134.生命の歌。
命のともしびが消える。
色を失っていく柔らかな頬に頬を寄せて、ルークは強く花を抱きしめた。
だが無情にも、命がほどけるように、花から頼りない淡い光がふわりと浮かび上がる。
掴みたいのに、掴めない。
引き留めたいのに、引き留められない。
淡い光からはぐれたような小さな光がくるくると舞い、たゆたう光に寄り添い昇っていく。
皆がただ、黙して見守るしかなかった。
「あー、やっぱり無理に繋いでいたせいか、命の輝きさえも壊れかけてるのかな? まあ、体が残っただけ良かったね?」
言葉を失くし、ただ茫然としていたザックはクラウオスの声にようやく我に返ると、激しく詰め寄った。
「何してんだよ!? あんたが命を、ハナ様の命を繋げばいいだろ!?」
胸倉を掴まれて揺さぶられても、クラウオスはされるがままに笑って答えた。
「無理だよ。僕にそれが出来ないのは、君以外のみんなわかってるさ」
実際、ザック以外の誰もが痛みを堪えるように俯き、立ち尽くしている。
「……なんで? なんでみんな諦めてるんすか?」
花の命のともしびが消え去った今、もはや手遅れである事はザックにもわかっていた。
それでも足掻かずにはいられないのだ。
しかし、力ないザックの問いに返事はなく、朗らかなクラウオスの声だけが祈りの間に響く。
「花ちゃんは魔力の器こそ持ってなかったけど、とてもユシュタルに近い存在だったんだよ。だからこそ、ユシュタルの力を以って命を繋ぐ事が出来たのさ。そんな花ちゃんの命を僕が繋いでもすぐに壊れてしまうだけだよ。ディオだってユシュタルに近かったとは言え、元は僕の血を引いていたからこそ、あそこまで長く生きられたんだし」
愉快でたまらないといった様子で、クラウオスは花を抱きしめたままのルークへ顔を向け、更に笑みを深めた。
「さあ、始まるよ。今からが世界の終わりだ」
その言葉にザックは慌ててルークの様子を窺ったが、ディアンとレナードの行動は早かった。
「メレフィス」
レナードはメレフィスを喚び出し、ディアンはルークの側に膝をついてアポルオンへ目配せした。
ザックは一瞬呆けたが、何かを思い出したのか床に転がるヴィシュヌの剣をどうにか拾い上げる。
そしてクラウオスは、ゆっくり窓辺へと歩み、傍観に徹するらしく窓枠へ腰を掛けた。
ルークは必死に己の中で猛り狂い始めた闇を抑えていた。
覚悟していたのだ。
いずれ花がいなくなる事はわかっていたのだから。
だが、こんなに早く、こんなに突然に目の前から消えていくとは思いもしなかった。
花の命がこぼれ落ちていく様を、為す術もなくただ見守るだけだった自分が呪わしくてならない。
頭では理解しているのに、心が拒絶する。――花のいない世界を。
悲しみと苦しみが激痛となってルークを襲い、腕の中で冷たくなっていく花と共に心も凍りついていく。
「ルーク!」
差し迫ったレナードの声も、絶望に支配されたルークには届かない。
無力な自分へ怒りが湧き、無情な神へと憎しみが湧く。
花を失くした空虚な心に闇が勢いよく流れ込む。
生きる価値のない世界は全てが無意味なのだ。
苦しみしか生み出さない世界など――壊れてしまえばいい。
「――来た」
クラウオスが弾んだ声を発した一瞬後――ついにルークから抑えきれない闇が溢れ出した。
それは以前の比ではなく、皆が張った結界を破り、綻んでいた王宮の結界を突き抜け、世界を飲み込もうと躍動を始める。
空に渦巻く暗雲に人々が恐怖し、痛みを伴う闇に覆われて上がる悲鳴。
すでに闇に囚われていた者達は体が限界を超えて苦しみにのたうちまわる。
そんな世界の様子を満足げに眺めていたクラウオスは、やがて眉をひそめてルークへと振り返った。
初めこそ凄まじい勢いで広がっていた闇はわずかに衰え、人々が希望を胸にどうにか抗いを見せているのだ。
ルークは押し潰されそうになる闇の中で、花への大切な想いを必死に抱いていた。
それをディアンとレナードがルークの背と腕にそれぞれ手を添えて、力ではなく心で以って守ろうとしている。
アポルオンとメレフィスはその外側から結界を何度も繕い張り直し、そしてザックは決死の覚悟でヴィシュヌの剣へと少ない力を与えていた。
「ちょっと、なに無駄な事してんの?」
クラウオスが苛立ちをあらわにして立ち上がり、一歩前へと足を踏み出した。
その時、ヴィシュヌの剣から力を得たセルショナード王・リカルド――リコが荒れ狂う祈りの間に姿を現した。
「――王!!」
「……苦労かけたな、ザック」
リコは曇りなき金色の瞳を柔らかく細めてザックへと頷いたが、すぐにその顔から笑みを消して剣を受け取ると、闇に染まるルークへ厳しい眼差しを向けた。
その気配を感じて、ルークが荒い息を吐きながら顔を上げる。
「リカルド……頼む」
「――はい」
リコが現れた意味を瞬時に悟ったルークは、全てを委ねて目を閉じた。
「ルーク!! リカルドになに頼んでんだよ!? お前はまだ――」
「レナード!!」
