かな戸惑いを含んで何か言いかけた花は、声を詰まらせ俯いた。
「どうした?」
ルークが再び心配に顔を曇らせ、皆も二人の様子に気付いて黙り込む。
しかし、顔を上げた花はどこか恥ずかしそうな、それでいてとても嬉しそうな笑みを浮かべて震える声で囁いた。
「私……赤ちゃんが出来たみたいです」