123.孤独に揺れる思い。
翌朝、フランツ不在のまま開かれた朝議の場で皇帝から告げられた内容は衝撃的なものだった。
「――今、この時を以ってフランツィスクスに代わり、このルカシュテインファンを皇太子とする」
あまりにも唐突な宣告にその場は騒然となった。
昨晩の凄惨な出来事はすでに王宮中に知れ渡っており、その事について何らかの説明が為されるのだろうと思っていた皆は驚きを隠せなかった。
「へ、陛下……なぜ突然その様な……?」
「フランツィスクス殿下は今どちらにおられるのですか!?」
はっきりと抗弁する者はいなかったが、それでも皆がその宣告に不信感を募らせている事は明白だった。
だが皇帝がそれ以上言明する事はなく、その側近くに控えて立つルークも目を伏せて黙然している。
そこへ、フランツの外祖父に当たる内大臣のドイルがルークへと質疑する為に、怒りと恐れが入り混じったようなくぐもった声を上げた。
「恐れながら、皇子殿下にお伺い致したい事がございます。昨晩より皇太子――いえ、フランツィスクス殿下のお姿を拝見する事が出来ませぬが、殿下はご存じでいらっしゃいますでしょうか?」
「知らぬ」
「しかし――」
冷然と否定したルークにドイルは尚も喰い下がろうとしたが、ゆっくりと瞼を上げたルークに見据えられて声を詰まらせ青ざめた。
ドイルだけではない、その場の誰もが驚きに息を呑む。
皇家特有の美麗なルークの顔には、無慈悲な程に冷たい瞳が金色に輝いていたのだ。
何が起きたのかはわからない。
それでも一つ確かな事は、古い文献にある『その身に秘めたる強大な魔力が金色の瞳となって光を放つ』との文言がただの伝説ではなかったと言う事だ。
新たな皇太子となった第二皇子がいったいどれほどの魔力を有したのか、その場の者達には計り知る事など出来なかった。
ではまさか、フランツィスクス殿下やコーブ伯爵令嬢はその力の犠牲となったのだろうか?
誰もがそう考えたものの口にする事はとても出来ず、その後の朝議は主導者でもあったフランツ不在の為に混迷を極めていく事になったのだった。
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月の朔望が一巡してもフランツの行方は依然として知れず、またあの夜の事件についてルークもジャスティン達も口を開く事はなく、憶測だけが飛び交っていた。
強大な力を発現させたルカシュテインファン殿下は皇太子の座を奪う為にフランツィスクス殿下を襲ったのだ。
フランツィスクス殿下は弟殿下の凶刃から逃れるためにお隠れになっているのだ。
まことしやかに囁かれ始めた噂を誰もが信じた。
そして、皇太子――フランツの近衛だった騎士達が暇を請い、ルークに背を向けてフランツの行方を捜し始めた事が、その噂を裏付けているようだった。
ルークは皇帝に住居を東棟に移すように命じられたものの、どうしても歴代皇太子に受け継がれていた兄の部屋を使う気にはなれず、数多くある客間の一室を一旦の住まいとしていた。
そこに、訪問者を告げるノックの音が響く。
レナード以外の近衛を側に寄せ付ける事もせず、一人部屋にいたルークは訝しんだ。
気配を探れば、扉の外にいるのは数人の女だとわかる。
「……何か?」
不機嫌にルークが応じた後に、開かれた扉から入ってきたのは兄の妃である三人の女性。
侍女を外に待機させた三人は、妖艶な笑みをルークへと向けた。
「殿下、私共は殿下が訪れて下さるのをずっと待っておりましたが、一向にいらっしゃられないので、図々しくも私共の方から参りましたの」
「私はいつ殿下がいらっしゃられても構いませんのよ? その事をお伝えしたくて」
「あら、私だってそうですわ」
「……何をおっしゃっておられるのだ? あなた方は兄上の妃ではないか」
お互いを牽制しながらルークへと媚を売る三人に、ルークは唖然として問いかけた。
しかし、三人はルークの驚きと質問の意味がわからないとでも言うように柳眉を寄せて顔を見合わせる。
「殿下は何か勘違いなさっておられませんか? 私共はフランツィスクス殿下の妃ではなく、皇太子殿下の妃として王宮に上がりましたのよ? ですから私共は今現在、ルカシュテインファン殿下、貴方の妃となるのですわ」
先日までコーブ伯爵令嬢も加えて兄の寵を競っていたはずの三人の言葉に、ルークは込み上げる吐き気を必死に堪え顔をそむけた。
言葉だけではない、三人の心の内がルークへと流れ込んで来るのだ。
一番の目障りだったコーブ伯爵令嬢の死を喜ぶ声。
正妃となる為に、如何にルークを籠絡するかの姦計。
他の二人を退ける為の策謀。
限界だった。
貴族達の欲に塗れた思念はあの夜からずっと聞こえている。
憎悪、嫉妬、欲望。
フランツの安否を気遣う事もなく、己の保身と出世を願う醜い心。
ルークはまるで妃たちを恐れているかのように一歩、二歩と後じさると、その場から姿を消した。
