番外編.アンジェリーナの初恋。
「そこにいるのは誰です?」
交易に関する交渉も無事に終わり、明朝にはサンドル王城を発つ事になったユース侯爵は侍従達を早々に下がらせ、自身も疲れた体を休ませる為に早めに寝台に横になっていた。
そこに、何者かが侵入した気配を感じて身構えた。
「私です、侯爵様」
ふわりとカーテンが揺れ、バルコニーから凛とした声と共に姿を現したのはセレスティーノ王太子の婚約者であるアンジェリーナ。
その美しい顔に反して、髪も装いも乱れ、所々に木の葉や小枝が刺さっている。
「……まさか、あの木を登ってこられたのですか?」
侯爵は驚きに目を見開いて、窓の外に見える大木を指して問いかけた。
「ええ、転移も頑張れば出来ますけど、木登り以上に疲れますし、魔力を使うと警備兵に見つかってしまいますから」
「……どうしてここへ?」
「いやですわ、侯爵様。夜更けに寝室に忍び込むのは夜這いの為に決まっているじゃないですか」
「よ、夜這い!?……あ、ああ、きっと聞き間違いだ。そうだ。年をとると耳も悪くなるって言うし……」
「あら、聞き間違いなんかじゃありませんわ。私は侯爵様を夜這いする為に頑張って来たんですもの」
一人納得したようにぶつぶつと呟き始めた侯爵に、アンジェリーナは微笑みながらもはっきりと目的を告げた。
だが、その笑みはどこか黒い。
「そうか、そうか。やっぱり聞き間違いか。……って、ええ!?」
「結婚して下さいって、お願いしたのに聞き入れてもらえそうにないので、既成事実を作ろうと思って」
「な!? き、既成事実!?」
「はい。恋は先手必勝。押してダメなら、押し倒せ! ですわ」
「いやいやいや、ちょっと待って下さい。私は魔力も衰え始め、あとは老いていくだけの男ですよ? しかし、貴女にはこの先、サンドル王妃という輝かしい未来が待っているのに――」
「そんな未来、くそ喰らえですわ」
侯爵の言葉を途中で遮ったアンジェリーナは、今度こそ確実にドス黒く微笑んだ。
「アンジェリーナ殿……」
かなり困った様子の侯爵の呟きを、開いたままの窓から入り込んだ暖かい夜風がさらって流れていく。
アンジェリーナとユース侯爵の出会いはほんの数日前だった。
王城の中庭で開かれたお茶会、そこでユース侯爵を紹介されたアンジェリーナは、自己紹介の挨拶と共に突然求婚したのだ。
「初めまして、ユース侯爵。私、アンジェリーナ・サンドルと申します。お会いしたばかりでこのような不躾なお願いをするのは心苦しいのですが、どうか私と結婚して下さい」
一瞬の沈黙の後、その場は騒然となった。
しかし、ユース侯爵は動じた様子もなくアンジェリーナの手を取ると、口づけるふりをしてから顔を上げて穏やかに微笑んだ。
「このような年寄りに夢を見させて頂けるなど嬉しい限りですね。アンジェリーナ殿、ありがとうございます」
当然だが本気にされていない求婚の返事に、アンジェリーナは不満そうに眉をひそめて再び口を開こうとした。
が、残念ながらそこで強制退場となってしまった。
その後、両親から厳しく叱責されたアンジェリーナは、その美しい藍色の瞳に涙を潤ませて訴えた。
「だって私、恋に落ちてしまったんですもの!! ユース侯爵のあの厳めしい顔! それなのに微笑まれるとしわの刻まれた目尻が下がって、お髭がふわりと揺れて、途端に優しいお顔になるのよ? しかもあの厚い胸板! 太い腕! もう堪らないわ!!」
「……」
こうしてアンジェリーナは謹慎処分となり、神殿内で軟禁生活を強いられる事になった。
サンドル王国では他国とは違い、主神殿と王城は隣接しているのだ。
侯爵はアンジェリーナの真剣な眼差しを静かに受け止め、しばらく二人は言葉も交わさず見つめ合っていた。
しかし、やがて侯爵は大きく息を吐くと、お茶会で見せた穏やかな笑みを浮かべた。
「わかりました。私も男ですから、貴女のように若く美しい方に迫られて悪い気はしません。いえ、むしろ踊りだしたいくらいに嬉しいですね。ですが、今すぐこの魅力的なお申し出をお受けする訳にはいきませんから、しばらくお待ち頂きたい。必ず後日、私の妻とする為に貴女を迎えに参りますから」
