128.行く手を阻む闇。
世界を明るく照らしていた太陽も沈み、静かな闇が忍び寄る頃、小さな会議室で詰めの協議を行っていたルーク達の元に国境を警備する軍からの急使が駈け込んで来た。
「ヘスター王国軍が国境を挟んだクタンク草原に陣を構え始めました! 恐らく一両日中には我が国へ攻め入って来るものと思われます!!」
すっかり疲れ果てた様子で奏上する使者の言葉に、その場の者達は驚きに青ざめた。
「まさか、本当に六王国は帝国相手に戦を始めるつもりなのか!?」
「では、他国も同様に!?」
各国が戦の準備を始めているという情報は当然入っていた。
しかもマグノリア帝国を相手に同盟を結んだと。
だが、六王国が掲げた大義名分があまりに馬鹿馬鹿しすぎた為に、マグノリアの政務官達は半信半疑だったのだ。
『軟禁状態にあるサンドル王太子とユシュタルの御使いである娘を救出すべし』などと。
そんな詭弁を弄してまで王達は本気で民を戦に巻き込むつもりなのかと驚きを隠せないまま、会議は急きょ関係者を召集しての軍議へと移行した。
そして次に届いた報告は各国境からではなく、王宮を守る警備兵からのものだった。
「申し上げます! 街に突如現れた多数の兵が王宮を包囲すべく展開しております!!」
「――どこの兵かはわかっているのですか?」
告げられた内容に動じた様子もなく、冷静にディアンは息を切らした兵士へ問い質した。
「はっ! ドイル伯爵他、数名の上位貴族の方々の私兵かと……」
「なるほど、六王国と上手く時機を合わせてきましたね。このまま民を質にして、玉座の要求でもするつもりでしょうか?」
深く息を吐いたディアンに応える事もせず、ルークは円卓に肘をついて組んだ両手に額を預けていた。
その顔には焦りが浮かんでいる。
「陛下――」
「……すまない」
「いいえ。私共の事はお気になさらず、どうかハナ様を……」
心配して声をかけたジャスティンの言葉にルークは頷くと、再び力を集中させる為に目を閉じた。
つい先程まで確かに感じられていた花の気配が突然掻き消えたのだ。
その場の者達はルークとジャスティンのただならぬ会話に、ようやく何が起こっているのかを理解した。
思わず縋るように月光の塔へと目を向けた者達が息を呑む。
空にはあの日と同じ、不気味なほどに紅く輝く満ちた月が浮かんでいた。
**********
それは何の予兆もなかった。
黄金色に輝いていた空がゆっくりと黒く塗り替えられていき、同時に昇り始めた満月を見た花は、セレナや護衛達と共に月光の塔へと向かった。
そして、祈りの間へと足を踏み入れた途端、全てが闇に閉ざされたのだ。
「……セレナ?」
真っ暗な闇の中で、花は恐る恐るセレナの名を呼んだ。
だが返事も気配も何もない。
そこへ、誰かの気配を感じてハッと身構えた。
「ようこそ、花ちゃん。僕の世界へ」
「……殿下?」
「やだなあ、花ちゃん。ディオって呼んでって言ったのに。まあ、それも本当は僕の名前じゃないからいいんだけどね」
闇に慣れてきた花の瞳に、ぼんやりと浮かび上がる王太子の姿が映る。
「殿下……目が……?」
うっすらと見える王太子の顔にはあの黒い布はなく、金色に光る双眸があった。
しかし、その瞳は暗闇のせいか紅く濁って見える。
「ああ、そうだね。――ねえ、花ちゃん、知ってる? 本当の闇っていうのはね、とても深くて黒い、そして血のように紅いものなんだよ?」
王太子の声はとても楽しげに弾んでいるのだが、その纏う気に底知れぬ恐怖を感じて、花はおぼつかない足取りで後じさった。
「なんで逃げるの? 僕は花ちゃんと話がしたいだけなのに。なかなか近付けないから、こうして邪魔が入らない場所を用意したんだよ。もう時間もないしね?」
「では、お話は応接間で致しましょう。出口はどこですか?」
「出口はないよ。もちろん入口も。ここは僕の世界――とても深い闇だからね」
「それは……? とにかく、陛下がすぐに迎えに来てくれますから」
「だから無理だって言ってるでしょ?」
王太子はその鈍い金色の瞳を輝かせて徐々に近づいて来るのに、花の足は竦み、体が震え、どうしてもその場から動く事が出来なかった。
――― 恐い!!
心の恐怖に呼応するかのように闇が蠢き、花へとまとわりつき始める。
それでも花は必死で抗った。
約束したのだ。ルークを信じると。
――― 大丈夫!! ルークは必ず来てくれる!!
