127.竹馬の友。
「いったいお前は何者だ? 私と旧知の仲などと騙るとは!」
ドイルは領館の応接間で、目深にローブを被ったままの訪問客に憮然として問いかけた。
内大臣を罷免された後、渋々ながら息子に伯爵位を譲って数日前に田舎の領地に戻って来たばかりのドイルの元に、名乗りもしない怪しげな男が面会を求めていると屋敷付きの執事に告げられたのが先刻。
普段なら受ける事など決してないのだが、男の言う「旧知の仲」に興味を引かれて、何者か確かめようと思ったものの、なぜ受けたのだろうと今になって悔やみ、いつも以上に横柄な態度になっていた。
だが男は気にした様子もなく、ゆったりとした優雅な動作でローブを脱いだ。
そして、ローブの下から現れたのは、もう二度と目にする事など出来ないと思っていた秀麗な顔。
「フ、フランツ殿下!?」
驚愕のあまりドイルが上げた声は、耳障りな程に裏返っていた。
「お久しぶりです、叔父上。ずいぶん長い間ご無沙汰してしまい、申し訳ありませんでした」
応える涼やかな声は、間違いなくフランツィスクスのもの。
よもや再びこの御顔を、この御声を聞けるなどとは思っていなかったドイルは、フランツの足下に膝をついて、恥ずかしげもなく声を出して泣きだした。
「で、殿下……やはり生きておられたのですね……」
フランツィスクスはドイルにとって夢だった。
この立派な甥が帝位に就けば、自分は父の後を継いで内大臣となり、国政の中心となって地位と名誉と権力、そして人々からの尊敬を得る事が出来るのだと。
しかし、七十五年前に起きたあの忌まわしい出来事によって、夢は潰えた。
それでもどうにか先帝によって父親の後任を命じられはしたものの、現皇帝の代になってからはただのお飾りに成り下がってしまった。
そして、焦れば焦るほどに権力は遠のいていき、最後に得た結果が更迭。
ドイルにとって、これほど不名誉な事など有り得なかったのだ。
ドイルはひとしきり泣いた後、ようやく我に返ると顔を赤らめて、そのままフランツに平伏した。
「殿下、大変申し訳ありませんでした。喜びのあまりつい……」
「いえ、かまいません。叔父上のお気持ちは痛いほどに伝わりました。私はそのお気持ちをとても有難く思います」
昔となんら変わる事のない、優しく清涼な声音。
フランツ殿下はあの冷酷非道な皇帝とは大違いなのだ。
「叔父上の苦境は私も聞き及んでいます。その叔父上にこのような事を申すのは、私としても大変心苦しいのですが……。どうかご協力頂きたい事があります」
「いいえ、とんでもない! 私などで宜しければ是非!!」
勢いよく顔を上げたドイルは、懐かしいその顔に見慣れない色を見つけて訝しげに眉間にしわを寄せた。
「殿下、御目の色が……?」
「ああ、これは……あの折に傷付き、このように……。気になられますか?」
「まさか! その様な事は決してございません!! 全く気になりませんとも!!」
「そうですか、それは良かった」
この後、ドイルの元には同じ様に罷免されて領地へと戻っていた者達が密やかに集まり始めた。
それはサイノスの街がようやく春を迎えた頃の事であった。
**********
『――レナード、お前だけはどんな事があっても、ディアンを……殿下とディアンを許してあげなさい』
不意に思い出した父の言葉。
幼い頃、風邪を悪化させて寝込んでいたレナードの頭を、優しく撫でてくれた父の大きな手の感触は未だに覚えている。
あの時には、絶対にディアンなんて許すものかと思った。
だが、なぜルークまでもと不思議に思い、熱で潤んだ瞳で見上げたレナードは、いつにない真剣な父の表情に押されて、ただ何度も頷いたのだ。
懐かしさに思わず吐息をこぼしそうになったレナードは、慌てて気を引き締めた。
そして目の前のルークを窺う。
ルークは椅子の背に凭れ、長い間目を閉じていた。
集中を要する為に近衛を下げた執務室には、窓から射し込むあたたかな木漏れ日だけが、春風に揺れて静かに踊っている。
どれくらいの時間が経ったのかはわからない。
しかし、唐突にルークは押し殺した呻き声を上げると、頭を抱えるようにして両手で顔を覆った。
「……ルーク、大丈夫か?」
まるで苦悶しているかのように深く沈んだ様子のルークに、心配になったレナードは声をかけた。
「……まだ、大丈夫だ」
ようやく応えて顔を上げたルークはいつもの無表情に戻っていた。
それを見てレナードは顔をしかめる。
「ルーク、お前は十分強い。だけどいい加減に一人で全てを抱え込むのはやめろ。俺もディアンもジャスティンも、みんなお前の力になりたいんだ。もう二度と、俺はお前を――」
強い口調でルークに言い聞かせるように話していたレナードは、突然その口をつぐんだ。
と同時に、扉が勢いよく開く。
「レナード、なぜやめるのです? 私に構わず続けて下さい」
「え? いや……」
爽やかな笑みを浮かべて執務室へ入って来たディアンは今度は音もなく扉を閉めると、ゆっくりとルーク達へ近づいた。
「ついに陛下へ愛の告白を決意したのでしょう? さあ、どうぞ」
「んな訳あるか!!」
またいつものように始まった二人のやり取りを、ルークは黙って見ていた。
ずっと、何があっても側に従い、ルークを支えてくれるディアンとレナード。
二人のお陰で今までどれほど救われたかわからない。
「ディアン、レナード……」
微かなためらいを含んだルークの呼びかけに、二人は口を閉ざして顔を向けた。