「今すぐで良いと思いますけど?」
「……誘惑しないで下さい。残念ながら、それは少々難しいですね」
侯爵はその厳めしい顔に少年のような悪戯っぽい笑顔を浮かべて不満そうなアンジェリーナを宥め、部屋から送り出した。――というか、侯爵の心配をよそに、アンジェリーナは再び窓から木へと飛び移り下りて行ったのだ。
それを侯爵はハラハラしながら見守るしかなかったのだった。
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「そこにいるのは誰です?」
サンドル王城を発って六日後、マグノリアへと向かう船の特等船室に足を踏み入れた侯爵は、何者かの気配を感じて問いかけた。
「私です、侯爵様」
「んな!? アンジェリーナ殿!?」
客室付きの乗務員かと思っていた侯爵は応えた人物に驚きの声を上げた。
「ど、どうしてここに!?」
「密航と言うやつですわね? 私、船に乗るのは初めてだからわくわくします!」
「いやいや、そうではなくて……」
「侯爵様がお発ちになられた次の日に馬で急ぎ後を追ったのですけれど、見つからないようにしながらの追跡ってなかなか難しくて……。少し不安でしたが、無事に合流出来てよかったですわ」
「……」
アンジェリーナの楽しそうな返事を聞いて侯爵は言葉を失い、頭を抱えて座り込んだ。
出来るだけ穏便に事を運ぶつもりだったが、これでは騒動を避けられないどころか、一歩間違えば戦が始まる。
「あれ程お待ち下さいと申し上げたのに……」
「だって……最近、王城の様子がおかしいんですもの。まあ、おかしいのはいつもの事ですし、ティノは最悪に陰険でムカつくわ。でも何よりディオがおかしいの。いつもだんまり物憂げで神殿の部屋に籠ってばかりだったのに、少し前に大病を患ってからは何だか……上手く言えないけれど、人が変わったようで……それに瞳が……」
不安を必死に押し隠して拗ねたように言うアンジェリーナの話を聞いて、侯爵はその表情を厳しいものに変えて顔を上げた。
「……エヴァーディオ殿下が変わった?」
「え、ええ……」
急に険しい気配を纏った侯爵に驚きながらアンジェリーナは頷いた。
それから気詰まりな沈黙が続いたが、やがて侯爵がふかーくふかーく溜息を吐くと、船室の空気が弛んだ。
「わかりました。しかし、このまま貴女を密航させる訳にはいきませんからね。急いで乗船手続きをしてきますので、貴女はここにもうしばらく隠れていて下さい」
明るい笑みを浮かべた侯爵を見て、アンジェリーナはホッと胸を撫で下ろした。
そして背伸びをすると侯爵の頬にキスをして、受け入れてくれた感謝の気持ちを表したのだった。
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「――我が帝国の利となる交渉をそなたに命じはしたが、まさか王太子の婚約者を攫って来るとは思いもせなんだな」
いつもは政務に全く関心を示さず一言も発しない事の多い皇帝が、帰還の報告をするユース侯爵に珍しく声をかけた。
その声はどこか楽しそうに聞こえる。
「申し訳ございません。私の行いは弁明の余地もありませんが――」
「別に構わぬ。サンドルが怒り狂って戦を仕掛けて来ようものなら迎え討てばいいだけの事。そなたが気に病む必要はない」
侯爵の謝罪を遮り告げた皇帝の言葉に、フランツ皇太子をはじめ、周囲の臣下たちが息を呑んだ。
「陛下、戦などと軽々しくおっしゃっては……」
ためらいがちに諌めるフランツを皇帝は睨むように見据えた。
「サンドルなど……滅びてしまえばよいのだ」
「陛下……」
現皇帝のサンドル嫌いは有名だった。
その為、それ以上の言葉をフランツは飲み込み、話題を再びサンドル王国との交渉結果に切り替えるしかなかった。
そしてようやく散会となり謁見の間を出た所で深く息を吐いたユース侯爵に、心配そうな声がかかる。