その想いを胸に強く抱いて凍りつきそうになる心を奮い立たせ、目の前にいる王太子を睨みつけた。
「いいえ! 私はルークと帰ります!!」
「だから無駄だって……」
嘲笑する王太子を無視して、花は微かに輝いた右手小指の指輪を包み込み、強く強く願い、強く強く心を寄せて、その名を呼んだ。
「ルーク!!」
瞬間――花から眩い光が放たれた。
曇りなき花の澄んだ呼び声は力となり、清らかな光となって、闇に親しんでいた王太子の瞳を貫く。
そして光は闇の中で一条の道となり絆となって、ルークへと繋がった。
「――ハナ!!」
「ルーク!!」
花とルークの信じる心は世界さえも乗り越えて通じ合い、触れ合った。
光に眩んだ目を何度か瞬いて、そんな二人を見た王太子は忌々しげに顔をしかめる。
「……だからさ、本当にこの国の人間は礼儀を弁えていないよね。いい加減に他人の空間に許可もなく押し入るのはやめてくれないかな?」
「それは失礼した。大切な妃を下種な野郎と二人きりにするのは心配だったもので」
酷く憮然とした王太子の非難にも、ルークは花を守るように抱きしたままさらりと応えた。
「下種ってあんまりじゃない? 僕はただ花ちゃんと二人で話がしたかっただけなのに、やっぱり過保護だねぇ。まあ、せっかくだから皆で世界の命運を賭けたゲームでもしようか? でも、三人じゃつまらないし、もう一人呼んでさ。ねえ?」
王太子がどことも知れない空間に向かって柔らかく声を掛けると、暗闇は微かに滲み、新たな人物が姿を現した。
ゆっくりとローブを下ろしたその人物は、闇の中でもかすかに輝くプラチナブロンドの長い髪をさらりと揺らして穏やかな微笑みを浮かべる。
「久しぶりだな、ルーク」
「――兄上……」
苦しそうに吐き出されたルークの声は、痛いほどに強く花を抱きしめる腕とは逆に、とても弱々しいものだった。
**********
レナードは月光の塔へと急いでいた。
ルークの気配を辿れば塔へと繋がるのだが、転移する事が出来ないのだ。
その為、自身の足で向かうしかなく、逸る気持ちを押さえて必死に走っていたレナードの前にローブを纏った人物が立ちはだかった。
「どけよ、ガーディ!」
「いいえ。残念ながらここをお通しする訳にはいきません。貴方にそちらの剣をお持ちになられると少々厄介ですので」
「じゃあ、力ずくで通してもらうさ」
ヴィシュヌの剣を指してゆったりと話すガーディに、レナードはいつもの優しさなど微塵も見せず、腰の剣に手をかけた。
「それは闇に拠る魔族が宿ったもの。私と争うには少々分が悪いと思いますが……左手に在る剣を抜いた方がいいのでは?」
「これは俺の物じゃない。俺の剣はメレフィスだ」
余裕を見せるガーディの言葉をレナードがきっぱり拒否すると、メレフィスが肯定するように鳴った。
「おやおや、愚かな魔族は彼だけではないと言う事ですかね? しかも彼の君ならまだしも、貴方に従うなどと無謀というもの」
バカにしたように笑うガーディが取り出したのはメレフィスと対だった元・魔剣。
思わず柄を握ったレナードの手に力が込められたが、メレフィスは気にするなとでも言うようにもう一度小さく鳴った。
「――まさかお前も剣を握るとはな」
「これでも私はマリサク王国との戦では、剣を手にかなり善戦したのですよ」
「そしてセレスティーノを手にかけたのか?」
「……」
レナードの問いに応える事なくガーディは邪魔なローブを取り払った。
その姿を目にしたレナードは微かに眉を寄せる。
「それがお前の本当の姿か?」
「ええ、闇の魔力に身を染めた憐れな者のなれ果てですよ」
レナードの真っ直ぐな碧色の瞳から視線を逸らしたガーディは、自身の手を悲しげに見下ろして頷いた。
その視線の先にあるのは茨の蔦のような黒い痣。それは手だけでなく、首にも顔にまでもはっきりと刻まれている。
だが、レナードは一片の同情も見せずに冷笑した。
「自ら望んでおいて、憐れなどとほざくなよ」
「確かにそうですね。私の望みは世界の終焉。――温情も憐憫もいりません。必要なのは憎悪と敵意」
今までの余裕を滲ませた笑みを消して、ガーディが鞘から抜いた剣はレナードの知るものではなかった。
刀身は幾多の血を吸ったかのように赤黒く鈍い輝きを放っている。
「おいおい、ずいぶん醜くなったな」
嫌悪に顔を歪めて呟いたレナードも、メレフィスに力を与えるように強く柄を握り締めると、一気に鞘から解き放った。
その刀身は驚くべき事に白金に光り輝いている。
「……なるほど、そういう事でしたか。闇に染まる者は愚かにも光に焦がれ求めてしまうもの。ですが、どんなに光に拠ろうと所詮はまやかしでしかない……」
眩しさに目を細めて、嘆くように囁いたガーディは怒りさえ感じられるほどに冷たい気を纏い、レナードへと打ちかかった。
それをレナードは上段で受け止めたが、思いのほか強い力にわずかに押されて顔をしかめた。
「――光に愛される貴方が羨ましい」
「ぬかせ!」
勢いよく押し返したレナードは、そのまま踏み込んでガーディの開いた脇へと剣を走らせた。
しかし、ガーディは重心を崩すことなく後退してさらりとかわす。と同時に、レナードも左へと後退した。
ガーディの放った攻撃魔法は対象者を失い、壁へとぶつかって砕け散る。
轟音と共に崩壊する壁を気にも留めず、レナードはただガーディだけを見据えて場違いな程に穏やかな声で問いかけた。
「お前だって望めば手に入ったはずだろう? ガーディ――いや、エヴァーディオ王太子殿下と呼ぶべきか?」