無意識に転移したその場所で、ルークは体の中で暴れ出しそうになる力を必死に抑えようと何度も荒い息を吐いた。
凍てつく寒さの中で闇に閉ざされたその空間は、成人してからずっと来る事のなかった中庭にある兄との秘密の場所。
しかし、責め苛むような思念から逃れる事は出来ず、温かかったはずの思い出もルークの心を慰める事はなかった。
そこに聞こえた、冷たい静寂を切り裂く悲鳴。
一瞬、身をこわばらせたルークは痛みを訴える体を無視してどうにか立ち上がると、三人を残して来た部屋へ戻る為に再び転移したのだった。
「――兄上!!」
「ああ、ルーク。やっと戻ったか」
あの夜の再現のような、血に染まった部屋の中で若草の太刀を持って立つフランツは、残念ながらあの時とは違い楽しそうな笑みを浮かべていた。
そして青ざめて歯を食いしばる弟を見て、更に笑みを深める。
「だからあの時言っただろう? 私を殺せと」
朗らかに告げたフランツは持っていた太刀をルークめがけて投げつけた。
だがルークが動く事はなく、太刀はその頬を掠め、低く鈍い音を立ててすぐ後ろの壁へと突き刺さる。
「その太刀に染みついた数多の血の臭いがお前にはわかるだろう? ルーク、今度その太刀に血を与えるのはお前の番だ。さあ、手に取れ」
「……いいえ、私には必要ありません」
ちらりと真横に在る太刀を見て応えたルークの声は、湧き上がる暗い感情を押し殺した低いものだったが、その表情はとても冷静だった。
「そうか、いらぬか……。ではそれも、この女達と同様に私が処分しよう」
以前と同じ穏やかな笑みを浮かべながらゆっくりとルークへ近づいたフランツは、弟の頬を伝う鮮血をぐっと親指で拭い取り己の唇へと運んだ。
刺すような痛みにもルークは表情を崩す事なく、ただじっと兄の濁ってしまった瞳を見つめていた。
その瞳に一瞬、微かな光が揺れる。
「――ルーク……」
フランツはまるで口づけるようにルークの頬へと唇を寄せて小さく囁くと、再び若草の太刀を手に取り、鞘へと納めた。
そして、己の言葉を聞いて辛そうに目を閉じたルークを見て目を細める。
「ルーク、優しさとは弱さであり、弱さは罪だ。――冷酷になれ、傲慢に生きよ。そして全てを抱え、思う存分苦しむがいい。それがお前に課せられた運命だ」
残酷な言葉を残してフランツが消えた後も、ルークはしばらくその場に立ち尽くしていた。
しかし、やがてその顔を冷徹なものへと変えると、血に濡れた冷たい床を踏み出して大きく扉を開け放つ。
「片付けよ」
外に控えていた妃の護衛に無機質な声で命じると、部屋の惨状を目にした侍女達が上げる甲高い悲鳴を背に受けながら、近くにある別の客間へと入って行った。
そして、血の臭いを落とす為に湯を浴びる。
「――ルーク」
居間に戻ると、悲痛な面持ちのレナードとディアンが控えていた。
二人の姿を目にして、失っていた感覚が急激に甦る。
「ディアン、レナード……」
ルークは不意にこぼれ落ちそうになった弱音を慌てて飲み込むと、二人から目を逸らした。
決断しなければならないのだ。
それなのに未だに迷う己の弱さが煩わしい。
激しく痛む胸を押さえ、ためらうルークにディアンが静かに促した。
「殿下、私共は殿下の近侍です。主君の望みは私共の望み。どうぞご命令を」
そう述べたディアンはいつもの爽やかな笑顔を浮かべて続けた。
「まあ、頑張るのはレナードで、苦労するのもレナードですから、ご心配には及びません」
「いやいや、ちょっと待て。それ、すごく心配だから。ルークだって心配だよな?」
すかさずレナードが抗議の声を上げ、ルークへと問いかける。
「……ある意味な」
「ええ!?」
いつも居場所を与えてくれる二人に甘えてばかりの己の情けなさに呆れ、ルークは小さく溜息を吐いた。
これ以上二人に余計なものを背負わせない為にも、強くならなければ。
今度は大きく息を吐くと、二人へと厳しい眼差しを向けた。
ディアンとレナードもすぐに表情を改める。
「ディアン、レナード、今から急ぎ兄上を追ってくれ。恐らく南へ……兄上は南神殿へと向かったはずだ。そして……」
ルークの声はしだいに掠れ、微かに震えていた。
それでも二人はしっかりと聞き取り、深く頭を下げて正式な拝命の礼をして受けた。
「――畏まりました」
ただ、一瞬の沈黙はルークの側を離れる為の憂慮。
二人は己の宿命にルークを巻き込んだフランツの弱さに憤りながらも、それ以上に自分達に腹を立てていた。
今は何も出来ない。
ならばせめて、ルークの望みを叶えようと。
その時、ふと何かがディアンの頭を過ぎったが、吐き出されたルークの声に掻き消えてしまった。
「――すまない」
「……行って参ります」
謝罪の言葉を最後に背を向けたルークに、二人はもう一度深く頭を下げて部屋を後にした。
そしてルークは一人、冷たい静寂の中に取り残されたのだった。