「かなりお疲れのようですね?」
「ああ、セイン……。いえ、大した事はありません」
いつもの穏やかな笑みを浮かべたユース侯爵を見て、セインは呆れたように笑った。
ユース侯爵はその地位に驕る事なく、常に謙虚で礼儀を重んじる。
また穏やかで温かい人柄は誰をも引き付けるのだが、実直な性格で損をする事も多く、セインなどは侯爵が心配でもあった。
「また人助けですか?」
「……いいえ、それは私を買い被りすぎですよ。私はそんなに出来た人間ではありませんから」
セインの問いを困ったように否定した侯爵は自嘲気味に続けた。
「彼女はとても若く美しい。それで私は年甲斐もなく衝動に走ってしまった、ただ愚かなだけの年寄りに過ぎないのです」
「またそのようにご自分を卑下なさる。ですがそれ程に美しい方ならば是非一度お会いさせて頂きたいですね。思慮深い侯爵を愚者に変えてしまった魅力的な奥方に」
わざと軽い調子で冷やかすセインに、侯爵もまたわざとらしく眉を寄せた。
「セイン、その様な事は冗談でも口にしていると、ソフィアから決闘を申し込まれますよ?」
「……そうですね。自重します」
「いえ……こちらこそ、すみません」
侯爵の言葉はそれこそ冗談のようで冗談にならなかった。
気を取り直すように一度咳払いをした侯爵は、セインへと再び穏やかな笑みを向けた。
「それで、ソフィアの調子はどうですか?」
「はい、とても……元気ですよ。昨日も街の外れでケンカが起きていると聞いて、馬に跨り急いで観戦に行きましたから」
「ええ!? い、いや……確かソフィアは来月には……」
「出産の予定がありますね」
どこか遠くを見ながら他人事のように答えるセインに、その心情を察した侯爵は必死で慰めの言葉を探した。
「そ、そうですか……。ま、まあ、きっと元気な御子が生まれますよ」
「きっと……そうですね」
苦笑するセインの顔はそれでも幸せに輝いている。
ユース侯爵は最後に、これからサンドル王国との間で生じる軋轢によって多大な迷惑をかけるだろう事を謝罪してセインに別れを告げ、屋敷へと戻ったのだった。
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「――侯爵様」
「んな!? ア、アンジェリーナ殿!?」
夜もかなり更けた頃、部屋に入って来た侯爵に、アンジェリーナは寝台から体を起して声をかけた。
その姿に驚いた侯爵は部屋を間違えたと思ったのか慌てて踵を返し、それからまた振り向いてアンジェリーナを見た。
が、大胆な夜着を纏ったアンジェリーナからすぐに目を逸らす。
「……どうしてここへ?」
「ここにいてはいけませんか?」
「え? いや……ですが……」
問いかけた侯爵は逆に問い返されて答えに詰まり、アンジェリーナに背を向けてしまった。
しかし、アンジェリーナは寝台から起き出すと侯爵の正面へと回り込んで、困惑している厳めしい顔を見上げた。
「私、この屋敷に来てもう一月以上になります。その間、メーシプや屋敷の者達は私をとても温かく迎え入れてくれ、敬意を以って接してくれるお陰で心穏やかに過ごす事が出来ております。侯爵様だって、何も持たない私に不自由のないようにとたくさんのドレスや装飾品を用意して頂いて、私専用のお部屋まで与えて下さいました。その事は感謝してもしきれないほどに有難く思っております。ですが……私はそれだけでは満たされないのです」
「え? な、何か足りませんでしたか?」
「侯爵様です」
「ええ!? ど、どういう……」
「なぜ私に何もして下さらないのですか? キスさえも一度もして下さらない。……もちろん、私の自分勝手で愚かな行動によって侯爵様をはじめ、たくさんの方々にご迷惑をおかけしてしまっている事は十分に承知しております。そのせいで侯爵様が世間でなんと言われているのかも……。ですが、私は――」
「アンジェリーナ殿」
とうとうと自分の思いを言い募るアンジェリーナを侯爵は優しく遮った。