レナードの怒りに満ちた訴えをディアンが遮る。
「これ以上、ルークに苦しみを負わせる事は出来ません!!」
暴走する力を懸命に抑えるルークも自分達も、いつまでもつのかわからない。
それならばまだ、ルークが心を残しているうちに、この苛烈な運命から解き放つべきなのだ。
ディアンが痛みを堪えて吐き出した言葉に、レナードは押し黙った。
確かに、ルークはずっと苦しんできたのだ。
そして今も、恐らくこれからも。
だが、レナードはルークに生きて欲しいのだ。それがどれだけ傲慢な願いだろうと。
その考えを読んだのか、ルークは濁った金色の瞳をレナードへと向け、まるで懇願するように呟いた。
「――レナード、許してくれ……」
ハッと鋭く息を呑んだレナードは、慌てて首を振った。
こんな残酷な結末を許すように父は言った訳ではないはずだ。
「なんだよそれ……。違うだろ? リカルドだって、何でこんな役目を……」
リコはルークの腕の中の花からそっと目を逸らし、動揺をあらわにするレナードの瞳を静かに見つめ返した。
「――約束したのです。陛下が闇に囚われ苦しむのなら……救ってほしいと。それが母の最期の願いでした」
それが国を、世界を救う事になるのだと。
クリスタベルは涙さえ流す事も出来ない程に衰えた体から、かすれた声を絞り出し、何度もリコへ謝罪の言葉を口にしていた。
「ああ、もう……。またクリスタベルか。ホント、酷いお母さんだね? 息子に父親や弟を殺させて、さらに叔父までなんて。――あ、でもルカ君が死んじゃえば、君は皇帝になれるんだ。やったね!」
今まで忌々しそうに成り行きを見ていたクラウオスが揚々と毒を吐き出す。
そんなクラウオスをザックはきつく睨みつけたが、リコは動じた様子もなく柄を強く握り締めると、深く息を吸って力を剣へと集中させた。
ここで感情を見せれば、皆に責を負わせてしまう。
例え後に卑怯者と謗られようと、今やるべき事を果たすのだ。
しかし、いよいよ大きく膨れ上がったルークの闇の中に、小さな光を見つけたリコはその動きを止めた。
――約束。
リコが口にした言葉は、ルークに更なる痛みと苦しみをもたらした。
必ず守ると約束したのに果たせなかった悔しさ、悲しみ。
だが、約束は一つではなかった。
『――私はルークを信じています』
透き通った花の声は、狂気に侵されたルークの深い闇の中で一条の光となって、ディアンとレナードの――皆の想いを照らし輝かせる。
――― 選んだのだ、大切な者達とこの世界で生きる事を。
全てを諦めていたルークをずっと支えてくれた大切な者達の為に。
何よりも、失くしかけていた心を希望で満たしてくれた者の為に。
――― 約束したのだ、生き続けると。
ルークは腕の中の花を見下ろした。
その穏やかな顔はいつもの微笑みを浮かべている。
最後まで笑っていて欲しかった、幸せでいて欲しかった。
だから自分も笑っていようと。
ルークの闇に滲んだ瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
まるで真珠のように輝く光の雫は、花の胸へと沁みていく。
「……ハナ?」
花の声が聞こえた気がして、ルークはすっかり色を失くしてしまった唇へ耳を寄せた。
しかし、唇は冷たく閉ざされたまま微かな吐息さえもない。
ルークはきつく目を閉じて込み上げる感情を抑えつけると、未だ己の中で暴れ溢れる闇と戦うために、心に灯る小さな光に集中した。
やがて微かな光は煌めく宝石のように確かな輝きとなる。
ルークから放たれた光に共鳴して、花の胸元にあるクリスタベルの真珠が輝き始めた。
その柔らかな光は優しい愛に満ちている。
花の想いがルークの想いと一つに重なり合い、清らかな光となって祈りの間から王宮へ、街へ、世界へと広がっていく。
あまりの眩しさにクラウオスは目を覆って顔をそむけ、ディアンとレナードはいっそう強い輝きを放つ光に目を細めてルークを見守った。
ザックとアポルオンは呆気に取られて口を開け、メレフィスは天を仰ぐ。
「……母上?」
リコは剣をゆっくりと下ろし、己に纏う光を驚き見つめた。
世界を包み込むあたたかな光は、人々に失ったはずの愛を伝えて舞い踊る。
そして聞こえる優しい音色。
真珠に刻まれた花の祈りが、世界に刻まれたピアノの音色が、人々の心に刻まれた歌声が、天上の音楽となって降りそそぐ。
それは彼方に届く、生命の歌。
世界に生きる全ての命が心で歌い、心で祈る、美しい音楽。
舞い踊る穏やかな光は皆の優しい想いを伝えて歌い、怒りと憎しみ、悲しみと苦しみ、そして命さえも浄化していく。
希望を捨てずに戦い続けた者、絶望に囚われ苦しみ喘いでいた者――全ての者達が光り輝く奇跡に涙した。
信じる心、諦めない気持ち、前へと進む勇気。
人々が希望を胸に抱き続ける限り、奇跡は何度でも起こるのだ。
今、夜が明ける。
力強く昇る陽の光が全ての命を輝かせて、世界は新しい始まりの朝を迎えた。