だがルークは書類に視線を落とすと、囁くように小さな言葉を口にした。
「――ありがとう」
しばらくして、ちらりと二人を窺ったルークは、すぐに視線を戻して書類に集中した。
レナードはともかく、ディアンが言葉を失うのを見るのは初めての事だった。
**********
「Oh~スシに、カレーに、オムライス♪ 食べたいなったら、食べたいな~♪」
「……」
夜の刻になって青鹿の間に転移したルークは、書物机に向かう花の奇妙な歌に複雑な心境になっていた。
内容はよくわからないが、この歌で癒されるのは何か違う気がする。
そう思いつつ、ルークは花の背後から声をかけた。
「……何だ、その歌は?」
「んが!!――ル、ルーク!? いい、いつの間に来たんですか!?」
悲鳴を上げた花は顔を真っ赤にして振り向いた。
「たった今だが……。で、今の歌は?」
「あの、えっと、歌と言うか、何と言うか……にょっ!?」
「ハナ?」
しどろもどろな花をルークは抱き上げて優しく問い質す。
花は更に赤くなった顔を伏せて、気まずそうに口を開いた。
「あの……欲望の歌です」
「欲望?」
「はい。やっぱり溜めこむよりも解放した方がいいと言うか、絵に描いて、歌にして歌えば少しは楽になれるかと……」
「……楽になれたのか?」
「はい。意外と効果がありました」
「……それはよかった」
いつも通り、理解不能な花の言動を追求する事は早々に諦めて、机の上の何かの絵から、頬を染めて嬉しそうに笑う花へ視線を移すとルークは軽くキスをした。
そして、花を長椅子へと座らせる。
大切な話をしなければならないのだ。
しかし、隣に腰をかけ、改めて花を見つめたルークはふとした違和感に目を細めた。
「ルーク?」
「……いや、なんでもない」
不思議そうに首を傾げる花に変わりはなく、今のは気のせいだったのかと思い直すと、華奢な手を握り締めて穏やかながら真剣な想いを口にした。
「ハナ、俺はこの先……とても厭な事にハナを巻き込んでしまう。だが、必ず守ると約束する。だからどうか、俺を最後まで信じて欲しい」
「はい」
金色に輝く瞳を真っ直ぐに見つめて迷いなくすぐに頷いた花は、ルークの手を包み込むように握り返すと、自身の胸に当てて微笑んだ。
「私はルークを信じています。ですから私の心配はいりません。ルークはルークの信じる道を進んで下さい」
ルークはそんな花を見つめ返して少し悲しげに微笑むと、静かな声で呟いた。
「俺はハナにたくさんの事をしてもらうばかりだな。それなのに、ハナの為には何もしてやれない」
「いいえ!――そんな事はありません。それに私はルークがいてくれるだけで十分なんです。だから……」
ルークの自責の言葉をすぐに否定した花は微かにためらった後に続けた。
「いっぱい長生きして下さい」
「何を……」
相変わらず突拍子もない事を言う花に、ルークは笑おうとしたがなぜか笑えず困惑してしまった。
強い意志が窺える花の瞳を見ていられず、思わず目を逸らす。
「私が死んでしまっても、ルークには生き続けて欲しいです」
「ハナ!!」
決意を込めた花の言葉に驚き立ち上がりかけたルークを、花は慌てて握った手に力を入れて押しとどめた。
「頼む。ハナ、それ以上は……」
「いいえ。ルーク、どうか聞いて下さい」
目を合わそうとしないルークを見つめたまま、花は一度自身を落ち着けるように大きく息を吸うと、ゆっくり言葉を紡いだ。
「私はどうやっても、ルークやみんなのように長く生きる事は出来ません。でも、でも私は……頑張って生まれ変わって、ルークの許に押しかけますから」
「……生まれ変わって?」
訝しげに視線を戻したルークに花は微笑んで頷いた。
「はい。私のいた世界では、そういう考えもあるんです。絶対ではないかも知れません。だけど私は……執念深いので大丈夫だと思います」
花の言う「生まれ変わる」などとは、ルークにとって不可解で聞き慣れない言葉だった。
しかし何よりも花がどんな想いでこの言葉を口にしているのか、震える手から伝わる気持ちに、ルークは無力な己への苛立ちをどうにか押し隠して微笑んだ。
「……執念深いのか」
「はい。だから、覚悟していて下さい。私はずっとずっと、死んでも、どんなに世界を巡っても、ルークのことを……愛してますから!」
「……」
やはり愛の言葉を口にするのは恥ずかしくて、耳まで赤くして花は俯いた。
が――。
「にょっ!?」
ルークは花を押し倒すと、驚き何かを言おうとする口を塞いだ。
そして、花へと募る想いと失う恐怖から激しい衝動を抑えきれず、ルークは縋るように花を強く抱きしめた。
「……ルーク、大丈夫?」
しばらく二人は黙ったまま抱き合っていたが、やがて花が心配そうに問いかけた。
「……大丈夫だ」
ルークは少し花から離れると、どうにか微笑みを浮かべて答えた。
だがそれは嘘だった。大丈夫な訳がない。
不安は日ごとに大きくなるのに、ルークには何も出来ないのだ。
それならば、せめて花にはこの不安を悟らせたくない、幸せでいて欲しい。
「本当に大丈夫?」
「ああ」
ルークのきっぱりとした返事を聞いて、花は安心したように微笑み返した。
「そう。それならいいです」
「いいのか?」
「はい。ルークが大丈夫なら、私はそれでいいです」
「そうか……」
出会った頃から花はルークのために心配し、涙を流し、微笑む。
だからせめて、花が笑っていられるようにルークも笑っていようと強く誓いを立てて、その柔らかな唇に口づけた。――どうか、最後を迎えるその時まで幸せであるように。