「確かに私は貴女を差し迫った状況から救い出したのかも知れません。ですが、それは私自身の選択であり、責任であります。ですから、貴女が気に病む必要はないのです。ましてや、このように貴女自身が犠牲になる必要はっ――!?」
アンジェリーナを宥めるような侯爵の穏やかな言葉は、強烈な平手打ちによって張り飛ばされた。
「ふざけんな!! このひげおやじ!!」
「……え? ひ、ひげおやじ……???」
突然の出来事に侯爵は呆然として、叩かれた頬を押さえ目の前の怒りに燃える貴婦人を見下ろした。
正直な所、叩かれた左頬はかなり痛む。恐らくアンジェリーナは魔力をのせて叩いたのだろう。
そのアンジェリーナは腰に手を当て、仁王立ちになって侯爵を睨みつけている。
「バカにしないで下さい! いくら追い詰められていたからといって、私は好きでもない男性に身を任せようとまでは思いません! 侯爵様にあの時出会わなければ、私は一人で出奔するつもりでした。その為の準備も進めていましたの!」
アンジェリーナはそこまできっぱり言い切ったものの、次に続いた言葉は微かなためらいがあった。
「でも、侯爵様とお会いして……何も考えずにバカな事を口走ってしまったとは思っています。それで全ての計画が狂って、たくさんの人達にまで迷惑をかける事になってしまったけれど……。それでも私は自分の気持ちに嘘はつけませんでした。ですから……同情でもかまわないんです。指輪が欲しいとまでは言いません。でもせめて名前だけでなく、私を本当の妻に――」
アンジェリーナの言葉は侯爵の唇によって塞がれ、途切れてしまった。
一瞬驚きに目を見開いたアンジェリーナだったが、すぐに目を閉じて侯爵に応える。
やがてゆっくりと唇を離した侯爵はあたたかな碧色の瞳を細めて、頬を紅潮させたアンジェリーナを優しく見下ろした。
「どうやら貴女まで私を買い被っていらっしゃるようですが……。私はこれでも自分の立場も責任も十分に理解しているつもりです。その私が同情などといった安っぽい感情で貴女を攫う事などしませんよ」
苦笑を洩らした侯爵は、そこから僅かに言い淀んだ。
「私は……例え、世界を敵に回したとしても貴女を守りたいと思ったのです。それほどにサンドル王城のあの部屋に現れた貴女は魅力的でした。ドレスのあちこちが擦り切れて破れ、鳥の巣のように髪の毛を乱して笑う貴女に私は心を奪われたのですよ」
厳めしい顔を恥ずかしそうに赤く染めて照れ笑いする侯爵に、アンジェリーナは堪らず抱きついた。――というか、押し倒した。
そしてこの夜から、アンジェリーナに与えられた部屋は使用される事なく、その数年後には育児室にする為に改装されることになったのだった。
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「せ、積極的だったんですね……」
「そうですね、十八の小娘なりに頑張りましたわ」
「十八!?」
「ええ、成人したばかりでしたから。そう言えば、あの人も驚いていたわね……。自分の妻の年齢も知らなかったなんて失礼ですわよね?」
花の驚きに応えたアンジェリーナは、その顔に爽やかな笑みを浮かべた。
「で、その時に色々と参考にした本の改訂版がこの前お勧めした中にいくつかありますから、きっとハナ様のお役にも立つと思いますわ」
「は、はい……」
アンジェリーナの言葉に花は頬を赤らめて頷いた。
それからふと、カップを持ったアンジェリーナの右手に目を止めた。
「……綺麗な指輪ですね」
アンジェリーナの右手小指には、美しい紺碧の指輪が輝いている。
「ええ。これはあの人から贈られたものですから。あの人の想いがたくさん込められているの……」
数十年も前に亡くなった侯爵から贈られた指輪が今も色鮮やかに輝いているのは、二人の想いが未だに重なり合っているからだ。
滅びを免れない運命の中でも、輝き続ける想いはある。
「とても……素敵です」
指輪をゆっくりと撫でながら柔らかな笑みを浮かべたアンジェリーナを見て、花もまた自分の右手小指にある指輪を優しく包み込むように触れ、幸せに微笑んだのだった。